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五百億の風 ~娘を救うため、ケニアで中古車王になった男~  作者: 一条信輝


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5話 げんき

 翌朝、まだ薄暗い時間に目を覚ました。


 食卓に突っ伏したまま眠っていたらしい。首が痛い。背中が冷えている。暖房は切れていた。時計を見ると、五時半。窓の外はまだ暗く、街灯の光が薄いカーテン越しに部屋をぼんやりと照らしている。


 テーブルの上には、昨夜の皿がそのまま残っていた。焼き魚は半分だけ食べて、味噌汁は一口も飲んでいなかった。冷え切った汁の表面に、豆腐の白い角が沈んでいる。


 片付けようとして立ち上がると、窓際の風鈴が目に入った。みゆきが「ここなら風が通るから」と言って吊るしたものだ。夏祭りの金魚が描かれた透明なガラス。冬の朝の薄明かりの中で、ガラスはほとんど見えない。糸と短冊だけが細く垂れ下がっている。


 窓の隙間から冷たい朝風が吹き込んだ。風鈴が揺れた。だが音は鳴らなかった。風が足りないのだ。あるいは、鳴らない風鈴の方が、今の自分には似合っているのかもしれない。


 皿を流しに運び、水を出した。冷水が指先を刺す。蛇口を握る手の甲に、青い血管が浮いていた。四十歳の手。二十年前に田所と汗だくで車庫を回った手。十年前に結婚指輪を智子の指に通した手。三年前に営業部長の辞令を受け取った手。二ヶ月前に部下の名前に朱印を押した手。今は、冷えた皿を洗っている。


「パパ」


 背後から小さな声がして振り返ると、みゆきが眠たげな目をこすりながら立っていた。薄い桃色のパジャマ。裸足のまま廊下を歩いてきたらしく、足の指が赤い。


「おはよう。まだ早いぞ、寝てなさい」


「起きちゃった。パパ、ここで寝てたの?」


「うん。ちょっと寝ちまった」


 みゆきは椅子によじ登り、テーブルの上に折り紙を広げ始めた。小さな手で色紙を選び、角を合わせ、丁寧に折っていく。体調の良い日は、こうして朝から折り紙をする。指先は器用で、正確だった。病気のせいで学校を休みがちなみゆきにとって、折り紙は数少ない「得意なこと」の一つだった。


 隆志は向かいの椅子に座り、黙って見ていた。みゆきの集中した横顔を見ていると、病を抱えていることを一瞬忘れる。だがその横顔が窓からの薄明かりに照らされるたびに、頬の色の薄さが際立つ。唇も白い。点滴の跡が残る手首が、折り紙を折るたびにわずかに見えた。


 赤い鶴。青い鶴。黄色い鶴。次々と折り上がっていく。みゆきはそれをテーブルの端に並べた。一列に並んだ鶴が、行進しているように見えた。


「パパ、今日もお仕事探しに行くの?」


 胸が詰まった。みゆきには「お仕事探し」と説明してある。パパは今、新しいお仕事を探しているんだよ、と。リストラという言葉は使っていない。使う必要もないし、使いたくなかった。


「うん。今日も行ってくるよ」


「じゃあ、これ」


 みゆきが差し出したのは、赤い折り鶴だった。昨日渡してくれたものと同じ形。羽には、今度は「がんばれ」と幼い字で書かれている。「が」の字の点が一つ多いが、一画一画に力が込められていた。


「毎日作ってるの?」


「うん。パパがお仕事見つかるまで、毎日一個ずつ」


 その言葉が、百通の不採用通知より深く胸に刺さった。


 折り鶴を受け取り、鞄の内ポケットに入れた。昨日の「げんき」と今日の「がんばれ」が並んだ。明日もまた一つ増えるのだろう。みゆきはそうやって、折り紙でしか届けられない応援を、毎朝積み上げている。


「ありがとう。大事にするよ」


 みゆきは頷いて、また次の折り紙に手を伸ばした。



         *



 七時過ぎ、智子が寝室から出てきた。


 髪をまとめ、エプロンを着けている。隆志の方は見ずに、流しに立った。洗い残していたコップを一つ取り上げ、スポンジで擦る。背中が硬い。肩甲骨の間に、拒絶の壁が見える気がした。


「智子」


「……なに」


 振り向かない。水の音が二人の間を流れている。


「昨日、面接があった。中川がいた」


 智子の手が止まった。中川の名前は覚えているだろう。何度か家に呼んだことがある。みゆきが小さい頃、中川が折り紙でカブトムシを作ってくれたことがあった。


「中川くんが?」


「転職してた。面接官の席に座ってた」


 沈黙。智子はコップを水切りカゴに置き、蛇口を閉めた。水の音が消えると、部屋が急に静かになった。時計の秒針だけが、規則正しく音を刻んでいる。


「……それで?」


「不採用だった」


 智子は何も言わなかった。振り返りもしなかった。ただ、エプロンの紐を結び直す指が、わずかに震えていた。


 怒っているのか。呆れているのか。悲しんでいるのか。背中からは分からない。かつての智子なら、「大丈夫、次があるよ」と言ってくれたかもしれない。結婚した頃の智子は、隆志が落ち込むたびに「あなたなら出来る」と笑った。その笑顔がいつから消えたのか、正確な日付は思い出せない。消えたのではなく、少しずつ薄くなっていったのだ。隆志が残業を増やすたびに、出張で家を空けるたびに、みゆきの発作に駆けつけられなかったたびに。


「味噌汁、冷めてた。ごめん」


 智子が言った。謝っているのか、皮肉なのか、声色では判断できなかった。


「いや、俺が遅かったから」


「遅いのはいつものことでしょ」


 そう言って、智子は冷蔵庫を開けた。みゆきの朝食の支度を始める。小さな皿に、柔らかいおかゆをよそう。みゆきの心臓に負担をかけないよう、食事は塩分と脂肪を控えたものに限られていた。その献立を毎日考え、毎食作っているのは智子だ。隆志が百社の不採用と戦っている間、智子は一人で娘の命と向き合っている。


 その事実が、言葉にならない重さで胸を圧した。


 みゆきが折り紙の手を止めて、二人を交互に見た。子どもは空気を読む。両親の間に流れるものを、言葉ではなく肌で感じ取る。みゆきは何も言わず、風鈴に手を伸ばした。


 からん。


 小さく、澄んだ音が鳴った。


 朝の冷たい空気の中で、その音だけが透明だった。智子の手が一瞬止まり、隆志も箸を持つ手を止めた。二人とも風鈴を見た。みゆきは笑っていた。


「ほら、今日は鳴ったよ」


 昨夜は鳴らなかった風鈴が、今朝は鳴った。みゆきの指が揺らしたから。風が足りなくても、指があれば鳴る。


 智子がおかゆの皿をみゆきの前に置いた。隆志に向けたものではない眼差しで、娘の髪をそっと撫でた。


「食べなさい。冷めるわよ」


 みゆきが「いただきます」と手を合わせた。


 隆志は鞄を手に取り、玄関に向かった。靴を履きながら、内ポケットの折り鶴に触れた。赤い紙の感触が、指先に温かい。


「行ってきます」


 返事は、なかった。


 ドアを開けると、一月の朝風が吹き込んだ。冷たい風が顔を打つ。だが今日は、鞄の中に折り鶴がある。「げんき」と「がんばれ」。娘の細い指が折った、二羽の鶴。


 百社に断られた男の鞄に、それだけが入っている。


 足を踏み出した。見えない風が、背中を押していた。

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