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五百億の風 ~娘を救うため、ケニアで中古車王になった男~  作者: 一条信輝


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12話 一台の車

 翌朝、工房に行くと、車が一台置かれていた。


 トヨタのカローラ。二〇〇六年式。白い塗装が黄ばみ、フェンダーに錆が浮いている。左のヘッドライトが割れ、バンパーは歪んでいた。日本で廃車になり、海を渡ってケニアに来た車だ。


 エリックが横に立っていた。


「これです。ジョセフの親戚のキマニさんが持ち込みました。エンジンがかからない」


 隆志はボンネットを開けた。エンジンルームは埃まみれだった。配線を一つずつ目で追った。バッテリーの端子に腐食がある。エアフィルターは詰まっている。だが、それだけでエンジンがかからない理由にはならない。


 点火プラグを外した。四本のうち二本が真っ黒に焼けている。ギャップも狂っている。交換が必要だが、在庫を確認すると合うサイズがなかった。


「オモンディ、プラグの在庫は」


 オモンディが首を横に振った。


「先月から切れている。入荷の予定もない」


 これが現実だった。日本なら、電話一本で翌日届く部品が、ここにはない。代替品を探すか、別の方法を考えるしかない。


 隆志は焼けたプラグを手に取り、しばらく見つめた。完全に駄目ではない。ギャップを調整し、電極を研磨すれば、もう少し使える可能性がある。応急処置だ。根本的な解決にはならない。だが今は、これしかない。


「やすりはあるか。細目の」


 エリックが工具棚から探し出してきた。隆志はプラグの電極を丁寧に研磨し始めた。ギャップをフィーラーゲージで測り、少しずつ調整する。日本の整備マニュアルが頭に入っている。営業職だったが、新入社員時代に工場研修を受けた。入社一年目の夏、汗だくで先輩整備士の横に立ち、プラグの交換を見ていた。二十年前の記憶が、指先に蘇っていた。


 オモンディが黙って見ていた。腕を組み、隆志の手元を追っている。


 プラグを戻し、バッテリー端子を磨いた。腐食をワイヤーブラシで落とし、接点グリスを薄く塗る。グリスは手持ちになかったので、サミュエルの工具箱から見つけた古いワセリンで代用した。


 エアフィルターを外し、圧縮空気で埃を飛ばした。コンプレッサーの圧が弱く、完全には取りきれなかったが、目に見えて通気性が改善された。


 ここまでで二時間。日本の整備工場なら三十分で終わる作業だ。工具が足りない。部品がない。あるもので工夫する。エリックが工具の配置で二割の効率化を達成したのと同じことを、隆志は整備の手順でやっていた。


「エンジンかけてみる」


 キーを回した。セルモーターが回る。一度、二度、三度。かからない。


 四度目。エンジンが咳き込むように震え、低い音を立てて回り始めた。不安定だった排気音が、徐々に安定していく。白い煙がマフラーから出て、やがて薄くなった。


 エリックが小さく声を上げた。若者たちが顔を見合わせた。オモンディの腕組みが解けた。


 だが隆志は満足しなかった。エンジンが回っただけでは足りない。ブレーキを確認した。パッドの残量はぎりぎりだった。フルードのレベルも低い。


「ブレーキパッドの在庫は」


「ある。社外品だけど」


 エリックが倉庫から持ってきた。中国製の廉価品だった。日本の純正品とは精度が違う。だが、ないよりはいい。隆志はパッドを交換し、フルードを補充した。


 サスペンションも確認した。右前のショックアブソーバーが抜けかけている。交換部品はない。だがブッシュを締め直すことで、ある程度の改善はできた。


 午前が終わる頃、隆志は車の下から這い出た。作業服は油と赤土で汚れ、額には汗が流れている。手は真っ黒だった。


「ブレーキ、サスペンション、点火系、吸気系。できる範囲はやった。完璧じゃない。部品が足りないから。だが、この状態なら安全に走れる」


 サミュエルが近づいてきた。朝からずっと離れた場所にいて、時折こちらを見ていたが、口は出さなかった。


 サミュエルは運転席に座り、エンジンをかけた。アクセルを踏み、ブレーキを踏み、ハンドルを切った。車を工房の前の道に出し、百メートルほど走って戻ってきた。


 車を降り、ボンネットを開けて中を覗いた。プラグの研磨跡を確認し、バッテリー端子のワセリンに触れ、エアフィルターを引き出して光にかざした。一つ一つ、丁寧に確認している。


「プラグは応急処置だな」


「ああ。新品がないから、研磨で延命した。一ヶ月が限界だ」


「ワセリンで端子を保護したのか。接点グリスの代わりに」


「あるもので工夫するしかなかった」


 サミュエルはボンネットを閉じた。


「日本では、こんなやり方はしないだろう」


「しない。部品を交換する。マニュアル通りに。だがここにはマニュアル通りにやる環境がない」


「それが分かっているなら、少しはましだ」


 サミュエルの声は、昨日より角が取れていた。認めたわけではない。だが、完全に拒んでもいなかった。


「もう一つ聞く」


「何だ」


「お前がこの車をこのまま売るとしたら、いくらで売る」


 隆志は考えた。日本での中古車の相場、現地の物価、この車の状態。


「……三十万シリング前後か。ブレーキとサスを完全に直せば、四十万は取れる」


「黒田なら、この状態で二十万シリングで売る」


 黒田。その名前が初めて出た。


「黒田?」


「日本人のブローカーだ。モンバサの港から事故車を大量に仕入れて、ほとんど整備せずに売る。安い。だから客が流れる」


 サミュエルの声に苦いものが混じった。


「お前の言う品質とやらは正しい。だが、正しいだけでは商売にならない。一台にこれだけ時間をかけて、部品を探して、丁寧に直す。その間に黒田は十台売る。客はどっちに行く?」


「……安い方に行く」


「そうだ。この国では、命の値段が車の値段より安い。そう思っている奴が多い。金がないから安い車を買う。壊れても直す金がない。だから次も安い車を買う」


 サミュエルは工房の壁にもたれた。


「俺はそれを変えたいと思ってやってきた。十年以上。だが変わらない。金がない。工具がない。部品がない。来る日本人は口だけだ。お前もそうかもしれない」


「違う」


「違うなら、証明しろ。口ではなく、手で」


 隆志は頷いた。


 その日の夕方、キマニがカローラを取りに来た。五十代の男で、目尻に皺が深い。車のエンジンをかけ、ブレーキを踏み、驚いた顔をした。


「ブレーキがこんなに効くのは初めてだ」


 キマニは財布から紙幣を取り出し、サミュエルに渡した。整備費用。金額は多くなかったが、キマニは何度も頭を下げた。


「ありがとう。この車で娘を学校に送っている。ブレーキが利かないのが怖かった」


 娘を学校に送る車。ブレーキが利かない恐怖。その言葉が、隆志の胸を突いた。ジョセフのいとこの事故。ブレーキが壊れた車で崖から落ちた話。この国では、一台の車のブレーキパッドが、人の命を分けている。


 キマニが帰った後、サミュエルが隆志の肩を叩いた。初めての身体接触だった。


「もしかしたら」


 短い間があった。


「お前の言うことにも、理があるかもしれない」


 それだけ言って、背を向けた。


 隆志は油だらけの手を見つめた。二十年ぶりに、自分の手で車を直した。プラグを研磨し、ブレーキを替え、端子を磨いた。その手が、一人の父親の恐怖を取り除いた。


 百七社の面接で「あなたの経験は弊社では活かせません」と言われた。だがここでは、二十年前の工場研修の記憶が一台の車を動かした。


 夜、サミュエルの家の庭で、隆志は白い折り鶴を取り出した。


 まだ白紙だ。だが、何を書くべきか、少しだけ見えてきた気がした。

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