はじまり
幼い頃、親を殺した。
年齢は2桁いくかいかないかくらいの頃だったのではないかと思う。あやふやなのは、自分が生まれた日がいつか知らないからだ。
ろくでもない親だった。
何日も家に帰ってこない母親と、酒に呑まれて暴力を奮ってくる父親と。食事は自分のパンがあったらいいほうで、食料やお金になる物を探して冷蔵庫を漁り、家中を這い回る日々だった。
だからたまたま両親が揃って家にいたその夜は、少しだけ嬉しかった。そのはずなのに、いつの間にか。
嵐のような暴力を奮っていた腕は、ただの肉塊となり、帰って来る度いそいそと違う色の口紅が塗りつけられていた唇は色をなくして、どちらも赤黒い血で汚れていた。
周りには洋服やフライパン、空のビール缶に割れたワインボトルが散らばっており、薄い壁には果物ナイフが突き刺さっていた。
嵐が去ったことに、一瞬感じたのは安堵たった。ヒートアップしていく喧嘩に怯え、部屋の片隅で丸くなっていたが、母親がナイフを持ち出したからさすがに止めに入ったのだ。
けれども、どんどんと広がっていく血だまりに僅かの温もりを与えてくれた存在を失いそうになっていることを理解した時、激しく動揺した。自分がやったというのに、今思えば混乱していたのだろう。
「お父さん……お母さん……」
ねぇ、動いてよ……。
揺さぶっても返事はない。
しょっぱくて温かいものが目から溢れて服を濡らした。拭っても拭っても止まらない。
あぁ、でも泣いたらまた殴られてしまう。面倒な子と言い捨てて、置いていかれてしまう。泣き止まないと。
頑張っても止まらない涙に、よく分からない自分の感情にイラついた。数分前、攻撃から自分を守り、うるさく罵ってくる口を封じたナイフは音をたてて足下に落ち、涙に濡れていった。ヒステリーを起こした母親から取り上げたそれは、攻撃に使うつもりなんかなかったのだ。
こんな父親でも、機嫌のいい日には頭を撫でてくれた。母親は、付き合っている男とうまくいくとお土産を買ってきてくれた。
それも今日で終わり。
――――――嫌だ。
いやだいやだいやだいやだいやだ‼
死なないで‼‼
ぼくいい子にする。泣かないし、面倒にならないようにするから!
…………置いていかないで!
溢れる感情に同調するように家が揺れる。風が唸る。一つしかない窓ガラスがガタガタと大きな音をたてている。家中の物が浮いて肉塊と座り込む子どもの周りを激しく舞っていた。
――お前の望みを叶えよう――――
頭のなかで声がする。
あなたはだれ?
――私はお前の中の住人。お前の力。
……ぼくの、ちから?
――お前が望めば私は力を発揮する。
……ぼくがのぞめば……?
――そうだ。お前は今何を望む?
ぼくは……
知らずに声が出ていた。望むのはたった一つ。
「おとうさんとおかあさんを返して……」
***
「ただいま」
お父さん、お母さん。
「おかえり」
結論から言えば、彼らは黄泉の世界から戻って来た。
「ご飯を用意しているわよ。早く食べてね」
目線で示された先にはなにもないテーブル。
仕方がないのだ、彼らには現実が見えていない。
何もないテーブルに座り、なんでもないように持ち帰ったパンをかじる。楽しそうに喋り続ける母親を見つめ、時折相槌をうった。
「おう、帰ったか」
おめぇ、飯食い終わったら、晩酌付き合えよ。
そう言うと、父親は再び奥へ引っ込んでいった。
「もう、あの人もあっちで飲まずにここへ来たらいいのに」
片付けが大変でいやになっちゃうわ。
穏やかな母の表情に泣きそうになるのを唇を噛んでこらえる。
家に帰れば、いつも食事を作り自分を待っていてくれる優しい母。相変わらず酒は好きだが、暴力を奮わない父。自分は今これまでにないくらいの穏やかな日常を過ごしている。
これが”幸せ”というものだろうか。
わからない。
あの声の言うとおりに手を動かし、必死に頭を働かせた。すると、完全ではないが、欲しいものを取り戻すことができた。
……いや違う。それだけではない。
ずっと欲しかった、ずっと望んでいたけれど手に入らなかったものを手にすることができた。
目をこちらに向け、目元を緩め、口角を上げて話続ける母親は、以前よりずっと幸せそうだ。父親のあれほど穏やかな顔もこの姿になってから初めて目にした。例えその目は白く濁っていて、視線が交わることはなくても。
プカプカ浮かぶ頭部の右耳に、キラリと光るチップ。
思考を操っている。それゆえの平和だと理解している。……そしてこれが、倫理に反した許されない状態であることも。
けれども。
思考を操る際に、彼らの感情をみた。軽いノリで生まれた子ども。未知の生物への驚き。愛し方がわからない。泣かれて暴力を奮ってしまう自分への嫌悪と上手くいかないことに癇癪を起こす日々。悪化していく夫婦仲。仲が拗れてからは、問題から目を背け逃げ続ける。まるで小さな子どものようだった。
要するに、この人たちは不器用だっただけなのだ。今もチップは考えを作っているわけではなく、操るだけ。様々な障害となる感情を奥へ押しやり、表に出せなかった感情を出してあげるだけ。それだけでこんなにも違うのだ。これが間違ったことだとはどうしても思えない。
ふと思う。
どれだけの人間が邪魔な感情に振り回されているのだろう、どれだけの人がこの処置で苦しみから解放されるのだろう、と。
――お前の望みを叶えよう――――
頭の中に甦る声がある。壊れそうな自分を救ってくれた声。力。あれから声を聞くことは全くない。しかし、あの声の主は今も自分が飼っている。
鈍い紫色の瞳に光がさし、その瞬間彼の使命は決まった。
「……じゃあお父さん、お母さん、行ってくるよ」
彼らは部屋の隅の棚の上に仲良く並んで眠っている。頭から首までのその姿に、かつて自分を撫でてくれた手の感触と温度を思い出して少し寂しくなる。もうすぐ、声も出なくなるだろう。
感傷的な気持ちを頭をふって追い出して、まだ暗い時間に彼はその家を去った。