拝啓、没落貴族さま。見下していた相手からされる婚約破棄のお味はいかがですか?
しがない子爵家の生まれであるアイリーン・ブライトンは、ここ数年思い悩んでいた。
といっても、その悩みのタネはいよいよ厳しくなってきた実家の財政状況でも、最近調子の悪くなってきた肌でもない。
「ねえアラン、見て。仕立てさせたドレスができあがったの」
「ああ、カーラ。流石の着こなしだな、よく似合っている」
「うふふ、当たり前でしょう? あなたの瞳の色に合わせて作ったんだから……」
――婚約者であるアランの義姉による所業が、あまりにも目に余ることについて、だ。
「そうだわ。せっかくだから、私の瞳に合わせた色の宝石でブローチを作りましょうよ。アランにぴったりだと思うの」
「良いじゃないか。それなら遠くにいてもカーラを感じられる」
「まあ、アランったら……。ふふ、そろそろ姉離れもしなくちゃダメよ?」
アランの義姉、カーラは、くねくねとした動きで彼に近寄ると、隣に腰掛け身体を擦り寄せる。アランが満更でもない様子で肩を抱くと、「きゃっ」という甲高くも甘い声が部屋に響いた。
私はそっと溜息を吐き、開きかけていた口を引き結ぶ。
(一体何度この光景を見せ付ければ気が済むんだか……)
改めて確認するが、目の前のアラン・ラングリッジはアイリーンの婚約者である。
そしてカーラ・ラングリッジはその義姉。5年ほど前、ラングリッジ侯爵の前妻が亡くなった後、1週間と空けずに侯爵が迎えた後妻の連れ子だ。
前妻のシェリーは、アイリーンにとっても本当に素晴らしい方だった。
病弱ながらも明るく活発で、何より優しい。ラングリッジ家に遊びに来るたび息苦しい思いをしていたアイリーンを、あの温かい手で撫でて可愛がってくれたようなお人だ。アイリーンは生まれると同時に実母が亡くなっていたのもあって、本当の母のように懐いていた。
アイリーンとアランが婚約したのは、そんな前妻のシェリーが亡くなる1年と少し前だった。いわゆる家の事情――ようは政略結婚だ。
今も昔も変わらず財政に悩んでいたアイリーンの父は、侯爵家との婚約に大喜びだった。
もちろんアイリーンも喜んだ。思い詰める父の顔をもう見なくて済むんだと、そう思ったからだ。
がしかし、ラングリッジ侯爵の再婚で、事態が一変した。
義理の姉にあたるカーラが、何かとアランに引っ付いては「羨ましいでしょう」とばかりに嘲笑してくるのだ。アランは私しか見ていないのだと、私は婚約者より愛されているのだと、そう目で訴えながら。
もう一度、アイリーンはやってられないと溜息を吐く。するとカーラは、まるで今こちらに気付いたとでも言うように「あら」と言った。
「いたのね、アイリーンさん。存在感がなくて気が付かなかったわ」
「……それは失礼いたしました。カーラ様に挨拶をする暇がなかったものですから」
「うふふ、遠慮しないで良いのよ。アイリーンさんはアランの婚約者なんですから……」
〝婚約者のくせに相手にされなくてかわいそう〟という心の声が透けて見える。
あまりのわかりやすさに三度目の溜息を吐くと、カーラはそれが気に障ったらしく。
「……あら、せっかくのお茶会なのに溜息なんて嫌だわ。アランとのお話が楽しくないの?」
「何だと? ……アイリーン、嫌なら来なくても良いんだぞ。場を盛り上げてくれているカーラに悪いと思わないのか?」
(盛り上げているどころか盛り下げているんですが)
との本音は口にせず。アランの言葉にカーラが笑みを深くしたところで、「失礼いたしました」と放るように言った。アランが眉を寄せたが気にしない。
盛り上げるも何も、そもそも今日は定期的に行われるアイリーンとアランのお茶会の日だった。
他愛もない話に花を咲かせるだけではあるが、婚約者との距離を縮める大切な会だ。にも関わらず、カーラは堂々と部屋に入ってきた挙句アランに擦り寄っている。
アランもアランだった。世間一般での姉弟とは、婚約者の前で愛を囁き合いながら肩を抱く関係ではない。
それに、彼の瞳には欲が籠っている。既に「そういった関係」なのかどうかはともかくとしても、くねくねとした動きで寄ってくる義姉に不純な気持ちを抱いているのは確かだろう。
――つくづく嫌な男だ、と思う。
婚約者ができた以上、大っぴらに他の令嬢を誘うことなんてできないから、義理の姉で欲を解消しようとしているのだ。
アイリーンが家を理由に嫌がれないのも承知の上だろう。事実、財政難のブライトン子爵家はこの婚約に家の命運を賭けているし。
「……でも、もうお時間みたいですね。アラン様とカーラ様2人の時間を邪魔してしまってすみませんでした。そろそろ帰ります」
こんな空間いるだけ無駄だ。アランだって、機嫌の悪い婚約者といるよりは義姉といちゃつく方が楽しいだろう。
そうアイリーンが立ち上がると、アランは少し目を見開いてから何かを言いかけ、しかし「ああ」と言うだけに留まった。
面倒臭かったのはカーラの方である。
「あら、そう? じゃあ私が馬車まで見送りますわ。機嫌を損ねてしまったみたいですし」
「結構です。カーラ様のお手を煩わせるわけにはいきませんから」
「そんな冷たいこと言わないでよ。いずれ姉妹になる仲でしょう?」
カーラはいそいそと距離を詰めると、そうアイリーンの肩に触れた。叩き落とさなかっただけ褒めてほしい。
「……そこまで仰るなら、お言葉に甘えて」
この調子じゃもう何度断っても無駄だ。早く帰りたかったアイリーンは、申し出を辛うじて笑顔で受け入れた。
――その手を振り切ってでも1人で帰れば良かったと思ったのは、広い廊下に出てすぐのことだった。
「ねえアイリーンさん、アランは可哀想な人だと思わない?」
扉が閉まり、2人きりになるや否や、そう話を振られた。「はあ」と生返事を返すと、甘ったるい声でカーラが続ける。
「拒否権のない婚約なんてさせられて、小さな頃からの初恋も叶わないなんて……。本当に哀れよね。同情しちゃうわ」
「……小さな頃?」
思わず、引っかかった言葉を復唱する。
するとカーラは、待ってましたとばかりに早口で言った。発言を悔いてももう遅い。
「あら、聞いてないの? やだ、てっきりアランから教えてもらってるとばかり……。アランなりにアイリーンさんのことを考えたのかしらね」
「はあ」
「でもアイリーンさんには言うべきだと思うの。アランが言わないことを決断したとしても、夫婦で隠し事なんてしちゃいけないものね」
(何でこの人はこんなに話が長いんだ)
彼女の自尊心を高めるためだけの前置きがうざったい。気持ち早めで廊下を歩くと、呼応したのか早く言いたいのか、カーラの早口が加速した。
「実は私たちね、アランが5つの頃から交流があるの」
鼻高々とばかりに言い切ったカーラに眉を寄せる。
5つ。というと、もう10年以上も前だ。もちろんアイリーンとアランの婚約など影も形もなく、そして前妻のシェリーが元気だった頃でもある。
そんな時から、アランは父の愛人の娘に会っていた、と。
「お父様がね、『未来の母と姉になる人だ』って会わせてくれたのよ」
「母と、姉?」
「そうよ。前の奥さんは病弱だったでしょう? いずれ死ぬだろうから、その時は私のお母様を後妻に娶ると約束してくれて――」
「は」
「前の奥さんは厳しかったでしょう? 甘やかしてくれるお母様にアランもすぐ懐いたのよ。ふふ」
自慢げに語るカーラに、目の前がちかちかした。
――シェリー様が、いずれ死ぬって。
そんな、亡くなることを願っているような言い方を、10年以上も前に?
さっと悪くなったアイリーンの顔色を一体どう解釈したのだろう。カーラは愉快で仕方がないといった様子だ。
「でもアランは『未来の姉』って言葉が理解できなかったみたいなのよ。ねえアイリーンさん、アランが私になんて言ったと思う?」
アランについての話なんて耳に入ってこない。アイリーンの頭の中は、旦那に尽くして尽くして、あまりにも早くに亡くなったシェリーのことでいっぱいだった。
――なら、なら侯爵と私の婚約者は。
シェリー様が「アイリーンは綺麗な花嫁になるわ」と優しい声で私に語る裏で、愛人との未来を考えていたと。
1週間足らずで再婚に踏み切ったのも、それが10年の間交わした愛人との約束だったからと。
10年以上もの間、侯爵とアランは病弱ながらも献身的なシェリーではなく、愛人とその娘との未来しか考えていなかった、と。
拳を握る。
心臓が、早鐘を打っていた。
「アイリーンさん? 聞いてるの? ねえ、なんて言ったと思う?」
「……つくづく嫌な……」
「なぁに、答える気も無くしちゃった? もう良いわよ、正解はね、『大きくなったら僕のお嫁さんに――」
「カーラ」
尚も続くカーラの話に、いよいよアイリーンが何事かを叫ぼうとしてしまったその時。
穏やかな声が広い廊下に響き、頭に集まっていた熱が一瞬で弾けた。
カーラと同時に視線をやる。
そこには、1人の男性が立っていた。
「お、お義兄さま……」
数秒、眩しい逆光で誰かを判断できずにいたが、気まずそうなカーラの声でやっと理解した。
「……セドリック様。お久しぶりです」
「ああ、久しぶり。生誕パーティー以来かな」
セドリック・ラングリッジ。ラングリッジ家の長男で、次期当主となるお方だ。多忙を極めているため話したことは数度しかないが。
「彼女、気分が悪いみたいだ。あとは僕が送って行くよ」
「えっ、でも……」
「大丈夫だよ。それより、アランの機嫌が悪かったからどうにかしてくれないか?」
驚いた。普段はあれだけ高圧的なカーラが、セドリックの前だとしどろもどろになっている。あまり仲はよろしくないのだろうか。
そういえば、カーラから彼の話は聞いたことがない。アランにするようにくねくねと擦り寄ることもないし、てっきり美麗な男性なら誰でも良いのかと思っていたのだけれど。
「良いだろ? 僕じゃ対処できそうにないんだ。姉である君が頼むよ」
「え、……ええ。……それじゃあアイリーンさん、また今度」
セドリックの一言で、どれだけ断っても引かない意志を見せていたはずのカーラはぱたぱたと元来た道を引き返してしまった。
残ったのはアイリーンとセドリックの2人である。
とりたてて仲が良いわけでもない2人は暫しそのまま見つめ合い、立ち止まった。相手方のセドリックも困ったように笑っている。
(そういえば、さっきの話……)
自慢げに語られたカーラの言葉を思い出す。
前妻の逝去を見越し、ラングリッジ侯爵が愛人とその連れ子を会わせていたというあの話。あの心底腹が立つ話が本当なら、セドリックも愛人と娘のカーラに会っていたのではなかろうか。
そして、2人と一緒になってシェリー様を――、
「……驚いたよ。まさか父がそんなことを考えていたなんて思いもしなかった」
と、そこまで考えが及んだと同時、セドリックが長い沈黙を破った。
「聞こえていたんですか」
「そりゃあね。あれだけ大きな声で話してたら響くに決まってるでしょ」
セドリックはアイリーンの隣に並ぶと、眉を下げて一言「歩こうか」と言った。
長い廊下に2人分の足音が鳴る。
「おかしいなとは思ってたんだ。いくら控えろと言っても、父はよく母を社交の場に引き連れていこうとしてたから。それも体調を崩しがちな冬にね」
「……」
「医者に勧められていた薬が中々手に入らないって言ってたのも、今思えば母の体調を悪化させようとしてたんだろうな。やっと合点がいったよ」
「ひどい……」
ぼそりと呟いた私に、セドリックが苦笑いを浮かべた。
「……アイリーンは疑ってるんだよね。僕がアランと同じように、母に隠れて小さい頃から義母やカーラと会っていたのか」
「……それは、」
「いいよ。むしろ疑う方が自然だし、嬉しいんだ。母のことを大切に思ってくれているようで」
セドリックは、すっと声を潜める。
「僕は彼女らと一度も会ったことがない。だから再婚と聞いた時は驚いたよ。……アランが5歳となると僕が10歳の頃だし、母のことで父と揉めたりもしてたから、味方がほしい父にとっては僕が邪魔だったんだろう」
話の流れからして、そう言われるであろうことは何となく予想できていた。
がしかし、だからと言って彼の言葉をはいそうですかと受け入れることはできなかった。頭の良いセドリックなら、父親の不祥事を口止めするためであれば嘘くらい吐くと踏んでいたからだ。
愛人を作るだけならまだしも、社交界を引き連れ回した挙句、薬の投与を遅らせるなんてことが事実なら許されるはずもない。
シェリーは人格者だった。貴族たちにもあんなに良い奥様はいないと絶賛されていたし、愛人のために妻を、なんて知られたらラングリッジ侯爵の体裁も危ういだろう。
疑いの目を向けるアイリーンに勘付いたのか、セドリックは「だよね」とまた笑った。
長い廊下の終わりが、ようやっと見えてきた頃だった。
「いや、良いんだ。僕のことを信じられるかどうかは君自身が後々決めれば良い」
「……疑っていますが」
「あはは、正直だね。それで良いよ、今はね」
そこで一旦言葉が途切れた。と思ったら、不意にセドリックが足を止め、距離を縮めてくる。
そして、驚いて後ずさろうとしたアイリーンより先に、より潜めた声でこう囁いたのだ。
「――……ねえ、一緒に復讐してやろうよ」
こそばゆさで肩が震えた。
「……は?」
「復讐だよ。母上の仇を2人で取って、あいつら全員追放してやるんだ」
「つい、ほう……?」
「そう。死ぬよりも辛い境遇にしてやろう。僕と君の2人で」
復讐。追放。
まるで物語の中のような言葉だらけで眩暈がする。
彼の瞳は爛々と輝いている。
まるで子供みたいな、無邪気な顔だ。
それが何だか怖くって、
でも何故か惹きつけられてしまって、
アイリーンは、彼の言葉に頷いた。
「わ、私、……シェリー様を愚弄した奴らが許せない」
「うん、そうだね。僕も同じ気持ちだ」
「やります。……セドリック様を信じられるかどうか、見極めるためにも」
唇を噛む。浮かぶのはシェリーの笑顔だけだ。
――かくして。
この日からアイリーンとセドリックは、奇妙な協力関係になったのである。
◇◇◇
翌月のお茶会には、相変わらずカーラの姿があった。
「なあカーラ、肌の露出が多くないか?」
「ええ、そう? 良いじゃない、どうせ家の人しか見ないんだから」
「俺以外の人間に見られたらどうするんだ。こんなに背中まで出して……」
「きゃっ! もう、人前で触っちゃだめよ。また後で、ね」
(……まあまた随分お盛んなことで)
触っちゃだめと言いつつ擦り寄りったりと、1人で矛盾を体現しているカーラは今日も元気だ。アランもスキンシップが増え、……心なしか先月より距離が近い。
そして何より、大きく露出したカーラの背中には、いくつか赤い痕が見受けられる。
それを「どうぞ見てください」とでも言わんばかりに見せつけてくるものだから、赤い痕の正体は聞かずともわかった。
婚約者の前で行為を匂わせる性癖がアランにあったのか、はたまたこの後の2人を盛り立てるためなのかは不明だが、とにかく不愉快なことには変わりない。
アイリーンは冷めた紅茶を一口飲み、一息吐く。
思った反応を得られなかったらしいカーラがこちらを睨んできていたが、構っている体力はなかった。
「ねえ、アイリーンさん。そういえばあなた、この間お義兄さまと一緒だったわよね」
今度は変わり種の攻撃がきた。婚約者といちゃついているだけではもうダメージも与えられないと悟ったのだろうか。
「それも大変仲睦まじい様子でしたわねえ? 手を取り合って額を合わせて、まるでキスでもするかのような雰囲気でしたわ」
「は?」
その言葉にアイリーンが眉を寄せるよりも先に、アランが低く唸るような声を出した。
手を取り合い、額を合わせてまるでキス? ……嘘にしても程度を知らない誇張である。
アイリーンとセドリック様は肩すら触れていないし、そもそもカーラはあの場からすぐ去っただろうに。
「……お前、婚約者がいながら兄とそのようなことをしたのか?」
「そうよ、アラン。私、その光景を見てショックで仕方がなくって……」
その腰に回っている手は誰の婚約者のものなのかと問いたいが、姉弟の関係に口を出すなと突っぱねられるのがオチだろう。もう見えていた。
「何だ、何とか言ってみろ。弁明の言葉もないのか?」
「……いえ。いち婚約者の主張など、10年以上のお付き合いがあるお姉様の言葉には敵わないでしょうから。余計な言い争いをするより黙っていた方が良いだけです」
そう言うと、アランは目を見開き、数度口をはくはくとさせた後で「何故それを」と呟いた。
やはり、幼い頃から愛人との接触があったことは家としても後ろめたい事実なのだろう。理由なら、隣の愛する義姉に聞けば良い。
「否定しないってことは事実なのよね? 良いじゃない。アランに見限られたからってお義兄さまの方に流れるのは少し下品だけれど……」
当の義姉はそんなアランの焦りに気付いていないらしく、胸を張りながらふふんと笑った。
「でも仕方ないわよね。アランは小さな時から私と相思相愛だったんだから」
と、どんどんボロを出していくカーラは、拳を握って震えるアランなど何のそのだ。あろうことか首に抱きついてまでいる。
何だかその差が面白くって、アイリーンは思わずふふと笑ってしまった。カップをソーサーに戻し、ソファから立ち上がる。
「時間ですし、そろそろお暇いたしますね。あとは相思相愛のお2人でお楽しみください」
「なっ……! は、早く出ていけ! なりふり構わず色目なんて使いやがって……!」
「ええ。それでは」
カーラは勝ち誇ったような表情だ。大好きな義弟が憎き婚約者に暴言を吐いたからだろう。母の優しさを感じられもしないそんな男、こちらから願い下げである。
「チッ、……ただでさえ最近はイラつくことが増えたというのに……」
さっさと部屋を後にする直前、アイリーンの耳にアランのそんな呟きが届いた。
戸を閉じると、セドリックが意味ありげににっこりと笑って壁に凭れているのを見つけた。
その笑顔に笑顔を返し、カーラの猫撫で声を振り切るように歩を進める。
アイリーンとセドリック様の"復讐"は、極めて順調に進んでいた。
◇◇◇
「……どうも、ラングリッジ領の情勢がきな臭くなってるみたいだね」
更に翌月。今月のお茶会が領民の反発による治安悪化からお流れになり、数日が経った頃。
届いていたラングリッジ侯爵からの手紙を読んだ父は、深く溜息を吐いてこめかみのあたりを揉んだ。
「お父様、侯爵からのお手紙には何と?」
「手助けをしてくれないか、と書かれていたよ。領民の制圧のためにうちの軍を借りたいみたいだ」
この頃、ラングリッジ領は、税金の高さとまともに整備されない領地への不満から、領民による暴動が起きていた。今までまともに連絡も取っていなかったうちに応援を要請するくらいだから、相当切羽詰まっているのだろう。
加えて、ラングリッジ領は他領との争いが多いのも困り果てた要因だろう。守りに割かなければならない人員が多く、民衆を鎮めるための兵が足りないのだ。
「うーん……、何人向かわせられるだろうな。うちもこの間軍を縮小したばかりだし……」
「え、ラングリッジ領に兵を向かわせるおつもりなのですか?」
「そりゃもちろん。おまえを嫁がせるんだから、相応の誠意は見せないとだろう」
父は唸りながら悩んでいる。断りを入れてくれればアイリーンとしても万々歳だったのだが、義理堅い父にはそんなこともできないらしく。
息を吐く。なるべく背筋をぴんと伸ばして、あとは自信を持って――セドリックに教えてもらった『言葉を正しく見せるコツ』をひとつひとつ思い出しながら、アイリーンはそっと口を開いた。
「お父様。お言葉ですが……、軍の派遣はお断りしてはいかがでしょうか」
「え?」
「確かにラングリッジ侯爵には私を貰ってくださった恩があります。ですが、ブライトン領を蔑ろにしてまですることじゃありませんわ」
父の目をしっかりと見つめる。逸らしてはいけない。強い意志を見せつけなければ。
「それはそうだが、……侯爵に悪感情を持たれでもしたら」
「侯爵を恐れるのは結構ですが、これを好機とばかりに攻め入られたらどうするおつもりですか。うちは国境に近いのです。隣のバートン領も昨今の情勢で軍を拡大しましたし、安全と言える状況ではありませんわ」
「まあ、それは……」
「隣国だって虎視眈々と国を狙っているのです。御国と侯爵のどちらを取られるおつもりですか?」
隣国が我が国を狙っているなどという話は僅かも聞かないが、嘘も使いようだ。国単位でスケールを大きくして捲し立てれば、本当に義理堅い父の心は揺らぐだろう。
娘の熱意のこもった視線を受け、父は再度唸る。
そして滲み出てきた汗を拭うと、やっとひとつ頷いた。
「……今回は申し訳ないと伝えるよ。国のためだからね」
――よし、流石は私のお父様だ。
早速手紙をしたため始めた父を尻目に、アイリーンは早速次の段階に移ることにした。
自室へと戻り、引き出しから紙と便箋を数枚取り出す。差出人は自分。宛先は――シェリーが連れ出された社交の場で仲良くしていらした貴族たち、それもラングリッジ侯爵が救援を頼みそうな家だ。
シェリーには、少し話しただけで心を穏やかにさせる魔力のようなものがあった。
そんな優しくて大らかなシェリーに恩義を感じている人も多いだろう。だからこそ、弔いの場には多くの貴族たちが集まったのだ。
彼らには、シェリーが受けた仕打ちを説明しなければならない。
そこからは賭けだ。嘘だと吐き捨てるも、信じるも向こう次第。信じるないしは多少疑ってラングリッジ領への軍の派遣を少しでも躊躇ってくれたらこっちの勝ち。
軍が派遣され、暴動を起こす領民が制圧されたなら、その時はこちらの――……否、アイリーンと、ラングリッジ家の情報を民衆に流したことで暴動を誘発させたセドリックの負けだ。
◇◇◇
――アイリーンが次にラングリッジ家を訪れることになったのは、最後のお茶会から半年が経った頃だった。
(……随分と変わったな、この辺も)
馬車を降り、徒歩で目的地を目指し始めて少し。見違えるほど荒れ果てた街並みを目にし、アイリーンは数度瞬きをした。
ラングリッジ領の領民による暴動は、ここ数日でやっと終わりを迎えた。道沿いの家屋はひしゃげ、道は抉られ、それはもう酷い有様だ。ここで戦でもあったのかと思うほどである。
戦いを終えた民たちの行動はそれぞれだ。
倒れた家屋の再建にあたるもの、空の下で酒を浴びるもの、洗濯に取りかかるもの、何も知らずに走り回る子供、等々。生活のためには立ち止まってはいられないのだろう。
そう辺りを見回しながら道を進むと、目的地であるラングリッジ家――いや、元ラングリッジ家が見えてきた。
がしかし、正門の前で誰かが言い争っているようだ。
立ち止まって目を凝らすと、聞き覚えのある甲高い声が耳に入った。
「――嫌よ、嫌! 何でこの家を出なくちゃならないの?!」
見なくてもわかる。カーラだ。
「そうよ、何で家まで奪われなきゃならないわけ?! こっちは領地も領民も取られたのに!」
で、そのカーラの隣では、カーラによく似た声の女性が同じように騒いでいる。後妻だ、と一目で理解できた。シェリー様の跡を継いだ、愛人の女性。
ラングリッジ元侯爵はシェリーよりあんな人を選んだのか、と思った。あそこまで堕ちておいて尚駄々を捏ねるなんて、普通の貴族じゃありえない。
(シェリー様が生きていれば、こんなことにはならなかったのに……)
――手早く暴動を鎮めることができなかったラングリッジ侯爵家は、経済的に困窮し、その領地を手放した。
領地を手放したということは、つまり爵位を返上するということだ。侯爵の地位を失くしたラングリッジ家は、これから一庶民となる。
他領の助けを得られればまだマシだったろうに、不思議なことに、周辺貴族たちは1人たりとも軍を派遣しなかったらしい。おかげで暴動は長く続き、結果的に爵位を返上するまで民衆は怒り続けたそうだ。
「静かにしろ! 少しは黙れんのか、この馬鹿女が!」
と、未だ喚くカーラ達を怒鳴る影がひとつ。
わなわなと震えながらそう叫んだのは、最後に見た時よりだいぶ老けたように見えるラングリッジ元侯爵だった。
「ば、馬鹿女って……! 何よ、あなたがさっさと全員殺しちゃえば済む話だったのに、手間取ったのがいけないんでしょう!」
「黙れと言ったのが聞こえんのか……! 読み書きもできん女が口を出すな!」
カーラの母と侯爵は怒鳴りあっている。世間の目というものを考えていないのか――と半ば呆れ気味にそれを見ていると、立ち止まっていたが故か、その輪の中にいた1人とばっちり目が合ってしまった。
(……げ)
踵を返して駆けようとしたものの、時既に遅し。目が合った人――アラン・ラングリッジその人は、ばたばたとアイリーンのもとに駆け寄ってくると、額に汗を浮かべながら「おい!」と叫んだ。
「アイリーン、貴様……! 何故ブライトン領から軍の派遣をしなかった!」
「……お久しぶりです、アラン様」
「お前のせいだ! お前のせいでこんな……っ、許されるとでも思っているのか!」
女性の貶し方は父の遺伝らしい。彼に少しでもシェリーの優しさが遺ればまだ良かったろうに、アランの罵倒はまだ続いた。
「チッ、こんな女と夫婦になるのは嫌気が差すが……、仕方ない。おいお前、さっさと俺と結婚しろ」
「……はあ?」
「クソみたいな家だがブライトンも貴族だ。それで我慢してやろうって言ってんだよ」
これには言葉もなかった。怒りも湧いてこないのだから、相当呆れていたのだろうと思う。
下手にこられるならまだしも、変わらずどころか勢いを増した高圧的な態度で来られるとは思わなかった。よくそれではいわかりましたと言ってもらえると思ったものだ。
(はあ……、こんな人に時間を使いにきたわけじゃないのに)
胸の中で嘆息をひとつ。
それからアランに向き直ると、アイリーンはにっこりとした満面の笑みを浮かべてやった。サービスだ。
「それが貴族に対する態度ですか?」
彼が大事に大事になさっていた貴族であることへのプライドは、彼を真似た態度を取ることで丁寧に折ってさしあげることにする。
「……は?」
「もうあなたは庶民です。貴族である私をクソ女と罵倒し、結婚を申し込む権利などありません」
「貴様、何を」
「――アラン・ラングリッジ。ここであなたとの婚約を破棄いたします」
よく喋っていたアランの口は、今度こそぽかんと開いたまま動かなくなった。
どうせここに目当ての人はいないのだ。彼の顔なんて見たいものでもないし、さっさと踵を返すと、呆けた顔でこちらを見るアランに捨て台詞を吐いてやる。
「結婚なら愛するお義姉さまとしたらいかがですか? 愛があれば何だってできますから」
――あなた方に愛があれば、の話ですが。
いよいよ泣き始めたカーラの甲高い声を背に、アイリーンはカツカツとヒールを鳴らしながらその場を去った。
アランは追いかけてくる気配もない。そしたら今までの恨みを込めて一発蹴りでも入れようと思っていたのだが、残念だ。
(それにしても、家にいないなら一体どこにいるんだか……)
ラングリッジ家が家を引き払う日が今日だと聞いていたからここまで来たのに、もしや一足先にどこかに行ってしまったのだろうか。
……あり得そうだ。彼の行動力は桁違いだし。
何せ、一言約束をしただけで本当に復讐をしてしまうくらいなんだから。
と。そんな時。
「こんにちは」
聞き覚えのある声が鳴り、アイリーンは足を止めた。
振り返る。半壊した民家の壁に凭れてこちらを見ていたのは、探していた、
「セドリック様……!」
「あはは。様付けはいりませんよ、お嬢様。もう庶民の身ですから」
セドリック・ラングリッジ。思わず駆け寄って名を呼ぶと、セドリックはあの綺麗な笑みを浮かべてくれた。
「じゃあそちらの敬語もやめてください。友人じゃないですか」
「友人? 随分高く買ってくれたみたいだね」
「ええ。戦友ですから」
「戦友、ね。話を持ちかけた時には僕を疑ってた子がよく言うよ」
悪戯っぽくからかった彼に返す言葉もない。少し視線を逸らすと、セドリックは冗談だよとまた笑った。
「……でも、本当にアイリーンはよくやってくれたよ。まさかあんな分の悪い賭けに乗ってくれるとは思わなかったし」
「あら、違いますよ。私はセドリックではなくシェリー様の人徳を信じたのです」
「あはは! そりゃそうか、じゃあ母上に感謝だな」
あの日。軍の派遣に悩む父を引き留めた日。
他領の貴族たちにラングリッジ家への派遣を止めるよう求めた手紙を出したのは、セドリックの指示だった。彼は意図的に暴動を起こし、その鎮圧を遅らせることで、家ごと抹殺を図ったのだ。
シェリーのされた仕打ちを事細かに書いて送り付ける作戦は、アイリーンの思った数倍は功を奏した。
身体が弱いにも関わらず、ラングリッジ元侯爵に社交の場へと連れ出されていたシェリーの姿は、貴族諸侯の目にもついたはずだ。
加えて1週間足らずでの再婚を疑問視する声もあり、アイリーンの手紙に関する質問状を送るなどして、他領が軍の派遣を保留にしたのが今回の大きな成果だろう。
ラングリッジ元侯爵に関しても今後も調査によって余罪が出てくるだろうし、没落したとて逃げられはしない。
が、しかし。
「良かったのですか? ……復讐とはいえ、家の爵位を返上させるなんて」
今回で被害を被ったのは元侯爵だけではない。その家の子であるセドリックも、もれなく庶民と相成るのだ。
しかも彼は長男だ。いずれ世襲する身としては、都合が悪いどころの話じゃないはずで。
「良いんだよ。あんな汚い爵位を貰っても嬉しくないし、守りたかった母上ももういないしね。だったら仇を取って全部無くしちゃうのが一番良い」
「……そう、ですか?」
「うん。母上には叱られるだろうけどね」
何かを吹っ切ったような、そんな顔で言われたらもう何も言うことはできまい。
押し黙ったアイリーンに、話は終わったと判断したのだろう。セドリックは「それじゃあ」と片手を上げ、終わらない言い争いを繰り広げている元侯爵とカーラ達の元へと戻ろうとした。
「……待って」
その足を、引き留める。
立ち止まった彼に、意を決して向き直った。
ずっと考えていた。悩んでいた。
自分が言うことじゃないと、思っていたけれど。
「……私、アランとの婚約を破棄しました」
「うん。聞いてたよ」
「もう独り身です。……い、良い歳なのに、行き遅れてしまうかもしれません」
セドリックは、そこまで聞いて目を丸くした。
哀れな話だ。話の先を読まれていることの、何と恥ずかしいことか。
「下位貴族ですし、軍は縮小したばかりだし、経済状況だって悪い家の娘ですけど」
「……」
「――あなたさえよければ、私と結婚してください」
握った拳に汗が滲む。
数度、セドリックの綺麗な瞳が瞬いた。
返事が怖くて、ぎゅっと目を瞑ろうとした時だ。
「……俺で良いの?」
そう、斜め上の答えが返ってきたものだから、パッと顔を上げた。
セドリックは、困ったように笑いながら続ける。
「……俺ね、アイリーンが思うより良い人じゃないんだよ」
「へ」
「考え方は汚いし、一人称もそっちのがよく見えるからって意識して『僕』って言ってたし、それに」
一瞬の沈黙が、重い。
「君を利用しているだけかもしれない」
利用。そりゃそうだ。
爵位を奪われた元貴族に結婚のお誘いなんて、願ってもない話だろう。だからこそアランは結婚を迫ってきたわけだし、そう忠告されるのも仕方がない。
でも、けれど。
――でも私は、そんなところも含めて彼を好きになったわけで。
「そんなのどんと来い、ですよ。……私、セドリックに利用されるの、案外好きですから」
アイリーンが気丈に笑ってみると、セドリックは一瞬呆気に取られた顔をした。
しかしすぐ吹き出すと、「馬鹿だなあ」とけらけら笑う。その顔がやっぱり素敵で、胸の奥がきゅんと鳴った。
「良いの? 俺、好きな人は死んでも離さないタイプだよ」
「良いですよ。私もそうですから」
「へえ。そりゃ楽しみだ」
仇のために戦った証である、荒れ果てた街を2人で歩く。
ロマンも何もないプロポーズだった。もっとマシな場所でとか、もっとマシな言葉でとか、考えることはいろいろあるけれど、彼と歩むこの先の将来を思うと胸が温かくなって仕方ない。
まずは帰って、父たちに報告して、ラングリッジの家と完全に縁を切って、それで。
――あとは、復讐や家のしがらみも何もない、ただの婚約者として、2人で散々語り合おう。
笑みを浮かべながらそんなことを考え、空の上のシェリーに見ていますかと問いかける。
彼女が望んだ結末かどうかはわからない。それでもアイリーンは、この結果を彼女に誇りたい。
それから数ヶ月後。
婿養子となったセドリックの驚くべき手腕、そしてアイリーンが出した告発の手紙で知らぬ間に築かれていた人徳によって、子爵家の財政が右肩上がりになったのは、また別のお話。
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