13話 闇の市場
モンバサ港は、潮風と排気ガスと錆の匂いがした。
ナイロビから南東へ約五百キロ。サミュエルの車で一日がかりの移動だった。赤土の道がアスファルトに変わり、やがてインド洋の青が見えてきた。港湾地区に入ると、景色が一変した。
巨大なコンテナ船が接岸し、クレーンが唸りを上げている。岸壁沿いには車が何百台と並んでいた。日本車だ。トヨタ、ニッサン、ホンダ、スバル、マツダ。日本のナンバープレートがまだ付いたままのものもある。車体に「○○自動車学校」と書かれた教習車や、「△△運送」のロゴが残ったトラック。日本で役目を終えた車が、船に積まれてここに流れ着く。
「月に三千台は入ってくる」
サミュエルが言った。
「そのうち、まともに走れるのは半分もない」
隆志は車の列を歩いた。近くで見ると、状態の差が歴然だった。走行距離の少ない良質な車もある。だがその隣には、フロントが潰れた事故車が平然と並んでいる。フレームが歪み、エアバッグが展開したまま放置されたもの。水没した痕跡があり、シートに泥の線がくっきりと残っているもの。日本では廃車証明が出るような車が、ここでは商品として並んでいる。
一台の前で足が止まった。銀色のワゴン車。後部が大きく凹み、リアガラスが割れている。だがそれだけではなかった。よく見ると、ブレーキディスクが錆で真っ赤になっている。パッドはほぼ消滅していた。この車は止まれない。
「これ、このまま売るのか」
「買う奴がいれば、売る。止めるものは何もない」
サミュエルの声は諦めに近かった。
その時、隆志の視線の先を、一台の車が横切った。港湾の敷地内を走るトラックだ。荷台に子どもが三人乗っている。学校帰りだろうか、制服を着ている。トラックのタイヤは磨り減り、排気管から黒煙を吐いていた。子どもたちは笑っている。危険を知らないのか、知っていて慣れているのか。
「サミュエル。あのトラック、ブレーキは大丈夫か」
「知らない。だが、この港のトラックは半分がまともに整備されていない。事故が月に何件も起きている。先月も、積荷が崩れて作業員が一人死んだ」
隆志は拳を握った。ジョセフのいとこ。キマニの恐怖。そして今、目の前を走る子どもたち。全部が繋がっている。品質の低い車が人を殺す。その車は日本から来ている。
「おい、サミュエル。久しぶりだな」
背後から声がした。日本語だった。
振り返ると、男が立っていた。四十代半ば。日焼けした肌に、薄い色のサングラス。リネンのシャツにチノパン。革のサンダル。港湾の作業員とは明らかに違う、余裕のある身なりだった。
「黒田」
サミュエルの声が硬くなった。
黒田は隆志を見て、わずかに目を細めた。
「日本人? ほう。サミュエル、また新しい日本人を連れてきたのか。前の奴は三ヶ月で逃げたな」
「黒田さん、ですか」
隆志が名乗ろうとする前に、黒田が先に口を開いた。
「黒田誠。ここで中古車の仲介をやっている。あんた、名前は」
「田中隆志。サミュエルの工房で整備をしている」
「整備?」
黒田は笑った。嘲りではなく、本当に可笑しそうに笑った。
「整備屋が港に何の用だ。ここは仕入れの場所だぞ。整備は工房でやるもんだろう」
「どんな車が入ってきているか、自分の目で見たかった」
「見てどうする。事故車が並んでるのが気に入らないか?」
黒田はサングラスを上げた。目は鋭かったが、冷たくはなかった。むしろ、どこか疲れた目をしていた。
「田中さん、だったか。一つ教えてやる。ここは日本じゃない。品質基準も、車検制度も、リコールもない。あるのは需要と供給だけだ。人は安い車を欲しがる。俺はそれを売る。それだけの話だ」
「ブレーキが利かない車を?」
「ブレーキが利かなくても、歩くよりはましだ。百キロの荷物を頭に乗せて運ぶか、ブレーキの甘い車に乗るか。この国の人間は後者を選ぶ。選ばせているのは俺じゃない。貧困だ」
黒田の論理は、一面では正しかった。安い車を求める人がいる。その需要に応えている。犯罪ではない。だが、その論理の先にジョセフのいとこの死がある。キマニの恐怖がある。
「事故が起きている」
「起きている。それは知っている。だがな、田中さん。俺がここで事故車を止めたところで、別の誰かが同じことをやる。中国人、インド人、地元のブローカー。需要がある限り供給は止まらない。俺一人が聖人になっても、何も変わらない」
黒田はポケットからタバコを取り出し、火を点けた。煙が潮風に流された。
「あんたが品質をやりたいなら、やればいい。止めはしない。だが覚えておけ。この国で正しいことをやると、正しさの分だけ遅くなる。遅い奴は食われる。それがアフリカだ」
黒田は煙を吐き、サングラスを下ろした。
「サミュエル、新しい日本人を大事にしろよ。前の奴みたいに逃げないといいな」
そう言って、黒田は港の奥へ歩いていった。その背中は堂々としていて、この場所に馴染んでいた。ここが彼の世界なのだ。
サミュエルが低い声で言った。
「あいつは五年前に来た。最初は真面目な男だった。品質にも気を遣っていた。だが——」
「変わったのか」
「この国が変えた。金が人を変えるんじゃない。金がないことが人を変えるんだ。黒田はそれを知って、諦めた。諦めた人間は、正しさを捨てる方が楽だと気づく」
隆志は黒田が消えた方を見つめた。
五年前は真面目だった男。品質に気を遣っていた男。それが今は事故車を大量に流している。隆志も同じ道を辿る可能性がある。正しいことが遅く、遅い者が食われる世界。その中で品質を守るとはどういうことか。
答えはまだ出なかった。だが、港に並ぶ何百台の車を見て、一つだけ確かなことがあった。
ここに来たのは間違いではない。




