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五百億の風 ~娘を救うため、ケニアで中古車王になった男~  作者: 一条信輝


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1話 合理化対象者名簿

 換気口から落ちる冷気が、会議室の紙の端をひやりと持ち上げた。


 長机の向こうで、課長格たちが無言のまま背筋を伸ばしている。常務の山岸が腕を組み、人事部長の河野が手元の資料に目を落としている。ガラスの壁越しに見える本社フロアは、いつも通りの午後だった。電話の着信が遠くで鳴っては止み、コピー機のローラー音が薄く届く。ここだけが静かだった。


 田中隆志は自分の席に着き、配布された資料を開いた。A4の紙が六枚。表紙には〈合理化対象者名簿〉とある。印刷字の黒さが、やけに濃く見えた。


「では、確認します」


 人事部の若い担当が、一枚目を指でそろえた。声は平坦で、感情を削ぎ落としたように聞こえる。おそらく練習したのだろう。この種の会議では、感情はノイズでしかない。


 承認欄は三つ。常務、人事部長、営業部長。最後の欄の肩書に、隆志の名が括弧書きで並んでいた。ボールペンのキャップを外す。指先が冷えていた。暖房は入っているはずだが、空調の風だけが妙に冷たい。


 四十歳。営業部長になって三年。この三年で隆志が学んだのは、人を動かす技術ではなく、数字を揃える技術だった。月次の報告書、四半期のプレゼン、年間の達成率——すべてが数字に還元され、数字が人の価値を決める。今日はその数字が、人の名前と並んで紙の上にある。


 一人ずつ名前が読み上げられ、理由が簡潔に付された。業績不振、適性不一致、配置転換困難。どの言葉も角が取れていた。本当の理由は一つだ。数字が足りない。だが「数字が足りない」とは書けない。だから言葉を選び、角を削り、紙の上だけ穏やかにする。


 三つ隣の席で、ベテランの係長が小さく咳をした。それきり、音が消えた。


「田所誠一——製販調整グループ、四十三歳。次月末で」


 短い沈黙が落ちた。


 田所。入社二年目の隆志に、初めて顧客の癖を教えてくれた男だ。「営業は足じゃない、耳だ」と言って、取引先の工場長が好む話題を一つずつ教えてくれた。月末の締め日に二人で顧客の車庫を深夜まで回り、汗だくになって笑い合った。帰りの自販機で買った缶コーヒーの甘さを、今でも舌が覚えている。田所はブラックが苦手で、いつも微糖を選んだ。


 隆志はうなずいた。ペン先が朱の丸を描く。ほとんど音はしない。


 朱肉の匂いが鼻に刺さった。赤い円は小さく、きれいな形をしていた。人の二十年が、この円一つに収まるのだ。


「次。古賀裕之——営業推進、三十九歳」


 丸。古賀は息子が少年野球を始めたと、先月の飲み会で嬉しそうに話していた。


「佐川恒夫——東日本、五十歳」


 丸。佐川は来年の定年後に妻と旅行する計画を立てていた。


 ペンを動かすたびに、指先の温度が下がっていく。握りを強くすると、軸がわずかに軋んだ。


 誰も顔を上げない。上げてしまえば、誰かの目とぶつかる。ぶつかれば、何かが崩れる。この部屋にいる全員が、それを知っていた。


 名簿は六枚目まで進んだ。十二人。営業部からは五人。隆志が直接知っている顔が、そのうち四人。名前と数字の間に、声や笑顔が浮かんでは消える。だがペンは止まらない。止めれば、自分がこの部屋にいる意味がなくなる。


「以上で一次リストは確定です。承認印をお願いします」


 人事が差し出すクリップボードを受け取り、隆志は印を押した。紙が一枚、また一枚と裏返る。冷気がそのたびに端を持ち上げ、風が文章をめくるふりをした。


 常務の山岸が初めて口を開いた。低く、事務的な声だった。


「対象者には本日中に個別面談を実施してください。営業部は田中部長が担当」


 隆志は頷いた。声が出なかった。


 会議室を出ると、廊下の蛍光灯がやけに白く感じた。番号札の付いた小部屋がいくつも並んでいる。面談室。中には椅子が向かい合わせに置かれ、机の上に白いティッシュの箱が一つ。


 秘書の藤本が小走りで近づいた。二十四歳の、真面目な女性だった。普段はきびきびとした口調だが、今日は声が小さい。


「田中部長、面談の準備が整っています。最初は田所さんです」


「……分かった」


 足が重い。廊下を歩く数歩が、やけに長く感じた。面談室のドアの前に立つ。すりガラスの向こうに、人影が見える。背筋を伸ばして座っている影。


 ドアノブに手をかける前に、一度深く息を吸った。


 今朝、いつもの通勤電車で吊り革に掴まりながら、この瞬間のことを考えていた。名簿の素案は二週間前に回覧されていた。名前の横に並ぶ数字——売上実績、勤務年数、年齢。人間を数行に圧縮したデータ。それに丸を記し、本人に告げる。それが今日の仕事だった。


 電車の窓の向こうを灰色のビル群が流れていた。どれも同じ形に見えた。同じ窓が並び、同じカーテンが引かれ、同じように蛍光灯の光を漏らしている。十八年間、この会社で数字を追ってきた。数字さえ出せば評価される。数字が出なければ居場所がなくなる。単純で残酷な法則だ。今日、自分はその法則の執行人になる。


 本社に着き、七階のフロアに出ると、窓際の席で若手の中川がパソコンに向かっていた。


「部長、おはようございます」


 中川が顔を上げ、いつもの笑顔を見せた。二十七歳。三年前に隆志が面接して採用した男だ。


「おう。昨日の見積もり、出来たか」


「はい、メールしてあります。あと、田所さんが朝イチで相談したいって」


 田所。その名前が胸の奥をかすめた。隆志は表情を変えずに頷いた。


「あとで声をかける」


 声をかける。だが、かけるべき言葉は田所が期待しているものとは違う。


 自席に着くと、デスクの隅の写真立てが目に入った。三年前の夏祭り。隆志と智子が並び、その間で娘のみゆきが風鈴を持って笑っている。ガラスに描かれた金魚が、フラッシュに光っていた。あの夜、みゆきは「パパ、この音きれい」と言って、ずっと風鈴を振っていた。智子が「耳が痛いからそろそろやめなさい」と笑いながら言っても、なかなか手を離さなかった。


 あの頃のみゆきは頬がふっくらとして健康だった。今は違う。顔色は薄く、走ることも、長く歩くこともできない。先天性の心疾患。心臓の弁に異常があり、年齢とともに症状が進行していた。根治には海外での手術が必要で、費用は二千万円以上。保険は効かない。


 昼休み、食堂の隅でコンビニの弁当を広げた。ここ半年、智子は弁当を作らなくなっていた。理由は聞いていない。聞けば、答えが返ってくることが分かっていたからだ。朝、食卓に座る時間もなく家を出る夫に、弁当を持たせる理由がない——そういうことだろう。


 窓の外で銀杏が一枚、また一枚と風に剥がされていく。名簿に並ぶ名前は、どれも見覚えがある。その一人ひとりに朱の丸を記さなければならない。


 弁当の米は、舌の上で味を失っていた。


 ——そして今、面談室のドアの前に立っている。


 すりガラスの向こうの影は、微動だにしない。


 隆志はドアノブを回した。

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