交差点
こんな水が一体、何になるんだ。道路をなんかする仕事。自転車で通えるから選んだ。本当の仕事までのつなぎ、そう思っていた。
「早くしろよ」くたびれた作業着の男が俺に言う。うるせえんだよ。俺に命令するな。
シカトして交差点のここから見えるこの景色、やっぱりどこかで見たことがある。毎日目に入るのは見たことがあるものばかりだ。つまらない。カードをかざすとピッと鳴る。その集積。くだらない。何故俺はここにいるのだろうか。
交差点の隅で汚い爺さんが俺をじっと見てる。なんだあいつ。老いぼれが。俺を見るな。俺も俺を見ないのだから。
「おい、聞いてんのかお前」作業着が又、俺に言う。気配がぐっと乾いてきた。悪くないな。決めた、やめよう、このまま。ついでにこいつに23発喰らわして。黙らせたいな、こいつを。
その時、雨が、静かに降ってきた。その透き通った滴は、俺が訳も分からず持っていたバケツの水と触れ合い、模様を造っていた。人の気配が消えた交差点で雨をしばらく浴びていると、俺の気持ちもなぜだか静かになっていった。
*
信号が変わり、堰を切ったように溜まっていたたくさんの人たちがその先へと流れていく。ゆっくり歩く人、足早な人、着飾っている人、着たきり雀な人、きょろきょろしてる人、何も見てない人、家族、カップル、独り者。交差点は今日もいつも通りだ。
この仕事はいつも地面ばかり見ている。俺も同僚のみんなも、肌は高校球児より真っ黒だ、手袋を脱いで腰を伸ばす。晴れている。めくれた腕の皮をむしって道に捨てていると、目に入るものがある。
手帳だった。拾って眺める。歯が沁みるような甘いキャラクターのシールが、表紙にごてごてと貼られている。子供だろうか。手帳には縁が無いが、落としたら一大事なのだろう。
交差点にはよくこんな風に物が落ちている。みんな物を落としている。俺もきっと落としたのだろう。だが俺は自分が何を落としたのかもわからず、ただここでこうしてぼんやりしている。
道を見ると、まともな仕事、適当な仕事、その違いがわかるようになった。わかってどうなる。時が経てば、また剥がされてしまうのだから。
仕事で地面ばかり見ているから、休みの日には公園で空ばかり見ている。サンダルをこすって、コンビニで500のビールと裂けるチーズををぶら下げて、ささくれたベンチに背中を預けて、頭を反らす。
この空も、その道の者が見れば、まともな空、適当な空、そんな違いがあるのだろうか。
みんな何処かへ去っていく、みんな、青になれば進み、赤になれば止まる。青で止まり、赤で進む、そんな人はいない。ましてや交差点の中に用があり立ち止まる人など。
もしかしたら俺も幸せになれるのだろうか。本当だろうか。手帳の人から交差点でマフラーを貰った時、そう思った。ふたりで街を歩いている時、あの女の方が可愛い、そう思うこともあった。彼女は彼女でそう思っただろうか。男であること、女であること、それ以外に何の取り柄もない私たちだった。
*
ベビーカーを押している。今日はピクニックだ。交差点の隅にカラフルなレジャーシートを妻は拡げる。水筒には湯気のこぼれるお茶と、お弁当の中身はたくわんを混ぜたおにぎりに卵焼き、オムレツ、ゆで卵、ミニトマト、スクランブルエッグ。卵が余っていたのだ。
3人でお弁当を空にして、膝の上には私たちの小さな太陽。泣き虫の北極星。植え込みの緑がそよ風に揺れている。
あんまりにも暖かで、満たされていて、私はすっかり眠くなってしまった。眠ったこともわからないぐらいだった。そのなんとも心地のよい春のまどろみから、はっと目が覚めるとあの子がいない。焦って妻を見ると、妻も微笑みながら眠っている。
名前を呼んで!、辺りを見回す。光の降り注ぐ交差点の真ん中で、柔らかなあの子ははいはいをしている。私はなぜだか安心してそれを見ていた。信号が変わり、雑踏が、なんでもない日常が、あの子の上に厚く覆いかぶさってくる。するとわが子はころんと上を向いて、身体いっぱいあやとりをするように。
あの子はそのままそこですくすくと大きくなって、ある日、その時が来て、振り返ることなく交差点の向こうへ消えていく。
私は立ち尽くしてそれを見ていた。この交差点の先には、それぞれの道が伸びていて、やがてその先で、それぞれがそれぞれのトンネルに入るのだろう。そしてその先で、それぞれの雪国を見るのだろう。そしてその先で、それぞれの橋を越えるのだろう。水平線に消えてゆく道たちは、まるで永遠のようだ。私の伸ばす手はとても短くて、何処にも届かない気がしてしまう。
望んだ仕事では無かった。だが、この仕事のお陰で何とか飯が食えて来た。あの子も育てることが出来た。ありがたかった。どうかこのままで。
*
太陽は律儀で、月は気ままに、時はいつも前のめり。その間、ずっと信号は休むことなく瞬き続けて、交差点に集まる人々は流れ流れて行った。過去から未来に行く私たちがいるのなら、未来から過去へと行く者が、この中にはいるのだろうか。
妻は長く苦しまなかった。それが私の慰めだった。ずっと私たちは円満だったから、その人生のつけが今、どっと斜陽の私に押し寄せている。後少しだったのだけど。
病院の方々が色々言ってくれた。でも妻は本当は何処に行ったのだろう。ここに来てわからないことばかりだ。洗濯機の回し方がよくわからない、追い焚きの仕方がわからない。
助けてくれ。本当は不安で叫び出したい。でもみっともないから、声を必死に堪えている。
広がった薄暗い部屋の中で、呼吸も鼓動も体温も全て半分になってしまった。私を見てくれるのは鏡だけだ。私を暖めるだけのために、こんなにもストーブを燃やしていいものだろうか。鶏さんも鯖さんも生きていたのに。
どこにもいられなくなって、私はやっぱりあの懐かしい交差点に来てしまう。今日も交差点はいつも通りだ。異常無し。
ああ、人の姿が暖かい。有り難い。雷だ。わかった。今わかった。この人々を、直には知ることのできない人々を、魂が触れ合えば、背きあうかもしれない人々を、怪我なく快く目指すところに届ける、それが私の仕事だったのだ。
あの時、左腕で怠慢に下げていた、雨と混ざり合っていたバケツの水。あの水には確かに意味があったのだ。わかったんだ。今わかった。だからこのままの気持ちでもう一度、始めからやらせてくれないだろうか。もっと上手くやれる。もっと役に立てる。
交差点の中で、中年の作業員が声を荒げている。作業員の前には若い男がいる。男はバケツを下げている。驚きと共に目が離せなくなった。男と私の目が合うと、男は私を睨むのだった。
あの態度。あの目付き。あの男の気持ちが痛いほど私にはよくわかる。何か言ってあげたい。教えてあげたい。
ぎゅっと握っていた拳に力が入る。身体が震える。私にはある。彼に伝えるものがある。でも一体、なんて言えば。
その時。今、また、雨が、静かに降ってきた……




