噛む
指定された住所は、
駅から少し離れた古い集合住宅だった。
外壁はくすみ、
昼間でも建物全体が陰って見える。
私は一度だけ立ち止まり、
息を吐いた。
階段を上る音が、
やけに響く。
三階の部屋。
インターホンを押すと、
すぐに鍵の開く音がした。
扉の向こうにいたのは、
電話の声と同じ女性だった。
年齢は、私より少し上だろうか。
服装は整っているのに、
視線だけが落ち着かない。
顔色は青白く、
明らかに疲れていた。
「どうぞ……」
部屋に入った瞬間、
気配が増した。
「お邪魔します」
口に出して、
自分を落ち着かせる。
生活感はある。
それなのに、
どこか借り物みたいな部屋だった。
「お茶で、いいですか?」
不意に話しかけられ、
私は一瞬、反応が遅れた。
「ええ……すみましぇん……」
噛んだ…盛大に。
キッチンへ向かう女性の肩が、
わずかに震えた。
テーブルにお茶が置かれ、
女性は私の正面に座る。
「……あの辺にいると、落ち着かなくて」
指さされた先は、寝室だった。
私は、「少し見ますね」とだけ言って
一人で奥へ向かった。
足を踏み入れた瞬間——いた。
男、薄汚れた顔で
ニヤニヤと私を見ている。
反射的に、私は一歩、引いた。
次の瞬間、そこには何もなかった。
床に、ネックレスが落ちている。
そのすぐそばに、うっすらとした染み。
影か、汚れか。見ようとすれば
どちらにも見えた。
私は、それ以上近づかず、
静かに部屋を出た。
テーブルに戻り、女性の顔を見る。
「少し、お話を聞かせてもらえますか」
彼女は一瞬、言葉に詰まり
それから、ゆっくり頷いた。




