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13

その夜。


 帰宅後、恒一はスーツのまま床に座り込んでいた。


 電気もつけない。

 窓の外の明かりだけが、薄く部屋に差し込んでいる。


 疲れた。


 本当に。


 だが、頭は妙に冴えている。

 興奮のせいだろう。


 辞表。

 退職願。

 有休。

 引き継ぎ。

 保険。

 金。

 生活費。

 次の収入。

 頭の中に、現実的な単語が次々浮かぶ。


「……金か」


 結局、そこだ。


 辞める自由は、金で買うしかない。


 貯金は、少ししかない。

 失業して悠々自適、なんて無理だ。

 せいぜい数か月。

 もたもたしていたら終わる。


 そこで、机の上の異星道具が目に入った。


 リング。

 残り一枚の偏向膜。

 受動記録子。


 そして、もっと大きなもの。

 ルイゼとの接続そのもの。


「……なあ」

『います』

 すぐに声が返る。


「お前が昨日言ってた、小規模な技術提供って」

『はい』

「地球の技術っぽく偽装できる範囲で、使えそうなものあるか」

『用途次第です』

「生活を立て直す」

『広いですね』

「稼ぐ方向で」

『さらに広いです』

「じゃあ絞る。個人で始めやすい、小規模、違法性が低い、目立ちすぎない」

『……』

「なんだよ」

『今、少しだけ、あなたの知性を見直しました』

「失礼すぎるだろ」

『事実です』

「なお悪いわ」


 だが、ルイゼの感情には、明らかな前向きさがあった。

 興味。

 少しの高揚。

 そして、協力意思。


『あります』

「あるのか」

『複数。ただし、直接“超技術”として出すのは危険です』

「だろうな」

『なので、既存技術の延長に見える形へ分解します』

「分解」

『例えば、睡眠補助。情報整理。微細修復。簡易加工支援』

「……」

『あなたの文明では、ソフトウェアや作業補助ツールとして見せられる部分もあります』

「それ、いけるのか?」

『地球側の実装限界に合わせて落とせば』

「落とせるのかよ」

『はい。あなたが想像しているより、私はかなり器用です』


 妙に得意げだった。


 そして、その得意げな感じが、少し可愛く思えてしまって、恒一は慌てて思考を逸らす。


『今、あなた、少し妙な方向へ』

「行ってない!」

『行きました』

「行ってないって言ってるだろ!」

『では、恥ずかしいのでそこは閉じておきます』

「助かる……」


 助かっていない気もしたが、まあいい。


「で、具体的には?」

『まずは、あなたの得意分野を確認します』

「得意分野……」

『仕事で、他者より明確に速い・丁寧・再現性が高いもの』

「……資料整理、要件整理、作業フローの最適化、かな」

『かなり地味ですね』

「うるせぇな」

『ですが、悪くありません』


 ルイゼの意識が少し近づく。

 深層接続ほどではない。

 だが、いつもの文字越しより近い。


 流れ込んでくるのは、構造化の感覚だ。


 散らばった情報を、層ごとに分ける。

 因果で結ぶ。

 優先順位を振る。

 誤差を見積もる。

 人的ミスの起点を先に潰す。


 単なる知識ではない。

 手触りのある“整理の感覚”。


「……なんだこれ」

『私たちの航行補助系で使う基礎的な整理法です』

「基礎でこれ?」

『基礎です』

「文明差やばいな」

『はい』


 即答だった。


『あなたの仕事経験と合わせると、小規模事業者向けの業務整理支援は可能です』

「業務整理?」

『地球語に合わせれば、事務効率化、作業自動化、管理改善、など』

「……コンサルっぽいな」

『嫌ですか』

「嫌というか、胡散臭くなりそうで」

『では実務代行寄りにすればいい』

「それならまだ」

『さらに、簡易加工補助を使えば、試作品レベルの小物製作もいけます』

「小物?」

『修理補助具。配線補助具。固定用パーツ。そういうものです』

「地味だな」

『地味ですが、あなたは今、派手に始めるべきではありません』

「それはそうだ」


 正しい。


 正しいが、妙に悔しい。


『なお、あなたの感情から推定すると、本当は一発逆転の超技術で世界を見返したい気持ちが少しありますね』

「……」

『ありますね』

「あるよ! 悪いか!」

『悪くはありません。幼いだけです』

「お前ほんと覚えとけよ……」


 だが、その言葉で逆に冷えた。


 一発逆転。

 確かに、どこかで夢見ていた。

 上司も会社も社会も、一気にひっくり返すような力。

 でも、それはたぶん危ない。

 目立つ。

 奪われる。

 壊れる。


 今やるべきは、生き延びることだ。


 そして、自分の足で立つこと。


「……分かった」

『はい』

「まずは小さくやる」

『賢明です』

「そのためにも、会社は辞める」

『はい』

「退職までに証拠は固める」

『はい』

「その上で、生活費の見通しを立てる」

『はい』


 一つずつ、口に出す。


 すると、不思議と輪郭が出る。

 ただの怒りじゃなくなる。

 行動になる。


 ルイゼが静かに言った。


『あなたは今、かなり良い状態です』

「疲れてるけどな」

『疲労と前進は両立します』

「便利な言葉だ」

『経験則です』


 その“経験則”の奥に、重いものがあった。


 長い航行。

 多くの判断。

 失敗と損耗。

 誰かを生かすために、誰かが消耗してきた気配。


 恒一はふと、まだ聞けていないことを思い出す。


「……お前の方はどうなんだ」

『何がですか』

「艦長として」

『……』

「最近、俺ばっか喋ってる気がする」


 少しだけ、間が空いた。


 その沈黙の形で、分かる。

 触れていい部分と、まだだめな部分がある。


『負荷はあります』

 やがて、ルイゼが言った。

『乗員の不安。補給の不足。進路判断。接触規則。全部、あります』

「……そりゃそうか」

『ですが、まだ詳細は共有できません』

「目的に関わるから?」

『はい』


 白く焼けるような欠損。

 あの部分だ。


 恒一は少しだけ胸が冷えた。


 距離が縮まってきた。

 そう思っていた。

 実際、縮まっているのだろう。

 だが、核心だけはまだ遠い。


 それが少し、寂しかった。


 その寂しさまで、向こうに伝わったらしい。


『……それでも』

「ん?」

『あなたに対して、隠して楽しいわけではありません』

「……」

『必要だからです』

「分かってる」

『本当に?』

「半分くらいは」

『では、残り半分は不満ですね』

「そりゃあるだろ」


 正直に言う。


 今はそれでいい気がした。

 見栄を張っても、この相手にはたぶん全部漏れる。


 ルイゼの感情が、ほんの少しだけ柔らかくなる。


『では、交換条件を追加しましょう』

「交換条件?」

『あなたも、まだ私に隠していることがある』

「っ」


 心当たりが多すぎる。


『家族のこと。学生時代のこと。恋愛の失敗。自分で思っているより深い劣等感』

「やめろ」

『それらを少しずつ共有するなら、私も許容範囲で返します』

「なんだそのずるい交渉」

『私は艦長ですので』


 またそれだ。


 ずるい。

 だが、嫌じゃない。


「……分かったよ」

『はい』

「じゃあ今日は、家族の話を少しする」

『聞きます』


 部屋は暗い。

 窓の外の明かりだけ。

 机には異星の道具。

 床にはスーツ姿のままの男。


 状況だけ見るとかなり終わっている。


 なのに、この瞬間だけは妙に静かだった。


 恒一はゆっくり口を開く。


「うちは、別に虐待とかそういう家じゃなかった」

『はい』

「でも、ずっと、期待に応える側だった」

『……』


 言葉にしていく。

 母親の心配性。

 父親の無口な圧。

 ちゃんとしていろ、という空気。

 問題を起こすな。

 迷惑をかけるな。

 我慢しろ。

 そういう家。


 流しながら、恒一は気づく。


 会社に耐え続けた理由は、単に金だけじゃなかった。

 逃げることが、自分の中でずっと“負け”に近かったのだ。

 ちゃんとしていない自分を認めることになるから。


 話し終える頃には、喉が少し熱くなっていた。


 ルイゼはしばらく黙っていた。

 その沈黙の中身は、分析ではなかった。

 受け取っている沈黙だった。


『なるほど』

 やがて彼女は言う。

『あなたは、命令に従うことに慣れているのではなく、“期待を裏切った後の空気”に怯えているのですね』

「……」

『だから、壊れるまで抜けられなかった』

「……そうかもな」


 的確すぎて、言い返せなかった。


『では、こちらも少し』

「え」

『交換です』


 ほんの少しだけ。

 本当に少しだけ。

 彼女の側から情報が流れてくる。


 整列した通路。

 白い照明。

 若い乗員たちの視線。

 その全部が、ルイゼの背に乗っている感覚。


 期待。

 不安。

 間違えるな、という圧。

 艦長だから。

 一番知っているから。

 一番決めるから。

 だから一番揺れるな、という規律。


「……お前も、だいぶしんどいな」

『はい』

「そりゃ、そうか」

『ですが、あなたほど可哀想な顔はしていません』

「喧嘩売ってんのか?」

『冗談です』

「今の冗談きついんだよ」

『学習します』


 少しだけ笑う。

 向こうも、少しだけ笑う。


 その重なりが、奇妙に心地よかった。

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