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五百億の風 ~娘を救うため、ケニアで中古車王になった男~  作者: 一条信輝


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17話 札束

 炎上が収まりかけた頃、世界が止まった。


 二〇二〇年三月。ケニア政府がロックダウンを発令した。国境封鎖。港湾閉鎖。移動制限。モンバサ港から車が入ってこなくなった。整備する車がなければ、工房は動かない。収入がゼロになった。


 最初の一週間は、在庫の車を整備して過ごした。だが在庫は三台しかなかった。二週間目に入ると、やることがなくなった。工房の中でオモンディが工具を磨き、エリックが棚を整理し、隆志が帳簿を眺める。数字は減る一方だった。


 三週間目、オモンディが口を開いた。


「タカシ。母が薬を買えない。月の薬代が五千シリング。俺の貯金はもう底をついた」


 オモンディの母は糖尿病を患っていた。インスリンの費用は、オモンディの給与から毎月捻出していた。工房が止まれば、給与が止まる。給与が止まれば、薬が買えない。


「エリック、お前は」


「妹の学費です。来月が期限で。払えなければ退学になります」


 エリックの妹は十四歳。地域の中学校に通っている。学費は年間で一万シリングほど。日本円にすれば一万円程度だが、収入のない今は、その金額が壁だった。


 隆志自身も限界に近かった。食事を一日一食に減らした。朝はウガリと水。昼は抜き。夜にサミュエルの家でアイリーンが分けてくれるシチューの残り。それでも足りない日は、水だけで過ごした。宿舎の電気代を二ヶ月滞納し、ある朝、電気が止まった。暗い部屋で、携帯の充電もできなくなった。サミュエルの家で充電させてもらう日が続いた。


 智子への電話も減った。国際通話の料金が払えないからだ。週に一度、短いメッセージだけを送る。「元気だ」「みゆきは?」。智子からの返信も短かった。「安定してる」「折り鶴、増えてるよ」。


 みゆきの入院は二週間で終わっていた。だが心不全の兆候は消えていない。主治医は「半年以内の手術が望ましい」と言っている。半年。金は一円も貯まっていない。


 ロックダウン二ヶ月目に入った夜、工房の前に車が止まった。


 見覚えのある白いランドクルーザー。ただし、前回とは違う。今度は黒田本人が運転していた。


「田中さん。元気か」


 黒田は車を降り、工房の中に入ってきた。手にはビニール袋を提げている。中身は食料だった。米、缶詰、インスタントコーヒー、チョコレート。


「差し入れだ。腹が減っているだろう」


 隆志は受け取らなかった。黒田は袋をテーブルに置き、椅子に座った。


「そう警戒するな。俺は商談に来たんだ」


「商談?」


「ロックダウンが明ければ、また車が入ってくる。だが今度は品薄で値段が上がる。上がった分だけ、客は安い車を求める。つまり、事故車の需要が増える」


 黒田はタバコに火を点けた。工房の中に煙が漂う。


「俺のルートで仕入れた車を、お前の工房で整備して売る。分け前は折半だ。悪い話じゃないだろう」


「事故車を?」


「全部が事故車じゃない。程度の悪い車もあるが、お前の腕なら見栄えくらいは整えられる。中身は……まあ、客が気にしなければいい」


「気にしなければいい、って。ブレーキが利かない車を売るのか」


「ブレーキは直せばいい。直す金がなければ、直さずに売る。それだけだ」


 黒田はテーブルの上の袋を指で押した。


「田中さん。お前、娘がいるんだろう。心臓の病気で、手術が必要だと聞いた」


 血が引いた。黒田がみゆきのことを知っている。誰から聞いた。ジュマか。ピーターか。工房にいた人間なら、隆志がみゆきの話をしていたことを知っている。


「手術費、二千万円だってな」


 黒田はポケットから封筒を取り出した。テーブルの上に置いた。白い封筒。「親展」の文字はない。だが中身は見えている。札束だった。


「百万シリング。日本円で百万ちょっとだ。前金として受け取ってくれ。仕事が回り始めれば、月に五十万シリングは出せる。一年続ければ、娘の手術費は貯まる」


 百万シリング。テーブルの上で、札束が蛍光灯の光を受けている。薄いケニアの紙幣が、束になると重みを持つ。


 みゆきの手術費。半年以内と言われた期限。金がなければ手術はできない。手術ができなければ、みゆきは——。


 手が伸びかけた。


 指先が封筒に触れるか触れないかの距離で、止まった。


 封筒の白さが、別の白さと重なった。みゆきの折り鶴。四羽目の白い鶴。「パパが決めて」。


 何を決めるのか。金を取って娘を救うのか。品質を守って娘を危険にさらすのか。


「……考えさせてくれ」


 隆志の声はかすれていた。


 黒田は立ち上がった。


「急がなくていい。だが、ロックダウンが明けたら答えをくれ。金は置いていく」


 黒田は工房を出て、車に乗り込んだ。エンジン音が遠ざかり、夜の静寂が戻った。


 テーブルの上に、食料の袋と札束の封筒が残されていた。


 隆志は封筒を見つめた。手を伸ばせば届く。この金があれば、オモンディの母の薬が買える。エリックの妹の学費が払える。自分の電気代も、食費も。そしてみゆきの手術費の一部になる。


 だがその金は、ブレーキの利かない車を売る金だ。キマニの娘が乗る車のブレーキを壊す金だ。ジョセフのいとこを殺した構造に加担する金だ。


 隆志は封筒に触れず、工房の電気を消した。


 暗闇の中で、折り鶴を取り出した。四羽。指先で白い鶴の羽に触れた。


 正しいことをしているのか。


 答えは出ないまま、夜が更けていった。

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