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五百億の風 ~娘を救うため、ケニアで中古車王になった男~  作者: 一条信輝


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4話 百通の不採用

 退職から二週間が経っていた。


 隆志は朝七時に家を出る習慣を変えなかった。スーツを着て、鞄を持ち、革靴を履く。智子とみゆきが起きる前に玄関を出る。会社に行くふりではない。行く場所があると自分に言い聞かせるための儀式だった。


 食卓には、智子が置いた湯気の立たない味噌汁と、みゆきが残した風鈴があった。味噌汁は冷めていた。いつ作ったのかも分からない。前の晩か、それとも今朝か。どちらでも同じだった。智子は隆志のために味噌汁を温め直すことをやめていた。


 駅の階段を下り、改札に向かう途中、就活生の集団が視界を横切った。黒いスーツに身を包み、手には同じ色の鞄。誰もが疲労を隠しながら、それでも目に小さな炎を宿している。二十代。まだ何にでもなれる年齢。隆志は思わず自分の姿と重ね合わせたが、すぐに目を逸らした。彼らと自分では、椅子取りゲームの条件が違いすぎる。


 最初の一ヶ月で三十社に応募した。履歴書の「職歴」欄には、自動車メーカーの営業部長と書いた。面接に呼ばれたのは七社。そのうち二社は書類を見た瞬間に面接官の表情が変わった。


「前職の年収は?」


 正直に答えると、面接官は眉を寄せた。


「……弊社では、その水準はちょっと」


 四十歳。営業部長経験あり。年収八百万。この三行が、履歴書の上で壁になっていた。若すぎず、安くなく、肩書きが重い。中途採用の市場では、この組み合わせが最も敬遠される。企業が欲しいのは「安くて従順な即戦力」であり、元部長は「高くて扱いにくい中古品」だった。


 二ヶ月目に入ると、応募先は五十社を超えた。業種も選ばなくなった。自動車関連だけでなく、不動産、保険、IT、人材派遣。名前を知らない会社にも履歴書を送った。返ってくるのは、どれも同じ文面だった。


〈慎重に検討いたしました結果、誠に残念ではございますが、今回はご希望に沿いかねる結果となりました〉


 最初は封書で届いた。やがてメールになった。メールの方がまだ良かった。封書は開ける前に重さで分かる。薄い封書は不採用。厚い封書は——来なかった。


 就職情報誌の求人ページに赤いチェックを入れる日が続いた。応募先の名前が鉛筆で塗り潰され、その横に「不採用」と殴り書きされていく。インクの色を変える余裕もなく、同じボールペンで丸を記し続けた。あの会議室で、部下の名前に朱の丸を押したのと同じ手が、今度は自分の不採用に丸を付けている。


 面接の帰り、喫茶店の窓際に座り、コーヒーの苦味を噛みしめた。窓の外を歩くサラリーマンたちが、みんな同じ速さで同じ方向に歩いている。あの列の中に、つい二ヶ月前までは自分もいた。列を離れると、もう戻れない。列は一人が抜けたことに気づかず、同じ速さで流れ続ける。



         *



 三ヶ月目。七十三社目の面接は、かつて自社が部品を納入していた取引先だった。


 応接室に通され、待っていると、ドアが開いた。入ってきた人事担当の顔を見て、隆志は息を呑んだ。


 中川だった。


 三年前に隆志が面接して採用した、あの中川。二十七歳の真面目な青年。リストラの日の朝、「部長、おはようございます」と笑顔を見せてくれた男。あの日以降、中川がどうなったのかは知らなかった。営業部の解体後、別の部署に異動になったとは聞いていたが、まさか転職していたとは。


 中川も一瞬固まった。だがすぐに表情を整え、椅子に座った。


「……田中さん」


 部長、ではなかった。当然だ。今の中川にとって、隆志は部長ではない。応募者の一人だ。


「お久しぶりです、中川くん」


 声が乾いていた。目の前に座っているのは、自分が採用した部下だ。最終面接で「この男は伸びる」と推して、内定を出した相手。その相手が今、面接官の椅子に座っている。


 中川は手元の履歴書に目を落とした。隆志の職歴を読んでいる。すでに知っている経歴を、改めて活字として読んでいる。その横顔に、気まずさと、かすかな痛みが見えた。


「田中さんの経歴は、もちろん存じ上げています。ただ、弊社の募集は営業マネージャー職でして……率直に申し上げると、前職の役職が」


「重すぎる、と」


 中川は口を閉じた。数秒の沈黙のあと、小さく頷いた。


「……申し訳ありません」


 その声には、かつて部下だった頃の真面目さが残っていた。隆志に気を遣い、言葉を選び、それでも結論は変えられない。三年前に隆志が田所に通告した時と、構図は同じだった。ただ、椅子の位置が逆になっている。


 隆志は立ち上がり、頭を下げた。


「いい会社に入ったな、中川」


 その言葉が出た瞬間、中川の目が揺れた。だが何も言わなかった。隆志もそれ以上は言わず、応接室を出た。


 廊下を歩きながら、足が重かった。エレベーターのボタンを押す指が、わずかに震えていた。自分が育てた部下に、不採用を告げられる。これが四十歳の現実だった。


 ビルを出ると、十二月の風が頬を打った。コートの襟を立てた。風は冷たく、乾いていて、どこまでも続いていた。



         *



 百社を超えたのは、年が明けてからだった。


 もはや面接に呼ばれること自体が稀になっていた。書類選考で落ちる。メールの通知音が鳴るたびに胸が締まり、開くと同じ文面が並んでいる。「ご希望に沿いかねる」。この八文字が百回以上重なると、もはや文章ではなく、模様に見えた。壁紙のように、同じパターンが果てしなく繰り返される。


 ハローワークにも通った。窓口の職員は親切だったが、紹介される求人は隆志の経歴と噛み合わないものばかりだった。倉庫作業、配送ドライバー、施設警備。どれも立派な仕事だ。だが、仮に採用されても月収は二十万円に届かない。みゆきの手術費二千万円には、百年かかっても届かない計算だった。


 帰宅の電車で、窓の外を流れる景色を見つめながら、隆志は計算した。貯金の残高。毎月の家賃と生活費。みゆきの通院費。このままでは半年も持たない。


 鞄の中には、今日の不採用通知と、みゆきが「パパ、これ持っていって」と渡してくれた折り鶴が入っていた。赤い色紙を丁寧に折ったもので、羽には幼い字で「げんき」と書かれている。


 折り鶴を取り出し、手のひらに乗せた。軽い。こんなに軽いものが、鞄の中で一番重かった。


 駅に着くと、求人広告の掲示板の前に人だかりができていた。若者も中年も、紙に顔を近づけてはため息をつく。誰もが同じ風に吹かれている。その風は冷たく、平等に、容赦なく全員の背中を押していた。


 夜、マンションに戻ると、リビングの灯りは点いていたが、智子の姿はソファになかった。寝室のドアが閉まっている。食卓にはラップをかけた皿が一つ。冷えた焼き魚と、ご飯と、味噌汁。味噌汁は今回も冷めていた。


 一人で箸を動かしながら、窓際に吊るされた風鈴を見つめた。冬の夜風が隙間から入り込み、かすかに揺れる。だが音は鳴らなかった。風が弱すぎるのか、それとも風鈴が重すぎるのか。


 百通の不採用通知を抱えて、隆志は食卓に突っ伏した。


 このままでは、みゆきを救えない。


 その事実だけが、冷えた味噌汁のように胸の底に沈んでいた。

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