21話 再出発
ナイロビの空港に降り立ったとき、赤土の匂いが鼻に戻ってきた。
四ヶ月前、初めてこの匂いを嗅いだときは異質だった。今は違う。排気ガスと土埃と香辛料が混じった匂いが、帰ってきた場所の匂いだと感じた。日本にいた十日間、無意識にこの匂いを探していたことに気づいた。
空港の出口でエリックが待っていた。サミュエルの車ではなく、白いハイエース——搬送車で来ていた。
「タカシさん、おかえりなさい」
エリックの顔が、十日前より少し大人びて見えた。日焼けが濃くなり、腕の筋が目立つ。工房で動き回っていた証拠だ。
「留守の間、何かあったか」
「あります。見てください」
エリックは嬉しそうに車を走らせた。普段の慎重な運転が少し荒い。何かを早く見せたくて仕方がない子どもの顔だった。
工房に着いて、隆志は目を見張った。
壁が塗り直されていた。以前の油染みだらけのコンクリートが、薄い灰色のペンキで覆われている。入口の上には、手書きの看板が掛かっていた。「SAKURA MOTORS — Quality First, Safety Always」。桜の絵が添えられている。花びらの形は少しいびつだったが、赤とピンクの色使いが鮮やかだった。
「サクラモーターズ……」
「サミュエルが決めました。日本の花だと。お前たちの工房に日本の名前を入れようと」
サミュエルが工房の奥から出てきた。手には塗料の缶を持っている。指にペンキが付いていた。
「看板、見たか」
「見た。驚いた」
「お前が日本で走り回っている間に、こっちも走り回った。壁を塗り直し、工具の棚を作り直し、搬送記録のファイルも整理した。オモンディが棚の設計図を書いて、エリックが木を切った」
工房の中も変わっていた。工具棚は木製の新しいものに替わり、サイズ別に仕切りが付いている。壁のホワイトボードの横に、整備記録のファイルが並んでいた。日付順に綴じられ、背表紙にラベルが貼ってある。エリックの筆跡だった。
オモンディが黙って椅子に座り、いつも通りパーツを磨いていた。だがその足元に、新しい作業台が置かれていた。自分で作ったのだろう。天板の高さがオモンディの腰にぴったり合っている。作業台の脚には、余った木材を継ぎ足した跡がある。金をかけずに、あるもので作った。この工房の流儀だ。
壁に掛かったホワイトボードも更新されていた。隆志が出発前に書いた最後の記録の下に、サミュエルの字で三台分の整備記録が追加されている。日付、車両番号、作業内容、担当者。サミュエルの名前とオモンディの名前とエリックの名前。隆志の名前がなくても、記録は止まっていなかった。
「十日間で、ここまでやったのか」
「お前がいなくても回る工房を作らなきゃ、事業にならない」
サミュエルの声にはかつての敵意がなかった。皮肉でもない。事実を述べている。隆志一人に依存する体制では、隆志が倒れれば工房も倒れる。サミュエルはそれを理解し、自分たちで動ける仕組みを作り始めていた。
隆志は看板をもう一度見上げた。「SAKURA MOTORS」。日本の花の名前が、アフリカの陽光に照らされている。サミュエルがこの名前を選んだ意味を考えた。かつて「口だけの日本人」と言い、「みんなそう言う」と不信を見せた男が、自分の工房に日本の名前を刻んだ。それは信頼の証であると同時に、覚悟の表明でもあった。この名前を背負う以上、逃げるわけにはいかない。互いに。
「お前の仕事は、もう車を直すことだけじゃない。この工房を大きくすることだ。俺たちが車を直す。お前は仕事を取ってこい」
役割の転換。整備士から経営者へ。隆志はかつて営業部長だった。数字を追い、人を動かし、仕事を回す。その経験が、今度はケニアの赤土の上で活きようとしている。
*
翌週、ムワンギから呼び出しがあった。
議員の自宅。コンクリート造りの二階建てで、この地域では一番立派な家だった。庭にはマンゴーの木が植えられ、門の前には黒いランドクルーザーが停まっている。
応接間に通されると、ムワンギがソファに座っていた。テーブルの上に紅茶が二杯。ムワンギは自分で注いだようで、ティーポットの蓋が開いたままだった。
「田中、搬送事業の件は保健局と話がまとまったと聞いた」
「はい。おかげさまで」
「JICAの件も進んでいるようだな。東アフリカの搬送モデルとして、お前の工房が候補に上がっていると」
ムワンギの情報網は正確だった。JICAとの打ち合わせの内容まで把握している。この男の耳には、この地域で起きることのすべてが入る。
「お前の工房を公認する用意がある」
「公認?」
「県の認定整備工場だ。公認されれば、公用車の整備を請け負える。学校のスクールバス、診療所の搬送車、警察車両。どれも定期整備が必要だが、今はナイロビまで出さなければならない。お前の工房が公認されれば、地元で完結する」
大きな話だった。公用車の整備が入れば、収入は安定する。搬送事業だけでは賄えない工房の維持費と人件費を、公用車の整備費で補える。
「ただし、条件がある」
ムワンギは紅茶を啜った。
「うちの息子のキプチルチルを雇ってもらいたい」
縁故採用。この国では珍しいことではない。議員の息子を雇えば、議員の庇護が得られる。断れば、議員を敵に回す。政治とビジネスが切り離せない世界の論理だった。
「キプチルチルは何歳ですか」
「二十歳。大学を中退して、今はぶらぶらしている。正直、出来の悪い息子だ。だが、どこかで働かせなければ、ますます駄目になる」
ムワンギの声には、政治家の威圧とは別のものが混じっていた。息子を心配する父親の声。みゆきの手術のために海を渡った隆志と、息子の就職先を探す議員と、立場は違えど父親であることは同じだった。
「お断りします」
ムワンギの目が細くなった。
「——ただし、無条件では、という意味です」
「続けろ」
「キプチルチルさんを雇います。ただし他の若者と同じ試験を受けてもらいます。整備の基礎知識、工具の扱い、安全管理。合格すれば正式に採用。不合格なら、研修期間を設けて再試験」
「試験? 議員の息子に試験を受けさせるのか」
「工房では全員が同じ基準です。エリックもオモンディも、最初は試用期間を経ています。キプチルチルさんだけ特別扱いすれば、工房の信頼が崩れます」
ムワンギは紅茶のカップを置いた。しばらく隆志を見つめていた。品定めの目だった。だが、初めて会ったときの「使えるか」という目とは違う。もう少し深い、何かを測る目だった。
「サミュエルに相談したのか」
「まだです。今初めて聞いた話ですから」
「サミュエルなら断れと言うだろうな」
「かもしれません。だが、俺はサミュエルとは違う判断をしました」
ムワンギが初めて笑った。議員の笑顔ではなく、父親の笑顔だった。
「分かった。試験を受けさせる。落ちたら、もう一度やらせる。何度でも。あいつは頭は悪いが、根性だけはある」
「根性があれば、整備士になれます」
「お前みたいにか」
「俺は整備士じゃない。整備士は、ああいう奴らです」
窓の外に見える道の先を指さした。工房の方角だ。そこにエリックがいて、オモンディがいて、サミュエルがいる。
ムワンギは頷いた。
「田中。お前は面白い男だ。議員の息子に試験を受けさせると言った日本人は、お前が初めてだ」
「光栄です」
「皮肉で言ったんだが」
「分かっています」
二人とも笑った。紅茶はすでに冷めていたが、隆志はそれを飲み干した。冷めた紅茶。冷めた味噌汁を思い出したが、今度の冷たさは嫌ではなかった。
帰り道、サミュエルに電話した。
「ムワンギの息子を雇うことにした。ただし試験を受けさせる」
電話の向こうで、サミュエルが長い沈黙の後に言った。
「……お前は馬鹿か」
「黒田にも言われた」
「あいつと同じことを言っている自分が嫌になるが、馬鹿だ。ムワンギに条件を出すなど、この国では命取りになりかねない」
「だが、無条件で受けたら工房が終わる。お前が一番分かっているだろう」
サミュエルは黙った。
「……分かっている。だから馬鹿だと言っているんだ。正しい馬鹿だ」
電話が切れた。
赤土の道を歩きながら、隆志は空を見上げた。乾季のケニアの空は高く、雲が少ない。風が吹いている。乾いた、強い風。
サクラモーターズ。桜の名を冠した工房が、赤土の大地に根を張り始めていた。




