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第四章 少年遣欧使節の旅立ち

 2018年6月30日、イコモスは「長崎、天草の潜伏キリシタン関連遺産」を世界遺産として正式に登録しました。当初、日本側から「キリスト教の教会群とその関連遺産」として、内実に深い意味を持たせることなしに申請したが、根本的に視点を換えるよう見直しを求められた。それは「島原・天草の乱」の舞台となった原城跡を中心とする民衆の反乱と、密かに二百数十年の間信仰を守り抜いた精神を貴び、かつ浮かび上がらせることを促すものだった。関係各藩領主の生殺与奪を伴う教徒弾圧と江戸幕府による武力介入と幾多の悲劇を重視するものだった。単なるキリスト教の布教と浸透としてだけでなく、支配者の過酷な抑圧と殉教を伴う信者の不屈な抵抗を見逃さなかったのである。どちらかと言えば『負の文化遺産』の方にシフトしたのである。

 2017年8月から長崎県諫早市多良見町伊木力の『千々石ミゲルの墓』の発掘が、末裔や墓守りの子孫の見守る中で執り行われた。ロザリオの数珠玉や西欧から持ち帰ったマリアのメダイが副葬品の中に燦然と輝いていた。発掘直後の科学的考察で大きな石墓の下の遺骨は妻のものと思われ、ミゲル本人のものは隣の未掘箇所にあるらしい。

 以前からミゲルの最期に関わる推理で、私に限らず誰もが不思議に感じている墓石に銘記された日付の近寄りが不自然に思われた。妻の死没が寛永9年12月12日(1633年1月21日)で、ミゲル本人と思われる戒名の下には2日後の12月14日(同年1月23日)と刻まれ、1日を挟んで逝去したと記されている。ここに何らかの事情と切羽詰まった背景があるのではと推察されることだ。その上、西暦での同年11月22日に渡欧仲間の中浦ジュリアン神父が穴釣りの拷問の上で殉教している。長い潜伏布教の果てに捕えられ、獄門に繋がれたのがその10か月前(同年1月22日頃)ととある書物に記されている。まさしく千々石夫妻の命日の中日にピッタリ合致していて、全く関係が無いとは言えないことである。(大石一久著『千々石ミゲルの墓石発見』を参照)

 イエズス会の側では、脱会者である千々石ミゲルを〝棄教者〟とレッテルを貼って疎んじるあまり、最後まで教えを守り殉教した中浦ジュリアンとの関係を切り離したかったのだろう。ジュリアンの動向や殉死の経緯は詳細に残されているがミゲルは無視された。日本の為政者の側からすると、表向きでは棄教して堂々と『日蓮宗信者』と称してはばからない、千々石清左衛門を邪宗門信者の咎で処罰することはできない。あくまでも政治的失策として死を押し付け、闇からやみへと葬り去ろうとした。双方が千々石ミゲルの死を無視する姿勢を貫いた。それ故に記録が一切残されなかったのであろうと推し量られる。一方、生活苦の中にあった民衆、百姓、憤懣遣るかたない下級武士の心中はどうだったろうか。ミゲル夫妻とジュリアン神父の死から4年後の1637年12月11日、広範囲に及ぶ爆発的な日本史上最大の民衆反乱、「島原・天草の乱」が起きた。不服従を貫いたジュリアンと棄教を装ったと思われるミゲルの死後に、クルスを首から下げた天草四郎と名乗る若者を首謀者に人々が蜂起したのは歴史的な恩讐だろう。事実と見紛うかのようにその乱後、西欧では『天草四郎は千々石ミゲルの息子である』との噂が広まった。

 歴史とは営々とつながる人々の生きざまの織物である。

 日本の歴史の中でも、古代、近世、現代の各々の歴史的転換点には、革命的な反乱がおきている。その背景として政治的な側面が色濃いが、内実では経済、宗教、芸術など社会文化的にも広範囲に影響を及ぼしそれぞれが複合的に絡んでいる。そうでなければ名も無き下層大衆の決起を促す状況に至らないからである。物部や蘇我、藤原の各氏族の貴族成り上がり、信長の天下布武、坂本龍馬の薩長連合など、総じて年表には表舞台に立った、政治的人格ばかりが自己主張している。その背後には民衆のうねりのような沸き立つような鬱屈した労苦や息遣いがあり、命を虫けらのごとくに捨てられていく虚しさがある。

 歴史の上で勝敗は不定にして盛者必衰は必定である。ただ弱者、敗者を虐げ、強者、盛者におもねる輩は何時の世にもいるし、彼らの私利私欲のために庶民の犠牲は多大なものとなる。この不条理なる人間社会の仕組みに翻弄されないためには、一握りの心ない人たちの手から抜け出て大衆の側にアプローチし、汎人類的立場から本質に迫り喝破する眼を構築することでしか出口が見えない。自ずと反乱の系譜から歴史を見直すことが必要となり、それでこそ本質的な意義を見出すことができる。

 それ故に私の視点もその考え方に基づくことが必要だと思った。洋の東西を超えて往時の日本と世界の置かれた、グローバルに進む地殻変動のごとき歴史のうねりの中で捉えねばと考えた。科学技術の進歩や文芸復興、大航海機運が人々に大きな影響を与えた。四大発明(火薬、羅針盤、紙、印刷技術)をバックに急速に生活環境の改善が進み圧倒的な変化をもたらした。特に千々石ミゲルの生涯を語るに十字軍の大敗北とルネッサンス、エンリケ航海王子とバスコ・ダ・ガマの喜望峰をかすめる東インド航路発見は見逃せない。

 加えてグーテンベルグが発明した印刷機の日本への持ち込みは、天正遣欧少年使節団の12名の大きな使命の一つだった。西欧では物珍しさと同じ宗門という身近さで大歓迎され、西欧各地に書物として出版され絵画にも描かれ、日本人初の洋行が今も歴史的快挙として遺されていることである。魏志倭人伝に卑弥呼の名が書かれてその実在感があるように、彼らの様子がシスティーナ礼拝堂に描かれていたり、各地の図書博物館に所蔵されているから、その成果が現代の我々の心に届くのである。それら数百冊にも及ぶ資料に比べて、日本に戻ってからのミゲルらの行状の記録が余りにも少ない。憶測にフィクションまで加わり、近年でも数十冊の小説や紀行記として発刊されている。これらとの格闘が私の筆を遅らせ、取っかかりの勇気をしばしば萎えさせた。

  2022年3月6日                 保 利   進 

 1 少年遣欧使節の旅立ち 


 とても辛くてミゲルの出立(しゅったつ)を見送れないと言って、翌日早暁、忍と伊奈は大村の外海に帰って行った。船出の勇姿を正視できずに取り乱したら、皆の前途に不安を作り不吉を招くのではと懸念したからである。長崎港に停泊しているイグナチオ・デ・リーマの帆船は、イエズス会アジア巡察師という重要な任務を負っている、ヴァリニャーノ師が合流するまで待つという少々不安な立場に置かれていた。既に1582年も2月半ばを過ぎていて、もしも春一番を迎えてしまったら大変なことになる。強い南からの逆風や大波に晒されて難波し転覆覚悟も余儀なくされる。一日、いや一刻も早く、今すぐにでも錨を揚げたい。巡察師が波止場に現れるのをじりじりとした気持ちで待っていた。

 ヨーロッパでは、グローバル化を成し遂げた大航海時代にあっても、未だ文明人は自分たち欧州人だけで、文明国と呼べる国はどこにもないと信じて疑わなかった。単純比較はできないが、当時はイスラム国家とヨーロッパ各国が文明の最先端を競い、地球上のどこを見てもそれに匹敵する国はないと信じて疑わなかった。だから皮膚の色による差別がまかり通っていた。教養高い宣教師でさえ、肌の色が黒い、少し黒い、とても黒いと、平気で偏見をあからさまに文章に記している。だから奇異な格好と違う言語を話す人の住む、日本ジパングにヨーロッパの国民に優るとも劣らない人々がいることをアピールすることは、少年たちの日本人司教養成の目的と併せて大きな課題だった。だから()(なり)を整え、品格を醸し出し、欧州の共通言語であるラテン語に精通させて対等の会話が出来ることも必要で、帯刀し清楚で身綺麗な武士・侍の正装をも周到に準備した。ただ普段着はあくまでイルマンとしての体裁をとることにした。何故ならヨーロッパでは首周りを露出すると不躾とされていて、そこをカーラーで覆うイエズス会の正装の黒僧服と黒の丸帽は日常においては欠かせなかった。

 モーラ学校長神父の朝の礼拝の後、船借(ふなしゃく)船頭が二丁艪構造の船を操って派遣団を正午過ぎまでに千々石湾の対岸にある茂木(もぎ)に送り届けた。入り組んだ湾と競り立った山の組み合わされた地形は、時に陸行と海行のどちらでも時間的に大差なかったが、ヴァリニャーノ師は宣教師に対して疎ましく思っている龍蔵寺の手先を無闇に刺激したくなかった。自らの派手な行動でキリシタン領主が窮地に陥り、ダメージを及ぼさないように気を遣って、息を潜めての海行を選び隠密のような旅立ちとなった。特に大村の三城城が龍造寺の手に落ちていたことが災いしており、陸路には危険が潜んでいて不測の事態だけは避けたかったのである。茂木港に待機させていた馬借たちも、そこの事情は先刻承知のことで黙々と手早く荷造りを整え、イエズス会の黒づくめの僧服も忍者の姿に見えて、誰もひっそりとしかもてきぱきと隊列の歩を進めた。上陸後は1山越えるだけだったので、馬が息を切らさぬ間に長崎の波止場に着いた。それでも晩冬の日暮れは早く訪れ、すでに夕刻になっていた。

 長崎港最寄りの波止場近くにある教会に落ち着くと、見慣れた日本人修道士のジョルジュ・ロヨラ先生が、(たたみ)(じょう)に折り(たた)まれた狩野永徳の作になる『安土城と城下図』6曲屏風2隻が立て掛けてある部屋の真ん中に、積み上げられた数巻の書状を準備して、手ぐすねを引いて一行の到着を待っていた。ここに初めて派遣団すべての人員が揃った。将来の日本人司祭(パードレ)を目指しての修学と、豊後、有馬の2王と大村侯の正使マンショとミゲル、副使のジュリアンとマルチノの4人が派遣団の柱である。今日なら中学1年生の13歳前後、ジュリアンが一つちょっと年上でマルチノがやや年少だった。

 次に1世紀ほど前に発明され、次々に改良が加えられていた活版印刷の最新機械と印刷技術の移入要員が派遣団に加わった。技術者として今なら中学を卒業したばかりの、15歳位のコンスタンチノ・ドラードとアゴスチーノの教名で呼び馴らされた2人の日本人が組み入れられた。特にドラードは金髪で背が高く、日本人母とポルトガル人の父のハーフである。彼の生い立ちは、抑々金細工師の父親が金の商いに関係する品質管理や加工技術の助言のために来日したが、教旨を奉じる諫早生まれの飯炊き女と恋に落ち、滞在していた10年近くの同居の後に仕事の都合か里心が募ったか、戻ってくると約束したままヨーロッパに帰り、ここ数年音沙汰が途絶えて久しい。きっと帰ってくると信じて待っていたが、今となっては母子家庭同然となった。特記するなら南蛮人と日本人の史上初の混血児として生まれたという専らの噂である。だが当時は民族や宗教上での軋轢は少ない上差別などとは縁遠く、教会の周辺ですくすくと育ち、日欧の誰からも好かれる若者となっていた。ポルトガル語に堪能のバイリンガルで、欧州滞在の最終期間にポルトガルで印刷機を手に入れ、印刷工見習いをする予定だった。密かに父親探しをする心積もりもしていた。今でも金細工の貿易をしていれば、港でバッタリ出遭うとか日本人の使節が来欧しているとの噂が広まれば、向こうから訪ねてくるかも知れなかった。

 それに世話役の中心としてディオゴ・メスキータ宣教師が語学教師と通訳の役目を負って加えられた。端的に言えば少年たち4人に中卒の印刷工見習いの「金の卵」2人、偏差値の高い大卒の祐筆兼先生が1人、まだ修道士(イルマン)だったポルトガル人の先生が引率役となった。企画立案と実行役のヴァリニャーノ師が日程、行動計画など使節の管理に当たる。更に一行には日本管区の巡察師の任務を手伝い、インド管区の要員としてゴアでの任務に着く予定のロレンソ・メシア神父とオリビエーロ修道士も参加していた。その欧州人3名を加えた総勢11人が次々とイグナチオ・デ・リーマのナウ船に乗り込んだ。

 大人の歩幅に合わせて作られた乗船用の縄梯子は、少年たちにはいささか危険極まりない代物だった。4人の中では一番早熟で、背も高く腕力のあるミゲルが最初に登ろうとしたが、縄の(たる)みのせいでどうにも危なかっしくて覚束ない。見兼ねた屈強の船乗りがしゃしゃり出た。肩にしがみ付く様に促しロープで縛りつけ、背負われたままで一気に懸け上がり5メートルほどの高さの甲板に降ろされた。他の4人も同じ様にされて甲板上に揃ったが、何しろ大型帆船に乗るのは日本人の皆には初めてのことだった。船体の大きさから感ずる安定性の割には間断ない揺れが伴い、地上での大地の不動の感覚を全く失っていることに、この時は誰も気付いていなかった。みんなが新鮮な気持ちでしかも興奮状態にあるので、前途の長旅の不安など微塵も感じていないし、ナウ船の乗員は乗客こそ数十人だが、展帆要員から警護兵士までを含めると200人は下らない。

「さすが南蛮船は大きかね。命懸けで遠方まで航海し商いするから、少しの量では儲けにならんとね。やけん段々に大きゅうなったんやろうね。まるで大きな旅籠と商い蔵に帆柱が林立しとるごたる」

 と、全員が乗船し終えた時、甲板上のミゲルの第一声に誰もが頷いた。

「いよいよオイロパへの航海が始まるんばい」

 いつもは言葉の少ないマンショがしみじみ呟いた。

「まさしゅう西遊記ばい」と、ミゲルが言うと、ジュリアンが、

「三蔵法師は西戎(せいじゅう)へ向かったばってん、実際は天竺やけん南西へ行ったんやなあ。僕らは先ずは南へ進むばってん最終的には真西に着く。やけん(まこと)の西遊記っさね」

「船の旅やけん妖怪や魔物は出んちゃろうが、海賊とか難破事故には遭わんとも限らん。やけん孫悟空の魔術も欲しかね」

「4人とも沙悟浄か猪八戒の役目しかできんばい」

 そう言ってマルチノは微笑んだ。近習(きんじゅう)らから語られた大乗仏教の真髄とされる「三蔵(さんぞう)」を求めて旅する玄奘(げんじょう)とお伴の3人だが、ヘマばかりする部類の従者になぞらえ、みんな共にになって腹の底から大笑いした。

「玄奘のは仏典ば求めての大陸内だけの旅やった。僕らの航行はキリストの教えば習得するためで宗門が違う。それに東の果てから西の涯に至る。往復ほぼ12万レグア(1レグアは約5千メートル)は、西遊記ば遥かに上回る地球1周半の隔たりであり、未来永劫にわたって最長の距離と時間ば誇るもんとなるやろう。4人揃うて生きて帰還しきるか否かは神のみぞ知るや。それ相当の覚悟はせんばならんめえ」

 と、ミゲルの少し不安のある言葉に全員が重い心になった。全てはヴァリニャーノ師から聞き及んだ受け売りである。

 その途端、甲板の上に50名ほどの展帆要員が現れるや「ウム、ドゥェス、ウム、ドゥェス」の掛け声に合わせて錨を巻き揚げ始めた。左右二双の巨大な鉄細工は相当に重いと思われた。屈強の男たちが引く綱はかなり太く、ピーンと張っていたからである。展帆していない帆船ほど寂しいものはない。船が穏やかにあることほど心休まることを知る由もない4人には、(たてがみ)を剃られた獅子のようにさえ思われた。船べりの甲板から恐る恐る眺め降ろすと、荷揚げ用も兼ねている牽引(けんいん)船が曳航を始め、櫓漕ぎ男たちの筋肉に瘤が生まれ、船の巨体が徐ろに岸壁を離れた。作業に邪魔だとばかりに、4人は船首楼の1階にある特等室に招き入れられた。リーマはイエズス会と親密で、普段自分が使用している船長専用である船首楼の貴賓室を4人の少年たちに提供した。船首、船尾に2棟ある居室の中でも窓から外の景色を存分に見晴らせる1等室である。ヴァリニャーノ巡察師に最大の敬意を表したのだ。

 時は1582年2月20日、凍えるような北風が吹き始めた昼過ぎだった。長崎湾の出口から見上げる稲佐山は、陸地の見納めにしては貧相で寂しげに聳えていた。太洋に出ると寒風が少しずつ強く吹き出した。素早くメインポストの一番大きな主帆が展げられると、目一杯に潮風を孕んで船底が波を叩きながら一路南へ進んだ。別れの手を振っていたタグ船の乗員たちの姿があっという間に芥子(けし)粒のように小さくなった。

 手練(てだ)れの船乗りたちは実に手際が良い。展帆し終えると時を置かずに舵操作に取り掛かった。ミゲル自身は高所恐怖症で、折に触れて「肝の座らない奴だな」と言われ、皆から一方的に(さげす)まれている。しかし2層、3層ほどの高さの帆柱を左右に振られながら作業をする船乗りの勇姿を見ると、普段見()(くだ)している者たちの心得違いを改めさせたいと思った。

 西の空の雲が太陽を覆い隠すと一気に加速して、見渡す限りの大海原となり、島などの陸地も一切見えなくなった。遥かなる水平線は幾分丸みを帯びて、セミナリオの科学の授業で習った地球の姿が如実に理解できた。綿入れの僧服でも風に靡いて袖口や足先から寒気が入って身体の芯まで冷えてきた。

「午後のお祈りを致しましょう。さあ部屋に入りなさい」

 メスキータ修道士が船室への進入を促すと、ミゲルは一つ咳払いをし、ブルッと身震いをして皆の殿(しんがり)についた。

 部屋の調度品は全てが固定されていた。ベッドは上、中、下の3段に仕切られ、両端に配され一番下は固定のテーブルで向き合うことができた。普段はキャプテンとその介助者の2人が専用していた。和の単位で10畳位はある大部屋だった。行李や荷物を上段に置いたが、中段には測量器具や大量の海図が蔵してあるらしい。先ずそこへ6人の少年たちが収容された。使節と印刷見習の少年2人である。メスキータ師とロヨラ先生とヴァリニャーノ巡察師は隣の同じ仕様の船室だったが、甲板へ1度出なければ出入りできなかった。4人の使節よりちょっと年上のコンスタンチノ・ドラードが連絡と日々の記録役を担うことになった。

 真冬には北からの風は強烈らしいが、立春近い今はそれ程でもないと聞いた。だからか2日目も3日目も、地球の丸さを立証するかのように湾曲する、見晴るかすの大海原は果てしなく続いて、行けども行けども尽きることは無かった。大雑把に見積もっても長崎からマカオまでと、そこからマラッカまで、さらにインドのゴアまでは同じ位の距離で、通常の天候ならばそれぞれ1か月の航続距離である。必需品である乗員の水と食料も1か月分を積載していて、予備として特に水と塩と米、麦、ジャガイモなどの主食だけは、5割増しで積んでいる。

 穏やかな風を孕む大帆柱は、時折マストの支柱が船のど真ん中の船底で「キキィ、キィーッ」と気味の悪い音を立てはするが、見事な推進力を生み出し、大量の荷物と人員を載せたナウ船は順調に進んでいるようだった。メスキータ先生のラテン語の授業が午前中、昼の食事の後は器楽練習、讃美歌の合唱など音楽、そしてヴァリニャーノ巡察師や神父たちから宗教学や理数科学の基礎を習い、就寝前には告解の時間が設けられ、有馬セミナリヨと同様の時間割が厳格に守られていた。左右、上下に程度の違いはあれ常に揺れることを除けば船中生活も何の変哲もないものだった。ミゲルは2年足らず前のイースターを期に設けられた有馬セミナリヨに第1期生として入校してからは、旅の途中を含めて勉学の日々が続いていたが、時々倦怠感を覚える自分を情けなく思った。

 亡義兄(けい)一時(いっとき)も武芸の鍛錬を欠くことはなかったし、学問に励むこともあったが、それも並べて武術の秘伝書ばかりで、とかく武芸に関してはずば抜けて秀でていた。亡義兄や家臣の日々の生活を見て育ったから、机に向かう日々が続くことは少々物足りなかった。器楽演奏や聖歌合唱も気を紛らすのに役立ったが、武術の全身運動に勝るものでない。だから告解の時は、ほとんど武芸を怠りたくないと素直な感情をぶつけてばかりいた。神父たちはまたぞろ聞かされる不平不満の告白に辟易としたようだった。

 ところが出航してから4日目のことである。退屈な日常は突然にくつがえされた。昼時まで寒風がやや落ち着いていたにも関わらず、俄かに冬空の黒雲が掻き乱れ、雷鳴が轟き出し、大海原が暴れ始めた。強い北風が波頭を砕き、大波が船を木の葉のように揉み砕き始めた。大帆柱の根元から「ギギィー、ギギィー」と悪魔の悲鳴のような不気味な(きし)み音をたて始めた。備え付けの机や寝台の梯子にしがみ付かないと立つことさえ侭ならない。身体を縛り付けてじっと胡坐(あぐら)をかいて耐えるしかない。

 外の甲板上では、キャプテンがポルトガル語で「主帆を直ぐ降ろせ」と大声で叫んだ。

 それを合図に少年たちが体の異常を訴えだした。顔の精気が消え、土気色に一変したと見るやじっとして動かなくなり、身体がぐったりとし、腹の底の大蛇がうごめき出した。最初に扉を押し開けて甲板に出たのがマルチノである。食べたばかりの昼の食べ物をすべて吐き出して力なく戻ってきた。口に手巾(しゅきん)を当てたまま、寝台に横になって動かなくなった。肥前では希少の内陸である波佐見郡(はさみごおり)で育ったので、滅多なことでは船に乗る経験など全くない。比べてマンショもミゲルも海辺の城下町で幼少期を過ごしていた。一番船に縁のあるのはジュリアンである。外海郡(そとめごおり)は陸続きではあるが、大村の領主のいる三城城に出仕するには渡し船がほとんどである。ましてや小佐々水軍の末裔である。ドラードやアゴスチーノは年下の使節の世話を任せられている身だから、容易く自分の体を不如意にする訳にはいかない。兄貴面を崩さずにじっと耐えている。

 マルチノの次に吐き気に負けたのがミゲルである。乗馬も得意で酔わない筈のミゲルだが、マルチノの吐瀉する音や匂いに敏感に反応した。甲板に出ると数人が船べりにつかまり(こうべ)をせり出して吐いていた。ミゲルもそれに倣った。昼の食べ物以上の内容物を海に放出したが、胃袋を喉元から吐き出すような感覚は消えることがなく、何時まで経っても吐き気が襲ってきて収まることがなかった。ヴァリニャーノ師のミサと訓辞が始まると伝えられ、仕方なく室内に戻った。吐瀉用に供するためか、真新しい空のワイン樽が机に縛り付けられ、非常時に備えられていた。揺れが酷くなると甲板に出るのは危険だからだ。

 船が大揺れしている中でも讃美歌を唱和し、ヴァリニャーノ巡察師の講話を聞いた。

「イエズス様はヨハネのバプテスマを受けられた後で荒野に赴いたが、悪魔から3つの試練を与えられた。その責め苦は40日にも及んだが、断固として悪魔は去らしめられた。私たちの試練も嵐の中で始まっているが、強い心を保って悪魔と闘ってほしい」

 この言葉がとても印象的だった。こんなに無邪気な者たちの欧行にも悪魔からの攻撃が加えられる。悪魔は崇高なるイエズスだろうが、ちっぽけな私たちだろうが、いささかの見境もないのである。ただ私たちの場合は独りではない。仲間がたくさんいる。そう思い直すことでミゲルはやっと安らぎを得ることができた。『デウス様は、超えられない試練を与えることはない』との結びの言葉に力強い意気込みを感じて、みんなは気持ちを引き締めた。西遊記では妖怪や魔物が次々に襲ってきたが、この船旅では「無謀な旅を止めて引き返せば楽になるよ」の悪魔の甘いささやきである。それは翌日も翌々日も止むことはなかった。船酔いには幾らか慣れはしたが、完全に克服することはできなかった。胃の内容物を全て吐き出すと次に眠気が襲い、しばらく休むとケロリと元には戻る。少しの間嵐が和らぎ、半時ほどボンヤリとやり過ごすと空腹が蘇り、食事時を迎えると以前にも増して食欲が抑えられない。しかし食事後に再び船室の置き物が大きく揺れ始めると、誰かがワイン樽に顔を突っ込み、それを糸口に吐瀉の連鎖が続いてゆく。この負の無限ループは途切れることがなかった。外気に当たれば酔いも収まるかと思い、甲板に出ようとすると、荒海に放り出されて、死の危険があると諫められ、室内に留まるしかない。胃液まで吐き出させられる苦しみは、自意識を覚えてからこの方一切経験したことのない痛苦の極みだった。悪魔は手加減など決してしないのである。

 キャプテンモール・リーマは、気象学や航海術に長けていて、この冬最後の北風であると踏んでいたから、嵐を避けて碇泊するなど愚の骨頂と考え、サブの帆までは畳むことをしなかった。暫く風が止もうものなら、南風が吹き始めて元の所に戻される。その不安ばかりに襲われて何が何でも先を急ぐことに集中した。終に治まったかに見えても繰り返される船の揺れは、強弱の起伏があっても途絶える気配を見せなかった。船乗りや神父たちは自らの任務を抱えていて、少年たちの話し相手などしていられない。だからミゲルらは、あれやこれやの手立ても受けられない状況下に置かれ、只々嵐が止むのをデウス様にお願いして祈りを捧げるしかなかった。40日に及ぶイエス様が受けた試練と比べる訳でもないが、その日数を指折り数え、残りの日数が減っていくのを頼りに耐えるしかなかった。

 出航から半月ほど過ぎた頃に台湾海峡を過ぎたと知らされ、幾らか激しい冬の嵐は止んだが、相変わらずの揺れによる慢性船酔いで、少年たちの体力は奪われ、見るからにげっそりと痩せ細ってしまった。状況は最悪でヨーロッパを見聞して回る計画など、とてつもなく無謀なことではないかと考え始めた。ヴァリニャーノ師でさえ少々そんな後悔に苛まれ出していた。


 2 初めての異国マカオ 


 船室内の雰囲気は日を追って悪くなった。身体の弱いマルチノが寝込んで起き上がる気配も見せない。ドラードやアゴスチーノも土気色のしかめっ面をし始めた。ロヨラとメスキータ修道士も語学や神学の授業の教壇に着くことも侭ならず、少年たちの船酔いの副作用の介抱に掛かりっきりで、最悪の事態も覚悟しなければならなくなった。最初の寄港地であるマカオに着いたら、抜き差しならない場合、長崎に引き返すことも含めて使節団の見直しを迫られていた。それほどに予期しない、深刻な状況だった。使節たちは所詮齢(よわい)13歳前後で、元服を終えてはいるが、今日なら中学に入学したばかりである。インドのゴアにさえ無事辿り着けば、最低限の使節としての任務は果たせるが、それさえも危ぶまれた。彼らは必死に耐えているだけなので見た目はそれ程でもないが、引率の神父、とりわけヴァリニャーノ師父には深刻な事態しか想定できなかった。

 ところが台湾海峡の金門島と澎湖島の間を通り過ぎるのに、航路が狭く岩礁に乗り上げる怖れがあるとのことで、速度を落とすために展帆を最小限にし、ゆっくりと進むことになった。すると船の揺れは緩やかになり、4人の少年たちは落ち着きを取り戻し、顔色も赤みを帯びて体に精気が蘇えってきた。南下したこともあって亜熱帯気候帯に入って日本流に言えば、花冷えの時期から温暖で心地の良い日々が1足飛びにやってきたようだった。少年たちは漸く生きている実感を取り戻して手を取り合った。それから数日も経たない朝早くに、起床時間前なのにロヨラが大声で叫んだ。

「おーい、澳門(マカオ)に着いたぞ。みんな起きろ」

 寝惚け(まなこ)(こす)りながら甲板に飛び出ると、白んだばかりの空の下、ミゲルらの眼前の霞みの中に何時か見たのと同じような景色が現れていた。肥前長崎の懐かしい風景である。とは言うものの似通っているのは、入江から小高い丘に競り上がっている地形だけのようだ。中国の3大河川の一つである珠江(ジュージャン)本流の西江(シージャン)の河口デルタを自然活用している港は、小さな島が数多く配され、気候の違いからか幾分柔らかな風が頬を撫ぜている。しかも南国情緒にあふれて、その風情は長崎とは大違いである。元々そこは海賊の基地だった。港町を平定するために出動した明の広州府の軍に協力したことで信頼を得て、インドのゴア総督府が執拗に陰に陽に明への働きかけを謀った末に、1557年に委任統治権を得たものである。明が海禁政策を執っていることを幸いに、ポルトガルが東アジアの三角交易の拠点としたものである。

 結局悪魔の試練はキリストが受けた40日までは続かずにその半分、20日でしかなかった。デウスは少年たちに対しては少々手心を加えたのである。生きた心地がしない厳しい日々は過ぎ去り、神の愛にも似た慈愛深い温かな地に降り立った瞬間、嵐の中の身の置き所のない苦しい日々もすっかり忘れ去られた。少年たちの眼前には宣教師たちが常々話してくれた石造りの建物、物珍しい南国の木々、中国やヨーロッパ風の被服をまとった男女が行き交う光景が広がっていた。只々興味深く新鮮な感情に包まれ、外敵を寄せ付けない石積みの要害の街並みには、ブーゲンビレアなど赤や紫の花が揺れていて、少年たちは風光明媚な景色に興奮抑え切れない様子だった。

 マカオの街は専ら港町である。経済も文化も寄港する大型帆船が握っている。だから船が沖合に見えてくると一斉に住民たちが波止場に繰り出す。商人はどんな品物が積まれているか、船大工はどこを修理するか、旅館の主人は何人の船員がいるかなど各々の生計に見合う関心を抱いて押し寄せる。当時ポルトガルはサラゴサ条約で公認された範囲の最東端で中継貿易を展開しつつあった。つまり明と日本と南アジアの三角貿易である。特に主要な取引商品は、日本が銀塊であり明では絹織物だった。いち早く灰吹き法の技術を取り入れた日本では、南アメリカ大陸を上回る世界一の銀の産出国だった。海禁策を採っていた明国内だが商取引に銀貨の流通は欠かせない必需品で、戦国時代の日本では陶磁器に加えて絹織物が垂涎の品だった。さらに貿易商人や在住の人々の精神的安寧を支えるパードレの入港も誰しもが望んでいる。取り分け此の度の帆船には、イエズス会巡察師のヴァリニャーノ神父が乗っている。当然のことだがあちこちの教会から宣教師たちが総出で出迎えた。ここ数年来はなかった賑やかな歓迎ぶりで、珍しい日本人少年の一団も加わっている。嫌が負うにも出迎えの人々であふれ返った。波止場は住民の4人に1人は繰り出し、1000人近い老若男女で埋め尽くされていた。

「うちゃ小さか頃から有馬、大村、長崎ば出たことがなかけん、マカオがこがん気候も景色も違うとにびっくりした」

「南蛮人は見慣れとるが、中国人は着とー服が一風(いっぷう)変わっとるけん異国に来たという感じがして、なかなか珍しかね」

「20日間でマカオに着いたけんリスボンまで1年半位で到達しきるかもね」

「そりゃ無理やろう。追い風ば待つ月日や、オイロパの方々やパッパ様など向こうん都合もあるけん、そん倍は見んばね」

 とのミゲルとジュリアンの他愛もない話は、深刻になっている世話役のパードレたちの気持ちとは雲泥の差があった。

 敬虔なカトリック信者のイグナチオ・デ・リーマは、商魂たくましい人でもあったから大量の品々を積載していて、荷下ろしや売買に相当の日数が必要だと予想された。そればかりか、台湾海峡で遭遇した強烈な嵐のせいで帆柱を支える船底の(つが)えが大破していて、修復にもそれ以上の月日が掛かりそうだと知らされた。長崎かと勘違いするような坂道を20日間の船旅で萎えた足腰を庇いながら必死に登って行くと、やっとのことで聖パウロ教会隣の司祭館が見えて来た。使節団はようやく揺らぎのない居所に着いて、いささかの安らぎを得ることができた。ゆらゆらと動かない椅子やベッドは何よりだった。しかし湯冷ましにしないで生水を飲むことだけは厳重に禁じられた。腹を壊し下痢に苦しむことになるらしい。新築なったばかりの尼僧住院(レジデンシア)での日課は、有馬のセミナリオと全く同じ時間割で進められた。ただ丘の上なので運動場がなく体操の時間が霊操に替わり、(ひざまず)いて(こうべ)を垂れてマリア様にじっと祈る修業が課された。フランシスコ・ザビエル師が日本の座禅に倣って発案したものだということだった。週に1度の散歩の時間がミゲルらにとって格別に楽しい時間だった。明が海禁政策をとっている以上租借地であるマカオ半島から内陸へは行けなかったが、異国情緒いっぱいの観光旅行に来ている気分は上々だった。

 マカオの土を踏んだ途端、宣教師やキャプテンモールたちは、ヴァリニャーノ巡察師を呼び寄せ、重要な会議を催すことを告げた。メスキータ修道士らポルトガルを母国とする者にとっては深刻な問題だった。2年前の1580年、ポルトガル国王エンリケ1世が継世子(あとつぎ)が無いまま逝去したことが事の発端である。それに付け込んで翌1581年、フェリペ2世がリスボンを占拠し、ポルトガル国王も兼ねることになった。ポルトガルとスペインで地球を二等分して勢力範囲を取り決めたトルデリシャス、サラゴサの2条約を無意味にしたことで、併合に近い同君連合を成し遂げた。瞬く間にスペイン王国の権勢は強大となり、ローマ帝国、モンゴル帝国に比肩し得る、強大なグローバル国家として君臨することになり、『太陽が沈まない国』となった。エンリケ航海王子以来ポルトガルの築いた東方航路の寄港地マカオにその衝撃の事実が知らされたのは、図らずも少年遣欧使節が上陸した直後だった。

 マカオに帰って来るヴァリニャーノ師を平穏に迎えたかった宗教関係者が最初に抱えた問題が、イベリア半島での政治的権力弱者の悲哀だったことは、決して座して無視する訳にはいかないものだった。イエズス会士たちも予測だにしていなかったことで、他聞に漏れずメスキータ、アルメイダ、フェレイラ、フロイスなどのポルトガルを故郷とする者にとっては深刻だろうと思われた。遠い故国のこと故に何ともできず、フェリペ2世の統治を粛々と追承認するしかなかった。スペイン王国の権勢が及ばないイタリア出身のヴァリニャーノ師にとって直接の影響は預かり知らぬことだったが、東方布教の体制再構築を迫られることは必定だった。

 そもそもイエズス会はエンリケ1世の庇護のもとでゴアからマラッカ、長崎へと布教範囲を広げ、とりわけ日本では30万人近くの信者を抱えている。ゴア総督共々組織への悪い事態も覚悟しなければならなかった。創設者イグナチオ・デ・ロヨラの結成の趣旨に心酔しているヴァリニャーノ師にとって、真っ先に頭の中に浮かんだ危惧は、フィリピンを最西端の布教地とするスペイン由来のカトリック宣教師の団体だった。13世紀に台頭したフランシスコ会やドミニコ会、アウグスチノ会、カルメル会などの分派が虎視眈々と日本進出を狙っていて、コロンブスのアメリカ発見後ピサロやコルテスなどのヌエバ・エスパーニャ(新スペイン)の征服者と一緒になって、大陸の布教を本格的に進めているフランシスコ会の動向が最も気になるところだった。今となっては信長殿との約束があり派遣を中止するのは難しいが、4人の少年使節たちの欧州派遣の実施計画の根本的な再検討が差し迫っていた。

 ヴァリニャーノ師は、『東インド・イエズス会史』を執筆する傍ら、メスキータ修道士を使節団の中心的世話役に据えるために、彼を司祭に昇格させる計画を立てた。数か年のイルマンの経歴はクリアしているから、あとは神学、哲学の修練が必須科目だった。マカオの司祭館で数か月学ばせることで見通しはついた。この事態の中でもヴァリニャーノ師は、エンリケ1世の権勢に従って動いてきたイエズス会のインド・ゴア教区の巡察師の立場だけは厳格に守ることにした。それ故にクリストファー・アクアヴィーヴァ現会長の今後の組織的指示を待たなければならない。そしてどのように困難な指令が下ったとしても唯々諾々と従わねばならない。騎士団に属していたイグナチオ・デ・ロヨラ以来のイエズス会は、独身男性宣教師だけの組織で、その上軍隊的規律を保っていたからである。

 次の懸念は13歳前後の濁世に汚されていない少年たちのことである。ヨーロッパに滞在している間には謀略も含めて、様々な誘惑や疑念や不信など、負の情報に打ち勝つ素養を身に着け、少なくとも異国の相手が何を考え、何某(なにがし)かを語り、どんな行為に出ているかを理解させねばならない。ヴァリニャーノ師は、熟考の末彼らに必要なのは先ずスペイン、イタリアなどの言語を理解することだと考えた。それには、共通語として機能するラテン語に精通するのが近道である。両君王国問題で気後れしているイグナチオ・デ・リーマの商取引の長期化も考え、腰を落ち着けてイエズス会の教義を修練させ、スペイン由来の他派に対する備えも重要なことだと考えた。

「マカオでは少し長居をすることになる。別けても少年たちにはラテン語をみっちり習得してもらいたい。私も教壇に立って教えるからくれぐれも怠け心を起こさぬように」

 とのヴァリアーノ師の託宣を聞いて、ジュリアンはミゲルに耳打ちした。

「ほら、僕の言うた通りやろう。考えとる期間の倍以上ば考えんばならん」

「そうやなあ」ミゲルも黙って頷くしかなかった。

 初めての異国は何を見ても何を聞いても珍しいことばかりである。着いたばかりの頃は気付かなかったが、日本の梅雨時のように湿気が多く、濃い霧がかかったり夕刻になると激しい夕立に悩まされる。暫く過ごしていると嫌気がさすほどに雨の日が続いた。夏は湿度が高い上に暑さが身体に纏わりついて、お決まりの夕立がシャワーのようで僧衣が濡れるのも構わず、一心不乱に水浴びに興じた。

 食事については有馬のセミナリヨでは肉食が禁断だったが、ここでは時折肉の煮込みが供された。しかしポルトガル料理は大航海時代の先駆けである海に挑む民族らしく、日本と同じように副食の主役は魚だった。パカリャウという名の鱈の干物を水で戻してじっくり煮込んだ料理が定番で、主食は専らパンだった。パンを飲み込む時どうしても水分の補充が必要となるが、大概少年たちの飲み物はミルクで、大人たちは食事だろうが休憩時間だろうが、いかなる時でもワインだった。オリーブ油をたっぷり使った料理は、ミゲルならずとも日本の少年たちの口にはなかなか合わず、ご飯に漬物の質素な日本料理を恋しく思う気持ちが生じた。それを察してか、調理人たちがパエリャというサフランの香りのするの炊き込みご飯を頻繁に作ってくれた。

 ミゲルが初めの頃ラテン語を苦手と感じたのも無理もなかった。文法が日本語と大きく違うからである。全ての名詞に性別を付与した上で、定型的に修飾語や動詞の語尾を変化させねばならないことに辟易とさせられた。無性か非性であるはずの名詞までが執拗に性的に語尾を変化させられる。ミゲルはパードレやイルマンたちの日本語の敬語の使い方が不自然だったり、物の数え方が滅茶苦茶だったりするのと同じだと思った。そう考えると気は楽になったが、いざ話す場面になるとどうにも緊張してしまう。宣教師たちは、ただ学術的な面から教える方法はとらず、ネイティブたちに囲まれての会話を中心にその後をなぞるやり方を執拗に徹底した。言わば口真似を幾度も繰り返したのである。幼少から大人社会に交わってこなかったからか、生来の日本語そのものすら満足に喋ることが出来ない原マルチノのラテン語の上達は目覚ましかった。それに比べアゴチーノやドラード、日本語担当のロヨラ先生のラテン語はどうにも様になっていなかった。話を聞いて内容を深く理解している様子は見えるが、いざ話す段になると時折言葉が詰まってしまうのだ。それは時間しか解決出来ないことで、「習うより慣れろ」が唯一の近道だった。同君連合、即ちスペインによるポルトガル併呑後の対処について、ゴアからの指令を待ったためにリーマの船は出航が極端に遅れてしまった。

 とうに9月も終わり、過ごし易い気候とはなったが、7月に中国のジャンク船に乗って長崎を目指した宣教師たちが、例の台湾海峡のサンゴ礁の浅瀬に乗り上げ座礁するという事故に遭った。船は大破し沈没したが、親切な澎湖(ポンフー)諸島の漁民に助けられ、残っていた木材と補助材で筏を作り、日夜漕ぎ続けて命からがらマカオに引き返すという苦難を味わった。宣教師全員が無事に帰ったことで、残っていた者も還った者も共々に手を取り合って喜びあった。身近に起きる数々の海難事故の恐ろしさは、血で血を洗う戦国の少年たちをも怯えさせるものだった。

 いよいよイグナチオ・デ・リーマの船の修繕が完了したが、ゴアへ向かって出発する段になって一部に不具合が見つかり、再度1か月にわたって再点検すると言い出した。総帆展帆して風の受け具合を見たり、船底の荷の偏りを点検したりそれはそれは念入りだった。ヴァリアーノ師がこのカピタン・モールに信頼を寄せる訳だけは理解できた。

 11月の終わりには、マカオの商館長や住民がフェリペ2世の統治を承認する儀式を行い、ヨーロッパ本国の支配者交代という大混乱にやっと目途がついた。やがて吹き始める北風に乗ってリーマの船が出帆する筈だった。その初めての北風に乗って長崎から本年の第1便が着港した途端、驚くべき情報がもたらされた。本能寺の変の顛末である。織田信長が明智光秀の謀反によって49歳の華々しい人生を散らし、その弔い合戦の末、羽柴秀吉が織田政権の後を継いだということだった。その天下布武、つまり天下統一の支配者のどんでん返しは、とり分けヴァリアーノ師にとって、そう易々と聞き捨てにして置ける問題ではなかった。又また難題が発生したのである。


 3 信長の野望の夢と幻


 マカオに滞在すること既に9か月半となったが、12月3日には福者フランシスコ・ザビエルに捧げる追悼ミサが実施された。東アジア布教の(いしずえ)を築いたザビエルを偲ぶ人は、30年以上経った今でもマカオでは絶えることがなかった。厳粛に盛大に終えた次の日のことだった。ミゲルたちがゴアに向かう準備に余念のない日々も終わりに近づいていた。その日もマカオは晴天で、通常の日課を送っている昼時のことだった。

「織田のお屋形(やかた)様が()(まか)られたそうだ」

 と、叫びながら世話役のドラードがミゲルたちの輪の中に飛び込んできた。メスキータ先生(パードレ)のラテン語でのミサと少年たちの聖歌の合唱が始まる間際のことだった。

「それは真実(まこと)か。大変なことになった。巡察師(ビジタドール)様はいかがにしておられるか」

 そう叫ぶとメスキータ師は、慌てて隣りの部屋へ飛び込んでいった。今まで見たことのない形相だったので、4人は互いの顔を見合わせ、暫し言葉を失った。今の今までそのような師の仰天した顔を見たことがなかったからである。兎に角驚き具合が怒髪天(どはつてん)()いていた。

 午後の行事が中止になり、使節一行12人全員が教室に集められた。そして重大な事態であることをヴァリニャーノ師が説明することになった。有馬のセミナリヨでも船中でもかてて加えてマカオに着いてからも、師は「今回の君たちの遣欧計画は、信長様(ドン・ノブナンガ)の発言を実行に移したものである。分けても今持参している『安土城と城下図屏風』は、信長殿が日本国王名義でローマ教皇への贈呈を願い出た品で、使節が持参して外交儀礼に供するために預かったものである」と付け加えた。だからミゲルらは耳を凝らして師の言葉を聞き逃すまいと身構えた。

「今日正午頃、遣欧計画を進言してくれた織田信長様ドン・ノブナンガ・オダが、筆頭重臣の明智光秀の裏切りに遭って天へ召されたとの連絡が入った。その光秀も羽柴秀吉という2番目に力のある重臣によって討たれたらしい。信長殿は、改宗者でもなければ改宗を望んでいた訳でもない。しかしメスキータ師や使節団など九州下(シモ)を出たことのない者たちには理解し難かろうが、彼はパードレやイルマン、キリスト教徒にとって最大で最高の守護者だった。フロイス師、オルガンティーノ師、ロレンソ了斎修道士の3人と親しくし、施政上の助言をヨーロッパの現状を聞くことでつぶさに得る傍ら、五畿内での布教の許可状を与え、南蛮寺を建てるのを援助した。安土城下にもその城と同じ青瓦を葺いた3階建ての教会を、資金も資材も提供して建ててくれた。1581年3月末に私が初めて会った時、彼は日本国王となる権力と資格を持つに至っており、諸手を挙げて歓待してくれた。本義を忘れて領地を持ち武力で歯向かう仏教勢力を徹底的に指弾し、多分その対抗勢力としてキリシタンを利用しようと考えて、武将たちの改宗や卑近の女御や血筋の者のデウスへの信仰を奨めたのかも知れない。それでも配下には高山ジュスト右近殿や小西アゴスチーノ行長殿や黒田シメオン官兵衛殿など勇猛、献身の武将たちが多くいる。秀吉殿が順当に後を継いだとすれば、彼らの忠義を利用して弔い合戦に勝利したのだろう」

 と、信長のキリスト者への愛情の数々と思い出をしみじみと述べた。

「しかしドン・ノブナンガ・オダには、生来、物事の成否を短兵急(たんぺいきゅう)に求める性質があった。失敗を恐れて愚図愚図する家来や数日を経ても動かない武将がいれば、即刻任務を解いて降格させた。のらりくらりの受け答え、しどろもどろの言い訳を並べようものなら、目の前にいるだけで我慢がならなかった。自らは酒を嗜まないので、酒席での無礼も容赦がなかった。他の武将が好んだ茶の湯などは余りにもまどろっこしくて性に合わなかった。尾張の小領主だったが連戦連勝して、京に上って室町幕府に据えた足利義昭にも引導を渡して五畿内を平定し、安土城を築いて下剋上を成し遂げ、天下布武の完成間近だった。だが毛利も北条も未だ健在で一抹の不安もあっただろう。平家物語、幸若舞の1節『敦盛』の段を舞うのが好きだったが、それは〈人の一生は僅か50年だが、天界の最下層の世でさえも1昼夜に過ぎず、夢か幻のようである〉という内容で、自分の歳が49才になっていたことから功を急ぎ、焦りがあったのかも知れない」

 信長の気質についてもこのように(つまび)らかに話した。

「明智光秀は医薬の心得と和歌や連歌などの雅の文化に精通し、合理的思考も併せ持つことで、正親町(おおぎまち)天皇や足利将軍とつながり、義輝暗殺後の義昭即位に尽力して信長に近づいた。その後比叡山焼き討ちの功で琵琶湖西部の坂本に居城を築き、丹波の平定で領地を広げ、更に佐久間の支配地だった大和を引き受けた時点で、五畿内のほぼ全域を領する信長配下最大の武将に上り詰めていた。信長正室の濃姫は光秀の遠縁に当たり、光秀は友である細川藤孝(ふじたか)と縁組みし、直属部下の斎藤利三(としぞう)の血縁から四国の長宗我部(ちょうそかべ)とも縁続きで、地縁や血縁からも勢力は武将の中でも秀吉などを優に凌ぐ力があった。旧体制との関係を断ち切れない状態で強大な権力を手にしたことが安易な裏切りのきっかけを作ったのかも知れない。謀反の1年前でさえ光秀と信長は蜜月の関係だった。私が京を訪れていた間に催された御馬揃(おうまぞろ)えや安土を去る時の城下のお盆会も明智殿が手助けしていて、その時信長殿は上機嫌で他の重臣たちも素直に指示に従っていた。すでにドン・ノブナンガ・オダは老齢の家老役の佐久間信盛を高野山へ放逐していたが、その家来のほとんどを明智光秀に預けた。私たちが長崎を出帆した1582年1月の時でさえも明智は家中法度(かちゅうはっと)の中でも信長殿を敬い恭順を示していた。信長が最期に〈是非に及ばず〉と言ったのは、五畿内での権力を与え過ぎていたと悟ったからだろう」

 信長と光秀の力関係が逆転し始めた背景が説明された。

「日本は渡来人が核となって成立した多民族共同体からなり、飛鳥時代に世相背景から必然的に渡来人により仏教が持ち込まれ、律令政治による農本立国を成功させた。戦国の今日、商人、工人の勢力と武士の権能集中が顕著で、ポルトガルから重商主義とキリスト教という、我々からすれば真っ当な文化が押し寄せた。前例にならうとすればそれを受容する勢力がその改革に勝利をもたらす筈で、傾奇(かぶき)(もの)とか(うつ)(もの)と呼ばれた織田信長殿という破天荒の英傑が出現した。固定概念を取り払い既得権益を打破するためである。彼は革命勢力の急先鋒であり最先頭を走った。今までになかった常備軍を組織し最新兵器鉄砲を取り入れ、仏教勢力を抑えるためにカトリックの布教を援助し、天下布武へのいろいろと助言を求めたりしている。ところが巡察師である私がインドへ去り、相談相手であるフロイス神父を長崎へ配転し、専ら布教にのみ心を割いているオルガンチーノだけが安土に残ると事態が一変した。信長の政治が変質し始めたのである。私の判断が甘かったと心から反省し、デウス様に懺悔の告解を申し述べるしかない」

 ヴァリアーノ師の言葉は在席の全員に対しても神妙な告解だった。

「ヨーロッパの場合、宗教はバチカンの教皇の手の中に権威があり、各国の王が騎士団を束ね、自らが武力を帯びて在世権力を誇示している。所謂(いわゆる)政教分離、権力権威分立となっている。日本では武家政権が成立してこの方、律令制のもとに土地の貴族管理だったものが武家管理に委譲し分権が進み、天領地は極小化し寺社領、大名領が拡大した。天皇所有の資産の疲弊である。信長殿は初っ端には正親町天皇の弱い権威を頼りにし、暗殺された足利義輝将軍の弟を還俗させ、光秀の口添えで15代将軍義昭として入京させたが、尾張、美濃、京滋、北陸と次々に制覇すると、天下布武(全国統一)にとって足利将軍職が障碍になり始めた。そこで義昭を(とも)の浦へ放逐して実権力を単一にした。私たちが長崎を出港したと同時期に始まった甲州征伐で武田氏が滅ぶと東征は終了し、残るは西の毛利氏が残るのみとなった。すると今度は天皇の権威が増大し、二重権力の構造が明白となった。特に暦の制定と冠位の任命の既得権の破棄を考え始めた。奇しくも光秀に討たれる前日が日食の日で、当時の暦御用が予測し得なかった。正確に言い当てたのが専ら関東で使用されていた三島暦で、ドン・ノブナンガはそれに替えさせようと考えていた。次に天皇が推戴(すいたい)する征夷大将軍・太政大臣・関白の3職の何れかを受けるよう奨めたがそれも受けとろうとしなかった。その天皇との中継ぎも義昭との交渉と同じように明智光秀の役目だった。実務、交渉を得意にする調停型の光秀と破壊、再構築を優位とする破天荒型、あるいは革命型の信長の確執は当然の結末を迎えたようである」

 最後にヴァリニャーノ師が述べたのが、

「ドン・ノブナンガ・オダは自らが神として祀られることを望むようになっていた。最晩年には安土城下に摠見(そうけん)寺という自分の御神体を祀る神社紛いの建物を建てた。その上自らの誕生日である5月12日を祝日として祝うように城下に御触れを出している。イエス・キリストが十字架に架けられた時に人類の贖罪を一身に引き受けて天に召され、やがて復活を果たされたことにアナロジーしてか、自刃を嫌い晒し首だけは避けたという。我らからすれば神に対する不遜な態度に違いないが、尊厳だけは守るという武士や騎士の精神を重んじたのだろう。対する明智光秀はどうだろう。事前の計画性が全く感じられず、下克上を成し遂げた後の治世の想定図も描いてはいなかった。偶々(たまたま)100人前後の通常兵士しかいない本能寺だったから信長を討つという目標だけは達成できた。ただそれだけのことで大軍を率いていたにもかかわらず、革命的な新時代の未来図を一切持っていなかった故に、付け焼刃の天下人に3日しかつけなかった。秀吉にもそのような視点がある筈もなく、ただただ信長の威を借りた張子の虎かも知れない。武力で得た権力は単なる軍力で治める独裁でしか維持できない。新たなる前衛を核とする階級が育たなければ新時代の平和的で民衆に依拠する政治など成立し得ないからである。

 だから誰の目にも私憤からの行動、天皇、足利義昭への忖度、縁者への気遣いなどといった底の浅い推定があれこれ持ち出されるだろう。最後には所琵琶湖の竹生島にオルガンチーノ師やセミナリオの生徒たちが避難したり、羽柴秀吉に黒田シメオン官兵衛と高山ジュスト右近らが協力して、信長殿の屈辱を(そそ)ぐことしか在日の司祭や修道士たちには出来なかった。今やドン・ノブナンガから懇ろな援助を受けていたイエズス会の損害は甚大である。後に我らが裏で教唆したのではないかと、天皇や足利氏や仏教勢力などの旧勢力が騒ぎ出し、新興勢力のキリシタンが暗躍したとか噂されるのは目に見えている」

 と語った。それでも気を取り直したように、

「今回の遣欧使節はあくまで九州3王侯の派遣団であり、日本国王の使節ではないから、イエズス会としては残念な事態ではあるが、中止にする必要はないと思う。殊に日本の国情は依然不安定で統一国家となっていないが、シモの大名が健在である限り、みんなの使命が果たされる意義は今もなお多大であると考える。ただドン・ノブナンガが思い描いていた天下統一とポルトガルとの友好関係構築は道半ばで頓挫し、中国の開国と通商外交の確立は幻に終わったが、6曲2隻の『安土城と安土山図屏風』は信長殿の遺志を尊重し弔うためにも、ローマ教皇様に贈呈することはますます重要なこととなった。アジア布教全体を見ると数多の入信者を有する日本管区の援助者だった信長殿に替わるパトロンとして、一層のローマ教皇庁からの手厚い庇護を得ることが今後のイエズス会発展の鍵を握っている。今こそ使節の任務を決死の覚悟で進めましょう」と結語した。フロイス師らが送ってきた本能寺の変などの全体分析を精査しての発言は微に入り細に入っていた。

 ヴァリニャーノ師の表情は、初めのうちは幾らか深刻そうで手元を見つめたりしていたが、やがて決心を固めたかのように前を見つめ、話している間に何時しか確信に変わったのか早口になり強い口調で締め括られた。

「日本とポルトガルの両国とも統治者が入れ替わるなど、ヴァリニャーノ師父様が想いも寄らなかったことが起こったんだろう」

 とロヨラが耳打ちすると、ミゲルが、

「僕らん旅にも何か暗い影が立ち込めとーような気がするばい」

 と不安な気持ちを訴えた。

教皇(パッパ)様に謁見するとが最も大切な目的なんやと仰ったことが印象的やった」

 と、ジュリアンが例のように要点を抑えた。

 フェリペ2世のポルトガル併合はメスキータ師の心の中に大きな穴を開け、信長殿の憤死はヴァリニャーノ師の今後の方策や身の置き方に多大な影響を与えた。何はともあれマラッカを経由してインドのゴアへ向かう航海が、重々しい不安を打ち消すように追い風に帆をかけてやっとのことで滑り出した。すでに時は、キリスト生誕の大祭を荘厳に行った後の、翌日に1583年の新年を迎えようとする大晦日だった。かくしてミゲルの人生に大波乱をもたらした年は暮れた。


 4 マカオからマラッカへ


 少年たちは殊のほか、ラテン語の習得に力を入れていたから、10か月近く滞在したマカオを離れる時には、最年少の原マルチノを一番手に誰もが劇的な進歩を遂げていて、師父たちは思いの外のことに目を細めていた。日本語をラテン語に変換するには未だ手間取っていたが、相手の会話の内容を九分通り理解していることが心強かった。マカオを出帆する時には試練の20日間を思い起こして、誰もが少し不安で気乗りがしないでいた。それでもいざ乗船すると肥前の寒さの中の年越しとは大違いで、爽快な追手の風を浴びて年も改まっての気持ちの良い航海が始まった。

「春まだ寒い季節に長崎ぅ発ち、冷てえ強い北風に晒されたけん、生きた心地がせんかったけんども、今回は順調に船は進みそうやなあ」

 とマンショが呟いた。

 そんな性懲りもない安易で薄考な感想が浮かんだのも止むを得ないことだった。リーマはイグナチオを名乗っているだけあって、何よりも先ずイエズス会への協力を率先するカピタンだった。それを先刻承知だからヴァリニャーノ師も万難を排して彼の思惑に付き従った。中型船では長期の航海では寄港する度にそこかしこを修繕する必要があるために、商取引での利益は桁外れには得られない。だが船員たちの信仰心だけは厚くて団結も強固で、リーマも部下たちを粗末に扱うことはしなかった。

 それに反して進水式を終えてモルッカとの胡椒貿易に乗り出したばかりで、初めての航海なのに最遠東のマカオにまで足を伸ばして、大量の見返り品を満載して颯爽とゴアやリスボンまで戻ろうとしていた2隻の大型船が偶々マカオに寄港していた。

「ロヨラ先生の話によると、リーマのと比べて大きい船だから揺れも少ないし、部屋も広くて最新の設備だから、少年たちにはあの船に移った方が良いのではないか、と持ちかけたが、ヴァリニャーノ師は即座に否定されたとのことだったらしい。実を言うと先生もメスキータ師も大きな船に乗りたかったらしいが、巡察師は言下に断じて取りつく島もなかったと言う」

 そう話すドラードの表情も心無しか残念そうに曇っていた。

「マラッカへの航路にはマレー半島間近に浅瀬や岩礁が多く、大型船では危険が多く、初航海のカピタンにはそれへの対処が難しい。経験不足が思わぬ事故を招くことがある」

 とのリーマの説明にヴァリニャーノ師父は大きく(うなず)いていたそうだ。

 長崎からマカオへの航路同様、出航直後から暫くの間真南に進路を採る。だから冬期間の強い北風に乗って一気に加速し続ける。前回は暴風雨に晒されたが、今は順風で大波に舳先を打ち叩かれる衝撃は小さかった。それでも船酔いに弱いマルチノやアゴスチーノは再び用意されたワイン樽の世話になるしかなかった。更に口惜(くや)しいことに、満帆展帆しているにもかかわらず、2日後に出港した(くだん)の2隻の大型船に追い抜かれてしまった。指笛を鳴らしたり手を振り回してあざ笑われて、当て(こす)りをする船員たちの態度が気に食わなかった。先を越される屈辱ではなく、粗野な者どもの心無い仕種(しぐさ)に対するショックの方が大きかった。無視して遣り過ごそうとするが、乗り移ることを提案されていたこともあり、こっちの船では帆を上げ下げする操作員たち以上に、ミゲルたちの方が口をへの字に結んで地団太を踏んでしまった。

 マカオを発って2、3日もすると、展帆要員たちの動きに落ち着きがなくなり慌ただしくなった。帆を畳んだり広げたり、その向きを左右に引っ切り無しに変えたり、(せわ)しなく動き回っている。西沙諸島と呼ばれる、サンゴ礁が広大に出張っているため、それを避けながら、出来る限り海南島やインドシナ半島の近くに航路にとり慎重に進めるしかない。漫然と追い風に乗ってスピードを上げていると、座礁して転覆するか船底をこすって浸水して沈没する危険があるのだ。

「長い間マカオに碇泊して修理したのに、船の調子が悪いのですか」

 と、ミゲルがたどたどしいポルトガル語で訊ねると、

「この度の航海は割と順調に進んでいるよ」

 船員たちは笑みを浮かべながらの素っ気ない返事だった。

 その自信を裏付けるように、数日間に及ぶ細心の注意を払っての航海によって第1の難関である西沙諸島を過ぎると、船は再び順風満帆で真南に向かって走り出した。暫くは座礁する心配がないから総帆展帆で進められる筈だとのことだった。確かに長崎を出て直後の揺れが酷かったのは、散々船酔いに悩まされたことからも頷ける。今は甲板に立って沖を見張らせるほどだから、穏やかな航行であることの(あかし)に他ならなかった。

 それは扨て置き一面、見晴るかすの少し丸みを帯びた青海原である。地球が丸くてしかもだだっ広い代物だと分かるのは、このような波一つない穏やかな時である。マカオの乾季はすこぶる暑かったが、冬の絶頂期なのに赤道に向かっている関係か、肥前とは大違いで凌ぎ易い温暖な気候である。しかも次の寄港地マラッカはほぼ赤道上である。相変わらずセミナリオの授業が続けられたが、休み時間には身体の不調を解消するために甲板に出て、歩行などの運動は欠かせなかった。海が時化(しけ)ると火の使用は厳禁なので、硬くて飲み込みにくいビスケットやカラカラに干した肉などの食事になる。日本人好みのご(パエリア)(炊き込み雑炊)とパカリャウという干し鱈を戻してジャガイモや玉葱と一緒に煮込んだ料理が供され、肥前では食べたことのない料理に少年たちは舌鼓を打った。

 しかし乗員総勢が願う快調で穏やかな航海もそう長くは続かなかった。マカオを発ってから20日以上過ぎたところで、夜明け頃から空模様が悪くなり雲行きが怪しくなった。思う間もなく海面に土用波のような大きくゆったりした波が立ち、北からの追い風が激しくなって暴風雨となり、時折向きを変えて横殴りの風も吹き荒れだした。こうなると舵は思い通りにならない。号令一下、総帆畳帆の指示が下りた。主柱の大帆はすでに下ろされて甲板上に畳まれているが、暴風の中で小さな帆でも下ろして折り畳むのは至難の業である。乗り組み総員の必死の作業が続く。もし手遅れになると自滅の連鎖に陥り帆柱を()し折られるか、帆を(あお)られて転覆の危険さえ訪れる。それだけは避けねばならない。屈強の乗り組み員の曳く綱と、横木を事も無げに渡る鳶職者の軽業により、やっとのことで全ての帆が畳まれた。危機一髪こそこんな時を指す四字熟語である。

 マカオを出た時から再認識し、心積もりもしてはいたが、ミゲルもワイン樽の世話になるしかなかった。船酔いに罹り易いマルチノが身体を縛り付けていた縄を緩めて樽に屈み込んだ。するとお決まりのようにミゲルとドラードが匂いにやられて樽の傍へ駆け寄った。船乗りたちの話では段々に知らない間に、身体が船の動きに慣れて酔わなくなるそうである。揺れに合わせて体を動かすとか、遠くを見つめて気を落ち着けるとか、いろんな作業に夢中になっていると船に乗っていることさえ忘れて揺れに慣れるらしい。実の所船が大きければ大きいほど船酔いが少なくなると聞かされた時は、挑発するように嘲笑を投げつけていった、あの2隻の大型船の船乗りたちの仕草が思い出されて、ますます侮蔑に対する怒りが大きくなった。

 それでも舳先の三角帆だけで操縦すること3日間、ついに船は第2の難関のリアウ諸島を過ぎて、元の安定走行の状態に戻ることができた。どうもカピタンは大量の荷物の重さを考えて今回は無理をしなかったらしい。もうすぐマラッカに着くと聞かされて使節団のみんなは胸を撫で下ろした。マレーシア半島の岬が見えてきたところで、面舵を目一杯切った。船は大きく右旋回してシンガポール海峡へと入っていった。

 一人の船乗りが大声で叫んだ。メインマストの中ぐらいの高さの見張り台にいて、前方監視と大帆の着脱の指揮をとる役目の命知らずの男である。

「右前方1時の方向に難破船か幽霊船が見えるぞぉ」

 帆柱が折れ、船体も傾いていると事細かに知らせてくれる。ミゲルらもその方向を凝視するが一切何も見えない。水平線ぎりぎりのために高い所からしか見えないのか、さもなければ余ほど目が利くから判るのだろう。波風のない海面を進んでいる時ほど甲板上が不気味なくらいに静かなことはない。十字架の描かれた帆がそよ風にはためいて、ぱたぱたと僅かな音を立てるだけだ。大声を上げずとも船上の誰もがはっきりと聞き取れる。幽霊船かと見紛うからには人が乗っていないのだろう。乗り捨てられてどれほどの月日が経っているのか。疑問が湧いて尽きることがない。乗組員たちに混じってミゲルらもに右舷に立って海の果てを見つめていたが、半時も航行すると見渡す限りの海面に浮遊物が散らばっている。梱包された大量の織物や袋入りの香辛料に、船員たちの着替えやビスケットなど食料用の荷物まで沢山の品が浮かんでいる。

「袋ば引き上げんで通り過ぎるんは、なしてやろう」

「帆ば畳んで戻るうちにそこにあるとは限らんけん、一度水に浸かった物は商品価値が()うなるばい。そもそもこれ以上積めんほど目一杯荷物載せとるばい」

「荷物よりも向こうに見える船の様子が気になるのう」

 少年たちが憶測で無駄話をしている間に、芥子粒にしか見えなかった『幽霊船』の全貌が明らかになった。見張り番の知らせでは、船体が傾き舳先がもげて船べりが大破しているらしい。数人の人影が見えていて、布切れを大きく振り回しているから、生き残りがいて助けを求めているのだという。追い風の中であっという間に近づいて、メインマストが折れて帆がびりびりと破れ、おびただしいロープがひっ絡まって解けそうにない状態の難破船が数百メートル先に見えてきた。破れた帆に描かれた十字架が寂しそうである。

 その難破船は(まさ)しくカピタン・リーマの船を猛スピードで追い抜いて行ったポルトガル船籍の大型船2隻のうちのどちらかである。もう1隻の影も形も無いことからすると、()()うの体でその場から去ったか、乗り移れる乗員や目ぼしい積み荷だけ引き取ってマラッカへ急いだのだろう。

 直ちに帆を畳んで三角帆による微速に切り替えて接近を試みる。数十メートル近くの所で錨を下ろした後、脱出用のボートを下ろし櫂で漕ぎながら縄梯子にとり付き、定員になったところでリーマの船に戻る。今1度往復し隅々まで探索したが、死者は見当たらず生存者は全部で16人だった。行方不明の生存者も他に数人はいる筈とのことだが、置き去りにされた彼らは怪我1つしていなかった。失意の水夫たちの話によると、日本やマカオでの収益である銀塊や瑪瑙(めのう)細工など高価なものだけは船尾楼の隠し部屋から運び出し、他の1隻に移されたが、嵐の中、決死の思いで船内の荷物を甲板上へ運び出す作業をしている最中に、座礁していた船が転覆し取り残されたのだと言う。船体は折れて大破し、船倉に至っては全て水没、商品は売り物にならないと思われたので、身一つで傾いた船から這い出たという。もう1隻は彼方へ遠ざかっていて、沈んだ気持ちで船影を見送りながら、誰もが死を覚悟したという。残酷にも虫けらのごとくに見捨てられたのである。

 離れていくナウ船を大声で「戻れ、戻ってくれ」と叫びながら、影が次第に小さくなっていくのを見つめている姿を想像するに、ミゲルたちも同じ憂き目に遭ったかも知れず、つくづくマカオで乗り換えることを頭から拒否した巡察師父の決断とデウス様の加護に感謝するしかなかった。かてて加えてこれからもそんな危険が待ち受けていることに背筋が凍るような怖さを感じないではいられなかった。モルッカの香料諸島やリアウ諸島などの珊瑚礁やマレー半島とスマトラ島との間を通る狭い海峡など危険な箇所が沢山あるのが、東アジア航海ルートの最大の欠点であると聞かされてはいたが、わが身をもって体験すると極めて強烈な実感となる。中でも一番の難関であるシンガポール海峡で遭難したのである。生存者の話を総合すると、順調な航海が急激に険悪化したのは嵐の前触れを捉えきれなかったからで、帆を畳むのが僅かに遅れて仕舞い、強風に煽られて一挙に岩礁に乗り上げたとのことである。海の恐ろしさを軽んじたか、自分の航海技術を過信する者が往々にして陥る過ちだとリーマがヴァリニャーノ師父に語ったそうである。

 錨を揚げ舳先の三角帆だけを張ると、半日ほど右に左に細やかな動きで進んだ。最大の注意を払って何とかかんとか狭いマレーシア海峡の難所を過ぎた。やっと航海におあつらえ向きの爽やかな風を受けることができた。展帆すると船は再び静かに滑るように速度を上げて走り出した。波が砕け散る音以外の余分な音はしない。快調に進んでいる時の帆船の特徴である。

 陽が沈んだので又ぞろ帆が下ろされて錨もおろされた。絶対に無理はしないという頑ななリーマの信念が見て取れた。それでも暁を待つことなく動き出した。使節団が穏やかな日和の日課としていた聖歌、器楽演奏の時間を過ごしている時にマラッカに着いたと知らされた。マカオから28日目の1月27日の昼時だった。

 赤道直下の港はどうひいき目に見ても商業港と呼べる街並みでなかった。100年ほど前、明の鄭和(ていわ)がアフリカ遠征の拠点としていた軍港で、明との朝貢外交でマラッカ王国の基礎が築かれた。スマトラ島の勢力との戦いに加え、イスラムとヒンズーと仏教の宗教対立でこじれた上、マレー人、華僑、バタビア人の人種対立も生じたが、マレー人を中心にイスラム教を奉ずる重商国家として繁栄した。16世紀初頭にポルトガル船が香辛料貿易を求めて寄港したが、カトリックへの憎悪を顕わにして60人近くを殺害する事件が起きた。ゴアの総督アルブケルケが捕虜の返還と通商を求めて軍船を派遣したが、一切を拒否されたため戦争となった。結局ポルトガルが勝利しマラッカ王国が破れ、マレー半島奥に逃れたことで手に入れたアジア中継の拠点である。

 どちらかと言うと危険の多いスマトラ海峡において、緊急時に立ち寄る必要性とゴアとマカオの中間に位置する利便性から設けられたか、さもなくば狭い箇所でスピードを緩めざるを得ないから海賊の出没が多く、警備基地として最適であるためかとも考えられた。何しろ城塞のように周囲が石壁で囲まれ、荷揚げ場は狭いし、切り立った崖が迫り、倉庫群がやけに目立つ。商取引は奥地で行って港では荷物の積み替えや乗務員の飲食材料の補給が主な目的と思われた。

 (くだん)の難破船の仲間の船も折れたマストや船縁板の補修、水と食料の補充にてんてこ舞いしていて、気まずい思いも相まってか、見捨てた仲間の生還を喜び合うこともせず、何もなかったように普段通りを装っている。

「2、3日の滞在だから手荷物は持参しないで、身一つで教会へ向かう」

 ヴァリニャーノ師父が指差す先の波止場最寄りの小高い丘の上には、十字架を尖塔に頂いた荘厳な教会堂が建っている。立ち寄る船の安全を見守る灯台も兼ねて佇立していた。その丘の麓や城壁の周りには南洋独特の植栽、椰子の木が林立している。さすがに赤道直下の風情であり日本ならば真冬の筈なのに、梅雨間近の5月晴れの気候に似ていて、気温は高いがじめじめしていなくて心地の良い暑さである。

 道端には椰子の実やバナナ、ドリアン、マンゴーなどの果物売り、袋いっぱいの香辛料を並べて売り込む商人、錫や鹿皮など地元の産物を扱う業者がひしめき合っている。長崎やマカオと同じように帆船が到着すると俄かに賑わう、交易品の売買と乗員たちの必需品や寄港の一時(いっとき)の生活に供する人々が集う町は、広大にひろがる農業生活者の子弟などの第二次産業予備軍が(たむろ)する夢を売る街でもあった。12人の総勢で丘の上の教会堂傍の住院へ乗り込むと、広い居室もごった返すことになった。

 日本からの珍客は上を下への扱いで町中がその話題で持ち切りとなり、思わぬ大歓迎を受けることになった。フランシスコ・ザビエルがヤジローと出会い、日本へ布教に赴き帰還、再び中国への基盤を築くために赴いて病死、遺体としてマラッカに戻ったのが丁度30年前の1553年2月である。その追悼ミサを催す準備が進められていて、日本人キリシタンが立ち会うなど滅多にないことだと歓迎が大盛り上がりとなった。分けても今回は4人の少年たちが主客である。得意の楽器を奏でていても聖書の読み合わせをしていても、常に周りに人垣が出来た。数日もしないでゴアからローマへ向かう旅に出ると知らされているから尚更一目見たいと詰め掛ける。

 マラッカに着いてから2日が過ぎた夕刻、ミゲルたちの隣りの部屋に収容されていた司祭が昇天したとの報告が入り、そこに集う信者全員で慰霊のミサを催すことになった。例の難破船の乗客16人全員が行方不明で溺死したとされていたが、偶々板切れに縋りついていて助かった2人の宣教師のうち修道士は命拾いしたが、パードレが高齢のためか肺炎に罹り息を引き取ったのだ。ポルトガル生まれ同士のメスキータ師の知り合いでゴアのイエズス会のボンジェズ教会で2年間ほど同室だった司祭である。マカオで一行を見付けてメスキータとの再会に感激一入だった人である。ミゲルのことを有馬王の従弟で大村侯の甥っ子であると知ると、告解の相手を自ら進んで引き受けてくれた。ミゲルと同じで戦争の惨禍で父親を失い、出家して修道士となりアジア布教の拠点であるゴアへ派遣され、マカオに出向いていての事故との遭遇だった。

 ミゲルの父、義兄は部下や家族の安堵と引き換えの為に(いくさ)で自死しているが、身内の死にもかかわらず、別段の感慨を抱くことはなかった。幼なかったからだが、遺体を見ることも触ることもしなかったからである。

 痩せても枯れてもミゲルは侍の子である。死を恐れる、いや死から逃れる、敵前逃亡するなどはお首にも考えることはなかった。母忍の教えは徹底していて「1つは領民たちのためには勇敢であれ。2つは義のためには烈であれ。3つは死に臨んでは潔くあれ」だった。ただ不慮の事故や決断ミスによる「無駄死に」だけはしてはならなかった。かの司祭の死はしてはならない死と考えられた。ミゲルはこのような口惜しい死に方だけはしないと母の言葉とともに心中に刻んだ。


 5 マラッカからインド上陸へ


 マレー商人たちが見送る中、2月4日早朝、カピタンモール・リーマの船はマラッカ港の波止場を離れた。たったの8日間の滞在だったが、様々な初めての体験をするのは肥前を離れてからの常なることとなった。とりわけ香辛料とココナツミルクをふんだんに使った鶏肉料理はミゲルの性に合った。椰子の木が並木のように道路脇に植えられ、サトウキビやパイナップルなども大規模に畑に栽培されていた。見たことのない珍しい南洋果物も沢山初の食味をした。ただパードレの死に際して人の遺体を初見した経験は、行く行くの命を懸ける場面での脳裡の1隅に必ず浮かぶことになる。若侍ミゲルにとって、単純に死によっては生きることの苦しみから逃れられるかどうかを問い続ける切っ掛かりとなった。

 果たして政治と宗教の狭間で人生の最期を決定づける生死の問題が、決して解けず答えを得ることができないことだと悟ることはできた。母からの自立の第1歩である。それでも親しく接してくれた神父の昇天は、残念で虚しく、心から悲しくて半面惨めにも思われた。

 スマトラ島とマレー半島に挟まれたマラッカ海峡は、マレー半島の付け根から始まって延々と続くが、インド洋に出るまでは帆船にとって難所続きで、カピタンにとって心を休める(いとま)はない。ちょっとした油断が取り返しのつかない大事故につながるからである。乗組員たちの小さなミスにも声を荒げることがしばしばあった。暴風雨の危機を脱した折には巡察師父に対して、この上ない穏やかな言葉でデウスへの計らいに感謝を述べたが、その口が今は聞くに堪えない汚い言葉を発している。

 海峡の真ん中を走らせれば、いらない苦労もしなくて済むのにとミゲルは思ったが、ヴァリニャーノ師父の説明は意外なものだった。スマトラ島の海岸は浅瀬で砂浜となっており、マレー半島を近くに見ながら進むのが常套手段であるとのことだった。少々遠回りになるが安全第一のコースだとのことだ。アンダマン海に入ったところで取り舵をとって左に進路をとった。取り舵を切ってインド亜大陸の南端、コモリン岬を目指して真西に進んだのである。

 それでも依然として危険地帯が続いていて、ニコバル列島を通り抜けインド洋に出た時点で、やっとカピタン・モールがひと息ついた。出港から10日ほどでゴアまでの半分近くを進んだことになり、今回の航海は至って順調に進んでいる。これ以降航路に島はおろかサンゴ礁や浅瀬の危険もないし、季節風も強烈ではなく、辺り1面大海原の絶好の日和となった。1年以上を異国と船上での生活を継続しているからか、ずっとそわそわした状態で尻が落ち着かない。今は甲板の上なのに揺れも少なくて船酔いもしない。追い風なので風を感じないから、少し気温が高く汗ばむくらいの気候である。

 ところがミゲルの予想に反して、ヴァリアーノ師の船室にカピタンが血相を変えて飛び込んで来た。デウス様に自らの原罪を(ゆる)し、航海の安全の加護を給わるように祈ってほしいと頼み込んできたのだ。カピタンが話すには、ここ2、3日の天候を分析したところ過去に経験したことのない災難に見舞われるかもしれないと言う。メスキータ師もカピタンも巡察師父も顔色が今までになく曇っていていたそうだ。ミゲルはこんなに順調満帆なのに何故だろうと考えてしまった。確かに季節風は緩くて目を見張るような船の速度は出ていない。本来は舳先で波頭を叩くようなスピードで進む筈なのに、このままでは数日もしないでぴたりと動かなるだろうと危惧している。

 カピタン・リーマの予想は的中した。しかももっと悪い方にである。彼の告解は一つも効果がなく、その翌々日の夜明け過ぎに太陽が上り始めると、張られた全ての帆布が無風下でだらりと(ひだ)を作って垂れ下がったままとなった。辺り一面の海原にも白波さえ立たず、凪た湖面の如くで陸地や島はもちろん仲間の船さえ見えない。風さえあれば横からだろうが、はたまた向かい風だろうが、複雑に結び張られた操作用のロープを巧妙に駆使して、ジグザグにパラレル走行して前進ができるが、無風ならば一切の為す術がない。帆船で交易する限り、近隣国とならともかく、グローバルな遠方は季節風任せの一か八かの博打か大冒険に他ならない。むしろ暴風下の転覆の危険よりも、べた凪の無風の方が故郷遥か洋上での客死を覚悟しなければならないのだ。このままでは万策尽きて、カピタン・モールの命脈が尽きて万事休すとなってしまう。

 そればかりか難破した仲間の船の探索に一両日を費やし、マラッカ港での補給と商取引の手際が若干上手くいかなかったので、数日の遅れが出たのが原因だという。ベンガル湾では3月末でほぼ乾季が終わり、追い風である北東からの季節風が吹かなくなる。風は季節の変わり目でぴたりと止むが、雨、風をもたらす雨季にはまだ1か月ほどある。リーマの船は他とは違ってかなりの余裕をみて、通常を上回る1か月分以上の食料や水を搭載してはいた。出港から10日ちょっと過ぎですでに半分近くの道程を進み、インド洋に達しているので、予定より相当のゆとりがある筈だった。ほど無く前進も後退もできない状態になり、水平線360度全方向何一つ見ることのない大海原で全くの孤独状態になった。何の手当も出来ずに途方に暮れるまま安易に風を待つしかない期間が2週間、その時点の計算では5日分しか食料や飲料水が残っていなかった。デウス様頼みの風が吹くまで倹約して使い、全員の命を守らねばならない。取り敢えず残っている食料と飲み水を4等分して、夫々1週間ずつに分け向こう1か月分として残すことにした。

 断食というのは古来からある精神力を試す苦行であり、洋の東西を問わず、宗教的で精神的な行為である。釈迦に劣らずイエス・キリストもバプテスマのヨハネから洗礼を受けた後、荒野で40日間の断食行をして悪魔の誘いを撥ね退けた。月を跨いで継続するには食料は徐々に量を減らせれば、限定されるがある程度の日数は維持できる。それでも水と塩だけは摂らざるを得ない。手足、身体の垢や甲板、船室などの汚れを掃除するには、ふんだんにある海水を利用すれば良いが、飲料用の真水に限っては雨水を溜めることが出来れば兎も角、海からは得ることは出来ない。真水をもたらす雨季は少なくともこれから1か月後である。それまでは飲用水を残さなければならない。なにしろ3月の終わりでも赤道直下での気温は30度近くから下がることはない。船上の乗員にとって喉の渇きだけはどうにも我慢ならないだろう。それから逃れるには、先ず暑くて乾燥した乾季の陽射しを避け、船室内でじっと伏せているしかない。芭蕉の葉で作られた団扇で仰ぐのも疲れが溜まって、2、30分もしない内に前以上に喉が乾くので逆効果となる。豊富にある海水を飲むなど以っての外である。沸かして蒸気を発生させて水滴を回収して僅かの慰みにする者もいたが、夥しい労苦の成果は決して見合うものではない。

 悪いことに数日前から船内では熱帯特有の熱病が流行(はや)り始めていて、乗組員が1人また1人と甲板下の船室から運び出され、船尾樓の医務室に隔離して収容されていた。高熱と下痢に悩まされる病だそうで、過労気味に働いている人夫たちは罹ると急速に重症化するらしい。劣悪な生活環境にあるのが最大の理由だとのことで熱病だから脱水症状が続くことが死を呼び込む。それを避けるためにも水分補給は欠かせない。人情に篤いカピタンは患者には節水を迫ることはなかった。その分健康な者に対して厳しくするのは非情なことではないだろう。飲料水と食糧の倉庫は厳重に(かんぬき)が掛けられ、鍵はカピタンの腰にしっかりと結びつけられている。

 派遣団の中ではメスキータ神父が誰よりも先に熱病に罹った。マカオを旅立ってから気温が上がるに連れて、体力のないメスキータ師は見る見るうちに痩せ衰えていった。次にマンショが倒れた。神父2人専用の部屋に担ぎ込まれた。ドラードを世話係につかせ付きっ切りでマンショを介護させた。日に1度は医者に症状を看せ、その指示に従って貴重な水を飲ませたり、帆布の端切れに水を含ませて額や両脇に当てたりした。ヴァリアーノ師は体力に自信があるので2人の傍を離れることなく、リーマとただ1人の医師に手厚い看病を頼んだ。母親と生還を約束しただけに、ミゲルと残りの少年たちに伝染(うつ)らないようにデウスの加護を祈り、2人の側で只々立ち尽くしていた。

 そのミゲルたちだが1か月を超える航海にゴアに到着する当てのない生活とじわりじわりと押し寄せる喉の渇きという苦しみと実に個人的で孤独な闘いを続けていた。

「ミゲル様、今さっき大村の三城城の井戸の釣瓶で冷たか水ば汲む夢ば見た。ジュリアン殿の声がして気が付くと、喉の苦しみだけが残っとって、お腹が空いとーことは2ん次やと思うた」

 マルチノの言葉に大きく頷いていると、

「ジュリアンも呻きながら『お城の井戸ん水が飲みたか』とうわ言ば()いとった。俺も何度かあん井戸ん夢ば見た。あん水はほんなこつ旨かった」

 ミゲルには釜蓋城の井戸水の味などは一切覚えがない。あまりにも幼なかったからで、きっと雲仙岳からの湧き水だから想像はつく。セミナリヨや長崎では少々塩っぱいのか鉱物の味がするのか三城城の井戸水には敵わない。喉が渇くのもひもじい思いをするのも、程度の差こそあれ事故や病で死ぬのも根本において同じで、本当に個人的で孤独な自分との戦いであるとミゲルは思った。

 飲食の厳しい制限が解けたのは錨を下ろさずともぴたりと動かなくなってから10日余り経った時だった。雨こそ降る気配もなかったが、最後の季節風(モンスーン)がわずかに吹き出した。暫くの時が流れると残っていたすべての風を集めて大きな追い風となった。風待ちで総帆展帆したままだったので忽ち船のスピードが上がり、南西の方向に滑り出し波頭を叩く音さえし始めた。ヴァリニャーノ師ら年長者らが、カピタン・モールとともに胸を撫で下ろしたことは想像に難くない。今度はイエスが断食行の後で悪魔の誘いに打ち勝ち、悟りを得るために要した40日間の闘いだった。

 使節団では誰もが手を取り合って喜び、安堵の気持ちに浸った後、少年たちみんなで甲板に上がり、讃美歌の「サンクトゥス」を合唱した。飢えと渇きの束縛から解放されて展帆作業を終えた船乗りたちも、大きな輪を作って神への感謝の祈りを込めてじっと聞き入った。辛うじて幽霊船となる災禍から免れた自走能力のないナウ帆船は、今や満帆の風に生き返ったように進んでいる。相変わらず飲食料のひっ迫は続いているものの、インド亜大陸南端のコモリン岬は数日もかからないとのことである。帆船の運航にとって炎天下の無風こそ最大の敵ではないかとつくづく思い知らされた。人力でも馬の力でも良いから、何らかの工夫をした方が将来に利すると考えてしまった。

 危機を免れてホッとする気持ちは、操船にたずさわる者たちの方が誰よりも大きい。仲間たちが命を落とし、次々に大海に放り投げられる姿を何度も目の当たりにし、何よりも遭難の恐ろしさを知っているからである。ミゲルたちが生きて来た十数年、聞き及ぶ戦乱での死者は数知れないが、眼前ではまだまだ指折り数えられる程度でしかない。それも初めての旅で、わずか1年余りの間でのことである。死を怖れることが大人への階段を上る第一歩であることを漸く知った。

 風は追い風、波はべた凪、熱気は雨季の前触れか薄れて最高の日和が続いた。絶好調に進んでいる帆船ほど心地良いものはない。これも又経験のある水夫なら誰しもが知るところである。普通なら10日以上は要する海程も2日足らずの航海で、セイロン島の南端を通り過ぎ、同じように進めば1週間もせずしてゴアに辿り着くと予想された。

 この喜々とした楽観状況がはた又とてつもない惨禍を呼び寄せた。コモリン岬はまだまだでセイロン島南端を過ぎてからは向かい風が強くなり、船旅の恐ろしさを重々承知のカピタン・モールや百戦錬磨の船乗りたちが、順調に進み過ぎているがために陥る大きな油断を生み出した。海図を読み取る専門家がセイロン島南端を過ぎて2日も経ったから、コモリン岬も大きく飛び越えてゴアも目鼻先だと言い出したのである。

 ところが実際には追い風は弱まり、最速時の半分程度でしかなかったのである。止む無くセイロン島のコロンボでコチンまでの給水と食料補給を受けることにした。交易のためではないから必要なだけ買い入れてその日のうちに出帆した。

 ところが取り舵を取ろうとするものの、あたかも面舵を切ったかのように右へ右へと進み、ついには南西の突風を受けて、全帆畳帆した時は既に遅く、浅瀬が数キロメートル先に迫っていた。コモリン岬寸前の筈が明らかにセイロン島の西岸へ流されており、その北方に張り出しているセイロン島とインド亜大陸を結んでいるアダムス・ブリッジと呼ばれる列島に向かっていた。その列島は元来砂州だったそうで、そこまで流されたら大事故は免れない。素早く帆を畳んだものの海流も強く逆行し続け、慌てて錨を下ろしたが間に合わず、見る見るうちに浅瀬に乗り上げて船は大きく右に傾いた。

 脱出するには積載している商品を海中に捨てて浮き上がるか、北からの強風が吹き出すのを待つしかなくなった。羅針盤を熟知する者が、コモリン岬を超えてから右へ進んでいるので、ゴアはもうすぐだと主張するので、年長者たちの間で議論が始まった。辺り一面が砂地の浅瀬なので、2世紀前に鄭和がアフリカ遠征の途中で名付けられたらしく、中国語で「チーライ」と呼んで警戒すべき難所だった。万事休すである。リーマは、あと少しでゴアに着けるのにと思うから諦め切れず、積荷を解くことだけはしたくないと頑なだった。それは無理もない。船が砂地に乗り上げただけで、何処にも傷一つ見当たらない。ただ水平でないために日常生活が不便であることだけである。幾日かかろうとも逆風を待ちたいと主張するのも無理はなかった。

 しかしヴァリアーノ師にとっては、再び訪れた災難が長く続く怖れがあることが気掛かりだった。メスキータ師の熱病が全快していないことや少年たちの生命の安全も考えて、何時もならカピタンの指示に逆らうことなど思いも寄らなかったが、今度だけは自分の意思を貫き通すことに決めた。

 少年たちは生まれてこの方、飢えや渇きに絶える経験などしていなかったろうし、分けても絶対に生きて還らせるとの、ミゲルの母とのほんの1年数か月前の約束が頭の中を去来して止まなかった。その一事でもこれ以上座して苦渋に甘んじさせることはできなかった。

 決断すると行動は早かった。連なる列島を辿ってインドの漁港に連絡を取り、ゴアに滞在していた時に布教に赴いたマナパルの教会へ向かうことにした。救助艇を着水してもらい向かわせたところ、2日後の早朝に大きな漁船が横付けになった。メスキータ神父も含む12人全員が旅の荷全てと共にインド上陸を果たし、イエズス会の息のかかる教会に世話になることになった。マカオ、マラッカに次いで3国目の上陸である。

 ミゲルにとって聞きしに勝る航海による渡欧の難しさと膨大な時間の必要を痛感する半面、望郷の念に駆られないのが不思議だった。と言うよりもホームシックに陥る暇もない程次々に難題が起きて、その懐郷病に罹る心の余裕さえなかったのである。


 6 インドのコチンにて


 インドは4大文明の1つのインダスを有する国であり、古くから多くの宗教が創出されたり流入したりして異教林立の坩堝となっている。故に幾つかの異教徒に囲まれているイエズス会だったが、ゴアを拠点とするポルトガルの貿易によって西岸地域の経済は潤っていて比較的安全だった。分けても荒野の多い東南部は異教徒が多く、盗賊も含めて警戒が必要だった。ヴァリニャーノ師も1度視察に訪れただけで記憶を辿りながら着いたチュリカンドルという港町の教会に2日宿泊した後、少し内陸に位置する旧知のマナパルという名の小さな町に移った。ヴァリニャーノ師の馴染みの教会がある所である。勝手知ったるその教会堂で遭難続きで延び延びになっていた復活祭のミサを催し、早々に信者らの斡旋で神輿のような駕籠を手配させて夜更けを待って西海岸に向かうことになった。

 この国の暑さは容赦がなく、時折吹く風は涼しさを運ばず、(かまど)の中に頭を突っ込んだ様な熱風をもたらすと誰もが口を揃える。だから木陰や軒下に避難しても暑さから逃れることは出来ない。たとえ駕籠に乗ったとしても、体力の消耗を幾らか抑えられるだけである。だから熱風下の昼は動かず、幾分とも暑さの和らぐ夜中に旅程をこなすことになった。病み上がりのマンショは同道できるにしても、未だ熱病にうなされているメスキータ師は、もう少しマナパルの住院で全快してから後を追うことになった。

 当初コチンまではひと月は掛かる旅だと考えていた。ヴァリニャーノ師は、不慮の事故も考えて礼金を弾んで可能な限り先を急ぐように促した。何が何でもその半分の2週間程度に抑えるように頼み込んだ。その甲斐あってか足元不如意の夜陰に紛れての進行にも関わらず、担ぎ手たちは1日当たり4、50キロメートル程の距離を稼いでくれた。それにしても現地の人たちは猛暑に慣れていて、少年たちが日中ぐったりとして過ごしているのに、牛乳入りのチャイを飲み、手づかみでカレー味の煮物にナンを浸して口にし、会話を交わすなど賑やかにしていて、黄昏になると号令一下輿を担ぎ挙げ陽が昇るまで駆け続けた。

 輿はまた一種異様な揺れを呈した。少年たちは帆船で味わったのとは異なる乗り物酔いに悩まされた。暗がりの中のことで周囲の景色に平衡感覚を整えることが出来ないのだ。加えて小刻みの揺れなので、態勢をしっかりと固定するのに苦心させられた。明け方の東の空が白む頃は、もうへとへとで身体の節々が痛みを訴え、いっそのこと船に戻る方が良かったのでは、と考えてしまう気持ちまで湧き起こった。こうなると茂木から長崎の港へ向かう山の獣道が懐かしくなり、ホームシックが頭をもたげて来た。兎に角この天竺(インド)の暑さは、シモの真夏にはない種類の暑さだった。

「こん赤茶けた土ん色はなしてやろう。シモでは火山灰や雨水ん浸食による砂地が主でこがん赤みば帯びることはなか」

「土そのものが違うんやろう。暑か気候とか木々ん種類とか違うとやなかか」

「それにしてん、こん暑さは例えようがなか。頭が可笑しゅうなりそうや」

 などと1言、2言は口をついて出るが、

「ほんなこつ暑か」

「どうしようもなか暑さだ」

「本当やなあ」

 と、間を置かずに溜息とともに押し黙るしかない。

 異教徒の迫害による命の危険を背筋に感じながらも、西岸のコーラム港に着くとそこの住院で1泊し、翌朝出発の船に同乗してコチンの港に辿り着いた。実にチュリカンドル港でインドに上陸してから10日後のことだった。ヴァリニャーノ師は、釈迦が編み出した仏教もとうの昔にインド国内では廃れて、キリスト教でもない異教徒が蔓延する国になっていることを教えるために陸の行程をとったのだと教えてくれた。しかし少年たちは弁解ではないかと疑った。ミゲルたちが着いた翌日にイグナチオ・デ・リーマの船もコチンに着き、あれから数日後になったが、突然の風を受けて浅瀬から脱出でき、船荷も全く無事だったことを聞いて、師が負け惜しみで言っているように聞こえたからである。

 コチンの住院は浜辺から半時歩いた高台にあった。4、5キロ東に山並みが見えるから水が豊富で稲作が盛んだった。延々と続く海岸線に沿っては南洋に多い椰子の木が林立していた。1か月ほど過ぎた頃、マナパルで療養して全快し、後を追いかけて来たメスキータ師が合流した。全員が揃ったところでゴアに向かうのかと思われたが、ヴァリニャーノ師は一向に旅立とうとしなかった。今は5月でインドでは最も暑い極暑の真っ盛りであり、先ずは無理な移動を控えて、コチンで暑さを遣り過ごすことにしたのである。以前に長崎、マカオ、マラッカで出したイエズス会宛の書簡や報告書、論文を本部が読み取り、それに対する返書を待つにも都合が良かった。大型帆船がリスボンから喜望峰周りでインドに着くのはこの4から6月の暑季間であり、その航路の取り様によっては真っ先に着く港がゴアかコチンかのどちらかは定まっていない。季節風や偏西風の具合によって、風をうまく捉えられれば喜望峰から最短のコチンであり、少々手間取ればアフリカ東岸のモザンビークやモガディシオを経由してゴアを目指すからである。

 他にも食生活の利点も考えられた。ゴアに移ると小麦をこねて焼いたナンが大抵の場合主食となる。イタリアやイベリア半島の出身者には抵抗の少ない食事だが、日本の少年たちにはやはり米飯の方が向いていると考えた。正にインド南部の主食は米である。南部のケララ州の中心都市コチンはウコンたっぷりのカレーを添えた米飯がメインディッシュである。カレーの具材もインド原産の茄子や多くの野菜を使い、肉食はほとんど行われず、一般日本人と共通の食生活を送っている。

 それはともかく、リスボンいやヨーロッパに着いてしまえば少年たちは一時(いちどき)にポルトガル語やラテン語の嵐の中で過ごさざるを得ない。今や4人とも聞き取りや読み書きは習熟の域に達している。これには心配性のヴァリニャーノ師でも目を見張るものがある。ただ微妙な受け答えが問題だった。言葉尻の理解には問題ないものの、自分の心中を言葉にして表現することが不十分なままだった。日常会話なら4人とも何の問題もなく、いやそれ以上に円滑に応対できるだろう。ところがヴァリアーノ師は、宗教上の論説や社会的な質疑など、細やかで微妙な会話を交わせることまで望んでいるので、ラテン語とポルトガルの歴史を自ら教授し、傍らで日本巡察の現状報告と諸課題を表した「日本諸事要録」の大著を表すことに専念した。

 再びセミナリオの日課が進められたが、暑季の間は早朝の学習開始を2時間早めて、その分を昼の休養時間にあてることになった。コチンでも最年少のマルチノがラテン語の最優秀者で、シモでは大人社会の只中で育ったミゲルとジュリアンは後塵を拝していた。やがて7月になり雨季に入ると幾分か気温が下がり、熱風に悩まされることはなくなった。午後になると決まって襲われた高熱の風が、スコールと呼ばれる日本で言う夕立にとって変わった。時折半時ほど続く雨は殊の外大粒で、小糠(こぬか)雨、霧雨、小雨などと情緒のある降り方は絶対にない。休み時間にスコールが来ると、ミゲルらはふざけ合いながら夕立に当たったものである。瞬く間に僧衣は下着までびしょ濡れになった。やがて毎日のことだと分かったので、何時しか僧帽も上衣も革靴も脱いで、住院の庭で追い駆けっこして戯れて、メスキータ師に叱られていた。

 10月20日になって予定通りリスボンからの大型船がコチンに着いた。マカオに滞在している時に(したた)めたイエズス会本部への指令伺いの返事が、丁度その頃季節風に乗ってやって来る定航船がもたらした。心待ちにしてコチンに足止めしたことの成果が得られた。しかし指令書の内容は長崎を出た時に予想していたものとは大きく違っていた。メスキータ師の話によると、巡察師父は指令書を開封した途端、頭を抱えて執務椅子にへたり込んだと言う。それまで描いていた計画は、使節団を引き連れて訪欧して直接インド管区と日本管区の現状報告を行い、日本管区への財政的支援と宣教師の増派を願い出る積もりだった。ところがイエズス会総長クラウディオ・アクアヴィーヴァの指令はその意を完全否定し、計画を根本から変更させるものだった。

 その文書には『ヴァリニャーノ巡察師はローマに戻らずにゴアに留まり、インド管区長(プロヴィンシアール)としてアジア布教の責任者として、速やかにその任務を果たすように』と書かれていた。

 師はその内容を了解するのにかなり逡巡していたが、漸くのことに決心して住院の執務室に籠りっきりになった。もとよりイエズス会は初代総長イグナチオ・デ・ロヨラが中心となり、フランシスコ・ザビエルらが結成した組織である。軍人でもあったロヨラは、個人には座禅に似た「霊操」を推奨し、組織的には軍隊的な「規律」を旨としていた。上意下達、絶対服従が基本である。使節団の根本的見直しと派遣計画の手直しに思いを巡らした。取り敢えずゴア副王ドン・フランシスコ・マスカレーニャスに宛てて手紙を書いた。

「私はこの度イエズス会インド管区長に任命され、ゴアに留まることになりました。加えて日本からシモ3侯の名代として、ローマに派遣する少年使節団を同行させております。近々入城致しますので何卒宜しく歓迎を賜りたい」

 と、ゴアへの使節迎え入れとインド管区長としての自らの入城を受け容れるようにと催促した。さらに総督府からの返事を待たずに1週間後にゴアに向かった。

 10月も終わりになり乾季に入ると日本の初秋に似た気候となって、暑さは以前厳しいが全くスコールも起きなくなっていた。ミゲルらは半年以上もいて知ったことだが、インドは日本の気候とかなり違っていた。相変わらず西からの風が強く、リスボンへ向かう船は錨を下ろしたままである上に、ヴァリアーノは使節の体制を考え直している最中だったので、自らがヨーロッパに還れないことを誰にも打ち明けないでいた。

 コチンとゴアは同じインド西岸に位置するが、直線距離でも600キロメートルほど離れている。それはシモと京都間に匹敵する。左舷からの西風を受けているので10日程の船旅で、11月10日の早朝にはゴアのマンドゥビ川河口に至った。メスキータ師が言うには、リスボンのテージョ川河口の景色とよく似ているとのことである。ゴアはバスコ・ダ・ガマが開拓したインド航路の最終到達地であり、大航海時代の先駆けとしてポルトガルが香料貿易を軸として発展した拠点都市である。

 広大な河口には沢山の大型帆船が投錨し、ミゲルらが長崎や今まで立ち寄った港では見たことのない程に大きな船も数隻並んでいた。ミゲルが指差した先を見つめてみんなが肝を潰した。まるで大きなワイン樽を半分に切った形をしていて、帆布も絶大で総帆展帆には数百人が必要だろうと思われた。聞くところでは長さと高さはリーマの船の倍以上あり、荷物も7倍ほど積載出来て長期の航海にも耐えられるという。抑々大航海時代の始まりは十字軍の敗北とイスラム教のオスマン帝国の地中海進出に対抗して、直接インドとの交易を目指したことが発端である。最終課題はリスボンとゴア間の喜望峰航路を如何に大量の物流で結ぶかにあった。その帰結があの巨大キャラック帆船だった。ミゲルたちを乗せた中型の定航船でさえもマンドゥビ川を遡るのに河口で大量の荷物を下ろすしかない。川底が浅くなるからで、ほとんど乗員だけの排水量の船で向かったのは、その川の中流にあるカトリックの宗教地区である。

 大聖堂を中心にしてボン・ジェズ教会だけでなく、アジア唯一の大学であるサン・パウロ学院、住院(レジデンシア)修練院(ノビシャド)などが林立してアジア最大の布教拠点だった。16世紀初頭にポルトガルがここを武力で占領してから貿易の拠点とし、カトリックの諸修道会が宣教師を派遣して布教の礎を築いていた。1542年にザビエルがロヨラらとイエズス会を結成した後、アジア布教の第一歩を印した場所である。ヴァリニャーノがコチンに長逗留したのは、後発のイエズス会を警戒する他修道会との摩擦を避けるためでもあった。とにかく若者たちに勢力争いの醜い姿だけは見せたくなかった。


 7 ヴァリアーノとの別れ


 10月末にコチンを出発し10日ほどでゴアに着いた。下船する寸前になって、ヴァリニャーノ師からミゲルたちに奇妙な報告があった。日にちの数え方が変えられたのだ。10日間足すことになった。つまり11月10日を11月20日とすると告げられたのである。コチンからゴアに行っているうちに10日間消えたのである。本国の混乱の中でもあり対処を遅延していたが、ローマ教皇グレゴリオ13世の暦改定の宣旨があり、ゴアでは新しいグレゴリオ暦が採用されているというのだ。本国ではちょうど1年前に、10月5日を15日と改め、10日間先送りされた新暦を採用していた。ゴアでも既に採り入れていたとあらかじめ連絡があったとのことである。ユリウス暦からグレゴリオ暦へ変更して暦の不都合を解消するという噂は、誰もが数年前から聞き及んでいたが、いざ暦から十日間が取り除かれると、コチンからゴアへの航海が十日間も短くなった計算で、なんとも不思議で狐につままれたような気持ちに襲われた。10日ほどの船旅に10日間余計に掛かったこととなり、11月20日の到着となったのである。 

 13代目のゴア副王マスカレーニャスは元々、ポルトガル国王ドン・セバスチャン配下の貴族だった。母国の王がモロッコ遠征に出たっきり1578年には行方知れずになり、摂政についていたドン・エンリケ枢機卿も後継者を決めないまま1580年1月31日に死去したため、セバスチャンの叔父にあたるスペイン王フェリペ2世が隙を見て実力行使に出た。リスボンへ侵攻して占領、ポルトガル国王も兼ねることに成功した。だから今はフェリペ2世がスペイン・ポルトガルの両国王を兼ねる支配下でゴアの行政を執っていたのである。副王は母国がポルトガル貴族の出身だから肩身を狭くしているだろうと気遣われていた。数年後にマスカレーニャスは、副王を辞して故郷エヴォラに戻り使節団の帰途で再会するが、その時点ではフェリペ2世が、プロテスタント勢力の強いドイツ、フランス、イギリスなどとは違い、熱心なカトリック信者であったから、イエズス会などへの締め付けはないだろうと安心できた。

 だがヴァリアーノ師にはもっと違う悩みの種が生まれていた。ローマ、バチカンの権威を背景にカトリックの全権を担うイエズス会インド管区長となったものの、フランシスコ会やドミニコ会などのスペイン系の托鉢修道会とのせめぎ合いが必至で、カトリック内の覇権争いが始まって、イエズス会がじり貧に陥ることを危惧していた。彼らは新参者のイエズス会が常に警戒せねばならぬ相手である。肩身の狭いのは双方同じことだった。

 とは言え、ゴアにおける押しも押されぬ政、宗のトップである両者の対面となった。以後の重大な局面を協議する最高権力者の邂逅である。ヴァリニャーノ師父は、使節が行く行くはフェリペ2世やグレゴリオ13世と謁見するのを見越して、メスキータ神父と4人の少年使節を後ろに従えて厳粛な対面の場に進み出た。権力者に失礼なく、こちらの威厳も損なわない儀礼の練習を兼ねて臨席させたのである。航海中は僧服や平服だったが、儀礼の場では、髷は結わないものの、敢えて脇差を帯びて侍の服装にさせた。欧州人とは異なる服装で、異国情趣あふれる面持ちで登場することが、自分たちからは東の果ての遠方にある日本からの使節だと理解させるためであり、見た目は全く違う異民族なのに同じキリストの教えを信奉する同門であることを際立たせるためだった。もちろん西洋人の忌み嫌う首の露出を避けるため(ひだ)のあるカーラーだけは装着させた。

 ヴァリニャーノ師の挨拶に続き、副王の前に正使2人が並んで進み出て敬意を表して跪くと、マスカレーニャスはポルトガル王家の誇り気高く少年たち各々に寄り添い、手を取り抱擁して航海の労苦をねぎらった。あたかも4人の孫を深い愛情で包み込むような表情が印象的だった。フェリペ2世が両王を兼ねたことで、ポルトガル直系貴族である自分の職が解かれるかも知れない状況にある中で、最後の賓客となる使節団へ心からの歓迎の言葉を述べた。3侯と血筋がつながるマンショとミゲルを前面に推し出し、それにジュリアンとマルチノが続いた。列席の宣教師や商人たちも、かつて見たことは勿論、聞いたことも無い、侍姿の若者たちに目を白黒させながら、まじまじと視線を注いでいた。堂々としている上に流暢でこそないがポルトガル語で応対するのだから、その驚嘆は並大抵のものではなかった。全てヴァリニャーノ師が思い描いていた通りの展開であり、本人もしてやったりの表情だった。

 マンショとミゲルが3侯の親書を読み上げ折り畳んだうえで手渡し、丁重にお辞儀をすると、副王は歓迎の証として金の鎖の首飾りを4人の首にかけた。鎖には聖櫃の小箱が付けられていた。少年たちはそれを暫くの間、手に取ってしげしげと見つめていた。それぞれが生まれてこの方貰ったことのない超豪華な品物である。この3侯の親書の読み上げと金の首飾りの下賜の場面に遭遇して初めて、4人は自分たちが単に修学のためや西洋を見聞するのみならず、日本の王侯族として各国との親交を結ぶための外交の任も担っていると自覚することになった。

 この時点でヴァリアーノ師もまた使節の役目を増やすことに決めた。第1に子どもたちに西洋の進んだ文化を体感させ、日本の布教の下支えになる宣教師に育てる、第2にヨーロッパの人々に地球の裏側の遠方にも高度な文明があり、彼らもキリスト教を奉じている事実を知らせる。それに第3の目的が加わった。彼が思っている以上にゴアの貴族たちの反応が大きかった上に、危惧していた先行他派である托鉢修道会までも驚きの眼で歓迎したからである。

 ポルトガル王ジョアン3世の庇護の下で、40年前にザビエルが初めてゴアに赴任しアジア布教の拠点を置いたイエズス会だが、当時すでに100人近くの宣教師たちが駐在していた。自派の独壇場だったアジアのカトリック教徒獲得の場が、今やフェリペ2世両王の御代になって、20数人の宣教師が派遣されていた。特にスペイン系の托鉢修道会は、清貧と無所有を前面に掲げ、どちらかと言うと原理主義的に妥協のない外部注入的な布教を推し進めていた。スペインのアメリカ大陸への武力を伴う侵略的植民を背景に、その布教地域を一気に拡大していた。その勢いそのままに東インド航路にも進出し、満を持してゴアにも拠点を築きつつあった。トルデリシャス条約において、アメリカ大陸はスペインの進出範囲に属していて、東端のブラジルだけはポルトガル領の飛び地になり、後のサラゴサ条約により東アジア地域では、モルッカ諸島やマカオ、日本などがポルトガルの植民可能範囲とされたが、フィリピンと一部モルッカ諸島だけはスペイン帰属の飛び地の植民地となっていた。

 日本はザビエルの初上陸以来、ポルトガル国王の庇護下での布教地となっていた。しかも現地適応主義で様々な障壁を超えてきて、多大な成果をあげているが、スペインに併合された今となっては、スペイン系の托鉢修道会が幅を利かせるに違いない。スペインがグローバル国家つまり「太陽の沈まない国」となり、それを背景に益々横柄になっている。アメリカ大陸での布教方針でもイエズス会の現地適応主義に異を唱え、上から目線の外部注入方式をとっている。だから日本の近くの東アジアの一画に托鉢修道会他派が進出することを危惧するヴァリアーノ師は、日本の高い文化水準を認めるとともに、ザビエル以来の現地適応主義と異文化対等交流の態度を守り抜くためには、托鉢修道会他派が勝手気ままに原理的な托鉢、清貧、裸足を持ち込んで布教をすることを控えさせ、当面の間は進出を遠慮させるしかない。それをイエズス会アジア管区長が先ず最初にとるべき基本的な方針と考えたのである。

 グレゴリオ暦11月20日にゴアに着いてはいるものの、風待ちで在住できる期限が年内、生誕祭(クリスマス)直前までに差し迫っていると予想された。この1か月の間にヨーロッパにおける諸行事やフェリペ2世、グレゴリオ13世との謁見に備えて親書の追加や手直し、更に少年使節たちの心構えなど様々な体制を整える必要に迫られていた。()してやヴァリニャーノ本人はゴアに留まらなければならないから、当初の目的を果たせるようにするには、世話役のメスキータ神父にその任務を自覚させ、自分の代役として誰かを指名しなければならなかった。しかも彼の離脱によって使節団の成果が灰燼に帰するならば、イエズス会の日本布教の前途が危うくなるばかりか、大打撃を喰らって障害だけが残されることになる。彼には限られた時間しかなく、慌ただしさの中で重大な決断の数々が迫られていた。又しても長崎を出る時と同じような切羽詰まった事態が訪れていたのである。 

 4人の使節と従者の若者は聖パウロ学院で学び、隣りの住院に宿泊してザビエルを日本に手引きしたヤジローの逸話を聞いたり、釈迦の生まれたインドでは今はヒンズー教という邪宗に席巻されていること、イエズス会だけがローマカトリックの伝統を守っていることなどを徹頭徹尾教えられた。ポルトガル、スペイン、イタリアの訪問国で対等に会話できるようにラテン語の習得に最後の磨きをかける日々が続いた。日本の少年たちがヨーロッパの人々の言葉を滑らかに操れば、日本人の教養や品格の高さを知らしめることが出来るとのヴァリニャーノの目論見は、信長が暗殺されようとポルトガルがスペインに統合されようと変わらなかった。何よりもイエズス会の日本布教への援助、即ち潤沢な資金と宣教師の増派を要請することである。それには東の涯に存在する日本の人々が高潔、聡明、礼節などの面でヨーロッパに優るとも劣らない文化水準にあり、キリスト教が伝来して30年ほどの間に信者が15万人ほどに膨れ上がり、戦火が絶えずに貧しい暮らしに追われる国情の中では、信者の寄付だけでは布教も儘ならないことを奏上するしかなかった。だから自ら長旅をしてフェリペ2世国王やアクアヴィーヴァ総長、何よりもグレゴリオ13世教皇に直訴したいと考えて4少年の派遣を進めたというのが本音だった。

 ところがアクアヴィーヴァ総長が考えていた彼の処遇は、本人の意思などお構いなしで大きく異なり、イエズス会アジア管区長(プロヴィンシアール)に就いてゴアに残るようにとの指令だった。総長は自ら就任して間もなかったので、配置換えなどの新体制作りのまっ最中だったが、ヴァリニャーノからの任務の打診を受けると深慮した上で前のような指令を下した。心の内を推察するに、日本布教の窮状の救済などには全く関心が無かった。元よりヴァリニャーノ師が帰欧して行う資金援助の陳情や少年使節団の派遣などへの配慮など皆無だった。

 新総長の組織方針の中心に据えられたのは、国際的には1国に偏らない人員の配置だった。フェリペ2世の両王兼任によってスペインが強大化したことに伴い、ポルトガルが支配していたインド、東アジア地域において、強権によるスペイン人偏重の布教独占を招かないように、自分と同じイタリア貴族出身のヴァリニャーノに相互的で公平な采配を期待したのである。男性修道会であるイエズス会は、軍隊的規律がモットーで如何なる不合理を感じようとも下達には従わねばならない。総督府のあるインドのゴアに本拠を置くイエズス会アジア管区は、日本教区という将来有望な地域と数多の信者を抱えたまま、ヴァリニャーノ管区長の手によって新たな船出を迎えることになった。帯同できなくなったヴァリニャーノ師は、コチンで仕上げていた『日本諸事要録』の最終的な見直しと加筆をした。総長の日本への理解を深めさせるために、直接訴えることの出来ない忸怩たる思いを込めて、自分の考えを懇切丁寧に述べ連ねた。日本管区への援助を何としても得るためだった。

 さらに自分の代理になる人物を選ぶにあたって、日本への巡察に向かう以前からの知り合いで、聖パウロ学院の院長を務めているヌーノ・ロドリゲス師を指名した。コチンでアジア管区長の使命を受けゴアへ移動してからの1か月間での急ごしらえだったから、長崎を出帆した時以上の不安が使節団を襲うのは目に見えていた。あの時は領主や親族の諒解を得ることに四苦八苦したが、今回は4人の少年たちの動揺を抑えなければならなかった。ゴアに着いた頃から少年たちは薄々感づいてはいたが、面と向かっての説明がなかったので、誰もが元通り一緒に行けるものと決めつけていた。ヴァリニャーノが使節団から離れることを、正式に一行に伝えたのは、生誕祭を賑やかに祝った直後のことだった。

「ロドリゲス神父は昔からの友だちだから何の気兼ねもいらない。コレジオの院長していたので、学習以外でも分からないことや珍しい話などいっぱい聞くがいい。メスキータ神父は今まで通り君たちの親代わりになって着いて行くから安心しなさい」

 そう言うと、1人ひとりを黒の僧衣のまま胸に抱き、ゆったりとした面持ちで別れの言葉を告げた。特にミゲルは、母を説得する時のヴァリニャーノの言葉、即ち「どんなことがあっても若君の傍を離れず、安全かつ健康に旅をさせますから、安心して帰りをお待ち下さい」を目の前で聞いていたので、その落胆は大きかった。

「ゴアに来るまでさえ沢山ん困った事があったとに、尊師が一緒でなかとなると、もっと危なか目にあうんやなかか」

 とミゲルが呟くと、

「千々石ん君、そがん深刻に考えなさんな。尊師ん役目が変わったんは、デウス様ん思し召しで、致し方なかことさ」

 と答えた。

「そうやなあ、ジュリアン。我らはもう子どもやなか。一人前ん武士として切腹ん覚悟でローマへ行き、何年掛かってん再びこん地で尊師に見えよう」

「先行きん無事ばデウス様に祈ることにしよう」

 との、さすが肝の据わったジュリアンの物言いに、ミゲルは心積もりが定まった。

 ヴァリニャーノは『日本諸事要録』の他に、イエズス会日本3支部の協議会の議事録、決議文と宣教師20数人の名簿を本部に渡すように預けた。次に信長の暗殺を聞いてはいたが、大切に運んできた例の『安土山と城下図屏風』2隻も厳重にしかも丁寧に扱って持参させ、グレゴリオ13世教皇へ堂々と献上させることにした。日本の首都安土城下に天守と同じ青い瓦を葺いた教会堂が、金ぴかの雲の下に描かれているのを誇示する必要を以前にも増して感じていたからである。日本66州を束ねる天下布武王織田信長が、イエズス会とカトリックの庇護者だったし、布教の前途の洋々たるを示す品だからだった。ヴァリニャーノが随行できない今となっては、この屏風に描かれた教会堂をひと目御覧頂ければ、くどくど述べるまでも無いと思われたからである。加えてスペイン・ポルトガル兼王となったフェリペ2世への3侯の親書やポルトガルのブラガンサ公への挨拶状もロヨラの祐筆で追加してしたためられた。これから訪れ謁見する最高権力者が変わったことは、日本を出てから後のヨーロッパからの手紙で初めて知ったからである。

 4人の使節の国際交流役と布教援助依頼、研修旅行の目途は、なるべく控え目にするように命じた。自分が随えない以上、最悪の事態を招来して責任を問われることだけは避けたかった。絶大なる成果を願うよりも安全かつ平穏に旅の目的を果たすことが何よりだと考えたのである。生誕祭(クリスマス)と新年のミサを慌ただしく終え、早々に長崎から専ら乗船してきた中型のナオ船ではなく十数倍の排水量で、乗組員も数百人一般乗船者を含めると1000人近くの大型帆船に乗り込んだ。航続距離も1か月位だったのが6か月近くに伸びたから、インドを出るとひと航海でリスボンまで辿り着けるとのことだった。

 いよいよマンドゥビ川を下って河口にあるゴアの港に落ち着くと、ヴァリニャーノ神父は又もや一人ひとり抱きしめて名残りを惜しみ、暫しの別れと旅の無事を祈った。


 8 ゴアを発ち喜望峰へ


 ゴアからアフリカ南端の喜望峰を迂回してリスボンを結ぶインド航路は、世界的に商品経済(重商主義)と植民地経営(帝国主義)の時代、大航海時代の幕開けを飾る航路となった。次のアメリカ大陸への到達を背景に新興するスペイン王国の繁栄から、更にオランダやイギリスなどの成熟帝国主義時代へと続くことになる。ポルトガルは16世紀初頭に侵略的戦争を仕掛けて「黄金のゴア」とも呼ばれる城塞都市をインド西岸に築いたが、言わばヨーロッパの都市を南アジアの中心にそのまま建設したようなものである。すると巨万の富に魅かれて多くの人々がインド航路に飛び乗った。ついにはリスボン―ボア間を定期航路として定着させ、1千トン近くの大型帆船を巡航させる、当時としては世界最長、最大の定期航路を築いた。

 港では係留されている大型船が北からの季節風を待って、大量の積荷や乗船員の飲食物などを運び込んでいた。サン・フェリペ号、サン・フランシスコ号、サン・ロレンソ号、サルバドール号、サンチャゴ号の五艘である。海賊の襲撃や嵐に遭遇した時の相互扶助や救難のために船団を組んで、1年間に1往復してこの航路を運営していた。大抵は老朽化している古い船、排水量或いは乗員の少ない船、高価なものを積んでいない船から先に出発し、縦列で2、3日の間隔をとって出航した。

 被服、祭礼用具、楽器、文書など使節の荷物だけでも相当大量となったが、6曲1双の屏風はひと際目立っていた。専用の畳大の木箱に丁重に収められていて、1度広げると再び包み直して元に戻すのにひと苦労するとの事で、中の状態を確認できないまま積み込まれた。ヴァリニャーノ神父は余程別れが辛かったのか、次から次へと甲板に引き上げられていく少年たち1人ひとりの額に接吻しては、頭頂に手を当てて「そなたに神のご加護がありますように」と、旅の安全を祈る言葉を小声で称名していった。ドラードやアゴスティーノとの初めの頃の対面ではすっくと立って、いつもの学者のような落ち着いた顔をしていた。いよいよマンショ、ミゲル、ジュリアンと少年たちの順番になると顔が歪み出し、マルチノと対面し終えると、4人をひと抱えにして(うつむ)きはしなかったが、あっという間に表情を崩して遂には瞳に涙を溜めていた。

 ヌーノ・ロドリゲス神父の率いる遣欧使節が乗る船は安全を考えて最後尾に位置し、船団の中でも一番大きく、新しいサンチャゴ号である。キリストの兄弟とも称されるスペインの守護聖人の名を冠する巨船だけあって、帆に記された十字も色鮮やかで、何となく安心できる威容を呈していた。ヴァリニャーノ師が副王に所望したのか、カピタン・モールが進んで割り当てたのか、(とも)の(後部の)船楼1階の最上級の部屋が4人に与えられた。先に続々と旅立った4隻を追うように満帆に順風を受けて滑るようにマンドゥビ河口を後にした。

 言わずもがなではあるが、冒険心が強い乗員たちに物珍しい目で見られることは致し方ないが、恥じらいもなく愛しい我が子を大切そうに扱うヴァリニャーノ師に奇異の目を向けた。折に触れて誘拐され、売られてくる子どもを見ることはあっても、立派な身なりで品格溢れる少年たちを迎え入れるのは全く初めての事である。彼らも特別な少年たちであると認めて過保護扱いするのは目に見えていた。ヴァリニャーノ師が危惧するのはこのあたりである。耳目を集めイエズス会に有益な支援に繋がることは良いが、派手になり過ぎてもて(はや)され、不相応な虚名が伝播することを怖れるのである。徹頭徹尾控え目に行動するように厳命を受けているロドリゲス師はこの点に重々な気を遣うことになった。

 ヴァリニャーノ師はこの時程自分に身体が2つあったらと考えてしまった。左舷に立ち並ぶ少年たちを見上げながら、別れ難い気持ちを抑えるのは勿論だが、今となっては行く先々にある幸運を願うしかなかった。艀に乗ったトンスラの頭に陽光を受けた人影は、米粒になるまで帽子を持った手を振り続けていた。

「一緒に行けんくなるなんて、どがん重大なことがあったんやろうか」

 ジュリアンが船べりで手を振りながら呟いた。

「やはり信長様が闇討ちされたとが問題なんやろう」

「いや、ポルトガルがスペインに併合されたとがイエズス会に影響したんやなかか」

「こうなった以上、うちらは歓迎されん客となるとかも知れん」

 と、最後に呟いたミゲルのひと言が一挙にみんなを暗い気持ちに落とし込んだ。父親のように慕っていた教父を失った4人の少年たちはこれから先、今まで以上の苦難が待っているのではないかと思った。赤道間近だから強い北風でも肌身に染みるほどの寒さではなかった。コチンまでの船旅の間に長崎を出てから2度目の正月を迎えた。日本の暦なら正月はまだだが、ここではグレゴリオ暦に合わせるから、歳も少し早く増えさせられる。それよりも司祭たちによる宗教的な行事や聖人の記念日が続くので、暦はぎっしり埋まっていて、しかも1週間ごとの時間割もきっちりしているので、それを熟すことに汲々として過ごすしかなかった。再びコチンに戻っての風待ちと積み荷の日々となり、住院にてセミナリオの日課が続けられた。ロドリゲス神父は日本語に疎く、その国情も全く理解していないようで、ただ只管(ひたすら)ヴァリニャーノ師に命ぜられた通りに、授業の時間割を規則正しく守った。

 ラテン語に関して言えば、有馬のセミナリヨに学んでいる時にはなかなか上達しなかったが、日常の話し相手が8割以上ポルトガル人の中で生活していると習得が思ったより早くなった。有馬でのミゲルは、話し言葉がポルトガル語で、書き言葉がラテン語だという理解をしていたが、どうもローマの教皇庁の公用言語がラテン語なのだと知った。単語を覚えるのは割と容易だったが、相変わらず性、人称による格変化に苦労させられた。日本語の語順が癖として身に着いていて、そのまま翻訳すると格変化を正確にさせないと全く何を言っているのか分からないという顔をされて添削で徹底的に直された。ラテン語の授業は、ヴァリニャーノ師よりロドリゲス先生の方が1段と厳しかった。

 一転して音楽の時間になると先生は俄然柔和になった。指導者というよりも聞き手になり下がった。彼の苦手の分野なのか、自由にやらせるのが良いと考えているのか、じっと聞き続けるだけだった。当時初期の教会音楽であるグレゴリオ聖歌が、色んな分野でのルネッサンスに刺激されて、和声法の成熟に対位法の手法が加わり、次代のバロック音楽への道を開きつつあった。中でもジョスカン・デ・プレなどのフランスの作曲家たちの曲が流行していた。抒情的でゆっくりしたテンポの「アヴェマリア」や「千々の悲哀」に代表される和声的な曲を繰り返し演奏させられた。ミサ用の曲であるこれらの曲を練習する時は、学習の対象ではなく、ちょっとした娯楽や趣味の一時(ひととき)だったのかもしれない。或いは手綱を緩める方がのびのびとした演奏ができると判断していたのかも知れない。

 長崎から初乗りしたイグナチオ・デ・リーマの帆船などとと比べると、乗員数、排水量などどれをとっても十倍を超えるサンチャゴ号は、揺れの大きなそれまでの航海とは大きく異なり、船酔いに悩まされることは無くなった。最大航続を採ることが出来れば、一気にコチン―リスボンを4か月足らずで走破する距離をこなせるらしい。大抵は余裕をもって行き来するために、行きはセントヘレナ島で、帰りはアフリカ大陸東岸のモザンビークにただ一度立ち寄るのを常としていた。コチンで2か月を荷揚げと風待ちのために過ごし、結局再乗船して出発したのは、ちょうど2年前に長崎を出港した時と同じ2月20日だった。実際は暦の改定があったために10日分早いのだが……。

 コチンで乗船する時にヌーノ・ロドリゲス神父は、1人の中国人少年を合流させた。ポルトガル人に雇われていたが、数年前にその雇主が死亡し、住院で下働きをしていた15歳になる少年である。(チャン)アンドレと名乗っていて、現代なら「雇う」あるいは無報酬の「丁稚奉公」の類に例えられるが、実情は幼い時に誘拐されて人身売買され、奴隷扱いされていたのを悪徳業者から買い取った少年である。たまたま4人の少年使節と同い年で、話し相手に適していると考えて道連れにしたのだ。全く日本語を知らず、母国語である中国語も怪しく、一から十まで日常はポルトガル語のみだった。人手としては力仕事などの役には立たないが、ラテン語の習得にはそれなりの仲立ちとなるに違いなかった。所用の無い時は、少年たちと同じ日課を習うことになる。これで使節団の構成員はロドリゲス、メスキータ司祭、マンショ、ミゲル、ジュリアン、マルチノの4少年、ジョルジュ・ロヨラ修道士、ドラード、アゴスチーノの印刷見習工の2人に張アンドレ奉公人の合計10人となった。

 早速与えられた使節団の衣類や携行品、献上品などの整理の仕事をに就きながら、僧服の替えを所望に来たミゲルにポルトガル語で声を掛けた。

「ミゲル(ドン)、私はアンドレです。どうぞよろしくお願い申し上げます」

「こちらこそ、世話になるよ」

 同い年とは思えない風貌と丁寧な言葉遣いは、ミゲルら使節もドラードらの取り巻きも分け隔てがなかった。何気ない大人びた行為に誰しもが戸惑うほどだった。

 船団の殿(しんがり)で出発したサンチャゴ号は、南西の方角に舵をとると満帆に背後からの風を受けて、波頭を砕きながら一気呵成に滑りだした。南国特有の椰子の木の並木の岸辺は帰還できるまではこれが見納めだと聞かされていたので、ミゲルには何故かヴァリニャーノ神父の立ち居振る舞いと重ねて心にしっかりと刻み込んだ。椰子の木からは「ヨーロッパの文化をしっかりと見聞して日本の布教拡大のために役立つ人となれ」の言葉が打ちつける波頭のように繰り返されている。それはまるでヴァリニャーノ師の説教のようだった。やがていっ時もすると水平線の彼方に見えなくなり、辺りいち面見晴るかすの大海原となった。マストの物見櫓からはそれが大きく湾曲して丸く見えるらしい。広いインド洋の真っ只中を突っ切り、2か月以上かけて喜望峰を目指すのだそうだ。

 朝の5時半に起床し祈りと主祷文斉唱、清掃、朝食、ラテン語会話、日本語の読み書きの課業の後昼食と休憩、唱歌、楽器演奏の練習、ラテン語の文章の読み書き、自由時間、夕食、休息、再び日本文字、ローマ文字の学習となる。就寝前に良心の反省、夕べの祈りをして1日の課業を終える。この日課が何時ものように毎日繰り返された。巨大帆(キャラック)船の日々は、ゴアに至るまでの中型帆船での木の葉のような揺れとは無縁で、地上にいるな不動感こそないもののワイン樽の世話になるどころか、爽やかな南洋の海風が心地よく、勉学に集中出来たことは幸いだった。朝夕の祈りの時間に合わせて添乗員たちも祈りを捧げるのは勿論だが、アンデレが管理を引き受けている楽器のクラヴォ、アルバ、ラウデ、ラヴェキーニャが甲板に持ち出されると、昼食後の休憩中の船員たちが取り巻き、うっとりと聴き入ることが常となっていた。ミゲルは和声を基軸とするスローテンポの聖歌の合唱が好きだった。低音を担当するジュリアンの倍音と3分の2倍音が、微妙な不協和音から突然に協和音になった時、そのままずっと続けていたい気持ちに駆られることが屡々あった。

 サンチャゴ号に乗る400を超える乗員の内の300人以上は帆船の作業員だった。展帆・畳帆・操舵などの作業、積荷の管理や厨房、船室の担当、医務・理髪の関係者である。しかも単純作業の大部分は200人ほどのアフリカ人奴隷が使役させられていた。イエズス会は奴隷の売買については人道的倫理的問題として反対の立場をとり、禁止を国王に申し出ていたが、要員の確保が難しいとキャプテンに抵抗されると、大勢(たいせい)に流されて目を瞑るという理不尽な態度をとっていた。後の世で日本人奴隷の人身売買が問題になるが、商品経済形成初期において人身をも「商品」に貶めたのは、際限なき人間の欲望の性質上当然の成り行きだった。戦争捕虜を奴隷とした古代の悪習が、商取引が自由になる近代の黎明期において蘇るという皮肉である。残りの50人程度の総勢が積荷の所有者である商人、遊興の貴族や宣教師、遣欧使節の一行だった。

 船はインド洋中央を突っ切って喜望峰へ向かう航路をとらず、取り敢えずアフリカ東岸を目指すらしかった。やはり不測の事態や悪魔の無風に襲われるのを回避するためである。特に赤道を突き抜ける時に貿易風に遭うと風向きが急に変わるという。だからマダガスカル島とアフリカ大陸の間のモザンビーク海峡の難所を抜ける航路を選ばざるを得ない。それは台湾海峡を抜けた時と同じで、難波の危険と隣り合わせだが、無風下の厳しさと比べると次善の策となる。モザンビークは帰り道での寄港地になっていて、まさかの時に立ち寄るためである。

 とにかく順風で滑り出した大型のキャラック帆船のサンチャゴ号は、船室にいる時は全く揺れを感じることが無く、甲板に出なければそこが大海の中であるとは気付かないほどだった。ゴアまでの航海とは各段の違いがあった。風の弱い日に甲板に出ると仄かに防水用の(タール)の臭いがし、船倉から胡椒など香辛料のくしゃみを催す強い刺激臭がしたが、砕ける波の発する強い潮の香りには敵わなかった。灰の水曜日を過ぎて赤道を超えると、4本マストのうち主帆柱の下の四角の帆と三角の後尾帆だけにした上で、操舵の要員を補強して「取り舵」態勢に入った。貿易風で風の向きが変わることと、マダガスカル島の北端を目指す方向へ転換するためである。按針(水先案内人)たちの指示のもとでの予定通りの行動であり、その後十数日間は想像以上に順調で安定した航行が続き、船乗りたちが今までにないことだと不思議に思うほどだった。

 とは言えども、やはり風任せの航海であることに変わりはない。デウスが乗組員の誰もが気を緩めていることを諫めるように風をパタリと止めた。貿易風による追い風が無くなり横風も止み、三角帆と操舵技術でジグザグ前進できる逆風さえ吹かなくなって事態が激変した。それに今ひとつ熱帯下の強烈な日差しが加わった。ミゲルたち使節のみんなは、すわベンガル湾での悪夢再びかと青ざめた。それなのにその心配を尻目に、定航巨大船団の成せる技か、大人数の熟練者の慣れからか、全く怖気づく気配も見せずに密かに隠し持っているタバコを吸ったり、(かしら)の目を盗んでワインを日中から嗜んだり、今日のトランプ(カルタ)遊びや将棋(チェス)の原形の「戦ゲーム」に興じ始める。もっとも喉の渇きや待遇に対する不平不満を訴えて反乱を起こされてはたまらない。乗組員たちの気持ちを落ち着かせるには、マヌエル・デ・ディロス船長も彼らの勝手な振る舞いを大目に見るしかなかった。

 しかしこんな日は少年たちにとっても楽しい遊びが始まることになった。魚釣りの一時(ひととき)である。当時の日本の子どもたちの遊びである竹馬や相撲、羽根つきなどは船上ではとても出来なかったし、教えてもらった「戦ゲーム」は単純過ぎて賭け事が絡まないとすぐに飽きる。サンチャゴ号では使節の少年たちを退屈させないために、いろいろな余興も考えたが、大人たちの博打紛いの遊びは法度だし、動きの激しい遊びはこの暑さでは体力を消耗するから以ての外である。結局食糧管理係が推奨した魚釣りに決着した。持ち込んだ羊や鶏は貴重な蛋白源であり、消費は出来るだけ減らしたい。もし魚を1匹でも釣ってくれれば暫くでも食料在庫を増やせる。魚釣りは実益も兼ねていた。

「おいは小佐々水軍の末裔や」

 と、言うが早いか、芯が強いが心優しいジュリアンが滅多にしゃしゃり出ることなどなかったのに、この時とばかりにミゲルを誘って釣りに繰り出した。ミゲルはジュリアンにとっては勝手知ったる遊びだと思い出し、言われるままに直ぐに従った。先ず道糸と針を手に入れるために帆の修理技士の屯所へ行った。釣り道具の調達に持って来いの部署である。長くて丈夫な糸を大量に手に入れ、帆の破れた個所を繕うのに使う少々太い針を折り曲げて釣り針の代用を作ってもらった。大洋の真ん中に小魚などいる筈もなく、大きな回遊魚が沢山いると思われたから、少々大きな釣り針を大物の獲物を狙うのに調達した。早速に鉄屑を錘とし、木片の疑似餌をつけて船縁から垂らした。

 ジュリアンの手解きで少年たち皆が代わる代わるに挑戦すると、腕前の差はあるが只の1人も釣果をあげない者はいなかった。自分たちの本分である学習の時間を忘れてしまう程面白いように釣れた。特にカツオ、マグロの類は、仕掛けを2揃い増やしたことで、半時も続けると7人の共同作業で20匹近くになった。コックたちに食事用に供して渡しても持て余すほどだったので、これもジュリアンの機転で海水で洗って背開きにして干物にして蓄えることにした。陽射しの強さは地球上で最高の赤道直下であり、帆布の切れ端の上であっという間に開きの干魚が仕上がった。錨を下ろして船が微動だにしない時は、カツオの切り身を餌にしてタコやイカなどの回遊しない魚を捕えた。時折餌探しに余念のない肥え太った海鳥が投下する際に仕掛けに食いついて吊り下げられることがあった。

 ロドリゲス、メスキータの両神父は夢中になって釣りをする子どもたちを目を細めて見つめ、この娯楽の時間を多少延長するのにやぶさかではなかった。分けてもメスキータ師の植物採集に対する興味は尋常ではなく、信長が手土産としてヴァリニャーノ師にくれた岐阜産の干柿の美味に感動して、その種をワイン樽に植えて栽培し、ヨーロッパに持ち込んでCACI(カーキ)として広めたほどである。因みにヨーロッパ諸国で広く植えられているイチジクを持ち帰り日本に普及させたことはよく知られている。イチジクが「南蛮柿」とも呼ばれる由縁である。自分が熱中することに他人からとやかく言われることを嫌っていたから、教え子の趣味を大目に見ることは当然のことだった。何は扨て置き順調な航海が続いていたことは引率者たちにとっては何よりの事だった。

 ところが数日が過ぎてモザンビーク海峡に入るとぱたりと船足が落ちた。というよりも安全のためにスピードを極端に落とさざるを得なかった。暗礁が多くあるからだ。おまけに以前の船の10倍以上の人員と積載量の巨船である。スピードを半分ぐらいに落としただけでは、まさかの突風に対処できない。だから波頭を砕くような速さは以っての外で、地上なら駆け足にもならない程ゆっくりとなった。主帆柱の上方の物見台に按針の下働きが乗ったままとなって行く先を遠望しながら、手信号で按針頭に微妙な操舵方向を知らせていた。だから見通しの悪い闇夜はもちろん昼間でも曇天には前後左右の確認が出来なければ、安全第一を考えて完全に進行を止める外なかった。

 やはり風任せの旅に心休まる日々が長く続くことはなかった。


 9 セントヘレナ島へ向かう


 順風を受けていた帆船が右旋回(面舵)して、横風に抗しながら喜望峰をかすめ、直角に曲がって最短距離で航行するには、やはりそれ相応の難儀が伴った。インドシナ南端やセイロン島沖で起こったと同じ危難がアフリカ南端でも再発したのである。今までとは異なり巨大船特有の困難が伴った。大量の商品を積めて航続距離の稼げるのと引き換えに、小回りの利かない惰性動のオーバー気味の走行は1刻の油断も命取りになるのである。

 モザンビーク海峡はゆっくりと慎重に操船して無事に通過したけれども、暫く吹いていた横風が止んで数日が続いた頃、再びミゲルらの出番がおとずれた。船足がピタリと止まったことで、食料調達係から釣り道具が渡されたのである。今は回遊魚ではなく底に近くに生息する真蛸や真鯛のアタリを待つことにした。今度は疑似餌ではなく日干しになっていたカツオの切り身を針先に付けて、長い釣り(テグス)を海底まで垂らした。ジュリアンが大村湾漁師から聞いていた蛸の釣り方を真似て(にわか)仕立てしたのである。今度も又、面白いように釣れて、日本では馴染みのない獲物まで揚げることが出来た。どうも南洋の大海に棲む魚たちは、警戒心を全く持ち合わせないようだ。

 すぐ隣りでは按針(ガイド)がいっ時の間も置かずに水深を測っている。まるで少年たちと同じように釣りに(ふけ)っているように見えるが、ニコニコしながらの釣りとは真反対で、彼は今にも命を盗られそうな深刻で真剣な顔をして紐を垂らしている。それもその筈、もしも船体が海中の暗礁に触れたら最後、積荷のみならず全乗員の命も危うくするからだ。錨の上げ下げでかかる人手を考えても、彼の任務は船上の誰よりも重要なのである。中空に控える見張り台の副按針は遠望して迫り来る危険は知らせるが、切羽詰まる最悪の災いは測錘(水深を測る器具)を使って直に探るしかない。風が無くても海流や川水などでかすかに船は移ろっていて、いつ何時岩礁に衝突するか分からないのだ。しかし按針たちの気持ちなどを他所(よそ)に、少年たちは釣りに夢中だった。

 遊びの釣りに(かま)けていても、30分おきに砂時計監視係が鳴らす鐘の数が、規則正しい時刻を告げるので、セミナリオの日課は疎かになることはなかった。陽が沈むと熱射を避けて船室に籠っていた貴人たちも甲板に出て来るので、否が応でも宣教師たちに説教を所望することになる。それが終わるとやんややんやのカーテンコールが始まり、少年たちは合唱や演奏を披露するしか無くなる。この頃には使節たちはもう15、6歳で、今でなら高校へ入学している年齢である。初潮も過ぎて体毛も生え揃い喉仏も飛び出し、すっかり声変わりも済んでいて立派な青年となっている。高音は声帯を締め付け、低音は腹の底を共鳴させ、各々苦労しながらの合唱であり、どちらかと言えばマンショは低音、ミゲルは高音、他はその時々で自由自在にどちらかに就いた。音楽の時間は使節にとって義務ではなかったから、アゴスティーノやドラードは勿論、アンドレも加わって尚更合唱に膨らみが出て、暇を持て余す貴人たちは勿論、こき使われても一時(いっとき)の安らぎの音に手を止める遠巻きの奴隷たちも聞き入っている。

 奴隷たちのことだが、見慣れてきて人間に変わりないと分かったからか、ミゲルは彼らの境遇に関心を持たざるを得なくなっていた。どうしてこんな所に身を置くに至ったか、戦に敗れて連れて来られたのか、明日の食い物にも窮して親に売られたのか、彼らには何の罪もないように見えてくるから不思議である。罪を犯して罰を受けているかのような立場にある上に、どう悔い改めても逃れられない罰を受けているようにも見える。奴隷を管理する役目の欧州人は口を開けば「彼らは肌が黒いから、皮膚の色が濃いから文化程度が低く、売買されても仕方ない運命にあるのだ」と答える。長崎を出た時から少年たちにはヴァリニャーノ師によって、欧州の国々の暗黒面は見せないように仕向けられている。彼らが船乗りたちや奴隷たちを問い詰めることも赦されてはいない。だから奴隷管理人が開けっ広げに語る正直な言葉の内容を宣教師たちに訊ねても「奴隷売買を禁じるように国王に訴えているのだがなかなか改めてもらえないのだ」と表情を曇らせるばかりで、ミゲルたちを納得させることはできなかった。

 貿易風が偏西風に入れ替わってから暫く続いた無風状態からは脱したが、南インド洋の大海を通らずに暗礁の多いアフリカ大陸東岸を進むために、メインの帆を畳んだままで相変わらずのノロノロ航行である。風があるのにとんと鈍行運転を辞めようとしない。これが幾日も続くと、おっとりした貴人たちからも満帆にしないことに不平不満が出始めた。いよいよ乗組員たちが刃向かう事態となり、役目放棄を決め込んでの抵抗まで誘発する。按針の聞く耳を持たない慎重さが命取りとなり、乗員450人の考えが千々に乱れ出した。何よりもカピタン・モールのディロス船長側近の中での意見の食い違いまで露見した。何やら不穏な内輪揉めまで起きている。板子1枚下は死も覚悟の海の底である。気が荒く喧嘩早い連中は徒党を組んで相対し、波の音に負けない大声で(ののし)り合う。終には取っ組み合いの末の怪我(けが)人まで出た。イグナチオ・デ・リーマの帆船では、飢餓状態に陥り死の渕にあっても、更には幾人かの死者を前にしても誰もが冷静を保っていたが、此度の定航船は乗員が数多の上に奴隷を多く使っており、貴人らとの格差が見え隠れして、不平不満が爆発し易いのかも知れない。更に贅沢三昧の貴人らの方から怒りの顔を見せてはとても収拾が着かなくなる。拍子の悪いことに熱病に罹って1人の死者が出て、海に落下して今1人が溺死する不幸が重なった。

 ディロス船長は事態収拾のために使節団の力を借りたいと申し出た。ちょうど復活祭(イースター)の時期だったので、キリストの秘蹟に(あやか)って、船上の争いを解消するために盛大に開催することになった。灰を前に神に祈り、聖別する灰の水曜日の礼拝で、各自の額に灰の十字を記す儀式を取り仕切ることになった。勿論ロドリゲス、メスキータの両神父が式主となって、使節の総勢も盛り上げ役として聖歌や演奏を披露することになった。何れヨーロッパに上陸すれば、あちこちの教会に立ち寄り、このような儀式が頻繁に開かれ、使節たちもひと役買うことになるのは目に見えている。祭礼に関係を持つことはその演習でもある。先にヴァリニャーノ師は、

「ラテン語を学習するのは、3侯の書状を教皇様に奏上するためだけではない、後々司祭になるための必須の宗教哲学を正確に捉えるためでもあるのだ」

 と口を酸っぱくして念押しされていた。

 教会で催す宗教儀礼、説教と聖歌の合唱や演奏は修道士としての初歩であり、司祭となるための大事な職能である。だから機会ある毎に今までに習得したラテン語と音楽の授業の成果の発表の場が必要だった。今回は何分にも船上の旅客の身で取り仕切る行事なのでフル規格の祭礼は無理だった。神父たちの説教の後の盛り上げ役として、少年使節たちに白羽の矢が立ったのであり、言うまでもなく使節のヨーロッパ上陸後の儀礼の場に慣れるためだった。

 生憎なことにアンドレが持ち出した楽器の中にはミゲルの得意とするチェンバロの持ち合わせは無かった。大きな荷物となるからゴアの学院から持ち出せなかったのである。仕方なく少し不慣れなヴィオラを担当することになった。今日(こんにち)の名称のそれは左肩に挟んで奏でるが、当時はチェロのように(ゆか)に置いて弓で擦った。マンショはアルバという竪琴を演奏し、マルチノとジュリアンは誰もがよく弾き語りに使うリュートである。チェンバロもリュートも調律さえ確かならば伴奏用に最適な楽器だった。古典(クラシック)音楽は教会がルーツだが未だ発展途上で、どちらかと言うと言葉重視の上に定型的で和声法偏重だった。音階が安定し複音発生できる撥弦楽器が主流である。演目はよく練習している楽曲でスローテンポでハーモニーのとり易い曲だった。パードレの前では静かに佇み神妙に祈りを捧げていた同乗者たちの表情が見る見るうちに(ほころ)んで、信仰には貴賤労使隔てないことを実感した。

「厳かな復活祭やし、儀式で弾くんも久し振りやけん、失敗せんか心配やった」

「僕も手が震えよって早う終わってほしゅうて仕方なかった」

「ばってん皆があがん喜こんどったけん、上手(うも)ういったんやなかか」

「そうばい。ロドリゲス先生も『みんなの演奏を何時も聴いていたが、今度ほどうまくいくとは予想外だった』、と言うとられた」

 と、顔を紅潮させながらお互いに反省の言葉を交わした。

 だが航海の安全祈願の復活祭も暫しの気休めに過ぎなかった。数日後の昼過ぎのこと、物見台の海士が「見えたぞー」と大音量で叫んだのを境に事態が急変した。アフリカ大陸の南端の岩礁を間近に見届けたとの知らせは朗報などではなく、積荷の放流は言うまでもなく、乗員の命さえ奪われ兼ねない至難の始まりだった。面舵一杯を切って喜望峰(カボ・エスペランサ)へ回り込まねば大西洋に出られないのだが、如何せん順風の貿易風が偏西風の向かい風に変わったのである。船長が間髪入れずに(くだ)した全帆畳帆の号令も間に合わず、船はあれよあれよと言う間に左方へ傾き、宵闇迫る頃には再び南インド洋の只中に押し戻された。喜望峰も遥か彼方に見えなくなっていた。地球は丸いから6キロメートルほど離れれば、陸地は水平線に隠れてしまう。アフリカ大陸南端は、背後に控える丘陵も数百メートルしかないから、北西からの突風に煽られるとたちどころに見えなくなった。自然の摂理は神の御手にある。今回も人為を過信する船長の見通しの甘さが危機を呼び込んだ。

 ミゲルたちの旅行は、緯度で北緯33度の長崎から南緯35度の喜望峰を迂回して最北イタリア北の北緯45度へ至る大返しであり、経度でも東経130度の長崎からアフリカ西端の西経20度以上を大廻りする、地球の南北の4割ほど、東西1周の4割以上を往復する。直線距離だと地球を1周以上する距離で、ヴァスコ・ダ・ガマの1・5倍、戻る必要のなかったマゼランに匹敵する文字通りの大冒険である。緯度を変えずに大西洋を往復横断しただけのコロンブスの苦労は大したことは無かったと言わざるを得ない。とりわけ緯度の差が大きい事は、風向きに極度の神経を使う帆船にとって重大な影響をもたらすからである。赤道と南北30度は貿易風と偏西風の境目となるから、季節風ともども最大の配慮せずに安全航行を得ることはできない。

 大きく進行方向を変えたい岬周りの局面に限って逆風になるのは、シンガポール島沖やセイロン島沖が赤道直下であり、喜望峰沖が南緯30度辺りに位置し、夫々貿易風の入れ替わりと貿易風から偏西風に変わることに起因する。風の変わり目と方向転換が重なるからだ。仕方なく積荷を放棄することも覚悟せざるを得なくなるのが大抵岬廻りである。案の定漸く面舵を切って大西洋へ乗り出す寸前に夥しい数の大きな荷物が波間に浮かんでいるのが見えた。乗組員の話を慣れないポルトガル語を駆使して聞くと、

「あの荷はデウス様への捧げ物だよ。前を進んでいるサルバドール号が水浸しの被害に遭った香辛料や大きな揺れで割れた陶器などを捨ててその梱包の残骸を投棄したものだ。手練れの航海人が当たり前のように言う、降誕祭(ナタール)貢物(みつぎもの)だ」

 と、平然と答えた。廃棄物を神への供物とは実に身勝手な言い分だ。

 逆風に押し戻されたときは、ディロス船長が司祭への告解と神への加護を願い出ると予想されたが、乗組員一同の軽やかな展帆の動きと明るい掛け声から分かるように大回りながら指定航路に戻れたのだとミゲル等は実感した。とにもかくにも乗務員、乗客の双方安堵は万事が万事喜ぶべきことだった。操船に全くの支障のない横風が続き、使節団の語学学習と音楽練磨と時折の釣りの日々が続いた。往路唯一の寄港地であるアフリカ大陸西側の孤島、セントヘレナに到着直後にメスキータ師がゴア行きの戻る船に託したヴァリニャーノ師への手紙には「彼らは互いに語り合い、楽を奏して喜び、チェスを楽しみ、特に魚を釣ることは心に叶った慰安であった」と記されてあった。


 10 夢にまで見たリスボン


 どうも風向きに左右されがちな大型帆船でも、大西洋のような大海原を自由に進むならば、分けても緯度を一気に遡るのは意外と簡単なのかもしれない。喜望峰(カボ・エスペランサ)を5月10日に過ぎて、北西方向から北向きに面舵を切った時からは、一定の横風を受けて順調に航行できるようになった。少し前方の風もジグザグに、詰まりつづら折り走行すれば難なく目的方向に進めるのだ。ほんの11日間の船旅でセントヘレナ島を眼前にすることができた。物見櫓の番人の「島が見えたぞ」の叫び声が、艫の樓にまで響き渡ると乗客の数十人に釣られて使節たちも船縁(ふなべり)に繰り出した。

「島なんか見えないやなかか」

「30尺の高さで水平線に現れたばっかりやけん、うちらにはまだ見えんのやろう」

 と、ミゲルの不満にジュリアンは冷静に答えた。

 数十分の後に目の当たりにしたのは、火山の作る典型のような断崖絶壁の外輪山に囲まれた地形の島だった。アフリカ大陸と南アメリカ大陸に挟まれた南大西洋の真ん中に位置する海嶺から吹き出した溶岩が創り出した絶海の孤島である。少し近付いて半周したが、溶岩の壁が続いていて、上陸できる浜辺や切り開かれた接岸堤など全く見当たらない。ポルトガル人ノーヴァが1502年の聖ヘレナの日に発見したことからその名が付けられ、200年ほど歴史が下るとフランス革命後皇帝に上りつめ、プリューメルの18日の反革命(テルミドール)を演じたナポレオン・ボナパルトの流刑・落命地である。北端の岬を回ると小さな入江が現れ、加えてちょっと進むと上陸用舟艇が漕ぎ着けられる砂浜が開けた。不可解なことに浜近くはおろか、ずっと沖合を見渡しても先を航進し、碇泊している筈の4艘の影も形も見えないことである。サンチャゴ号より10日近く前にコチンを発った先頭のサン・フィリペ号は仕方ないにしても、直前を行くサルバドール号位は待っていてくれても良さそうに思われた。何とも薄情なキャプテン・モールたちである。

 国王の考えで一般の定住者を認めていない。海賊から島を守るためであろう。不都合な者が居座れば即刻軍船を派遣して攻め滅ぼすに()くはないからである。討伐が必要とあれば人定などお構いなしで殲滅すれば済むとの考えであろう。だから島にある建物は、瀟洒な教会堂と管理のために棲んでいる強者の建物の2棟のみである。彼はここで立ち寄る定航船のために唯1人身を捧げている1兵である。先の船団の中に伝染病に罹った者が13人いて彼が預かったらしく、その建物は病人で足の踏み場もなかった。彼は自分が感染することも覚悟で看病をかって出たのだ。当然のことだが大量の穀物や衣類なども含めて生活物資などとの引き換えである。彼はそれでともすれば何年もありつけないかも知れない品物を手に入れていた。滅多に使う当てのない貨幣まで手にしていた。

 海洋にぽつんとあるせいで定期的に降水があり、切り立った外輪に囲まれた中の盆地には川が流れており真水の量も豊富である。寄港する大型船への飲み水補給にはもちろん困らないし、苗木で持ち込まれた物が大木となって美味しそうな実をぶら下げていた。特にビタミン不足の乗員には恰好の果物が豊かに育っていた。オリーブ、柘榴(ざくろ)、レモン、オレンジ、フィーゴ(いちじく)が所狭しと植えられていて文字通り南洋の楽園である。イチジクは収穫時期を過ぎていて、オレンジはまだ青く葉陰に隠れていて食べられるような代物ではなかったが、他の果物は今まさに食べ頃を迎えていた。特にザクロとレモンとオリーブは最盛期である。家畜類もヤギ、ブタ、ニワトリ等が野生化して繁殖していた。猛禽類は持ち込まれず、有用家畜しか存在しないので、たとえ野生化しても人に危害を加えることはない。簡単な狩りでも捕らえ易い。老齢のけものを淘汰してさえいれば、生態系を壊さずに人がその頂点に立てる。人間こそが百獣の王なのだ。

 新鮮な水や食料の補給だけならセントヘレナ島へ上陸などせずに、作業員を使って2、3日も掛からない作業で離岸できる。だが揺れる船上生活が3か月以上続いたことで、貴人たちの不満が噴出するのを恐れて、宿泊施設などのない孤島に上陸してキャンプ生活をすることにした。早速備え付けの舟艇を下ろし、乗組員が次々に浜辺に降りた。野営用の天幕を運び込んで設置し、ハンモックをつるし、折り畳み椅子が広げられて野営の準備が整うと、貴人たちが招き入れられて久しぶりの陸地の感触を確かめた。揺れの少ない大型船でも贅沢な生活しかしてこなかった、年長の貴人たちにはこの上ない悦びなのか、踊りだす者までいる始末である。船内に残されて1度も自由の身になったことのない奴隷たちへの憐れみが、肌の色が少し濃いミゲルたちに湧かない筈がなかった。

 料理番が火を起こし始めると、忽ち美味しそうな匂いが漂い地上での天地の動かない日常生活が戻った。船上では大きな火を使った炊飯は易々とは出来ない。島では思う存分腕を振るうことが出来るのだ。彼らの火を使う定番料理と言えば、大鍋を使い魚介類をふんだんに入れて煮込む鍋料理である。それがスペイン料理のパエリアとなったのか。ポルトガルは海洋国家であり大西洋に面しているから国民並()べて魚介料理が好きである。この点では東西最遠のポルトガル、日本の食の嗜好が見事に共通している。大方のポルトガル料理が単純な味付けで済ませるのは、魚介から出る出汁(だし)が他の何よりも味わいを醸し出すからである。今回は先に出航した船員らが残していった狩りで得た野豚の肉が放り込まれ、獣と魚のチャンポン料理となった。

 ミゲルらは教会堂の傍の天幕に招き入れられ、近くの川原に作られた焚火を囲んで(くつろ)ぐことになった。

「こがん多か天幕ば何処に仕舞うとったんかね」

 と、50脚以上が林立している風景に感慨深げなミゲルに、

「ほんなこつ野戦の陣営んようばい」

「こん地形からすると、三国志ん巫山(ウーシャン)峡谷の(いくさ)ん場面やなあ」

「天下ば競う戦の布陣か」

 どんな場面でも4人は同じ行動をとり、同じ場所での生活を送ることが続いていた。今回も1つの天幕に入れられ、1つの焚火を囲むのである。1つの家族の兄弟のような関係である。親密な関わりを続けるうちに否が応でも余所余所(よそよそ)しい間柄ではなくなり、初めのうちは顕著だった正副、主従、歳の差、出自などの気遣いも今は無くなっていた。しかも物の考え方、見方まで似通ってくることもミゲルは感じていた。当然のことである。

「何日間逗留すっちゃろうか」

 マンショがまだ抜けない日向弁で溜息を洩らすと、

「長か方が楽しか。船ん生活はあんまり好きやなか」

 とミゲルが呟いた。

「窮屈やし危なかことが多すぎるもんな」

 と、ジュリアンが落ち着いた声で言うと、ミゲルとマルチノが、

「そうばい」と口を揃えた。

「ここを出ると次はリスボアやなあ」

 マルチノがしみじみとした面持ちで会話をつなぐと、一呼吸おいて、

「いよいよやなあ」

 全員同時にしかもマンショまで肥前弁で同じ言葉を吐き出した。

 皆が皆同じ表情でお互いの顔を見合いながら、夢にまで見たヨーロッパへの憧れと謁見を上手くこなせるかどうかの不安な気持ちを(あらわ)にし、それと共にヴァリニャーノ師がゴアでの別れの時に、涙を浮かべながら何度も念押しした、

「取り敢えずはポルトガルのブラガンサ公とスペインの両国王フェリペ2世に謁見する手筈になっている。ローマに着いたなら教皇様に謁見できるよう認めた手紙を携えている。東方のしかも最極東からの3賢人の名代の役目を立派に果たしてくれ。」

 との言葉を噛み締めていた。最良の判断を立ちどころに下し、最速の行動を実行し、最善の結果に導くヴァリニャーノ師は今はいない。ここはロドリゲス神父の指示を仰ぎ、メスキータ師と共に実行するしかない。

「絶海の孤島での生活がこの旅の最後の楽園(パライソ)になるかも知れない」

 と、その彼の指示する内容は何故か自信なさそうだった。

 どうもヴァリニャーノ師の遣欧使節に対する位置付け、遂行任務はかなり控え目だったことが、今頃になってやっと使節団全体の認識になりつつある。華々しく目覚ましい活躍を望みはしない。淡々と行事を熟し、自分たちの修道者としての鍛錬を主眼にしろとの約束だったのかも知れない。であるならば大っぴらな謁見ではなく、内密裏の非公式で小規模のものだろう。成功の果実を手にするのは難しくないと思われた。

 結局食料、飲料水の補給に大規模の設営と撤収作業が加わり、6月6日に錨を揚げて展帆し出航するまでの11日間、この孤島に滞在せざるを得なかった。ちょうど定期航路の中間点に当たると聞かされていたから、再び3か月近くの航程が予想された。離島してからすぐ総帆展帆したキャラック船サンチャゴ号は追風(おいて)に急かされるように、脱兎のごとくに音も立てずに穏やかで静謐の海面を北上した。どう表現してもしたりない程の順調な滑り出しである。小さなナウ船で長崎を出てからゴアで当時最大排水量だった定航船に乗り換えたが、この度の航海は初めて味わう最高の走りのように感じた。本来このような順風ならば全航程が、1か年は無理でも1年半で済む距離でしかないと思われた。快調なスピードで進んでいたある日のこと、飛魚の群れの中を通り過ぎたところ、海面から2人分の身長ほどの高さにもかかわらず甲板に、突然、十数匹身投げしてきた。少年たちの故郷である(シモ)では珍しくない飛魚だが、これほど高くしかも遠くまで飛ぶなどと想像もしていなかった。多分シャチかイルカなどの大物に追われていたのだろう。

 また楽しい魚釣りが出来るのを少しは期待したが、そんな日は全くやって来る気配すらなかった。錨を下ろして次の風を待つ、停滞する日々がなければ、釣りに興ずるなどおいそれとはできるものでない。だが禍福はあざなえる縄の如しである。好事は無限に続くことはない。6月21日に赤道を越え、乾杯をした盃も乾かない7月10日に、つまりセントヘレナを出てから1か月と5日で今日でいうセネガル国のヴェルデ(カボ)沖に位置する、いわゆるカーボヴェルデ諸島を通り過ぎた頃である。日本で言う梅雨寒の頃だろうか、急に気温が下がり、冷たい雨が数日降り止まず、右からの横風を受け続けたために大きく西に逸れながら進むしかなかった。ジグザグに進めれば何の問題も起きなかったが、リスボンを目指すには真正面からの風にたち向かうしかなくなった。

 取り敢えずはマコモのような海藻の繁っている一帯に暫し錨を下ろすことになった。海藻が生えていれば、深くはないことが分かっているからで、これ以上西に()れるとリスボンはおろか、アフリカ大陸西岸のモロッコより700キロメートルも沖のマデイラ諸島をも遥かに越えてしまうからである。これがこの定航路1番の胸突き八丁、最大の難関を避けるための唯一の策だった。リスボンから1500キロメートルほど遥か西にはアゾレス諸島があり、その中心に平坦な土地が広がり人の住める大きな島がある。果たしてそこを(ねぐら)にしているのが、かの悪名高いテルセイラ島の海賊である。難破して動けなくなったり風に恵まれずに漂流しようものなら真っ先に彼らの餌食になるしかない。ここは慎重にわずかな風を捕らえながらゆっくりとカナリア諸島を右手に見ながら、リスボン最寄りの島々の連なるマデイラ諸島を目指すのが最善のルートである。北東からの強風に流されるままに西方に追いやられるのは、今や絶対にとってはならない最悪手である。

 今少し北上できて偏西風に乗れるか、夏の陽射しを浴びて過ごし易くなれば、どちらにしても問題は即刻解決を見るだろうから、ここは只々堪えるしかなかった。海賊船も藻が舵に絡まって、にっちもさっちも動けなくなることを恐れて、襲撃を掛けることはまずない。襲う海賊側が(ラダー)に藻が絡まって身動きが取れなくなれば、誰が見てもこれほど惨めで情けないことはないからである。抑々大西洋の海賊はスペインのアメリカ大陸での横暴が原因で、後発の海洋国家であるオランダ、フランスが、後にイギリスが、先進海洋国家ポルトガル、スペインに海戦を仕掛けていく過程で生まれた無法者の集団である。新規に入植すると軍事的に守りを固めるしかない。カリブ海の西インド諸島などに拠点を持ち、保有領地の守備に専念するよりも有効な先制攻撃を仕掛けるようになり、やがては相手から財宝を奪う、盗賊行為も辞さなくなったのである。

 だが、怖れている海賊よりもっと手強い敵が未だに残っていた。この年の梅雨寒が1週間以上経っても終わりが見えず、一層の低温に見舞われていたのである。乗客の貴人たちは持参している冬物の衣服を持ち出したり重ね着をして寒さから逃れられるが、粗末でしかも薄着しか纏っていない奴隷たちが、片っ端から咳込み出し水っ(ぱな)を垂らし始めた。それぞれの役目を担えないばかりか、次から次へと倒れて動けなくなり寝込む者まで出る始末である。流行感冒に罹る人は数を急増させ、理髪師も兼ねる医者だけではとても手に負えなくなり、死に至る者も日を追って増えていった。

 それまでミゲルはガレオン船のような大型帆船ならば安定した帆走が可能であり、死者どころか病人さえも出ないと信じていた。今やその考えは見事に粉微塵に吹き飛ばされ、どんでん返しの様相である。前を進む船の病人がセントヘレナに残されていたのを見て、

「病気などは運が悪かったから罹るのだ」と思い込んでいた自分を恥じるしかなかった。もしかして粗末な扱いさえ受けていなければ死だけは避けられたのでは、と改心することしきりだった。カーボヴェルデ諸島を7月10日頃に通過してから海藻と寒さに悩まされつつ一進一退を繰り返しながら、8月に入ってやっと冷たい雨季が終息すると、抜けるような青空と強い日差しと南からの追い風が吹き出した。3週間近く続いた危機が遅まきながら1段落を迎えたのである。マデイラ諸島をかすめて進むと4、5日で南西からの追い風に乗って1584年8月10日昼過ぎにテージョ川河口にサンチャゴ号はその雄姿を見せた。

「公子たちが一緒だったから今回の航海はこれまでにない絶好の気候に恵まれ、実に最高の船旅だったよ。デウス様のご加護に感謝します」

 そう船長は宣うが、真実は32人の奴隷たちの死の上に胡坐をかいた言葉だった。

 懐かしい母国に着いた途端に、様々な物事の内に見え隠れする人間の境遇や人の災難を神の思し召しだけで片付けている大人たちに対する不信が、ミゲルの頭の中をぐるぐる回り始めたことだけは確かだった。それでも日本人にキリスト教を啓蒙するために、ザビエル師はじめ沢山の宣教師たちが、この港から一生故国には帰らないと決意して命懸けの旅に就き、異国の日本で信者獲得のために東奔西走していると考えると、その敬虔なる信仰心を再認識するとともに、それ以上に他人への奉仕と博愛心の深さを痛切に感じとった。

 リスボンに到る航海は難渋の連続で、生死にまで思いを馳せる人生初の旅だった。


 戦国末期の1569年に城持ち大名の一粒胤として生を享けた千々石ミゲルが、13歳で長崎を発ちローマ教皇に謁見し、8年半の航海の末日本に生還し司祭を目指して尽力したが、10年後にイエズス会を脱会し棄教したのは何故だろうか。裏切者としてキリスト教関係者からおんの子ミゲルとののしられ、一方では狂暴化し滅殺処分策をとる政治権力者側は売国賊とレッテルを貼って屡々日本刀を振り下ろしてきた。沈黙して隠遁生活を送っていれば双方からの襲撃を受けるいわれはなくなる筈だ。

 私の見立ては唯一つである。陰ではキリスト者としての顔を持ち、陽においては昼行燈の武士もののふとして四苦八苦していたのだろう。陰陽の使い分けがかなわなくなった時、果たして悲惨な最期となったに違いない。その死から4年と10か月後、天草・島原の乱が勃発した。

「天草四郎は千々石ミゲルの子息である」

 という情報が、実しやかに事件後に忽ちヨーロッパに拡散する。

「日本という遠い国から4人のカトリックの少年武士がやって来る」

 という情報と同じルートを辿って広まったのだろう。

 どちらもイエズス会の関係者が発信元と思われる。後者の知らせは、ローマ教皇をはじめカトリックの陣営が新教に対する対抗改革の成功への『夢』が産み出し、前者の噂はその願望が潰えそうに見えた時に『幻』だったのかとの落胆として広範に流布したのかも知れない。これを一概に誤報であると決めつけるのは早計である。その裏にある真実を見逃すことになるからだ。元来生涯独身を通すのがカトリックの修道者であり、イエズス会の頑なな掟である。使節の中で還俗したのはミゲルだけである。彼唯一人が妻帯して男子を4人もうけたが、早世した次男の代わりに益田好次の息子を一時養子としたとか、長崎で通事をしている時の私塾に四郎が弟子入りしたとか色々考えられるからだ。

 とにかく一巻末の「夢にまで見たリスボン」に続く巻は、ミゲルら少年遣欧使節のポルトガル、スペイン、イタリア歴訪の1年と8か月の滞在へと続く。これらカトリックを信奉する国々では、遥々地球の裏側の極東からやって来た、キリスト教徒の少年たちを熱狂的に大歓迎したことは歴史上でも特記されている。

 彼らが訪欧したのがグーテンベルクの印刷機が急速に普及した時期と重なり、数百種類の出版物が刊行されたが、教会関係者の偏った冊子を省いても確かな史実を語っている。それに付けても帰国後の日本での記述が少なくしかも断片的であることが残念である。ミゲルについては政、宗どちらからも無視されるのはまだ増しで、悪意に満ちていて敵意すら感じさせる。

 私の描くミゲルはあくまでも善意に寄り、彼に味方するものである。

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