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別の視点で考えてみます。現代との関連では、「風立ちぬ」は『ヒロイン死んじゃう系物語』の走りとも言えます。ヒロインが死んで、それが主人公の悲しみと成長を呼ぶというスタイルです。この場合、ヒロインが不治の病だと、死に近づいていくので、悲劇性が際立ちます。脈絡なく死なれたら困る。このスタイルは、「セカチュー」「君の膵臓をたべたい」という作品を生んでおり、ヒット作を生むにはよくあるスタイルと言えます。もっと言えば、何らかの犠牲があって、その悲しみを糧に残った者が生きていく…というのはヒット作にはよくあるストーリーです。
ある種の勘のいい人、僕の定義する勘のいい人は、こうした物語にはある欺瞞、いやらしいものを感じているのではないかと思います。問題にしたいのは、製作者の作品に対する態度というものです。ヒロインがひどい目にあって死ぬ事が主人公の悲しみを呼ぶわけですが、それによって「ヒットする作品を作りたい」とか、「賞を取りたい」とかいう欲望を作者が持っている時、それは作品に反映されます。そこで、主人公は悲しみ、むせび泣いているものの、作者は悲しんでいない、という矛盾が出てくる。
ここで何が起こっているのか。あるゲームをプレイしていて、「作者の残酷さ」を感じた事がありました。主人公の妹が相手の銃弾に撃たれて死ぬ場面が在るのですが、どう考えても、ストーリーを進める為に挿入された一コマに過ぎず、作者の、妹キャラに対する愛情というものが全く感じなかった。妹が殺される事は製作者にとっては既知で当然の事であり、感情はないが、主人公は便宜上、悲しんでいる。そこに、作者の残酷さを見ましたが、これは、「我々の残酷さ」とも結びつける事ができるでしょう。
例えば、「彼が過労死したのは残念であるが、彼は我が社の偉大な成長の為の礎と成ったのだ」と社長が言うとします。社員はみんなむせび泣き、彼の死を無駄にせず、もっと発展・成長しようとする。ここに涙はある。感情もどうやらある。しかし、彼らは本当に悲しんでいると言えるのでしょうか。
すこし前に、女性タレントが癌で亡くなった事がありました。それをネットでもテレビでも盛んに報道して、助からないタイプの癌だったので、ゆっくりと亡くなっていきましたが、それを取り巻きで見ている我々はまるで物語のようにそれを見ている気がしました。
漫画「カイジ」で、仲間が自分の為に泣いてくれている場面があって、それは後から考えれば、単に映画の中の物語に涙しているにすぎない、そんな風に泣いているにすぎない、そういう傍観者的な感情だったというのが暴露されるシーンがありましたが、今、自分達の身に起こっているのはそれではないかと思います。こういう事を言うと、「不謹慎」と呼ばれるのかもしれませんが、不謹慎というのは、一体、何の事を言うのだろうと思います。例えば、僕の前に、もう助からない事がわかっている病人がいるとして、僕もその事を知っています。それで、「お前が死んだら、遺産は俺にくれよ」と冗談を言います。患者は僕と友達で、「お前には一文もやらないよ」と笑って言います。この時、この会話は不謹慎でしょうか。僕と彼との間には、哀しい重たい物があるものはわかりきっています。だからこそ、それに触れず冗談を言う。これは、不謹慎な会話でしょうか。
何を言っても無駄な世の中だと思うので、話を進めます。
『ヒロイン死んじゃう系物語』というのは、その物語そのもので、その価値を決める事はできない。問題は細部です。そこに、作者の欺瞞が透けて見える事がありますが、それが我々の共同的な欺瞞である時、その二つは一致して、ヒット作になります。しかし、この欺瞞は、歴史の中で必ず問題になってくると思います。フィクションの領域において、作者の低い志の為に、登場人物を切ったり貼ったりする行為は必ず、現実性として現れてきて、我々が人間を物化し、コントロールしようとし、もし自分が切られる側なら抵抗も抗弁も出来ず打ち捨てられてのたれ死ぬ。それでも、共同的な正義は続いていくわけですが、一体何を犠牲にして守られた正義なのか、というのは自然ーー歴史の中で問われ続けるでしょう。