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五百億の風 ~娘を救うため、ケニアで中古車王になった男~  作者: 一条信輝


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15話 離反

 噂は二つの方向から広がった。


 一つは「日本人の整備士が丁寧に車を直してくれる」。もう一つは「日本人が地元の若者を安く使っている」。


 前者はキマニやムワンギの搬送車の評判から自然に広がったものだった。後者は、誰かが意図的に流したものだった。


 最初に気づいたのはエリックだった。


「タカシさん、市場で変な話を聞きました」


 朝、工房に来るなりエリックが言った。


「どんな話だ」


「日本人が来て、ケニア人の若者にタダ同然で働かせている。技術を盗んで日本に持ち帰るつもりだ、って」


 隆志は眉をひそめた。工房の若者たちには、サミュエルが決めた給与を払っている。市場の相場よりは少ないが、それはサミュエルの工房全体の予算が限られているからで、隆志が搾取しているわけではない。


「誰が言っている」


「分かりません。でも、市場の茶屋で何人かが話していたそうです」


 サミュエルに伝えると、サミュエルは顔を曇らせた。


「黒田だ。あいつのやり方だ」


「確証はあるのか」


「ない。だが、こういう噂を流す動機があるのは黒田しかいない。俺たちの評判が上がれば、黒田の客が減る。だから噂で潰す。金も手間もかからない」


 噂は、日を追うごとに具体的になっていった。「日本人が若者に危険な作業を押し付けている」「整備で出た古い部品を日本に送って転売している」。どれも事実無根だったが、否定するほど泥沼になる種類の噂だった。


 一週間後、ジュマが工房を辞めた。


「すまない、タカシ。俺は家族がいる。噂のせいで、近所の目が厳しくなった。妻が心配している」


 ジュマは目を合わせずに言った。塗装の腕が良い男だった。仕上げの丁寧さに隆志が感心したことが何度もあった。


「ジュマ、噂は嘘だ。分かっているだろう」


「分かっている。だが、嘘でも繰り返されれば本当になる。この国ではそういうものだ」


 ジュマが去った翌日、ピーターも辞めた。理由は言わなかった。ただ「黒田のところの方が給料がいい」とだけ呟いた。


 五人いた工房の若者が、三人になった。サミュエル、オモンディ、エリック。そして隆志。四人で回すには仕事量が多すぎた。


 サミュエルが夜、工房の裏で隆志に言った。


「お前を信じたいと思っている。だが、仲間が去れば工房が死ぬ。四人では限界だ」


「分かっている」


「黒田に頭を下げて、ジュマとピーターを返してもらう方法もある」


「それは駄目だ。黒田に借りを作れば、品質路線は終わる」


「品質が終わるのと、工房が終わるのと、どっちがましだ」


 サミュエルの声には怒りがあった。隆志に対する怒りではない。状況に対する怒りだ。正しいことをやろうとしているのに、正しさが足を引っ張る。その理不尽に対する怒り。


 返す言葉を探しているとき、ポケットの中で携帯が鳴った。


 日本の番号だった。智子だ。


 時差を計算した。日本は深夜の二時。この時間に電話が来ることは、普通ではない。


「もしもし」


「隆志」


 智子の声は平静だった。だが、その平静さが逆に不安を煽った。感情を押し込めているときの智子の声だ。


「みゆきが入院した」


 心臓が跳ねた。


「発作が起きた。夕方、折り紙をしていたら急に苦しがって。救急車で運んだ。今はICUにいる。意識はある」


「……容態は」


「先生は、心不全の兆候があると言っている。今すぐ命に関わる状態ではないけど、手術の時期を早めた方がいいかもしれないと」


 手術費。二千万円。まだ百万円も貯まっていない。工房の収入は生活費でほぼ消える。日本から持ってきた退職金の残りも、工具代と渡航費で半分以上が消えた。


「帰った方がいいか」


「帰ってきて何ができるの」


 智子の声が硬くなった。怒りではなかった。事実の確認だった。隆志が帰国しても、手術費は増えない。ICUのベッドの横に座ることはできるが、それで心臓の弁が治るわけではない。


「みゆきは大丈夫だと言ってる。パパは向こうで頑張って、って」


 電話の向こうで、かすかな音が聞こえた。心電図のモニターの電子音。規則正しく、だが時折不規則になる音。みゆきの心臓の音が、ナイロビの夜に届いている。


「……分かった。何かあったらすぐ連絡してくれ」


「うん」


 電話が切れた。


 隆志は携帯を握りしめたまま、動けなかった。工房の裏の暗闇に立ち、星を見上げた。星は変わらず多かった。だが今夜は、その光が冷たく見えた。


 帰りたかった。みゆきの手を握りたかった。折り鶴を一緒に折りたかった。風鈴の音を一緒に聞きたかった。


 だが帰れば、この工房は終わる。四人が三人になり、二人になり、最後はサミュエル一人になる。黒田が市場を支配し、事故車が街に溢れる。キマニの娘が乗る車のブレーキは、誰が直すのか。


 みゆきを見捨てているのではないか。


 その問いが、赤土の風とともに胸を刺した。


「タカシさん」


 背後から声がした。エリックだった。工房の灯りを背に、細い影が立っている。


「聞こえてしまいました。すみません」


「……いい」


 エリックは隣に来て、同じ空を見上げた。二人の間に沈黙が流れた。虫の声と、遠くのラジオの音だけが聞こえる。


「タカシさんが来る前、俺はここで何をやっているのか分からなかった」


 エリックが静かに言った。


「車を直す。それだけ。何のために直すのか、考えたことがなかった。壊れたから直す。金をもらうために直す。それだけだった」


 間があった。


「でも、キマニさんが来たとき。ブレーキを直した車に乗って、嬉しそうに帰っていったとき。あの人は娘を学校に送る車を取り戻したんだと思った。俺がやった仕事に、意味があった。初めてそう思えた」


 エリックの声は震えていなかった。静かで、真っ直ぐだった。


「あなたが来てから、初めて自分の仕事に誇りを持てました」


 十八歳の言葉が、四十歳の胸に突き刺さった。


 隆志は目を閉じた。みゆきの顔が浮かんだ。ICUのベッドで、きっと折り鶴を握っているだろう。あの子なら、何と言うだろうか。


 ——パパ、車のお医者さんでしょ。


 目を開けた。エリックがまだ隣にいた。


「ありがとう、エリック。俺は、ここにいる」


 声が震えた。だが、言い切った。


 ここにいる。みゆきから離れた場所で、みゆきのために。矛盾している。だがその矛盾を抱えたまま、赤土の上に立ち続けるしかない。


 白い折り鶴は、まだ白紙のままだった。書くべき言葉は、まだ見つからない。


 だが、四羽の鶴はポケットの中にある。みゆきが折った鶴は、ここにある。

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