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五百億の風 ~娘を救うため、ケニアで中古車王になった男~  作者: 一条信輝


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16/17

16話:炎上

 記事が出たのは、ムワンギの搬送車を納車した翌週だった。


 日本のオンラインメディアに掲載された記事のタイトルは、こうだった。


〈ケニアで「搾取ビジネス」——元自動車会社社員、現地の若者を低賃金で酷使か〉


 早瀬亮太。三十二歳のフリージャーナリスト。記事の署名にはその名前があった。


 記事の内容は、噂をそのまま裏付けたような構成だった。「匿名の現地関係者」の証言として、隆志が若者に不当な低賃金で働かせていること、危険な作業を強いていること、利益の大半を日本に送金していることが書かれていた。写真も載っている。工房の外観。油で汚れた作業服を着た若者たち。そして、その中に立つ日本人男性——隆志の後ろ姿だった。


 誰が撮ったのか。工房を訪れた客か、それとも意図的に送り込まれた人間か。


 記事はSNSで拡散された。日本語のツイートが連鎖し、「ケニア搾取」というハッシュタグが生まれた。コメント欄には「日本人の恥」「アフリカを食い物にするな」「偽善者」という言葉が並んだ。誰も隆志に直接確認していない。記事の一面だけを読み、怒りを書き込み、次の話題に移っていく。


 ケニア国内でも記事は翻訳されて広まった。スワヒリ語と英語のSNSに転載され、「日本人がケニアの若者を搾取」という図式が一人歩きした。


 三日後の朝、工房の窓ガラスが割れていた。


 石が二つ、床に転がっていた。窓枠のアルミが歪み、ガラスの破片が整備中の車のボンネットに散らばっている。エリックが朝一番に発見し、隆志を呼んだ。


「夜中にやられたようです。誰かは分かりません」


 エリックの声は冷静だったが、手が震えていた。


 サミュエルは石を拾い上げ、しばらく黙って見つめていた。


「ダニエルが学校でいじめられた」


 低い声で言った。


「日本人と一緒にいる家の子だと。お前の工房で働いているせいで、俺の息子が殴られた」


 隆志は何も言えなかった。サミュエルの息子が殴られている。自分がここにいるせいで。


「サミュエル、俺は——」


「言い訳は聞きたくない」


 サミュエルの目が、初めて隆志を拒んでいた。信じたいと思っていた目が、疑いに揺れている。あの夜、「もしかしたら理がある」と言った男が、息子を殴られて揺らいでいる。


「あの記事は嘘だ。匿名の証言者は黒田が仕組んだものだ。俺は——」


「証拠はあるのか」


 ない。黒田が早瀬にリークしたという証拠はない。あるのは状況証拠だけだ。噂が先に流れ、記事がそれを追認した。仕組まれた順序。だが証明できない。


「信じてくれ」


 その言葉を口にした瞬間、隆志は田所を思い出した。面談室で、田所は何も言わなかった。「分かりました」とだけ言った。信じてくれとは言わなかった。信じるか信じないかは、相手が決めることだ。自分が決めることではない。


 サミュエルは背を向けた。


「石は片付ける。ガラスは俺が直す。お前は何もするな。今は、お前が目立てば目立つほど悪くなる」


 隆志は工房の隅に座った。油の染みた床に腰を下ろし、頭を抱えた。


 携帯が鳴った。日本からだ。知らない番号だった。


「田中隆志さんですか。フリージャーナリストの早瀬です。追加取材をお願いしたいのですが」


「あの記事を書いたのはあなたですか」


「はい。現地の声をもとに——」


「現地の声? あなたは工房に来たことがありますか。俺と話したことがありますか。若者たちに直接聞きましたか」


 沈黙があった。


「……いえ、まだです。ですので、追加取材を——」


「来てください。ナイロビまで。自分の目で見て、自分の耳で聞いてから書いてください。それが取材というものでしょう」


 電話を切った。手が震えていた。怒りではなかった。恐怖だった。あの記事一本で、工房に石が飛び、サミュエルの息子が殴られ、SNSで「日本人の恥」と呼ばれている。言葉の暴力は海を越え、大陸を越え、一人の男の居場所を奪おうとしている。


 夜、智子から電話があった。


「記事、見た。日本でも広まってる」


「嘘だ。全部嘘だ」


「分かってる。でも、隆志。みゆきが……」


「みゆきが?」


「学校の友達のお母さんが、あの記事を見て。みゆきに『お父さん、アフリカで悪いことしてるんでしょ』って。みゆきは泣いて、何も言い返せなかった」


 息が止まった。


 娘が泣いている。父親が遠い国で悪いことをしていると言われて、泣いている。折り鶴を折って応援してくれた娘が、その応援を踏みにじられている。


「みゆきに電話させてくれ」


「今、寝てる。泣き疲れて」


「……」


「帰ってきて、とは言わない。でも、早く終わらせて」


 智子の声は震えていた。初めてだった。あの乾いた目の、感情を封じ込めた智子が、声を震わせていた。


 電話が切れた後、隆志は工房の床に座ったまま、四羽の折り鶴を取り出した。


「げんき」「がんばれ」「いってらっしゃい」。そして白紙の一羽。


 白い紙が、暗闇の中でぼんやりと浮かんでいる。


 まだ、何も書けなかった。

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