三
三
「そんな想像をしたもんだから、なんだか大変なことが起こったような気がして、くやしいけれど訊いているんです。
実はね、昨夜、道頓堀の中座で芝居を見物したとき、すぐ隣の桟敷にいたんだよ、さっきの女が……」
と、うなずくようにしながら初阪は言った。
男衆はまた笑った。
「知ってますとも。それをおっしゃらずに、しらばっくれて、今初めて見たという顔でお訊きになるから、はぐらかしてあげましたんでさ」
「だって、住吉神社も四天王寺も見ないうちから、大阪に着いていきなり、あの女は? と訊くのもどうかと思う。それじゃあ慌てすぎて、振袖に蹴躓いて転んだみたいだから、やせ我慢をして黙っていたんだ」
「けれども辛抱できなくなった、というわけでしょう。ごもっともですとも。実は親方もね、目の保養にあの若奥様をご覧にかける、ちょうどいい機会だからって、昨夜もわざとあなたを隣の桟敷へご案内したんです。
あちらもまた桟敷席を予約してね、旦那といっしょに来ていました。取り巻きに六、七人芸妓がついて」
初阪は男衆の顔を見て、
「はあ、とするとあの女は堅気なのかい……以前は玄人だったとしても」
男衆はまた、そう聞かれることを予測していたようにうなずくのだった。
「ところがあなた、今もまた南新地の廓から出てきてるんです。……いいえ、旦那が替わったというわけでも、別れたというわけでもありません。昨日御覧になったあの男が、以前からの旦那でね。ええ、しかも、ついこの四、五日前まで、以前に身請けされたまま、桜宮のお屋敷におられました。それこそ浮世絵の画題にでもなりそうな若奥様でいたんですがね。
あの旦那のとんだ物好きから、一度堅気になったものを、洒落っ気を出してまた政府の鑑札を受けて、以前と同じお珊という名で、あらためて芸妓のお披露目をしました」
と、冗談で言っているふうでもなく話す。
「大阪は風流なもんだね。せっかく自分の女房にした女を冗談で芸者に出すなんざ、悟ったもんですぜ。金で根こそぎかっさらった女を、人助けのために他の男たちにも拝ませるってことか。そのおかげで私なんぞも、いい土産話にありついたというわけだ」
「いいえ、隣桟敷で緋の毛氈に頬杖ついてたり、橋の欄干に振袖を掛けたり、なんて姿どころじゃありません。あなた、もっと立派なお土産をご覧になることでしょうよ。明日、明後日の晩は、先ほど目にされたお珊の方が、千日前から道頓堀、新地にかけて宝の市のお練りに出るのを、どうぞご覧なさいまし。下げ髪に緋の袴という扮装で、八年ぶりにお練りの行列に参加するんですから」
下げ髪、緋の袴ということばが、大阪城の上にかかる雲を目のあたりにして、豊臣滅亡の幻を思い浮かべた初阪の耳に鋭く響いた。
「なんだって? 下げ髪で、緋の袴?……」
「もちろんお珊の方一人で、というわけじゃありません。――たしか十二人、同じ姿でそろって練り歩きます。それでも入れ髪なしの自分の髪で、解きほぐすと緋の袴の裾をちょっと越えるくらいの長さになるっていうのは、あの女だけだともっぱらのうわさです。以前、廓から身を退いてからもうそんなに経ちますけれども、私あ今日も、つい目の前で見て驚きました。
苦労も放蕩もしてきただろうに、娘みたいに狭い額の生え際が、ほんの少しも抜け上がっていませんやね、ねえ。
宝の市に自毛の洗い髪で出て、お練りの屋台を曳けそうなどころか、象をつないでも大丈夫じゃないかってほどの豊かな黒髪ですわ。
旦那もね、宝の市に出して、お珊さんのその姿を見たり、見せたりしたいばかりに、おそろしく派手な芸妓のお披露目をしたんだって評判です。
お練りの行列の市女は、芸妓だと決まってるんです。しかも芸なり容色なりが一流でないと、世話人のほうで出しませんから……そこで選ばれた女は、その後一年ぶんの名声を得るってわけです。
お珊はそのなかの一番人気だ、あなた。何しろ大阪じゃ、浜寺の魚市には本物の龍宮が顕れる。この住吉の宝の市には、天人の素足が見られるって言います。一年のなかでも特別の祭ですから、まあ、ぜひお目にかけましょう。
あなただったら、ひと目見て立ちすくんでしまわれそうな……」
「立ちすくむってのは大げさだね。人聞きが悪いじゃないか」
「だって、今あの女をちらりと見ただけで、ぞっとなさってたじゃありませんかね」