8話 風はどこまでも届く
翌日、隆志はスーツを着なかった。
三ヶ月ぶりだった。ワイシャツの代わりにセーターを着て、革靴の代わりにスニーカーを履いた。たったそれだけのことなのに、体が軽くなった気がした。鎧を脱いだ兵士のような感覚だった。スーツは椅子の背にかかったままだ。もう必要ない。百七社の面接は終わった。次に必要な服は、赤土の上を歩けるものだ。
朝食の後、智子はいつも通りみゆきを病院に連れて行った。玄関で靴を履かせる智子の背中は、昨夜と同じように硬かった。だが、完全な拒絶ではなかった。コップの水。あの一杯が、細い糸のように二人を繋いでいた。
一人になったリビングで、隆志は携帯を手に取った。登録してある番号の中から、ずっとかけていなかった一つを選んだ。
四回のコールで、相手が出た。
「はい、田中です」
母の声だった。七十二歳。茨城の実家で一人暮らしをしている。父は五年前に他界した。月に一度は電話するようにしていたが、リストラ以降、二ヶ月以上かけていなかった。心配をかけたくなかったのではない。母の声を聞いたら、崩れそうだったからだ。
「俺だよ」
「あら、隆志。珍しいね、こんな時間に。仕事は?」
一瞬、言葉に詰まった。母にも言っていなかった。会社を辞めたことも、百社に落ちたことも、みゆきの手術費のことも。母は今も隆志が営業部長として働いていると思っている。
「母さん。少し話がある」
「改まって何よ。怖いわね」
笑う声の向こうに、テレビの音が聞こえる。母は朝の情報番組を見ながら朝食を取るのが日課だった。何十年も変わらない習慣。父が生きていた頃は二人で見ていた。今は一人で見ている。
「会社を辞めた。三ヶ月前に」
沈黙が落ちた。テレビの音だけが、小さく流れている。
「……辞めた、って。自分で?」
「リストラだ。営業部長のポストが廃止された」
長い間があった。母が息を飲む気配が、電話越しに伝わってきた。
「三ヶ月前って……あんた、三ヶ月も黙ってたの」
「心配かけたくなかった」
「心配かけたくないから黙るって、それ、あんたの父さんと同じよ」
母の声は怒っていたが、その怒りの底に別のものがあった。父もそうだった。工場勤務の父は、体を壊しても「大丈夫だ」と言い続けた。黙って耐えることが男の美徳だと信じていた人だった。その父が、最後に入院した日、母に「すまん」と一言だけ言った。母はあの一言を今も許していない。謝るくらいなら、もっと早く言えばよかったのだ、と。
「それで、今は?」
「百社以上受けた。全部落ちた」
また沈黙。だが今度は短かった。
「そう。それで、どうするの」
「ケニアに行こうと思ってる」
「ケニア」
「アフリカだ。中古車の整備事業を立ち上げる。日本の車がケニアに渡っているんだが、品質が悪い。俺の経験が役に立つ」
母は数秒黙った後、小さく笑った。
「あんた、昔からそうだったね」
「何が」
「追い詰められると、とんでもない方向に走る。高校のとき、大学受験に失敗して、いきなり自衛隊に入るって言い出したでしょう。結局行かなかったけど」
「覚えてるのか、そんなこと」
「母親は全部覚えてるの。あんたが忘れても」
電話の向こうで、母がお茶を啜る音がした。
「不器用なのよ、あんたは。昔から。器用に立ち回れない。でもね」
母の声が少し変わった。笑みが消え、静かな、だが芯のある声になった。
「あんたは逃げたことはなかった。大学受験に落ちたときも、お父さんが倒れたときも、みゆきちゃんが生まれて病気が分かったときも。逃げずに正面からぶつかった。不器用だけど、逃げない。それだけは、お父さんと違う」
胸が熱くなった。父は逃げなかったのではない。黙って耐えた。母はそれを「逃げ」と呼んでいる。言わないことは逃げだ、と。隆志は三ヶ月間、智子にも母にも言わずに耐えていた。それは父と同じだった。
「母さん」
「行きなさい。ケニアでも何でも。ただし、みゆきちゃんのことは忘れないで。あの子は、あんたの風鈴の音を待ってるんだから」
風鈴。母がその言葉を使ったことに驚いた。みゆきが夏祭りで風鈴を買った話は、母にもしていた。あの夜、電話で「みゆきが風鈴を離さないんだ」と笑いながら報告したのを覚えている。
「分かった」
「お金は、少しなら出せるわよ。お父さんの保険金が残ってるから」
「いい。母さんの金は母さんのものだ」
「何言ってるの。親の金は子どものために使うものよ。あんたが使わなきゃ、私が死んだ後に国に持っていかれるだけでしょ」
母らしい言い方だった。隆志は笑った。三ヶ月ぶりに、声を出して笑った。
*
午後、智子とみゆきが病院から戻った。
みゆきの顔色は朝より少し良かった。診察の結果が悪くなかったのだろう。智子が「今日は検査値が安定してた」と短く報告した。隆志に向けた言葉ではなく、独り言のように呟いただけだったが、それでも情報を共有しようとしていた。コップの水に続く、もう一本の細い糸。
みゆきはリビングに入るなり、折り紙の箱を取り出した。今日の一羽を折るためだ。色紙を選ぶ目が真剣で、黄色を手に取り、首を傾げ、やっぱり緑にした。
「パパ、今日はお仕事探しに行かなかったの?」
胸を突かれた。スーツを着ていない父親を、みゆきはちゃんと見ていた。
「うん。今日は行かなかった」
「見つかったの?」
「……見つかった、かもしれない」
みゆきは首を傾げた。隆志はテレビ台の横に置いてある地球儀を持ってきた。みゆきが三歳の誕生日にもらったもので、だいぶ色褪せている。日本の位置にはみゆきが貼ったハートのシールが残っていた。
「ここが日本だろう」
「うん」
「パパは、ここに行こうと思ってるんだ」
指でアフリカ大陸を指した。ケニアの位置。赤道のすぐ南。地球儀の上では、日本からは指四本分ほどの距離だった。
「遠いの?」
「飛行機で、だいたい一日かかる」
みゆきは地球儀を両手で抱え、日本とケニアを交互に見た。
「パパ、ここで何するの?」
「車を直す。壊れた車を直して、ちゃんと走れるようにする。向こうの人たちは、いい車がなくて困っているから」
「お医者さんみたいだね。車のお医者さん」
その言葉に、隆志は一瞬息を呑んだ。車のお医者さん。みゆきにとって「直す」は「治す」と同じなのだ。毎週病院に通い、点滴を受け、検査値に一喜一憂する日々を送っている娘にとって、「壊れたものを直す人」は医者と同じ意味を持つ。
「そうだな。車のお医者さんだ」
「じゃあ、パパが治した車に乗ったら、みんな元気になるね」
みゆきは地球儀を回した。日本からケニアへ、ケニアから日本へ。丸い地球の上を、指がぐるぐると滑っていく。
「パパ、風って地球を一周するの?」
「……するよ。風はどこまでも届く」
「じゃあ、パパがアフリカにいても、風鈴の音はパパに届くね」
みゆきは窓際の風鈴を指さした。ガラスの金魚が、午後の光を受けてきらりと光った。
隆志は娘の頭を撫でた。小さな頭。柔らかい髪。この頭の中には、地球儀のように丸くて、風のように自由な世界が広がっている。病気が体を縛っても、想像力は縛れない。
「届くよ。必ず届く」
みゆきは笑った。三年前の夏祭りの写真と同じ笑顔だった。頬はあの頃より細いが、目の輝きは変わらない。
智子がキッチンから、黙ってその様子を見ていた。表情は読めなかった。だが、止めなかった。隆志がみゆきにケニアの話をすることを、止めなかった。それは、少なくとも完全な反対ではないということだった。
みゆきは緑の折り鶴を折り上げ、隆志に差し出した。羽には「いってらっしゃい」と書かれていた。「しゃ」の字が鏡文字になっていたが、一画一画に力が込められていた。
三羽目の折り鶴。「げんき」「がんばれ」「いってらっしゃい」。
隆志はそれを内ポケットに入れた。三羽が並んだ。日本からケニアへ飛ぶ、赤と赤と緑の小さな鶴が。




