もう二度と批評できないねぇ~幼女作家が語る文芸批評の歴史から見たなろう小説への批評が批評といえない理由~
幼女作家です。
皆様こんにちわ。
良きなろうライフを送っていらっしゃいますでしょうか。
わたしは良きなろうライフを送っています。
筒井先生は、現代の小説のおもしろさなんて貴族然とした読書体験が必要って書いてましたけど、貴族っぽい優雅で、典雅で、華美で、高級な趣味というのが求められるべき読者としての読書体験、すなわち批評者としての資質なのかもしれません。
なろう読者様はみんな貴族様です。
いきなり殴りあったり、ののしりあうような、犬畜生にも劣るような真似をする人は誰もいらっしゃいませんですことよ。
んん……。ちょっと無理のある口調だったかな。
ともかく、そういうわけで批評についてなんだけど、本当に真実にして、唯一にして公平で客観的な、誰の目にも明らかな評価なんてことがありうるのかな。
筒井先生は『文学部唯野教授』という小説で、ヒントになるようなことをたくさん書いてくれているよ。
あ、これって小説なんだけど、おもしろいんだよ。文芸批評についていろいろと歴史に基づいて授業をしているの。いわば、エッセイと小説が合体した今でも新しい小説だと思うんだけど、なろう的にはあまり知られてないかな。
で、印象批評っていうのは、文芸批評の歴史の中でも、最初に現れた、いわば批評の先駆けなの。
印象批評っていうのは、その名のとおり印象で批評するってことね。これって読者が自分のことを神様だと僭称することと同義だよ。
「我は神なり」
だから、わたしの印象が正しいの。作者の小説がクソなのはわたしの印象からして明らかだし、作者が愚かにもそれに対して反論してきたら、悪魔のごとき所業なの。だって神様なのはわたしなのだから。
これが印象批評のだいたいの定義かな。
文学部唯野教授ではこんなふうに書かれてます。
『この美学理論の中心になるのが、象徴ってやつですよ。これ便利な言葉でね。なんでも解決できたように見えちゃうの。今だってこれ使ってる批評、よく見かけますよ』
見かけちゃうかもしんない。
たとえば、男主人公が女の子を助けたりする展開で、主人公は女の子にほれられちゃう。そして次々と同じような展開が続き、ハーレムが形成されていく。
そんな小説の中で、女の子はトロフィと化しているとか言っちゃうの。
あのさぁ。
その言葉使っとけば、作品を攻撃できたとか思ってない?
それって自分の印象を押しつけてるだけだよね?
トロフィって言葉で象徴化して、それ以上の分析を受け付けませんって言ってるだけだよね?
唯野教授は続けるよ。
『あのう、この印象批評は現代までえんえんと続いていて、まだこれやってる人たくさんいるんだけど、そういう人のかんがえかたの中にはすべてこの、小説なんていい加減なもんだって考えかたが多かれ少なかれあるの。だって、そう思わなきゃ、自分の常識だけ土台にしてさあ、印象批評なんてものやれっこないでしょ』
そう、常識。
読者が勝手に脳内に描いている常識を土台にしているわけ。
この常識というのを感性に置き換えると、それもまた印象になっちゃうの。
作品の世界にどっぷりつかって、なにも分析しようとしないで、おもしろいかおもしろくないかで決めちゃうわけ。これって、神様であるところの読者にとってはそれでいいかもしれないけれど、客観も『きゃ』の字もないわけで。
――お前がそう思うんならそうなんだろう お前ん中ではな。
というのと、なにも変わらないように思うんだけど。
文学部唯野教授では『おもしろい。おもしろくない』はやめようねって書かれてあったけど、それはまだいいんだと思う。だって、批評しようとする意思がないから。
批評というのは客観化できるという視点にたってるんだ。つまり、それは卑しくも神様を僭称しようとしていることにほかならないんだ。要するに作者に勝とうとしているんだよ。
簡単にいえば、批評とか批判とか言われていることをしようというのは、その作品を『改善』できると考えているからなの。それって、自分が作品の神様になりかわって、コーディネイトしようとしているわけ。
べつにそれが悪いってわけじゃないよ。
ものすごく優れた批評家はたぶん作者を越えることもありうるかもしれない。作者が気づきもしなかった欠陥に気づき、補てんする案も指し示してくれるかもしれない。
けれど、印象批評っていうのは、後だしジャンケンと同じなの。
どんな作品もそれが読まれた瞬間、その部分については完結しているよね。その完結している部分について印象にしたがって、批評するなら、それは後だしジャンケンだよ。
このことについても文学部唯野教授は指摘していて『規範批評』だと説明しています。
『その小説を、あり得たかもしれないもうひとつの理想的な小説、そのひとのでっちあげた架空のモデルと比べて、ここがよくない、あそこがよくないと無限にけちをつけるやりかた。これはいくらでもできるんだよね。早い話が『もっとうまく書けるだろうに』と書きたいんだけど、それじゃまずいから、その小説を、自分の理想とするモデルのコピーとしては不完全であると言ってけちをつける。わしの考えの方がよいと言っとるわけで、いったん書かれた小説には確定性が生じてるんだけど、そんなこと無視してるの』
ねえ。これやっちゃってる読者さんいない?
まさかいないよね?
ここは優雅ななろうサロンだよ。
貴族趣味の人たちが集まる高級クラブだよ(意味深)。
いるわけないよね?
文学部唯野教授では大江健三郎の文章を引用しているんだけど、これを孫引きしておくね。
『気分次第で賞めたり叱ったりする親ほど教育的でないものはないように、あいまい主義的な批評が若い作家をよく育てうるとは思いません』
この言葉は正しいと思うな。
このエッセイを読んでる読者さんは、ここで思うかもしれない。
そんなの『文学』の話でしょ。エンタメ小説では関係ないだろ?
エンタメ小説では、おもしろいかおもしろくないかが正義なんだから、面白くなかった作品に面白くないって言って何が悪い。
面白いとは面白くないってだけなら、印象批評以前の問題だから、それはいいと思う。
むしろ面白いといってもらいたいというのは作者として当然の感性だし、それを一言ですませないで、三行以上お願いしますとか、傲慢以外の何ものでもないと思います。
たださぁ。
『○○だから、おもしろくない』って前段に理由つけるでしょ。
その理由が、神様の感性や常識、つまりは印象によって裏打ちされてるの。
そんな曖昧な尺度で、評価されるのは、単に『その読者』にウけたかどうかの、いわば運次第になっちゃうの。
エンタメ小説にだって、印象批評の後に生じた『受容理論』があてはまって、いわば理想読者とか、内包された読者みたいな小説の内在的読者という評価の仕方もあるはずだから、印象批評する神読者に比べたら、多少は公平じゃないかなって思う。
つまりは、
――お前じゃねぇ座ってろ
ってことです。
もう一度整理するけど、幼女作家の立場では、なろう小説を批判してもいいと思うんだけど、その批判が印象批評を越えない限り、客観性がないよねって話。
じゃあ、どんな批評なら客観性があるんだというと、文学部唯野教授の中では答えはでなかったよ。
いままで、答えがでてないの。
なにがよくてなにがわるいのか。
そして、なにがおもしろくてなにがおもしろくないのか。
答えがでてないの。
あるかどうかもわからないの。
わたしはべつに文芸批評の歴史を権威主義的に振りかざしたいわけじゃないの。
単純に、印象批評の強度は脆いから、一瞬で相対化されてしまうということ。
つまり、根拠がないということ。
清少納言が『春はあけぼの』って書いたみたいに、それがいいんだという確固たる決意が必要になるんだ。
その決意を抱くのは自由だし、批評はしてもいいと思うんだけど、その根拠のなさや背後にたゆたってる『価値』の虚無について、自覚的である必要があるように思う。
『またテンプレですか』とか、『ハーレムとか控えめに言ってクソだよね』とかそういった無邪気な発言には、自分の発言への理論的な背景が存在しない。ただ、印象をぶちまけただけ。
こんなことをモノを書いている立場で言うのはよくないかもしれないけれど、
誰かの創ったものに対して何かの言葉を投げかけるなら、謙虚になるべきだと思う。
謙虚にね。配慮って言ってもいいし、今流行りの言葉で忖度……はやめておこうか。
ともかく――、
そうでなければ、読者の批評は、自らが神であることを用いた権威主義的な物言いに過ぎないと思う。
なんの改善にも至らない。なんのプラスの効果も生まない。
教育ママに抱く印象と同じく、『うぜぇ』と思われかねない、無価値な言葉になってしまいます。
どうすれば良い批評ができるかについては、わたしも幼女的に10年くらい生きてきた中で、もう半分くらいは悩んでますけど、キリスト教の『親の祈り』とか、内心で思ってる分にはいいんじゃないかと思います。
『親の祈り
神様
もっと良い私にしてください。
子供の言うことをよく聞いてやり
心の疑問に親切に答え
子供をよく理解する私にしてください。
理由なく子供の心を傷つけることのないように
お助けください。
子供の失敗を笑ったりせず
子供の小さい間違いには目を閉じて
良いところを見させてください。
良いところを心から褒めてやり
伸ばしてやることができますように。
大人の判断や習慣で子供を縛ることのないように
子供が自分で正しく行動していけるよう
導く知恵をお与えください。
感情的に叱るのではなく正しく注意してやれますように。
道理に叶った希望はできるだけかなえてやり
彼らの為にならないことは止めさせることができますように。
どうぞ意地悪な気持ちを取り去ってください。
不平を言わないよう助けてください。
こちらが間違った時にはきちんと謝る勇気を与えてください。
いつも穏やかな広い心をお与えください。
子供と一緒に成長させてください。
子供が心から私を尊敬し慕うことができるよう
子供の愛と信頼に相応しい者としてください。
子供も私も神様によって生かされ愛されていることを知り
他の人々の祝福となることができますように。』
母親を批評家に、子どもを作者に読み替えてね。
まあ上から目線がフィーバーしちゃってる感じがするけど、心の姿勢としては参考になる気がする。
もし仮に批評家として持っている文芸理論がはちゃめちゃで、まったく文学的素養に無理解でも、たぶんこういう姿勢なら、作者さんを傷つけることなく、もしかしたら好ましい結果を残せるのではないかと思います。