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五百億の風 ~娘を救うため、ケニアで中古車王になった男~  作者: 一条信輝


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19話 名前が残る

 最初の搬送から一ヶ月で、七件の出動があった。


 妊婦の緊急搬送が三件。高熱の子どもが二件。交通事故の負傷者が一件。農作業中に蛇に噛まれた老人が一件。どれも、車がなければ病院に間に合わなかった命だった。


 隆志が運転し、エリックが同乗する。夜中でも、雨の日でも、電話が鳴れば走った。赤土の道は雨が降ればぬかるみ、乾けば埃が視界を塞ぐ。ヘッドライトの先に浮かぶ暗闇を、白いハイエースが切り裂いていく。


 四件目の出動は、深夜二時だった。集落から十五キロ離れた農家で、五歳の男の子が高熱を出した。マラリアの疑いがある。診療所には解熱剤しかなく、血液検査のできる病院までは四十キロ。


 母親が子どもを抱いて車に乗り込んだ。毛布にくるまれた小さな体が、母親の腕の中で震えている。額に手を当てると、焼けるように熱かった。四十度を超えている。エリックが水で濡らしたタオルを額に当て、隆志はアクセルを踏んだ。


 暗闇の中を走った。赤土の道に穴が開いている。車体が跳ねるたびに、後部座席で母親が子どもを抱き直す。バックミラーに映る母親の顔は、恐怖で強張っていた。だが声を上げない。泣かない。ただ、子どもの名前を繰り返し呼んでいる。低い声で、子守唄のように。


 病院に着いたのは三時半だった。当直の医師が血液検査をし、マラリア陽性と判定した。点滴と投薬が始まり、朝までに熱が下がった。医師は「あと数時間遅れていたら脳に達していた」と言った。


 帰りの車の中で、エリックが言った。


「あの子の母親、車の中でずっと子どもの名前を呼んでいました。ケニア語で。ンバイ、ンバイって。あれは『大丈夫、大丈夫』という意味です」


 隆志はハンドルを握りながら、みゆきのことを思った。みゆきが発作を起こしたとき、智子もきっと同じように名前を呼んでいたのだろう。言語は違っても、子どもの名前を呼ぶ母親の声は同じだ。


 七件目の搬送を終えた朝、サミュエルが工房に来て言った。


「ムワンギから連絡があった。保健局の局長が会いたいと言っている」


 三日後、ナイロビの保健局庁舎を訪れた。古いビルの三階。エアコンの効かない会議室で、局長のカマウ博士が待っていた。五十代の女性。眼鏡の奥の目は鋭いが、握手は柔らかかった。


「田中さん。搬送の件は聞いています。隣接する三つの集落で、搬送可能な車両がゼロだった地域に、あなたの車が対応している。データを見ました」


 カマウは机の上に書類を広げた。搬送記録、対応時間、患者の転帰。隆志が毎回エリックに記録させていたデータだった。


「七件のうち、六件が搬送なしでは死亡または重篤化のリスクがあった。この数字は無視できません」


「ありがたいお言葉です。ただ、今の体制では一台しか動かせません。出動中に別の要請が来ても対応できない」


「分かっています。だから提案があります」


 カマウは書類の一枚を差し出した。保健局の予算枠から、搬送車両の整備と運用に対して補助金を出す、という内容だった。金額は月に十万シリング。大きな額ではないが、ゼロとは違う。


「条件があります。整備記録を毎月提出すること。搬送データを共有すること。そして、整備した車両には整備士の名前を記録すること」


「整備士の名前を?」


「責任の所在を明確にするためです。誰が何を整備したか。問題が起きたとき、追跡できるように」


 隆志は頷いた。日本では当たり前の制度だ。だがここでは、整備士の名前が記録に残ることは稀だった。車は直されるが、誰が直したかは誰も気にしない。使い捨ての労働。名前のない仕事。


「喜んでお受けします」


 帰りの車の中で、隆志はエリックに伝えた。


「これから、整備した車には全部記録を付ける。日付、車両番号、作業内容、そして整備士の名前。お前の名前も、オモンディの名前も、全部残る」


 エリックは助手席で黙っていた。窓の外のナイロビの街並みが流れていく。渋滞のクラクション、路上の物売り、排気ガスの匂い。長い沈黙の後、エリックが口を開いた。


「タカシさん、一つ聞いてもいいですか」


「何だ」


「なぜ、名前を残すことが大事なんですか」


 隆志はハンドルを握ったまま考えた。


「俺が日本で営業部長をやっていたとき、何千台もの車を売った。だが俺の名前は一台の車にも残っていない。売上の数字には残っている。達成率のグラフには残っている。だが、車を買った人は俺の名前を知らない。俺も、車を買った人の名前を知らない」


 信号が赤に変わった。車が止まった。


「ここでは違う。お前が直した車に、お前の名前が残る。その車が人を運び、命を救う。何年か後に、その車のボンネットを開けた誰かが、記録を見て『エリック・オディアンボがこの車を直した』と知る。それは、数字のグラフとは全く違うものだ」


 エリックは窓の外を見ていた。しばらくして、静かに言った。


「俺がなぜ整備士になったか、話したことがありますか」


「いいや」


「父がトラック運転手でした。モンバサとナイロビの間を走る長距離の。十二歳のとき、事故で死にました。タイヤがバーストして、崖から落ちた」


 隆志はアクセルから足を離した。信号はまだ赤だった。


「タイヤは擦り減っていました。溝がほとんどなかった。父は毎朝出発前にタイヤを蹴って確認していました。硬くなったゴムの感触が変わっていくのを、分かっていたはずです。でも会社に言えば、修理費を給料から引かれる。交換を要求すれば、仕事を回してもらえなくなる。この国では、文句を言う運転手の代わりはいくらでもいるから」


 エリックの声は淡々としていた。感情を込めないように語っている。だが、その淡々さの下に、十二歳の少年が父を失った記憶が沈んでいた。


「事故の日、母が泣き崩れました。俺は泣けなかった。父のトラックを見に行きました。崖の下に転がっていた。タイヤの破片が道に散らばっていた。あの破片を拾って、ずっと握っていました。なぜか捨てられなかった」


「だから整備士になりました。ちゃんと整備された車に乗っていれば、父は死ななかった。俺がそれをやりたかった。でも、この国では整備士の仕事に誇りなんてない。安い賃金で、名前も残らない。直した車が壊れても、誰も整備士を責めない。誰も気にしないから」


 信号が青に変わった。隆志は車を発進させた。


「タカシさんが言った。名前を残すと。俺の名前が、車の記録に残ると。それは——」


 エリックの声が、初めてかすかに震えた。


「父の名前は、どこにも残っていません。事故の記録にも、会社の記録にも。トラックは別の運転手が使い、父がいたことは忘れられた。でも、俺の名前が記録に残るなら——」


 言葉が途切れた。エリックは窓の外に顔を向けた。


 隆志は何も言わなかった。言葉は要らなかった。車を走らせ続けた。ナイロビの渋滞を抜け、赤土の道に入り、工房に向かった。二人の間に流れる沈黙は、重くはなかった。むしろ、何かが通じた後の静けさだった。


 工房に着くと、オモンディが整備中の車のそばに立っていた。隆志は車を降り、工房の壁にかかったホワイトボードを持ってきた。マーカーを手に取り、表を書き始めた。


 日付。車両番号。作業内容。担当整備士。


「今日から、全部ここに書く。完了したら、紙にも写して保存する。保健局にも提出する」


 オモンディが黙って見ていた。エリックがマーカーを受け取り、今日の作業分を書き込んだ。自分の名前を書くとき、一瞬手が止まった。だが、はっきりとした文字で「Eric Odhiambo」と記した。


 サミュエルが工房の入口に立っていた。ホワイトボードを見て、何も言わずに頷いた。


 その日から、工房の壁に記録が増えていった。日付と名前が、一行ずつ積み重なっていく。エリックの名前、オモンディの名前、サミュエルの名前、そして隆志の名前。四人の名前が、整備した車の数だけ並んでいく。


 名前が残る。仕事に名前が刻まれる。


 それは、百七社の不採用通知を出した企業のどこにも、隆志の名前が残っていないこととの対比だった。日本では、落とされた人間の名前は書類の山に埋もれて消える。だがこの工房では、直した車の一台一台に名前が残る。


 夜、隆志は智子にメッセージを送った。


〈搬送事業が正式に認められた。保健局から補助金が出る。少しずつだけど、前に進んでいる〉


 返信は短かった。


〈みゆきの折り鶴、今日で三十羽になった〉


 三十羽。隆志がケニアに来てから、毎朝一羽ずつ折り続けている。三十日分の「がんばれ」が、日本の食卓に並んでいる。


 隆志はポケットの四羽の鶴に触れた。「げんき」「がんばれ」「いってらっしゃい」「いのち」。


 あと二十六羽、向こうで増えている。その一羽一羽に、みゆきの指の温もりが折り込まれている。


 早く会いたかった。

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