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この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

One dimension World

宦官の帝国 -フランのしていたこと-

          -1-


「フランさんに恩を売りたいんだけど」

 双子都市とも称されるデア南方の小都市・アテス市の市場で買い物をしていたフランに声をかけたのは、一人の若い男だった。歳は20代だろう。一回り大きい服を上手く着崩し、頬には涼やかな笑みを浮かべていた。

 フランの知り合いの男娼である。

 デアで娼館を営んでいた時に知り合い、アテス市に腰を据えた際に、まずはと挨拶したうちのひとりである。

 彼はフランの傍らにさり気なく近づき、フランの顔を見ることなく言った。

 宦官たちがまだデアに到着する前のことだ。

「いいわよ」

 フランも彼を見ることなく答えた。

「フランさんを尾行している人がいるよ」

「何者かしら」

「さあ。少なくとも、3人」

 男娼は元軍人である。彼が客とするのは、男性、主に軍人だ。軍に在籍中に彼を巡って刃傷沙汰があり、それで軍を辞めたとフランは聞いた。

 彼が軍で務めていたのは、諜報活動である。

「そう。ありがとう」

「支払いはいつでもいいからね」

 独り言のように言い捨てて、男娼が人ごみに消える。彼は最後まで、フランをちらりとも見なかった。

 フランは露店の店主夫婦と笑顔で会話し、幾つかの果物を買った後、ふと脇の路地へと曲がった。

 そのまま影の中へと--文字通り--紛れる。

 しばらく待っていると一人の男がフランの潜む路地に現れた。農夫と、フランには見えた。男は足取りをまったく変えることなく、路地を先へと進んで姿を消した。続いて現れたのは女二人組。明るい声で話しながら農夫と同じように路地を歩いていった。

 彼らの姿が見えなくなったところでフランは影から出て、市場へと戻った。

 店先にぶら下がっていた鶏を買い、帰路に着く。

 農夫と女二人組の影には、彼らがフランの前を通過したときに、彼女の妖魔をそれぞれ20体近く潜ませている。

 彼らに接触する人物を順々に辿るためである。



          -2-


 数日後、フランはアテス市とは別の街の市にいた。

 露店をあちらこちらと覗いて、他の露店の倍はあるだろう広い露店の前で足を止める。他の露店と違って売っている品物の種類も、店番をしている者の数も多い。木工品、鋳物、着物と様々だ。フランが目を引かれたのは食料品、露店の端に置いてあったベーコンとハムである。

「あら。おいしそう」

「いらっしゃい」

 と笑顔で応じたのは、30代半ばぐらいの女。彼女のすぐ後ろには、夫らしきやはり30代半ばと思われる男が立っていた。

『お姫ちゃんは父親似ね』

 女と話しながら、フランはそう思った。

 フランが足を止めたのは、もちろん偶然ではない。アテス市から少し離れた小さな街で開かれる月に一度の市に彼らが店を出すことを知った上で、わざわざ乗合馬車を使って顔を見に来たのである。

『お姫ちゃんの性格は、母親似かな』血の繋がりがどれぐらい関係するのかは判らないけれど。と、思う。

 女はとにかく元気がいい。

 彼女に押されるように男の方はほとんど黙ったままだ。

「父さま、あたしが代わるよ」

 店の奥から、まだ若い女が男に声をかけた。彼らの跡取りである長姉だ。

「ああ、頼むよ」

 接客は苦手なのだろう、父親はホッとしたように露店から後ろに下がった。

 父親が足を向けた先では、数人の男女が談笑していた。

 彼ら夫婦と露店を共同で運営している組合の仲間たちである。

 組合を作るにあたって中心となって動いたのが今フランと話している女で、その女を夫である男が支え、些細でありながら深刻な様々な障害を二人で乗り越えたことをフランは知っている。彼ら二人が、農家に生まれたにしては珍しく、二人ともに文字の読み書きができることもフランは知っている。そのことが組合を作るにあたって強力な武器になったことは疑いがない。

「これと、これをもらえるかしら」

 フランは何種類かのハムとベーコンを買って露店を離れた。

「ありがとうございました」

 娘の元気のいい声がフランを追う。

 夫婦には彼女の他に4人の子供がいる。

 長子である長男は役所勤めをしていて、すでに家を出て別の家庭を築いている。家に残っているのは双子の妹と弟、それと歳の離れた甘えたい盛りの弟がひとり。

 他にもうひとり、彼らに子供がいたこともフランは知っている。彼らにとっては3人目の子となる娘だ。

 そうしたことをフランは知っていて、彼らの子供について、夫婦の知らないことまで知っていた。

 例えば、双子の妹は魔術師になることを夢見ていて、しかし、フランの見るところ魔術師になるにはいささか才が足りないこととか、双子の弟は軍に入って、英雄殺しのように世に知られる人物になりたいと、本物の英雄殺しのいいかげんさを知らずに望んでいることなどをだ。

 例えば、夫婦が死んだと信じている子供は、遠く離れたカナルに住む偏屈な魔術師に預けられ、成人し、魔術師となり、己が何者か知るための旅に出て、今は双子都市を拠点にして借金取りに励んでいることなどをだ。

 他の露店でも買い物をしてから、フランは、大地母神の神殿前の広場を後にした。

 手にした買い物籠は市から離れたところで己の影の中に沈めた。そのまま街の外れにある乗合馬車の駅舎に向かい、アテス市に戻るための馬車に乗り込む。

『ご両親のこと、お姫ちゃんに話すべきかしら……』

 アテス市に戻る道中、フランはずっと考え続けていた。

 死んだはずの子供--つまりフランがお姫ちゃんと呼ぶ少女は、自分が両親に捨てられたと信じているが、けっして彼女は捨てられた訳ではない。

 生まれた娘をいずれの神も祝福してくれず、このままではと娘の将来を案じ、闇の神ならばもしかしてと考えて、自らが呪われることもいとわず闇の神の神殿を訪ね、しかし、闇の神々ですら沈黙しか返さず、困り果て、いずれは帰ってくると信じて、夫婦は娘を大地母神の神官に預けたのである。

 夫婦に同情して娘を預かった神官も、神々に見捨てられたとしか思えない娘について妙案がある訳ではなく、考え抜いた挙句、娘は死んだと彼らに告げた。娘は、まだ生まれるのが早すぎたのだと。それゆえに娘は神々に祝福も呪いもされず、神々が御許に引き取られたのだ、と。

 夫婦は娘の死を悲しみ、泣いた。

 しかし、娘は死んだと聞かされた彼らが、そうと意識はしなくても心のどこかで安堵したのは間違いない。

 彼らの家には収穫を司る大地母神のささやかな神棚がある。そこに娘の位牌が置かれていることをフランは知っている。

 位牌には名が記されていない。

 娘には遂に、名が与えられなかったからである。

 日々彼らが祈りを捧げているであろう名のない位牌。それは彼ら夫婦の、娘を手放してしまったことに対する後悔の証しのようにフランには思われた。

 フランに彼らを責める気はまったくない。

 ただ、捉えようによっては彼らが娘を捨てたと言えなくもないだけに、

『お姫ちゃんを傷つけることにならないかしら』

 と、馬車に揺られながら、フランは結論を出すことができなかった。


『来るよ』

 借家に戻ったフランにそう告げたのは、一体の妖魔である。

 男娼が教えてくれた尾行者の正体が、ラカンの諜報組織の一員だということはその日のうちに知れた。翌日には諜報組織の構成員全員の影に--己がラカンの諜報組織に組み込まれていることを知らない末端にまで--フランの妖魔が取りついていた。

 もちろん、諜報組織の責任者であるロウの影にもだ。

 来るよとフランに知らせたのは、そのロウに取りつかせていた妖魔である。

「誰が来るの?」

 買い物籠を影から取り出し、テーブルの上に置きながらフランは訊いた。フランの影の中から、妖魔がフランにしか聞こえない声で答える。

『宦官。宦官が二人』


「英雄殺しの情婦でしょう。物見遊山ついでに旅をしているだけで、お気になさるほどの者ではありませんよ」

 ロウがそう言うのを、フランは部屋の隅に淀んだ影の中で聞いていた。

『このまま皆殺しにしてしまおうかしら』

 と、咄嗟に思う。

 部屋にいる妖魔が彼女の殺気に反応して、ざわりと蠢く。フランの影の中にいた妖魔たちが彼女の耳元まで這い上がって、『食べていいの?』『タベテイイ?』『いいの?』と期待に満ちた声で囁く。

 フランはくすりと笑って、『ダメ』と突き放した。

 不満の声を上げる妖魔たちに、『いい子だから、あたしの影の中でおとなしくしてなさい』と言い聞かせる。妖魔たちがしぶしぶという感じで、彼女の肌を弄びながら、影に紛れて見えない彼女の影の中に戻っていく。

 ざわざわと波立っていた宦官たちの影も、フランに一瞥されて、拗ねたように深く静まった。

 室内にいた者は誰も、宦官たちも含めて、自分たちが死の瀬戸際にいたことに気づいた様子はなかった。

「アレクシまで行く目的は判りますか?」

「それはまだ判っておりません」

 そう答えたロウに対して、ノヴァが瞳の奥に匂わせた抜け目のなさと冷酷さに、ロウという男の行く末を察して、フランは冷たく笑った。

「では、今日はこれまでにしましょうか」

 最後にそう言ったノヴァに、そうね、そうしましょうと心の中で応えて、フランは部屋から、そのまま屋敷から滑り出た。屋敷に施された結界は、路傍の石を跨ぐほどにも意識しなかった。

 市場の近くで影から出る。

 宦官が漂わせていた暗い気配と比較すると、空は眩しいほどに青い。

『誰だろう』

 と、目を細めて空を見つめながら考える。

 黒い髪をしていることを除けば、表向きアキラは、ただの”残され人”に過ぎない。解放奴隷であり、社会的には一介の魔術師見習いだ。にも関わらず、ラカン帝国は彼を始末しようとしている。今はまだ塵芥にも等しいアキラをわざわざ害そうとする者に、フランは他に心当たりがなかった。

 妹たちである。

 妹たちのうちの誰かが、ラカン帝国にいるのだ。

『ユン……』

 フランが最初に思い浮かべたのは、魔術師協会のトップを務める老女だった。

 もしラカンにいるのが彼女ならフランにはどうしようもない。それほどに彼女の力は強い。

 だが、彼女は魔術師協会の主だった者たちとゴアの街にいて、そこで門を開く準備に忙殺されているはずだった。

 それに、

『ユンには見習君に手を出さないよう言ってあるわ。ユンがあたしの言いつけに逆らうかしら』

 フランにはそうは思えない。

『だとしたら……』

 幾人かの顔が浮かんだが、そのうちの誰が、とはフランには判断できなかった。フランが家を出てからすでに10年以上が経っている。

『ニムシェに行くしかないか』

 ニムシェは遠く、簡単に行き来できるところではない。しかしニムシェには、複数ある彼女の自宅のうちのひとつがまだあって、そこに、遠距離の空間転移を行うための魔法陣--転移陣--を残してあった。

 あとはこちら側にも転移陣を構築するだけだ。

『お姫ちゃんに話そう』

 と、フランは不意に決めた。

『お姫ちゃんに話して……、ニムシェに行こう』

 このままにしておくのは危険だ。比較的安全なショナにいる間に、ケリをつけた方がいい。旧大陸に渡ればラカン帝国がもっと人数を投入してくる可能性は高い。

『お姫ちゃんを泣かせることになるだろうけど』

 大丈夫。お姫ちゃんは独りじゃない。見習君がいる。おおかみくんも、あたしもいる。だから大丈夫。お姫ちゃんを、信じよう。

『働いて帰って来るお姫ちゃんたちに、おいしい夕食を食べて貰おう』

 今のあたしにできることはそれぐらいしかないもの。そう想い定めて、フランは市場の喧騒へと足を向けた。



          -3-


『来るよ、来るよ、来るよ』

『宦官が、来るよ』

 フランの影に滑り込んで、息を弾ませるように妖魔は告げた。宦官たちが拠点を捨てて馬車で出発した、少し後のことである。

『そう。ごくろうさま』

 洗い物を終わらせ、フランは居間のアキラに声をかけた。

「買い物に行ってくるわ。宦官についても調べてくるから遅くなるかも。その時にはよろしくね、見習君」

 借家から10分ほど歩いたところで影に溶け込み、こっそり借家に戻って疑似空間に潜む。

『おおかみくんも、まだまだねぇ』

 ヴラドがアキラとナーナを残して霧の中へ駆け戻って行くのを、犬男の影に潜ませた妖魔を通して見ながら思う。

 犬男がナーナに切りかかった時、実は犬男は死の縁にいた。彼の首には彼自身の影から伸びた妖魔が音もなく絡みつき、ナーナの影の中からも、フランの妖魔が犬男に狙いを定めていた。

 もし、アキラが間に入るのがあと少しでも遅れていれば、犬男はそこで、何が起こったか判らないまま死んでいただろう。

 ヴラドの様子はノヴァの影に潜ませた妖魔を通じて見ていた。

 ヴラドの影には妖魔はいない。どんなに深く潜ませてもヴラドならば妖魔の存在に気づいてしまう恐れがあるからである。

 アキラの影の中にも妖魔はいないが、それはヴラドとは別の理由だ。アキラには、妖魔を奪い取られる恐れがあった。

 別の時間軸で実際に奪い取られたことがあるのだ。アキラの影に潜った妖魔たちが気持ち良さそうにまどろみ始めるのを見て、フランは唖然としたものである。

『きれいな歌声。この耳で聞けないのが残念だわ……』

 犬男が逃げ出し、ヴラドが犬男の前に立ち塞がったところで、フランは妖魔との接続を切った。シュ・ガイを閉じ込めた疑似空間に繋げると、宦官の泣き声が聞こえてきた。

「あら、片付いたようね」

 と、フランはシュ・ガイに話しかけた。


「そう言えば、アキラ。デジャー・ソリスって、だれ」

 急に声を尖らせて、ナーナは言った。

 宦官たちの襲撃があった夜の、そろそろ夕食も終わり、という頃のことだ。

「ナーナ、どうしてデジャー・ソリスを知ってるんだ?」

「アキラが言ったじゃない。犬男と戦っている時にさ、わたしのこと、デジャー・ソリスみたいだって」

「ああ、そうだったね」

 と、朗らかに笑ってアキラが答える。

「そうだったね、じゃないでしょう。時と場所ってものがあるでしょう?あんなこと、どうして言うかな」

「いや、だってね、あの時のナーナ、まるでジョン・カーターの後ろでヘリウムの戦争賛歌を歌うデジャー・ソリスそのままだったからさ。

 誰だって言うよ、きっと」

「誰が言うか」

 ナーナに同意するように、ヴラドが黙ってジョッキを口に運ぶ。

「それで、何者なのよ。デジャー・ソリスってさ」

「ヒロイックファンタジーの元祖で『火星のプリンセス』という小説があってね、ヒロインの美女だよ。美女と言えばデジャー・ソリス、デジャー・ソリスと言えば絶世の美女、といったところかな」

「……」

 絶世の美女と聞いてナーナの怒りの矛先が逸れる。喜ぶべきか怒り続けるべきか判らなくなって黙り込む。

『判ってやっているならたいしたものねぇ』とフランは思い、「それでね、……」と話し続けようとするアキラに、『いや、判ってる訳じゃないな、コイツ』と認識を改め、ナーナに同情する。

「さあ、もう今日は終わりにしましょう」

 アキラの話を遮ってフランは立ち上がり、ヴラドも同じ感想を抱いていたのだろう、アキラを無視して「ああ。そうだな」と立ち上がった。


「それじゃあね、また明日」

 まだ居間に残っていたアキラとナーナが「おやすみなさい、フランさん」と声を揃えるのに軽く手を振って、フランは自分の部屋へと戻った。

 部屋に入るなり呪を唱え、転移陣を起動する。間違いなく転移陣が働いていることを確認し、そのまま足を止めることなく転移陣へと踏み込んで目を閉じる。軽い浮遊感とともに床が消え、確かに足が再び床に着くのを待ってから瞼を上げた。

 数か月ぶりに訪れたニムシェの自宅は、さっきまでの賑やかさが嘘のように静まり返っていた。

 フランはまず衣装棚を開け、お気に入りの一着を選んだ。

 鏡に向かい、化粧に取り掛かる。下地を作り、眉を描き、頬紅を塗る。ドレスを纏い、赤い髪を背中に落とし、軽く頭を振る。

 最後に、ひときわ赤い色を選んで口紅を塗った。

 罪人である自分のために。

 殺すことになるだろう、まだ誰とは判らない、愛する妹のために。



          -4-


「嬢ちゃんが街の郊外で術を試してみたいそうだ。オレはついて行くが、フラン、オメエはどうする?」

 神追う祭りが開かれるゴアの街でヴラドにそう訊かれて、「今日は気が乗らないわ」とフランは答えた。3人が貸切馬車で出かけるのを見送り、フランは宿の自分の部屋に戻った。

 慣れた手つきで己の影に手を入れる。

 取り出したのは魔術師の黒いローブ。ナーナが術を試したがっていることを知って、昨夜のうちにユンの部屋から拝借しておいたのである。

 鼻を寄せてスンッと臭いを嗅ぐ。

 ユンの匂いがすると笑い、身に纏ってフードを目深に被る。

 彼女の体が、静かに影の中に沈んだ。


 デアで取り調べを受けるために、犬男は護送の途上にあった。足首を鎖で馬車に繋がれ、魔術を使えないよう馬車には呪がかけられていた。

 馬車の中には、彼以外誰もいない。

 彼を残して休憩に行ったのである。しかし、馬車の外には見張りがいて逃げることは難しかったし、そもそも彼に逃げるつもりはなかった。

 大きく欠伸をする。

『殺されることはないだろう』

 犬男はそう踏んでいた。

『悪くても2、3年……』

 殺すつもりはなかった。彼は一貫してそう主張していた。

 確かに殺せと依頼された。しかし、仕方なく受けただけだ。相手はラカンの宦官だ、もし仕事を断れば、オレが殺されてた。だから仕事を受けるフリをした。しかし、本当にあのあんちゃんを殺すつもりなんかなかったよ。その証拠に、切りかかる前に彼らに声をかけただろう……?

『ありがたいもんだ、法治国家ってヤツは』と嗤う。

 ふと、影が落ちた。

 誰かが馬車の入り口を塞いだのである。

『やれやれ。ようやく戻って来たか』

 と、犬男は思った。しかし、馬車の入り口を塞いだのは、護送の責任者である賑やかな少尉ではなかった。

 魔術師のローブを纏った女がひとり、馬車の入り口に立っていた。

 犬男は眉間に皺を寄せた。

 フードを目深に被っていたため、口元に浮かんだ冷たい笑みを除けば、女の表情を窺うことはまったくできなかった。

「誰だ、お前!」

 と、背中を向けた見張りを振り返らせるために、犬男は声を張った。しかし、見張りの兵士は背中を見せたままで、彼の声が届いた気配はなかった。

「貴方は間違えたの」

 と、女が柔らかな声を落とす。

「見習君なら幾ら突いても切っても許してあげたんだけどね。彼なら首を落としても良かったのよ、どうせ死なないのだから。

 でも、お姫ちゃんを切ろうとしたことは許せないの、あたし」

 見張りに向かっておいっと叫ぼうとした犬男の口が、背後から何かに掴まれる。黒い影のような何かが、彼の鋭い牙を意に介する様子もなく上顎と下顎のそれぞれを掴んで、上下に無理矢理大きく開く。「がっ」と犬男は喉の奥で呻った。尋常な状況ではないとようやく理解して、血の気が引いた。

 女が言葉を続ける。

「おおかみくんが貴方を殺してくれていればこんな手間をかけなくても良かったんだけれど、生きたまま捕まえちゃったし、双子都市で殺しちゃうとまだラカンの残党が残っているかと騒ぎになるから、今日まで生かしておいてあげたのよ。

 感謝してね」

 女の足元から黒い影が立ち上がる。それもひとつやふたつではない。とても数えきれないほどの影が艶めかしく女の肢体に沿って天井まで這い上がり、馬車の入り口を塞いで幌の内側に広がっていく。

「あたしね、今、とても幸せなの。

 だって久しぶりなんだもの、姫姉さまと旅をするなんて。

 いつもはたいてい敵同士。

 期待しすぎると後で辛いから期待しないようにしているけれど、今回は何か違うわ。あんなに楽しそうな姫姉さま、見るの初めてなの。

 だからね、だれにも邪魔されたくないの。この旅を。

 判ってもらえるかしら?」

 立ち上がった影が妖魔なのだと、犬男は恐怖とともに悟った。無数と言ってもいい大量の妖魔の存在が、彼に女の正体を教えた。

 絶望に黒く染まった彼の心に、ひとつの名が、震えながら薄く浮かんだ。

「貴方が死ぬところを見たいけど、お姫ちゃんたちが戻ってくる前に宿に帰らないといけないし、このローブ、借り物なの。血の匂いがついちゃうと黙って借りた妹に悪いから、あたしはもう行くわ。

 でも安心して。

 貴方はちゃんと死なせてあげるから」

 千の妖魔の女王--。

 犬男の体が震え始める。妖魔に背後から押さえつけられても尚、抑えられないほどにガタガタと。犬男の股間が、生暖かく濡れた。

 妖魔が口々に問う。

『イイノ?』『食べていいの?』『コレ』『タベテ』『いいの?』『イイノカ?』『食べても』『良いの?』

 荒い息が犬男の耳元で吐かれる。

「コレ、タベテ、いいの?」

 幾重にも重なった妖魔に閉ざされて、今や馬車の中に光は一筋もない。

 厚く湿った闇の向こうから女の声が響く。

 冷酷ではなく、まるで世間話でもするような、むしろどこか明るい、平静な声が。

「いいわよ、食べても。それ」



「何か変わったことはなかったかい?」

 犬男の護送の責任者である少尉は、見張りに立っていた部下に陽気な口調で声をかけながら歩み寄った。手には犬男のためにと飲み物を入れたコップが握られていた。

 部下が敬礼して答える。

「ハッ。大人しいものです」

「そうかい。そりゃあよかった」

 笑って馬車を覗き込んで、少尉はそこで立ち竦んだ。

「おい」

 と、部下に声をかける。

「何かありましたか?」

「誰も出入り、してないよなぁ」

「もちろんです」と、部下も馬車の中を覗き込む。「えっ」と部下は声を上げた。犬男の姿が、どこにもない。

「そんな……!」

「みんなを呼んで来てくれるか。探すぞ」

「はいっ」

 部下がバタバタと駆け出し、大声を上げて他の兵士を呼ぶのを聞きながら、少尉は「……探してもムダかなぁ」と呟いた。

 後ろから覗いただけの彼には見えなかったのだろう。馬車の中は天井も床も、飛び散った大量の血で真っ赤に染まっていた。

 少尉の見つめる先、そこに、手が、掌を上に向けた手だけがポツンと残っていた。



          -5-


「何か楽しそうね、おおかみくん」

 窓際の椅子に座っていたフランは、部屋に戻って来たヴラドを見てそう言った。

「おう。危うく死ぬところだったぜ」

 笑みを浮かべたまま、低い声でヴラドが答える。

「言ってることがぜんぜん楽しそうじゃないんだけど?」

「嬢ちゃんの術でな、3人で酸欠で死にそうになったんだ。それが面白くてよ」

 ナーナが試している術についてはフランも知っている。

 何があったかすぐに察して、『無茶をするわねぇ、お姫ちゃんも』と思い、でも魔術師らしくて良いわね、ともフランは思った。

「それで、お姫ちゃんはどうしてるの?」

「アキラが慰めてるぜ」

 あら。それは見てみたいわねぇ。

「どうだ、フラン。これから嬢ちゃんを誘って飲みに行かねぇか?何があったか詳しく話してやるからよ」

 フランの気持ちを察したかのように、荷物を下ろしながらヴラドが言葉を続ける。

「いいわね」

 と、フランは立ち上がった。

「ん?何か言ったか?」

 ヴラドが振り返り、フランは首を振った。

「ううん。何にも」

「そうか?ま、行くか」

「ええ」と頷いて、フランはヴラドの後に続いた。

『おおかみくんに届いちゃったのかしら』と、壁のようなヴラドの背中を見ながらフランは思った。

 フランの力は弱い。例え目の前に相手がいたとしても、”声”を相手に届けることはできない。

 しかし、

『そんなに強く願ったかしら』

 と、自分を嗤う。

 でも。

『いいわ。別に』

 だって。だって。と思い、フランは軽やかな足取りで部屋を出た。

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