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五百億の風 ~娘を救うため、ケニアで中古車王になった男~  作者: 一条信輝


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14話 議員の車

 モンバサから戻って二週間。工房に車が増え始めた。


 キマニの口コミだった。「日本人が丁寧に直してくれる」。その噂が近隣の集落に広がり、週に二、三台の持ち込みが来るようになった。多くはエンジンの不調やブレーキの異音。隆志とオモンディが診断し、エリックとピーターが部品を探し、ジュマが仕上げの塗装を担当する。サミュエルは全体を監督しながら、隆志の手順を黙って観察していた。


 工具は相変わらず足りなかった。隆志は退職金の残りから十五万円を使い、日本の工具メーカーから基本セットを取り寄せた。航空便で十日かかった。届いた箱を開けたとき、エリックの目が光った。


「これ、全部新品ですか」


「ああ。ラチェットレンチ、トルクレンチ、プラグソケットのセット。あと診断用のマルチメーター」


 エリックは一つ一つを手に取り、重さを確かめ、動きを試した。使い込まれた古い工具しか知らない手が、新品の精度に触れている。その顔が、みゆきが夏祭りで風鈴を手にしたときの顔と重なった。


 新しい工具が入ったことで、作業の精度が上がった。特にトルクレンチの効果は大きかった。ボルトの締め付けが勘ではなく数値で管理できる。オモンディは最初「今まで手の感覚でやってきた」と渋い顔をしたが、二日目には自分から隆志に適正トルク値を聞いてきた。


 だが、収支は厳しかった。品質路線は時間がかかる。一台に三日から五日。黒田が一日で十台さばくのに対し、隆志の工房は週に二台がやっとだった。整備費用を適正に取ると、黒田の車より三割高い。「良い仕事だが、高い」。それが現実だった。


 ある日の午後、工房の前に黒い大型車が止まった。


 トヨタのランドクルーザー。現行モデル。ボディには傷一つなく、窓ガラスにはスモークフィルムが貼られている。この地域では見かけない車だった。


 後部座席のドアが開き、大柄な男が降りてきた。六十代。白髪交じりの短髪。仕立ての良いスーツに革靴。運転手が傘を差しかけようとしたが、男は手で払った。


「サミュエル。元気か」


 声は大きく、よく通った。政治家の声だ。人の注意を引くことに慣れている声。


 サミュエルの背筋が伸びた。それまで見たことのない緊張が、顔に走った。


「ムワンギ議員。お越しいただくとは」


「近くまで来たのでな。ちょっと車を見てもらいたい」


 ムワンギはサミュエルの肩を叩き、工房の中を見回した。その目が隆志で止まった。


「日本人か。噂は聞いている。品質にうるさい整備士が来たと」


「田中隆志です」


「ムワンギ・キプロノ。この地域の国会議員だ」


 握手は力強かった。政治家の握手だ。相手の手の温度と力加減を測りながら、自分の存在感を伝える握手。


 ムワンギが見せたかったのは、自身の車ではなく、後続で来た白いワゴン車だった。地域の診療所が使っている患者搬送車だ。


「先月からエンジンの調子が悪い。市内の修理屋に出したが直らなかった。サミュエルの腕なら、と思ってな」


 サミュエルがボンネットを開けた。隆志も覗き込んだ。エンジンは日本製だが、かなり酷使されている。オイルが黒く、冷却水のレベルが低い。だがそれ以上に気になったのは、タイミングベルトの状態だった。


「このベルト、いつ替えた」


「分からない。前の持ち主から引き継いだときのままだと思う」


 隆志はベルトの表面を指で押した。ひび割れが走っている。ゴムが硬化している。走行距離から推測すると、交換時期をとうに過ぎていた。これが切れれば、エンジンは壊れる。搬送車が道の途中で動かなくなれば、患者の命に関わる。


「ムワンギ議員。エンジン不調の原因はいくつかありますが、一番危険なのはタイミングベルトです。すぐに交換すべきです」


「費用は」


「部品代と工賃で、四万シリングほど。ただし、純正部品を取り寄せる必要があるので、一週間かかります」


 ムワンギは腕を組んだ。


「一週間は長いな。その間、搬送車が使えない」


「応急処置でエンジンの調子だけ整えることはできます。ただ、ベルトはいつ切れてもおかしくない。走らせるなら、運転手にそのリスクを伝えてください」


 正直に言った。政治家に忖度する気はなかった。車は嘘をつかない。部品の劣化は政治力では止められない。


 ムワンギは隆志をしばらく見つめた。品定めの目だった。サミュエルが最初に見せたのとは質が違う。サミュエルは「信じられるか」を見ていた。ムワンギは「使えるか」を見ていた。


「面白い男だな。政治家に対してもまっすぐ物を言う」


「車の状態に政治は関係ありません」


 ムワンギは笑った。大きな声で、腹から笑った。


「サミュエル、こいつは本物かもしれんぞ」


 サミュエルは何も言わなかった。だが、隆志に向ける目が、モンバサに行く前とは少し変わっていた。


 ムワンギは搬送車を預け、運転手の車で帰っていった。帰り際に、隆志に名刺を渡した。厚い紙に金の箔押し。裏面にはスワヒリ語と英語で肩書きが並んでいる。


「何かあったら連絡しろ。この地域のことは、だいたい俺の耳に入る」


 それは親切ではなかった。監視の宣言だった。「お前の動きは把握している」という意味だ。だが同時に、「使える人間なら味方にしてやる」という含みもあった。


 ムワンギが去った後、サミュエルが言った。


「あの男は、この地域で一番力がある。味方につければ仕事がしやすくなる。だが、敵に回せば潰される」


「黒田との関係は」


「ムワンギは黒田の車も使っている。安いからだ。だが黒田を信頼しているわけじゃない。利用しているだけだ。俺たちも利用される可能性がある」


 利用する側と利用される側。品質と政治。誠実さと権力。この国では、すべてが絡み合っている。


 隆志は名刺をポケットにしまった。工具と折り鶴の隣に、政治家の名刺が加わった。


 工房に戻ると、エリックがタイミングベルトの型番を調べていた。


「日本から取り寄せますか」


「ああ。搬送車だ。命を運ぶ車だからな。一番いい部品を入れる」


 エリックは頷いた。その目に、誇りに似たものが宿り始めていた。

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