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五百億の風 ~娘を救うため、ケニアで中古車王になった男~  作者: 一条信輝


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20/21

20話 帰郷

 搬送事業が軌道に乗り始めた頃、ムワンギから連絡があった。


「田中。お前の工房の評判が上の方に届いた。国際協力機構——JICAの東アフリカ事務所が、搬送車両の整備モデルに興味を示している。一度、日本側の窓口と話をしてほしい」


 JICA。日本の政府開発援助の実施機関。その名前が出たことで、事業の枠組みが一段上がった。単なる地元の整備工房ではなく、公的な支援の対象として認知され始めている。


「帰国して打ち合わせを、とのことだ。渡航費はJICA側が持つ」


 帰国。その言葉を聞いた瞬間、真っ先に浮かんだのはみゆきの顔だった。ケニアに来てから四ヶ月。携帯のメッセージと、月に二度の短い電話。それだけで繋がっていた四ヶ月。


 智子に電話した。


「帰る。JICAの打ち合わせで一時帰国する。十日間くらい」


 電話の向こうで、智子が息を吸った。


「みゆきの手術、その間にできるかもしれない」


「手術? 金は——」


「あなたが送ってくれた分と、お義母さんからの援助と、あと……私が働き始めた」


 隆志は言葉を失った。智子が働いている。みゆきの通院と看病をしながら、仕事を見つけたのだ。


「近所の調剤薬局で、週三日のパート。みゆきが学校に行っている間だけ。時給は高くないけど、少しずつ貯めてた」


 智子の声は淡々としていた。だがその淡々さの裏に、四ヶ月間の重さが詰まっていた。夫が不在の家で、病気の娘を育て、働き、金を貯めていた。一人で。


「全部で六百万円くらい。足りない分は、病院が分割払いに応じてくれた。主治医が上に掛け合ってくれたの」


「六百万……」


「あなたの退職金の残りと、お義母さんの百万。私のパート代が八十万。あと、みゆきの学校のPTAの人たちが募金してくれた。みゆきのこと、みんな知ってるから」


 喉が詰まった。自分が知らない場所で、知らない人たちが、みゆきのために動いていた。智子が一人で走り回り、頭を下げ、計算し、道を作っていた。


「……ありがとう」


「お礼はいい。帰ってきて。みゆきが待ってる」



         *



 成田空港に降り立ったのは、六月の半ばだった。


 四ヶ月前、ここから発った。冬の風が頬を打つ中、片道の航空券で飛び立った。今は梅雨の湿気が肌にまとわりつく。空気の重さが違う。ケニアの乾いた風に慣れた体には、日本の湿度が鎧のように感じられた。


 到着ロビーに出ると、人混みの向こうに二つの影が見えた。


 智子が立っていた。その横に、みゆきが車椅子に座っていた。


 車椅子。四ヶ月前にはなかった。体力が落ちて、長時間歩けなくなったのだろう。だがみゆきの手には折り鶴が一羽握られている。何色かは、まだ遠くて見えない。


 足が速まった。早歩きが小走りになり、人混みの間を縫って二人に近づいた。


 みゆきが顔を上げた。


「パパ!」


 その声は、四ヶ月前と変わらなかった。体は細くなり、顔色は薄くなり、車椅子に座っている。だが声は同じだった。澄んでいて、真っ直ぐで、嘘がない声。


 隆志は膝をつき、みゆきの目線に合わせた。小さな手が伸びてきて、折り鶴を差し出した。


 赤い鶴。羽に文字が書いてある。


「おかえり」


 その三文字を読んだ瞬間、堪えていたものが決壊した。涙が出た。空港のロビーで、四十歳の男が膝をついて泣いた。みゆきが驚いて「パパ、泣かないで」と言い、小さな手で頬に触れた。冷たい手だった。点滴の痕が残る細い手が、父親の涙を拭おうとしていた。


 智子は少し離れたところに立っていた。目は乾いていた。いつもの乾いた目。だが、唇がわずかに震えていた。隆志が立ち上がり、智子の前に立った。


「ただいま」


「……おかえり」


 それだけだった。抱き合わなかった。手も握らなかった。だが「おかえり」の一言の中に、四ヶ月分の重さが全部入っていた。冷めた味噌汁の朝も、封筒を隠した夜も、コップの水も、温かい味噌汁の朝も、空港に来なかった出発の日も。全部が、その二文字に圧縮されていた。


 タクシーでマンションに向かう道すがら、みゆきがずっと話していた。折り鶴が百二十羽になったこと。学校で友達ができたこと。薬局で働く智子の制服がかっこいいこと。パパがアフリカで車を直していることをクラスで発表したこと。


「先生が、パパはすごいって言ってくれたよ」


 あの炎上記事の後、「お父さん悪いことしてるんでしょ」と言われて泣いた娘が、今は教室でパパの話をしている。智子が何をしたのかは聞かなかった。だが、きっと学校に行き、先生と話し、誤解を解いたのだろう。一人で。



         *



 手術は帰国三日目に行われた。


 都内の大学病院。心臓外科の主治医・村田が、手術前に説明をした。みゆきの心臓弁の修復手術。成功率は八十五パーセント。高い数字だが、裏を返せば十五パーセントの確率で——その先は考えないことにした。


「田中さん、手術中はこちらでお待ちください。三時間から四時間の予定です」


 手術室のドアが閉まった。みゆきはストレッチャーの上で隆志に手を振った。小さな手に点滴の管が繋がっている。その手で折り鶴を折っていた手。「げんき」「がんばれ」「いってらっしゃい」と書いた手。


 待合室に、隆志と智子が並んで座った。


 プラスチックの椅子。白い壁。蛍光灯。消毒液の匂い。時計の秒針が、残酷なほど正確に時を刻んでいる。


 智子が言った。


「みゆきが最初に倒れた日のこと、覚えてる?」


「ああ。俺は東北に出張中だった。折り返しが翌朝になった」


「あの日、この同じ病院の廊下で、一人で夜を明かした。プラスチックの椅子に座って、ずっと手術室のドアを見てた」


「……ごめん」


「今日は、隣にいるね」


 智子の声は穏やかだった。許しとも、責めとも違う。ただ、事実を確認している。あの日はいなかった。今日はいる。それだけのことだ。だがその「それだけのこと」が、この夫婦にとっては何年分もの距離を埋めるものだった。


 三時間半後、村田医師が出てきた。


「成功です。弁の修復が完了しました。術後の経過を見る必要がありますが、今のところ問題ありません」


 隆志の膝から力が抜けた。智子が隣で小さく息を吐いた。それだけだった。叫びも抱擁もない。ただ、二人とも同じ方向を見ていた。手術室のドアの向こうにいる娘を。


 術後、麻酔から覚めたみゆきの最初の言葉は、こうだった。


「パパ……風鈴の音が聞こえたよ」


 手術中に風鈴の音が聞こえた。麻酔の中の夢だったのだろう。だが、みゆきにとってはそれが本当の音だった。あの夏祭りの金魚の風鈴。からん、と澄んだ音。その音が、手術台の上の八歳の娘に届いていた。


 隆志はみゆきの手を握った。小さな手。だが、四ヶ月前より温かかった。心臓の弁が修復されたことで、血液の循環が改善している。指先まで血が届いている。その温もりが、掌を通して隆志に伝わった。


「パパ、アフリカに戻るの?」


「……うん。まだ、やることがある」


「じゃあ、折り鶴もっと折るね。百羽超えたら、千羽まで折る」


「千羽はすごいな」


「千羽折ったら、願いが叶うんでしょ。パパの願いが叶うように、折るの」


 隆志の願い。この子は、父親の願いが何かを知っているのだろうか。手術費を稼ぐこと? 事業を成功させること? それとも——


「みゆき。パパの願いは、もう半分叶ったよ」


「半分? 残り半分は?」


「それは、もう少しかかる。でも必ず叶える」


 みゆきは笑った。酸素マスクの向こうで、薄い唇が弧を描いた。


 病室を出ると、廊下の窓から夕陽が差していた。智子が自販機でコーヒーを二つ買い、一つを隆志に差し出した。


「ブラック? 微糖?」


「ブラックでいい」


「昔は微糖だったのに」


「変わったんだ。ケニアでは砂糖入りのコーヒーしかなくて、逆にブラックが恋しくなった」


 智子は小さく笑った。四ヶ月ぶりに見る笑顔だった。いや、もっと長いかもしれない。結婚して何年も見ていなかった、力の抜けた笑顔だった。


 二人で廊下の窓際に立ち、コーヒーを飲んだ。並んで。同じ方向を見て。夕陽がオレンジ色に染まる空を、黙って眺めた。


 和解、という言葉は大げさだった。ただ、二人の間の氷が、少しだけ溶けた。コップの水から始まり、温かい味噌汁を経て、今はブラックコーヒー。少しずつ、一杯ずつ、距離が縮まっている。


 帰国最終日。空港に向かう前に、みゆきの病室に寄った。


「パパ、アフリカの人も助けてね」


 みゆきがベッドの上から言った。その言葉には、八歳とは思えない静かな力があった。自分の手術費のためにパパはアフリカに行った。それを知っている。でも「私のために」ではなく「アフリカの人のために」と言う。この子は、父親が何のために働いているかを、本質的に理解していた。


「約束する」


「指切り」


 小さな小指が差し出された。点滴の管がつながったままの手から、細い指が一本伸びている。隆志は自分の小指を絡ませた。


「指切りげんまん、嘘ついたら——」


「針千本飲ます」


 みゆきが笑った。隆志も笑った。智子がドアの横で、黙って見ていた。

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