邂逅
食事を終え、周囲が完全に寝静まった頃のことだった。
焚き火の残り香だけが冷えた夜気に溶け、遠くで途切れがちな虫の音が響いている。そんな静寂の底で、ユウキは皮膚の奥を一定の間隔で叩かれるような、微細な振動信号を感知した。
それは音でもなければ、物理的な振動でもない。気球から送られてくる、神経に直接訴えかけるような警告――「侵入」と「接近」を示す符号だ。
意識が一瞬で覚醒する。
上体を起こし、暗闇を見据えながら脳裏に簡易レーダーを展開した。
(紅点は一つ……。単独反応か)
群れでもなければ、大規模な襲撃でもない。だが、広大な警戒線をたった一つで、それもこれほど深く突き抜けてくる個体は、逆に不自然だった。
「俺一人で足りるな」
そう小さく呟くと、ユウキは音を立てずにテントを滑り出た。
頬を撫でる冷たい空気。距離は残り三百メートル。
(かなり入り込まれたな。警戒線をここまで容易く越えるとは)
草原は異様なほどに静まり返っていた。
月光が地面を白く照らしている。その静止した風景の中に、場違いな二つの影が落ちていた。
「……反応は一つなのに、影は二つか」
目を細め、意識を集中させる。
一つは、昼間にも見かけたホーンガゼルだろう。だが、その傍らに立つ「人型」の存在が、あまりにも歪だった。
それは“立っている”というより、夜の風景の中に無理やり“描かれている”といった印象だった。
月光を受けているはずなのに、背後に影を落とさない。立体感が希薄で、奥行きが曖昧。風が吹き、枝葉が揺れて地面の影が形を変えていく中で、その黒い輪郭だけは岩のように微動だにしない。
顔があるはずの位置は、のっぺりとした闇が張り付いている。
目も、口も、表情もない。
それでも、確かな「視線」だけがそこにあった。瞬きも呼吸も、生命の証である体温さえも欠落した、純粋な意志の塊。
思考が追いつくより先に、訓練された肉体が動いた。
虚空から掌に武装を呼び出す。狩猟用を遥かに上回る出力を持ち、完全消音を実現した最新式の狙撃銃。夜の平穏を乱さぬよう設計されたその銃身を、迷いなく異形へと向けた。
反動は最小。発射音すら生じない。
放たれた弾丸はホーンガゼルの額を正確に穿ち、その脳組織を瞬時に破壊した。
命が途切れるまで、一秒とかからない。膝を折って崩れ落ちる巨体。遅れて、生温かい血の匂いが風に乗って届く。
「なるほど……」
不意に、影が言葉を発した。
口はないはずだった。だが、闇の中央に裂け目のような空間の歪みが生じ、そこから直接「音」が生成される。
「確かに不思議な術を使うようですね」
「……喋ったのか」
その一瞬、ユウキの認識にわずかな揺らぎが生じた。
化け物ではないのか。対話が可能な知性体なのか。理解の枠に収まりかけるその瞬間が、致命的な油断を招く。
「おい。何のつもりか知らんが、そのまま手を上げて膝をつけ」
銃口を固定したまま冷徹に告げる。
「おやおや。警戒心は低いようですが」
影が両手を上げた。関節という概念がないかのように、腕が滑らかに、そして不自然な速度で持ち上がる。影絵が意思を持って浮き上がったような、生理的な嫌悪感を煽る挙動。
「ランクB。勇者未満と判定」
淡々と、感情の抑揚を削ぎ落とした声。それはまるで、検体を評価する冷徹な研究員のようだった。
次の瞬間、背筋を凍らせるような「ぐしゃり」という音が響いた。
仕留めたはずのホーンガゼルが、死後硬直を無視して激しく痙攣し始めたのだ。
喉は潰れているはずなのに、断末魔が脳内に直接響き渡る。背中の皮が内側から裂け、骨が軋み、肉が裏返る。皮膚を突き破って生えてきた触腕が、左右の眼球を強引に中央へ引き寄せ、一つの巨大な眼へと融合させた。
一秒未満の判断。ユウキは腰撃ちで残弾をすべて叩き込んだ。
弾丸が肉を抉り、黒い液体が飛び散る。だが、怪物の触腕がブレたかと思うと、次の瞬間には凄まじい衝撃がユウキを襲った。
新ポリマー合金製の銃ごと吹き飛ばされ、地面を無様に転がる。
「くっ……!!」
「反応速度はまずます……」
余裕に満ちた、完全な上位者の視線。
歪んだ銃をデータ空間へ消去し、ユウキは奥歯を噛み締めた。
(効いていない……。弾は確実に当たっているはずなのに)
残るは護身用のハンドガンのみ。圧倒的な火力不足。
「よろしいですよ? 次の武器を出していただいて。見学してあげましょう」
観察。評価。
遊ばれている事実に、怒りよりも冷えた焦燥が胸を焼く。
「大きなお世話だよッ!!」
ナイフを投射し、敵の視線をわずかに逸らしたその刹那。
ユウキは、本来なら固定設置して運用すべき重火器――『四六式電磁爆雷銃』を強引に召喚した。
対戦車級の重量が両腕にのしかかる。HMDの照準補正を限界まで同期させ、異形へと化したガゼルへ砲身を固定。
発射。
夜を白く塗りつぶす閃光。鼓膜を震わせる炸裂音。
「シュオォォォォォン!」
断末魔と共に、触腕が根元から蒸発する。内側から破裂した怪物の肉塊が四散し、辺りは再び静寂に包まれた。
「…………なんと」
影が、わずかに形を崩した。
「端末が損耗しましたか。これは想定外。それなりの出来だったのですがね」
輪郭は乱れているが、その声に焦りはない。
「ユウキ……と呼ばれていましたね? 観測は十分です。聖女より先に、この“異物”を排除するとしましょう」
一礼。
その仕草と共に、影は立体感を失い、平面へと潰れて地面に溶けていった。
放たれた追撃の弾丸は、もはや誰もいない虚空を虚しく貫くだけだった。
(端末……。本体は別にいるのか。)
敵はこちらを把握している。そして、ヴィオラが次の標的だ。
「ユウキ殿! 今の光は……!」
騒ぎを聞きつけたテオが、血相を変えて駆け寄ってくる。
他の仲間たちは、まだ深い眠りの中だ。
(強力な催眠……あるいは魔術による昏睡か。だが、この男だけは自力で起きたのか)
「聖女が優先目標らしい。厄介なことになった」
ユウキの横顔は、戦闘直後とは思えないほど静かだった。テオはその表情に、恐怖も怒りも、あるいは神への祈りさえもないことを見抜く。
そこにあるのは、次の最適解を導き出そうとする冷徹な思考のみ。
「また来る」
その確信に満ちた言葉に、テオは背筋が冷えるのを感じた。
夜はまだ深い。だが、暗闇のどこかから、得体の知れない視線が自分たちを「観測」し続けている。




