3話 風鈴の音
すべての面談を終えた時、窓の外はすっかり暗くなっていた。
デスクに戻ると、フロアには数人の残業組しかいなかった。隆志は椅子に深く腰を下ろし、パソコンの画面を見つめた。メールの受信箱には未読が十数件溜まっている。来月の営業会議の資料依頼。来期の予算案の確認。自分がいない会社の、自分がいない未来の予定だった。
デスクの隅の写真立てに目がいった。三年前の夏祭り。みゆきが風鈴を持って笑っている。この写真を持ち帰る日が来るとは思わなかった。いつかは来ると分かっていたのかもしれない。定年か、転勤か——そういう形で。まさかこんな形になるとは。
パソコンを閉じ、鞄に封筒を入れた。白い封筒と、さきほどまで使っていたボールペンが鞄の中で隣り合っている。
駅への道を歩く。時刻はいつもより二時間遅い。鞄の中の封筒が、歩くたびに太腿に当たった。
駅前のアーケードを抜ける時、灯りの下で大学生たちが笑いながらスマートフォンを覗き込んでいた。弾けるような笑い声。一人が「マジで」と叫び、別の一人が肩を叩いて笑った。彼らにとって今日は、動画を見て笑う日だ。隆志にとって今日は、人の未来に丸を記し、自分の未来に線を引かれた日だ。同じ夜なのに、見えている景色がまるで違う。
電車に乗り、窓の外を流れる街の灯りを眺めた。ガラスに自分の顔がぼんやりと映っている。四十歳の、疲れた顔。目の下に隈がある。この顔で田所に通告し、古賀に怒鳴られ、佐川に予言され、そして自分も切られた。
十八年間、何のために働いてきたのか。
ガラスの中の自分は何も答えなかった。
*
マンションに戻ると、玄関の灯りは点いていたが、食卓には料理が並んでいなかった。流しにはコップが一つと、みゆきの薬を溶かしたらしいスプーンが置いてある。リビングのテレビがぼんやりと光を放ち、妻の智子がソファに腰を下ろしていた。
「遅かったのね」
感情の起伏を抑えた声だった。
隆志は上着を椅子の背に掛け、ネクタイを緩めた。智子の横には、封を開けた茶色い封筒が置いてある。病院の名前が印刷されたもの。今朝はなかったものだ。
ためらいながら口を開いた。
「……今日、田所たちに通告した」
智子は視線をテレビから外さない。だがリモコンを握る指が止まった。
「やっぱり、あなたがやったのね」
声は静かだった。責めるでもなく、嘆くでもない。
「仕方なかった。会社の指示だ」
「あなたはいつもそう言う。仕方なかった。会社だから」
智子がようやくこちらを向いた。目は赤くない。涙はとうに枯れたような、乾いた目だった。結婚した頃の智子は、映画を観て泣く人だった。みゆきが生まれた時は、嬉し泣きで顔がぐしゃぐしゃになった。あの頃の柔らかい目は、今はどこにもない。
「田所さんの奥さん、この前マンションのエントランスで会ったわ。お子さんが高校受験だって。志望校のパンフレット見せてくれたの。嬉しそうだった」
それだけ言って、智子は口を閉じた。
何も足す必要はなかった。田所の娘の高校受験。田所本人からも聞いたことがある。だがそれは、数字と名前の間に埋もれて、今日の会議室では思い出せなかった。
その瞬間、寝室から足音が近づいた。小さく、ゆっくりとした足取り。一歩ごとにわずかな間がある。娘のみゆきが風鈴を手にして現れた。薄い桃色のパジャマ。顔色は白く、唇の色も淡いが、目だけが不思議に澄んでいた。体調の良い日はこうして起きてこられる。良い日は週に三日か四日。残りの日は、ベッドの中で折り紙を折って過ごす。
「パパ、風が鳴ってるよ」
小さな指でガラスの風鈴を揺らすと、からんと澄んだ音が部屋に広がった。金魚の絵が描かれたガラスが、リビングの照明を受けてきらりと光る。三年前の夏祭りで買ったものだ。あの頃のみゆきは、走り回って隆志の手を引っ張り、屋台の間を駆け抜けていた。今は、風鈴を揺らす力が精一杯だった。
会議室の冷たい風が紙を揺らす音と、この風鈴の音。同じ空気の振動なのに、片方は人を切り捨て、もう片方は娘の手の中で鳴る。
智子はテーブルの引き出しから書類を取り出し、机の上に置いた。
診断書だった。
「今日、主治医に会ってきた。海外でしか治せない。費用は二千万円以上。保険は効かない。渡航費と滞在費を入れれば、もっとかかる」
隆志は紙面に目を落とした。英文の病名、日本語の所見、医師の署名。数字が並んでいた。検査値、投薬量、手術の成功確率。ここにも数字がある。だがこの数字は、会社の売上や達成率とは違う。この数字は、娘の命そのものだった。
「どうにか……融資を考える」
「融資?」
智子の声が低くなった。
「仕事もないのに誰が貸してくれるの」
「仕事はある。まだ——」
「今日だって遅かったのは、また残業してきたんでしょう」
「違う。俺は……」
言葉が出ない。鞄の中の白い封筒。「親展」の二文字。あの紙を取り出せば、すべてが変わる。だが、告げた瞬間に智子の目がどう変わるかを想像すると、手が動かなかった。あの乾いた目が、さらに乾くのか。それとも何か別のものが浮かぶのか。どちらにしても、今の自分には受け止める力が残っていなかった。
みゆきが風鈴をもう一度揺らした。からん、と音が響く。
「私はね、隆志」
智子の声が変わった。怒りでもなく、諦めでもない。長い年月の重みを含んだ声だった。
「みゆきが最初に倒れた日、覚えてる? あなたは東北に出張中だった。救急車に乗ったのは私一人よ。病院の廊下で、プラスチックの椅子に座って、一人で夜を明かした。電話をかけたけど、あなたは会議中で出なかった。折り返しがあったのは翌朝」
一拍、間を置いて、静かに言った。
「——翌朝よ」
返す言葉がなかった。
みゆきがソファの隆志の膝にもたれかかってきた。小さな体は軽く、温かい。風鈴を握ったまま、すでに眠りかけていた。パジャマの袖口から見える手首が細い。点滴の跡が薄く残っている。
「パパ……今日も、がんばったね……」
寝ぼけた声が、かすかに聞こえた。
窓の外から夜風が吹き込み、カーテンの裾を揺らした。その風がみゆきの手の中の風鈴に触れ、からんと透明な音が部屋に満ちた。
隆志は膝の上の娘の髪をそっと撫で、目を閉じた。
あの夏祭りの夜。風鈴を買ったみゆきの笑顔。隣で智子が「きれいな音ね」と笑った声。あの頃、三人は同じ方向を向いていた。いつから、ばらばらになったのだろう。
風鈴の余韻が消え、部屋は静かになった。智子がみゆきを抱き上げ、寝室へ連れていく。小さな体を持ち上げる智子の腕は細いが、迷いがない。毎晩こうして運んでいるのだ。隆志が会社にいる間、ずっと。
一人になったリビングで、隆志は鞄を開けた。
白い封筒が、暗がりの中でぼんやりと浮かんでいる。「親展」の文字。中には、自分の名前が印字された書類が入っている。承認欄に並ぶ朱印。自分が会議室で押していた印と、同じ色の印。
今夜、告げるべきだったのかもしれない。俺も切られた、と。だが告げられなかった。告げてしまえば、みゆきの手術費の当てが完全に消えたことを認めることになる。まだ何か方法があるはずだ。あるはずだと思いたかった。
封筒を鞄に戻し、ファスナーを閉じた。
テレビの画面に、経済ニュースの数字が流れている。為替、株価、失業率。
だが今夜、耳の奥に残っているのは数字ではなかった。
風鈴の音だった。
澄んだ、小さな、透明な音。娘の細い指が鳴らした音が、暗い部屋の中でまだ響いている気がした。
明日、自分は何をすべきなのか。
答えは出ないまま、夜が更けていく。




