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 色々言いましたが『風立ちぬ』は基本的によくできた作品であると思います。個人的に興味深いのは、作中の自己言及的な部分です。



  「このおれの夢がこんなところまでお前を連れて来たようなものなのだろうかしら?」と私は何か悔いに近いような気持ちで一杯になりながら、口には出さずに、病人に向かって話しかけた。

 

  

 実際の作者は、作品に書かれたのと似たような経験をしています。また、作者自身も結核で、結核が実際に流行っていたという事があります。人の死というのは身近で、自身がその体験をしていたという事、それからそれを書くという運動が起こってきますが、書くという事にはそもそも欺瞞性がある。というのは、詩人というのは、どれほど悲しんでいるとしても、悲しむ事を書く事自体には悦びを持っているからです。


 これは今のメディア全般に感じる欺瞞とも関わってきます。現在では、作者は安穏とした市民で、常識人であり、死は遠く、「それ」で印税を稼ぐか、印税を稼ぐ事を目的としているにも関わらず、作者は「それ」を傍観者的に描き出します。そこに傍観者的な我々の感性が一致する。死について我々は語りますが、我々の中に死を感じる事はない。死は他人事です。


 堀辰雄は、自分がこの物語を書く事に対して欺瞞を感じている側面があります。実際経験した体験なので、欺瞞は感じなくても良いでしょうが、そこに欺瞞を感じるというのが作家的鋭敏さで、これを更に鋭敏にさせれば、太宰治のようになったと思います。しかし、瓦解の中に作風を作った太宰よりも、堀辰雄は、欺瞞の前で立ち止まったと思います。自己の深淵、その嘘くささを徹底的に暴く事はしなかった。だからこそ、このように美しい物語が現れたのだと僕は理解します。これは批判というより、堀辰雄なりのバランスの取り方だったと思います。ここにおいて、我々は堀辰雄の作品を読みます。つまり、美しい物語、薄幸の、死の影に憑かれた女と青年の物語として。この物語を読んでいる我々は果たして現在の物語になりうるか。それが、この物語の後に課題となるべき問題かと思います。







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