一
【原文】
青空文庫
https://www.aozora.gr.jp/cards/000050/files/3658_24699.html
【登場人物】(〇は主要人物)
初阪(仮の名) 前半の主観人物。東京から来た、芝居の作者らしき男
男衆 大阪見物をする初阪の案内人。現地の劇場で働く東京人
親方 上の男衆の親方(登場せず)。初阪を大阪に招待した女形俳優
〇お珊 大阪の芸妓。若奥様(原文では御寮人)と呼ばれる
〇丸田官蔵 通称丸官。お珊の旦那。船場の大金持ち
小女 大阪では奴と呼ばれる侍女
〇多一 丸官の手代(使用人)。語り手から若手代と呼ばれる。
もと猿回しの美少年
宗八 幇間。丸官からそっぱと呼ばれる
伊丹幸の政巳 お珊の妹分
その他、芸妓、舞妓たち
〇お美津 餅屋の娘。多一の恋人
〇伝五郎 お美津の祖父(父ではない)。劇場の便所番。もとは駕籠屋
一
「今のは?」
そう聞いたのは、初めて大阪を訪れた旅行者で、おのぼりさんにはつきものの赤毛布でも羽織っていそうなものを、十月のなかば過ぎの小春凪の、ちょっとのぼせるほどな暖かさのなか、着重ねた内着さえ暑苦しく、野暮な縞柄も隠しきれずに、頬被りならぬ鳥打ち帽をかぶって、朝から大阪見物に出かけた男である。
富士山、浅間山、大山、筑波山などに初めて登ることを初山と言うらしい。ならば大阪の地に初めて来たこの男を、仮に「初阪」と名づけておこう。
その男が、天満橋を北に渡りきったところで、連れの男に聞いたのである。
「今のは?」
「大阪城でございますさ」
と片頬で笑いながら、わざとそんなことを言う。結城の藍微塵の一枚着に、唐桟柄の袷羽織を羽織り、茶の献上博多の帯をぐいっと締め、白柔皮の緒の雪駄を履き、髪をすっきりと刈った、粋な若者である。その姿から何者であるかはすぐに察しがつく……俳優部屋で下働きをしている男衆である。それが大阪の案内人らしからぬ、いなせな江戸ことばで話している。
「まさか、天満の橋の上から、淀川を前にして城を見て――もっとも睡眠不足の上に白昼の日差しに照りつけられて、道頓堀から千日前の、このあたりの煮えくり返るような町のなかを見物しているのだから、ぼうっとなって、夢を見ているようだけれど、それだからって、いま自分が大阪にいることくらいは自覚してますよ――わざわざ言われなくても大阪城くらいは、わかって当然じゃないか」
「おっしゃるとおり、ふふふ」
男衆はまた笑いながら、
「ですがね、欄干に立って、淀川堤を御覧になっていたあなたは、何かに心を奪われているみたいなご様子でしたぜ。じっと考えこんでおしまいなすって、声をお掛けしても申し訳ないご様子でしたから、私も黙ってましたがね。ええ……時間の都合で、お城のあたりは見物いたしませんが、網島方面にはご案内をしろって親方から言いつかっておりますので、ならばここは桜宮から網島までの見どころを口頭でご説明しようと思っていたんですよ。なのにあなたが腕組みをなさってばかりだから、いや、私は水を見て、涼んでばかりでした。
それからずっと黙ったままで、橋を渡ったところで『今のは?』とお尋ねなさるんでさ。とりあえず大阪城とでもお答えしなきゃ、日本一の名城に対して失礼ってもので、ははは」
と、含むところがありそうにちらりと相手の顔を見る。
初阪は鳥打ち帽の庇に手を当てて、
「わかりましたよ。真田幸村の手前もあります。あの城をぞんざいに扱うわけにはいかないですな。
萌黄色の海のような、名高い淀川が、大阪を真っ二つに分けたように、悠々と流れている。
電車が塵を巻き上げようと、この美しい冬空です……透きとおった空に太陽がきらきらと輝いて、五月頃の潮が満ちてくるような人通りの激しいなかを、河岸に薄いひと筋を引いた霧の上に、あたかも東海道から富士山をながめるように、あの城が見えたっけ。
蒸気船がバラバラと音を立てながら川浪を蹴って進んでも、高櫓の瓦一枚、動かせるわけじゃない。……船に掛けた白帆くらい、あの城の白壁に比べれば、ちっぽけな塵のようなものです。
空に浮きだしたような、水に沈んだような、そして幻のような、そうかと思えばありありとあそこに見える、ああ、あれが赤ん坊のころから桃太郎の話と同じくらいよく聞かされていた城か、と思って見ていると、その城の屋根の上に、あたりに山もないのに、鵺が乗ってきそうな雲が、真っ黒な壁を作って上から押しつけるみたいに、まるで鉛を溶かすかのようにむらむらと湧いて、落ちかかってきたじゃないですか」
初阪は、ステッキを脇にはさんで、勢いこんでそんなことを言った。