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五百億の風 ~娘を救うため、ケニアで中古車王になった男~  作者: 一条信輝


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18話 不可逆の選択

 三日間、隆志は封筒に触れなかった。


 テーブルの上に置かれたまま、札束は白い紙に包まれて沈黙していた。朝、工房に入るたびに目に入る。夜、工房を出るたびに背中に感じる。百万シリング。その重さが、見えない糸のように隆志を引いていた。


 三日目の夜、サミュエルが来た。


「黒田の金、まだ置いてあるのか」


「ああ」


「受け取るのか」


 隆志は答えなかった。サミュエルは向かいの椅子に座り、封筒を見つめた。


「俺がお前の立場なら、受け取っているかもしれない」


「……」


「娘の命がかかっている。金が目の前にある。手を伸ばさない方がおかしい」


「だが」


「だが、お前はまだ手を伸ばしていない」


 サミュエルは目を上げた。


「なぜだ」


 隆志は考えた。論理的な理由を探した。品質を守るため。事故車を流さないため。ジョセフのいとこの死を無駄にしないため。どれも正しい。だがどれも、みゆきの命より重い理由にはならない。


「分からない。分からないから、触れずにいる」


 正直だった。格好のいい答えではない。だが嘘よりはましだった。


 サミュエルは長い間黙っていた。虫の声と、遠くの犬の吠える声だけが聞こえていた。


「お前に一つ、話がある」


「何だ」


「先週、隣の集落で妊婦が死んだ。陣痛が始まったが、病院まで三十キロ。車がなかった。バイクに乗せて走ったが、途中で出血がひどくなって、間に合わなかった」


 隆志は目を閉じた。


「ムワンギの搬送車は、まだこの地域をカバーしていない。台数が足りない。病院に行けずに死ぬ人間が、この半径五十キロ内に毎月いる」


「……」


「お前が整備した車は、ブレーキが効く。エンジンが安定している。走れる。その車を搬送に使えないか」


 搬送。車を売るのではなく、車で命を運ぶ。商売ではなく、インフラ。


「金にならないぞ」


「最初はな。だがムワンギに話を通せば、保健局の予算を引き出せるかもしれない。少なくとも、事故車を売るよりは意味がある」


 サミュエルの目が、初めて「提案」の光を帯びていた。これまでは隆志の提案を受ける側だった。初めて、サミュエルから提案が来た。


 隆志は封筒を手に取った。


 札束の重さを掌で感じた。百万シリング。みゆきの手術費の、二十分の一。


 そして、テーブルの端に置いた。自分から遠い側に。


「黒田に返す」


 サミュエルは何も言わなかった。だが、目が細くなった。笑ったのか、安堵したのか。


「搬送をやろう。在庫の三台を整備し直す。ブレーキ、サスペンション、冷却系、全部やり直す。搬送に耐えられる状態にする。その上でムワンギに話を持っていく」


「工具は足りるのか」


「足りない分は、ある物で工夫する。お前たちはそうやってきたんだろう」


 サミュエルが頷いた。



         *



 翌朝、隆志は黒田に電話した。


「金は返す。商談はなかったことにしてくれ」


 電話の向こうで、黒田が沈黙した。数秒後、低い笑い声が漏れた。


「そうか。まあ、そうだろうな。お前はそういう人間だ」


「恨むか」


「恨まない。馬鹿だとは思う。だが恨むほどの相手じゃない」


 電話が切れた。


 黒田の食料はそのまま残した。オモンディの母の薬代と、エリックの妹の学費は、隆志が最後の貯金から出した。残高は三万円を切った。日本に帰る航空券も買えない金額だった。


 在庫の三台の整備が始まった。全車、一からやり直す。エリックとオモンディと隆志の三人。サミュエルは搬送の仕組みをムワンギと交渉するために走り回った。


 二週間かかった。三台のうち、搬送に使えるレベルに仕上がったのは一台だけだった。トヨタのハイエース。後部座席を外し、簡易担架を固定するフレームをオモンディが溶接した。エリックがサスペンションを強化し、隆志がブレーキとエンジンを仕上げた。


 完成した日の夜、隆志はハイエースの運転席に座った。エンジンをかけた。安定した低い回転音。ブレーキを踏むと、しっかりと効く。ハンドルを切ると、正確に反応する。


 この車なら、命を運べる。



         *



 最初の出動は、三日後だった。


 夜の十一時。サミュエルの携帯が鳴った。隣の集落の診療所からだった。妊婦が破水した。出血がある。最寄りの病院まで三十キロ。


 隆志がハンドルを握り、エリックが助手席に乗った。赤土の道を、ヘッドライトだけを頼りに走った。舗装されていない道は、雨季の水で削られ、至る所に穴がある。車体が跳ね、担架が揺れる。


 診療所に着くと、女性が横たわっていた。二十代。顔は汗で光り、呼吸が荒い。隣に夫が立ち、赤ん坊を抱いた老婆がいた。上の子だろう、二歳くらいの子どもが母親の手を握って泣いている。


 女性を担架に乗せ、ハイエースの後部に固定した。エリックが横に座り、女性の手を握った。隆志はアクセルを踏んだ。


 三十キロの道を、四十分で走った。穴を避け、水たまりを越え、暗闇の中をヘッドライトが切り裂いていく。途中、ぬかるみに車輪が取られた。隆志がアクセルを踏んでも動かない。


「押します」


 エリックが飛び降り、後ろから押した。隆志もギアを切り替え、タイヤの角度を変えた。泥が飛び散り、エリックの顔にかかった。三度目の試みで、車が動いた。


 病院の救急入口に車を横付けしたのは、深夜十二時半だった。看護師が駆け寄り、女性をストレッチャーに移した。


 一時間後、医師が出てきた。


「母子ともに無事です。あと三十分遅れていたら、危なかった」


 隆志はハイエースの横に座り込んだ。膝が震えていた。緊張が解けたのだ。エリックが隣に座った。泥だらけの顔で、息を切らしていた。


「間に合いました」


「ああ。間に合った」


 二人ともそれ以上何も言わなかった。言葉は要らなかった。


 夜明け前に工房に戻ると、サミュエルが待っていた。報告を聞き終えると、サミュエルは隆志の肩を両手で掴んだ。


「お前は正しかった」


 その五文字が、百七社の不採用通知の重さを消した。


 朝日が赤土の大地を照らし始めた。工房のトタン屋根が光を受けて赤く輝いている。ハイエースの白いボディに、泥が乾いてこびりついていた。


 隆志は内ポケットから白い折り鶴を取り出した。


 ペンを手に取った。


 羽の上に、一文字ずつ書いた。


「いのち」


 四羽目の折り鶴に、ようやく言葉が入った。


「げんき」「がんばれ」「いってらっしゃい」「いのち」。


 四羽の鶴が、朝の光の中で並んでいた。

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