10話 赤土の風
ナイロビの空気は、匂いから始まった。
ジョモ・ケニヤッタ国際空港のドアを出た瞬間、排気ガスと土埃と、何かの香辛料が混ざった匂いが鼻を突いた。日本にはない匂いだった。甘さと埃っぽさが同居していて、喉の奥がざらつく。気温は三十度近い。二月の成田では息が白かったのに、ここでは額に汗が浮かぶ。コートを脱いだ。セーター一枚でも暑い。
空港の外は騒がしかった。タクシーの客引きが次々と声をかけてくる。英語とスワヒリ語が飛び交い、どの言葉が自分に向けられているのか判別できない。手を引かれ、腕を掴まれ、荷物に手が伸びる。隆志はスーツケースを強く握り、人混みをかき分けた。
営業部長として十八年間、人を動かす側にいた。指示を出し、数字を管理し、会議を仕切った。だがここでは、何一つ通用しない。言葉が通じない。地理が分からない。通貨の感覚もない。四十歳の元部長は、ナイロビの空港前では完全な素人だった。
ジョセフが書いてくれたメモを取り出した。サミュエルの電話番号。現地の携帯で電話すると、三回のコールで繋がった。低い声が出た。英語だった。
「タカシか。ジョセフから聞いている。迎えに行く。空港の正面で待て」
それだけ言って切れた。無駄のない声だった。
二十分ほど待つと、白い車が近づいてきた。トヨタのランドクルーザー。年式は古く、塗装は剥げ、ボディの至る所に擦り傷がある。だがエンジン音は安定していた。整備はされている。
運転席から降りてきた男は、隆志より背が高かった。百八十センチ以上。がっしりとした体格で、肩幅が広い。腕には油の染みが残っている。整備士の腕だ。顔は厳しく、笑みはなかった。
「サミュエル・オティエノだ」
差し出された手を握った。硬い手だった。指が太く、掌に厚いタコがある。毎日工具を握っている手の感触だった。田所の手とも、古賀の手とも、ジョセフの手とも違う。道具と機械に鍛えられた手だった。
「田中隆志です。よろしく」
サミュエルは隆志を一瞥し、スーツケースを荷台に放り込んだ。
「乗れ」
車に乗り込むと、座席のスプリングが軋んだ。シートカバーは擦り切れ、ダッシュボードには埃が積もっている。だがハンドル周りは拭かれていた。エアコンは効かない。窓を開けると、ナイロビの風が車内に流れ込んだ。排気ガスと土と、果物の甘い匂い。
サミュエルは無言で車を走らせた。空港から市街地に向かう道は片側二車線だが、車線という概念は機能していなかった。バス、トラック、バイク、自転車、歩行者が入り乱れ、クラクションが絶え間なく鳴っている。サミュエルは慣れた手つきでハンドルを切り、隙間を縫うように進む。
窓の外にナイロビの街が広がっていた。高層ビルが数本、空に突き出している。その足元には低い建物がひしめき、屋根のトタンが陽光を反射している。道路脇に屋台が並び、果物や衣類や携帯電話のケースを売っている。人の密度が東京と同じくらい高いが、動きの速さが違う。東京は全員が同じ方向に同じ速さで歩く。ここでは、全員がばらばらの方向にばらばらの速さで動いている。
市街地を抜けると、景色が変わった。舗装道路が途切れ、赤い土がむき出しになった。車体が跳ねる。窓から入る風に、細かい砂が混じっている。目を細めた。
赤土。テレビや本で見たことはあったが、実際に触れる風に混じっているのは初めてだった。この土が靴に付き、服に付き、肌に染み込んでいく。日本の灰色のアスファルトとは違う。この国の大地は赤い。血の色に似ていた。
「ジョセフは何を話した」
サミュエルが初めて会話を切り出した。目は前方の道を見たままだ。
「ケニアでは日本の中古車が命を支えていると。だが品質が悪い車が多いと」
「その通りだ」
「だから、品質の良い車を届ける仕組みを作りたいと。俺はそれを手伝えると思った」
サミュエルは鼻を鳴らした。笑ったのか、呆れたのか。
「日本人はよく来る。ビジネスチャンスだと言って。金を稼いで帰る。残るのは壊れた車と、騙された人間だ」
声は平坦だったが、経験に裏打ちされた重さがあった。「日本人はよく来る」。その一言に、何人もの日本人の顔が重なっているのだろう。期待させて去った者、約束を破った者、金だけ持っていった者。
「俺は違う」
「みんなそう言う」
沈黙が落ちた。エンジン音と、赤土を踏む音だけが続いた。
三十分ほど走ると、道の脇にトタン屋根の集落が見えてきた。その奥に、コンクリートブロックの建物が数棟並んでいる。壁にペンキで「OTIENO AUTO REPAIR」と書かれていた。文字は色褪せ、一部が剥がれている。
車が止まった。サミュエルがエンジンを切り、ドアを開けた。
「着いた。ここが工房だ」
車を降りると、赤土の風が正面から吹きつけた。日本の風とは重さが違った。湿気はないが、土の粒子を含んで、肌に張り付くような風だった。
工房の前には、車が五台ほど並んでいた。どれも日本車だ。トヨタ、ニッサン、ホンダ。だが状態はまちまちだった。比較的きれいなものから、フロントガラスが割れたまま放置されているものまで。一台はボンネットが開いたまま、エンジンルームが空っぽだった。
建物の中から、若者が数人出てきた。全員が作業服を着ている。油で汚れた手。好奇心と警戒心が半々の目で、隆志を見ている。
サミュエルが短くスワヒリ語で何か言った。若者たちが頷き、一人が前に出た。十八か十九歳ほど。細身で、目が大きい。他の若者より一回り小さいが、目の光は一番強かった。
「エリック。一番の若手だ」
サミュエルが紹介した。エリックは隆志に手を差し出し、握手した。手は小さいが、指先にはすでにタコができ始めていた。
「Welcome, Mr. Takashi」
その声は緊張していたが、真っ直ぐだった。隆志は頷いた。
赤土の風が、もう一度吹いた。日本から二十時間かけて来た男の背中を、アフリカの風が押している。冷たくはない。熱くもない。ただ、強い。
内ポケットの折り鶴に手が触れた。四羽の鶴は、赤土の国に着いていた。




