6話 命を運ぶ車
午後の面接は、またも不採用に終わった。
応接室で形式的に頭を下げる人事担当の口元は、もう見飽きるほど同じだった。建前と本音の間で揺れる薄い笑み。「ご経歴は大変素晴らしいのですが」という前置きの後に続く言葉も、もう暗記していた。
「年齢がネックです」
面接官はそう言った。別の会社では「前職の肩書きが重すぎる」と苦笑された。また別の会社では「即戦力を求めているのですが……」と、何の即戦力なのか説明もなく断られた。どの言葉も丁寧に磨かれていたが、意味は一つだった。要らない。
ビルを出ると、午後三時の冬の日差しが低く差していた。影が長い。自分の影が、アスファルトの上を追いかけてくる。
駅前のベンチに腰を下ろし、鞄から書類を取り出した。赤いバツ印が並ぶ応募先リスト。百七社。ページの隅には「再挑戦不可」と自分で書いた文字が残っている。もう応募できる先が見つからない。三ヶ月前、このリストを作り始めたときは、半分も埋まれば見つかるだろうと思っていた。甘かった。
ペンを握った手が重い。次の一行を書く気力すら湧かなかった。内ポケットの折り鶴に手が触れた。「げんき」「がんばれ」。みゆきの字。この二羽を裏切るわけにはいかない。だが、裏切らないために何をすればいいのかが分からなかった。
そのとき、横から声が聞こえた。日本語混じりの英語。
「Excuse me, すみません。ここ、座っていいですか?」
振り向くと、背の高い黒人の青年が立っていた。二十代半ばほど。人懐っこい笑みを浮かべている。厚手のダウンジャケットを着ているが、サイズが合っていない。袖が少し短く、手首が覗いている。ぎこちない発音ながら、はっきりした意思を込めた声だった。
「どうぞ」
隆志が答えると、青年は深々と礼をして腰を下ろした。手には古びた日本語の教科書が抱えられている。表紙には「基礎からのビジネス日本語」とあった。角が擦り切れ、付箋が何枚も貼られている。よく使い込まれた本だった。
「日本語、勉強しているんですか?」
問いかけると、青年は頷いた。
「はい。私はジョセフ。ケニアから来ました。工学部で勉強しています。でも……アルバイトもしないと生活が大変です」
流暢さに欠けるが、一語一語を丁寧に選んでいる。言い間違えると、自分で首を振って言い直す。その姿に、誠実さを感じた。
「ケニア。東アフリカの?」
「はい。ナイロビです。知ってますか?」
「名前だけは」
隆志は苦笑した。地理の教科書で見た記憶はあるが、それ以上の知識はなかった。赤道直下の国。首都ナイロビ。それくらいだ。
ジョセフは嬉しそうに身を乗り出した。
「日本のこと、ケニアではみんな知っていますよ。車。日本の車です。トヨタ、ホンダ、ニッサン……どれも憧れです」
「新車じゃないだろう?」
「もちろんです。中古車です。でも、中古車がケニアの命を運んでいます」
命を運ぶ。その言葉が、隆志の耳に引っかかった。
「病院に行くとき、車がなければ間に合わないことがあります。農作物を市場に運ぶとき、車がなければ腐ってしまう。子どもが学校に通うとき、車がなければ何時間も歩かなければならない。ケニアでは車は贅沢品ではないのです。生活のインフラです」
ジョセフの目が熱を帯びていた。教科書のぎこちない日本語ではなく、自分の言葉で語っている。
「でも」
ジョセフの表情が曇った。
「日本から来る中古車の中には、状態が悪いものも多いです。事故車。修理されていない車。ブレーキが利かない車。それでも人は買います。安いから。選べないから。でも、そういう車に家族を乗せて、壊れた道を走る。事故が起きます。人が死にます」
声が低くなった。ジョセフの目の奥に、具体的な記憶が見えた。数字ではなく、顔が浮かんでいる目だった。
「……知り合いが?」
「いとこです。三年前。ブレーキが壊れた車で、崖から落ちました。日本から来た車でした」
隆志は何も言えなかった。自動車メーカーで十八年働いた男として、その言葉は重かった。自分が売った車ではない。だが、自分がいた業界が送り出した車かもしれない。日本で役目を終えた車が海を渡り、アフリカで人を殺す。その構造の中に、自分もいたのだ。
ジョセフは深呼吸して、顔を上げた。
「だからこそ、思うのです。もし本当にいい品質で車を届けられたら、どうなるか」
「……どうなる?」
「信頼を得られます。ケニアの人は、お金よりも誠実さを見ます。誠実さがあれば、少し高くても買います。安くて壊れる車より、少し高くても走る車。命を乗せるものだから」
誠実さ。その言葉を聞いたとき、胸の奥で何かが揺れた。十八年間、数字を追ってきた。売上、達成率、利益率。数字で人を評価し、数字で人を切った。その数字の向こう側に、車に乗る人の命があったことを、いつから忘れていたのだろう。
風が吹いた。ベンチの横の街路樹がざわめき、枯れ葉が一枚、二人の間に落ちた。冬の風。冷たいが、どこかに何かを運んでいく風。
隆志はその音を聞きながら、みゆきの風鈴の音を思い出していた。見えない風が、何かを鳴らそうとしている。
「ジョセフ」
「はい」
「君の国で、本当に車が人を救うなら——」
言いかけて、言葉を切った。胸の奥で眠っていた何かが目を覚ます感覚。営業部長として、何千台もの車を売ってきた。その経験が、この青年の話と重なったとき、単なる就職活動の延長ではない何かが見えた。
百社に断られた。日本では、自分の居場所がない。だが、車を必要としている場所がある。品質を求めている人がいる。命を運ぶ車を、ちゃんと届けたい人がいる。
「私は、そこへ行くべきかもしれない」
口に出した途端、自分の言葉に驚いた。だが、驚いたのは一瞬だった。胸の奥では、もう答えが出ていた気がする。百通の不採用が、全部、ここに辿り着くための回り道だったのかもしれない。そう思うのは甘い考えかもしれない。だが今は、甘さでも何でも、掴めるものが欲しかった。
ジョセフは目を輝かせた。
「来てください。日本の技術と誠実さを、ケニアは必要としています」
ジョセフが差し出した手を、隆志は握った。大きな手だった。掌が厚く、指が長い。工学部で機械を触っている手だった。その手の温もりが、冬のベンチで冷え切った隆志の指先に伝わった。
「ケニアに、サミュエルという友人がいます。整備工場をやっている。腕はいいけど、部品が足りない、技術の更新もできない。日本の知識がある人が来てくれたら、きっと変わります」
サミュエル。知らない名前だった。地球の裏側にいる、会ったこともない男。だがその名前が、今の隆志にとっては百七社のどの企業名より確かに聞こえた。
風がもう一度吹いた。今度は少し強く、ベンチの上の書類をめくった。赤いバツ印が並ぶ応募先リストが、ぱらぱらとページを繰る。風が文章をめくるふりをした——あの会議室と同じように。だが今度の風は、閉じるためではなく、開くためにページをめくっている気がした。
鞄の中で、みゆきの折り鶴が揺れた。「げんき」と「がんばれ」。二羽の鶴が、アフリカの空を指しているように思えた。
隆志は立ち上がり、ジョセフと並んで歩き出した。
冬の夕暮れ。空が赤く染まっていた。赤土の色に、似ていた。




