男
男は、
彼女の真後ろに立ったまま、
動かない。
距離は、肩一つ分もない。
それなのに、彼女は気づかない。
——いや、
気づかないふりをしている。
私は、彼女の目だけを見る。
男の輪郭が、
わずかに滲んだ。
部屋の影と重なり、境目が曖昧になる。
いるのに、
どこまでが“そこ”なのか、
はっきりしない。
男が、首を傾けた。
覗き込むような仕草。
彼女の耳元に、顔を近づける。
唇が動く。
言葉は、
聞こえない。
それでも、彼女の指が、
ぴくりと反応した。
「……寒い」
彼女が、
ぽつりと呟く。
室温は、変わっていない。
男の手が、ゆっくりと持ち上がる。
触れない、触れないが
触れる寸前。
私は、
一歩、踏み出した。
気づいたら、
殴っていた。
女性が、
戸惑ったように私を見る。
「え……?」
それは、そうだろう。
いきなり、顔の真横に、
拳が通り過ぎれば。
「すみません」
私は、
軽く頭を下げた。
「ちょっと、
イライラしちゃって」
男は、
四散した。
殴った感触は、なかった。
それでも、
確かに散った。
霧みたいに、一瞬、形を失って。
——でも、
次の瞬間には、また元に戻っている。
少し距離を取って。
男は、
ゆっくりと後ろへ下がった。
一歩。
影に溶けるように。
完全には、消えない。
壁際に、
置き忘れた染みの様に残る
女性に視線を戻した。
「……今の、
見えました?」




