7話 親展
ジョセフと別れた夜、隆志は鞄の中から白い封筒を取り出した。
「親展」の二文字。あの日からずっと鞄の底に沈んでいた封筒。開封はしていた。中身の書類も読んだ。退職条件、再就職支援プログラムの案内、退職金の計算書。すべて頭に入っている。だが智子には見せていなかった。
三ヶ月間、隆志は嘘をついていた。正確には、言わなかっただけだ。毎朝スーツを着て家を出る。「お仕事探し」に行く。みゆきにはそう説明していたし、智子もそう思っているはずだった。だが智子は「仕事もないのに」と言った。あの夜、診断書を見せられた夜に。智子はどこまで気づいているのだろう。すべてか、それとも半分か。
リビングのテーブルに封筒を置いた。白い紙が、木目の上で妙に目立つ。ここに置けば、智子は見る。朝になれば必ず目に入る。
だがそれは卑怯だ。紙に語らせるのは卑怯だ。田所には面と向かって告げた。古賀にも、佐川にも。自分が告げられたときも、河野の目の前で受け取った。ならば智子にも、自分の口で言わなければならない。
封筒を手に取り直し、寝室のドアの前に立った。
ドアの隙間から、薄い明かりが漏れている。智子はまだ起きている。みゆきの寝息が微かに聞こえる。娘は母親の隣で眠っている。最近は毎晩そうだ。かつてはみゆきの部屋で一人で寝ていたが、体調が悪くなってから、智子のベッドに潜り込むようになった。
ドアをノックした。返事はない。もう一度、軽く叩いた。
「……何」
智子の声は低かった。眠っていたのではなく、起きていて、返事をするかどうか迷っていた声だった。
「話がある。出てきてくれ」
数秒の間があった。ベッドのスプリングが軋む音。スリッパを履く音。ドアが開いた。
智子はカーディガンを羽織り、髪は下ろしたままだった。目の下に薄い隈がある。みゆきの夜中の発作に備えて、熟睡できない夜が続いているのだろう。それでも朝は起き、おかゆを作り、薬を溶かし、病院に連れて行き、また夜が来る。その繰り返しを、一人でこなしている。
リビングに移動し、向かい合って座った。テーブルの上に封筒を置いた。智子の目がそれを捉えた。「親展」の文字を一瞥し、隆志の顔に視線を戻した。
「これ、何」
「見てくれ」
智子は封筒を取り上げ、中の書類を引き出した。退職通知書。日付は三ヶ月前。隆志の名前、部署名、退職条件。すべてが活字で並んでいる。智子の目が書類の上を走り、途中で止まった。日付のところだ。
「……三ヶ月前?」
「ああ」
「あの日?」
「ああ。田所たちに通告した、あの日だ」
智子は書類を持ったまま、しばらく動かなかった。紙の端が、微かに震えている。だが手が震えているのか、紙が震えているのか、判別できなかった。
「あなた、三ヶ月間——」
声が途切れた。智子は書類をテーブルに戻し、両手で顔を覆った。泣いているのではなかった。怒りを抑えているのだ。
「三ヶ月間、毎朝スーツ着て、就活してたの。クビになったことも言わずに」
「言えなかった」
「言えなかった?」
智子が顔を上げた。目は赤くない。乾いている。だがその乾いた目の奥に、炎があった。静かな、青い炎。爆発しない代わりに、長く燃え続ける種類の怒りだった。
「みゆきの手術費が要る。あなたが働いてくれなきゃ、どうにもならない。それは分かってた。だから私は何も言わなかった。味噌汁を作って、おかゆを作って、病院に連れて行って。あなたが帰ってこない夜も、遅い夜も、全部——」
声が震えた。だが涙は出ない。この三ヶ月で、いや、もっと前から、智子は泣くことをやめている。泣いている暇がないのだ。
「あなたは私に嘘をついてたんじゃない。自分に嘘をついてたの。スーツ着て出かければ、まだ何とかなると思ってたんでしょう。封筒を隠しておけば、なかったことにできると」
返す言葉がなかった。智子の言う通りだった。封筒を鞄の底に押し込み、毎朝スーツを着ることで、「まだ大丈夫だ」と自分を騙していた。百社に断られてもスーツを脱がなかったのは、脱いだ瞬間に現実が確定するのが怖かったからだ。
「ごめん」
「謝らないで」
智子の声が硬くなった。
「謝られても何も変わらない。私が聞きたいのは、これからどうするか。それだけ」
隆志は深く息を吸い、吐いた。
「ケニアに行こうと思っている」
智子の目が、一瞬だけ大きくなった。だがすぐに細くなり、こちらを見据えた。
「ケニア。アフリカの」
「今日、ケニアからの留学生に会った。ジョセフという男だ。ケニアでは日本の中古車が命を支えている。だが品質が悪い。整備の技術と、誠実な流通が必要だと」
「それであなたが行くの」
「俺は十八年間、車を売ってきた。品質管理も知っている。営業の経験もある。日本では要らないと言われた経歴が、向こうでは必要とされている」
智子はテーブルの上の退職通知書を見つめていた。三ヶ月前の日付。朱印が押された承認欄。あの日、隆志が田所たちに押したのと同じ書式の紙。
「みゆきの治療費は」
「稼ぐ。向こうで事業を立ち上げて、必ず」
「必ず、って。何の保証があるの」
「ない」
正直に言った。保証などなかった。ケニアのことは何も知らない。サミュエルという男に会ったこともない。資金は退職金の残りと、わずかな貯金だけ。無謀と言えば無謀だった。
だが百社に断られた男には、もう無謀しか残っていなかった。
智子は長い間黙っていた。時計の秒針が、リビングに規則正しく音を刻む。窓際の風鈴が、暖房の風にかすかに揺れている。音は鳴らない。
やがて智子は立ち上がり、流しに向かった。水を入れたコップを一つ、テーブルに置いた。隆志の前に。
「飲みなさい。喉、渇いてるでしょ」
その一言は、許しでも拒絶でもなかった。ただ、三ヶ月ぶりに智子が隆志のために何かを差し出した、というだけのことだった。
コップの水を飲んだ。冷たかった。だが、冷めた味噌汁とは違う冷たさだった。
「あなたが決めればいい」
智子は背中を向けたまま言った。
「でも、みゆきの治療費だけは。それだけは、絶対に」
声が震えた。最後の二文字だけが、かすかに裏返っていた。
隆志は立ち上がり、智子の背中に向かって深く頭を下げた。智子は振り向かなかった。
テーブルの上で、白い封筒が開かれたまま残っていた。三ヶ月間、鞄の底で眠っていた「親展」が、ようやく届くべき相手に届いた夜だった。




