5 素敵なお婿さんが出来ました
「由々しき事態ですのっ!」
武道場と相撲場との間にある引き戸を快音を立ててスライドさせ、入室して来たのは和音凛。
彼女の優し気な瞳は普段からは考えられない程に小刻みに震えている。
顔面蒼白で、身体全体を使って震えを表現している。
吹雪は凛に駆け寄る事はせずに、開け放たれたままの引き戸まで向かう。
相撲場の外では凛の大きな声に驚いていた生徒が複数名いた。いつも通り視線を合わせずに頭を下げて、引き戸を静かに閉める。
四股踏みをしていた所に入室してきた凛の大きな声に驚いて、足を上げたまま時の止まっている明美。
畳の間でちゃぶ台の湯呑に手を差し出して、静かにお茶を飲みながらも次なる言葉を待っている遥。
扉を閉めたものの凛の相手をする事無く、相撲場の隅にある鉄砲柱に向かいつつある吹雪。
屋内の相撲場の中には凛以外の四股って素敵な女子になる部活動の部員が全員揃っていた。
「由々しき事態ですのっっ!!」
驚いて反応が出来ない明美、次なる言葉を待っている遥、関わろうとしない吹雪。以上の三名の反応に対して、未だ思考の渦の中にある凛。
先程よりも大きな声を上げて発言する。
その発言を受けて、四股で高く上げた足を下ろすことが出来た明美が凛に駆け寄っていく。
「凛ちゃん、どうしたの? まずは落ち着いて」
明美の心配する声を受けると、未だ震えている瞳を明美へと向ける。
「取り合えずミルクティーを飲もうよ。まずはゆっくり落ち着いて、話はそれからでも大丈夫だからっ。ねっ?」
畳の間の隅にある冷蔵庫。その中には伊藤先生が部活を頑張る四人の為にドリンクを購入して入れている。そこにミルクティーもあった。
「そうだぞ。凛くん、まずは落ち着きたまえ」
冷蔵庫からミルクティーを取り出して、ちゃぶ台の上に置く。頭が回らない時には糖分が一番だ。冷えたミルクティーが室内の照明を受けて光る。
「……今は大丈夫ですわ」
親のカタキを目の前にしたかのように視線を向ける凛。
「なるほど、そう言う事か」
今回の話はミルクティー、いわゆるカロリーが関係しているのだと察知した遥。
ミルクティーを冷蔵庫に戻していく。
「明美ちゃん。聞いて下さい」
震えていた瞳は止まり、いつものお嬢様言葉もせず、真剣な表情を努めて作る凛。
「うんっ。なんでも聞くよぉ」
対して、明美は明るくいつも通りの反応を凛にする。
「昨日、体重計に乗りましたの」
明るい明美の表情がサァーと波を引いて曇っていく。
明美にも判ってしまった。この小話の結論はロクでもないものになる、と。
「明美ちゃんの反応は正しいですわ。でも、この話を続けて宜しいですの?」
「うっ、うんっ。いいんじゃないかな……」
『でも、この話を続けて宜しいんですの?』有無を言わさない凛の言葉は止めたって意味の無い行為なのは、流石の明美でも判った。
「お察しの通り、体重は増えていましたわ」
「うっ、うんっ」
何キロから何キロか?
具体的な数字は一切出てはいないが、その確認をする事に意味は無い。
体重が増えていた。
本人が確認した事実のみが重要なのだ。
「私がこの部活動に入ってからと言うもの、腰割、四股、運び足と四股って素敵な女子になる為の部活動に頑張って来ました。しかし、なぜか体重が増えている。これだとこの部活を続ける事に意味が有りませんの」
敢えて遥に視線を向けて発言する。遥なら解決策が提示出来るのでないか? と言う期待の表れだ。
「なっ、なんでだろう? どうしてかな~?」
そして、その疑問は明美には解消出来る事は無い。
明美と凛は相撲未経験者で、学校生活の三年間細い身体を維持する為、四股って素敵な女子になる部活動に入部したのだから。
湯呑のお茶を全部飲み切った遥は、口を離して発言する。
「足だけダイエットしても駄目だろうな。全体的に運動しないと」
その発言を受けて、明美、凛は今までの四股って素敵な女子になる部活動の内容を思い返す。腰割、四股、運び足、それらは足に負担が掛かる事があっても、腕に負担はかかっていない。
いやっ、もし掛かっていたとしても、それは足に比べるとどうか? と言うのがポイントである。
だから、二人は揃って叫んだ。ここに至るまで何にも気づかなかった自分たちを呪うように、
「由々しき事態だっっ!!」
「由々しき事態ですのっっ!!」
明美と凛、二人の絶叫と共に吹雪が鉄砲柱を叩く音が木霊した。
☆
明美、凛が体操服ブルマ、男子である遥が裸にマワシ、相撲経験者の吹雪が体操服とブルマの上からマワシ。部員4名の更衣が終わった。
四人は土俵の周りを円で囲むように等間隔で距離を開けて立っている。
そして、素敵な女子になりたい……と言うかジュースやケーキを嗜んだ上で更に綺麗な身体を保ちたいイマドキ女子? な二人を前に遥と吹雪は頭を捻らせていた。
「ブドウジュースや、食後のケーキをやめたらどう? 新道さんや和音さん、二人とも平均的な体格、体重なのだからあんまり気にする事ないわ」
同じ女性である吹雪の発言を受けて、まずは物理的な意味でも頭を抱えた明美が反論する。
「朝食後と部活の後のブドウジュースを止めるだなんてできないよぉ~。なんとかならないのぉ~。遥ちゃんっ!」
「遥ちゃんと同意見ですわ。和音財閥の一人娘である私、和音凛が食後のデザートを食べなくなってしまった場合……」
お嬢様である凛は次なる言葉を唇から紡ぎ出す言葉を恐れている。その様子に幾分訝し気な気配を感じ取った吹雪。これ以上は聞く事はしまい。
そう思っていた所に、「どうなるのぉ?」と明美が言葉を促してしまった。
「先日、『素敵なお婿さんが出来ました』と嬉しそうに報告していたパティシエの田中が解雇となってしまいますわ」
「田中さん、可哀想っ!」
「和音さん以外がパティシエの田中さんのケーキを食べない、って言うのは最早雇っている意味も無いと思うの」
小声で愚痴る吹雪の声は明美と凛には届かない。なので凛の主張は一貫して一つ。
「遥ちゃん。四股って素敵な女子になる部活動、足以外も素敵な女子になるべく痩せる方法はありませんの?」
こういった主張を聞いて、ようやく遥は女子三人の会話の間に入っていく。
「うむ。体重を減らそうと言う事だな。もちろん、あるぞ」
「あるんだっ。やったね、凛ちゃん」
「これで田中を解雇しないで済みますの」
「問題点はそこじゃないのだと思うのだけれど」
吹雪の否定の言葉に全く耳を貸さない明美と凛。遥が顎に手を当てて、「う~む。どうしたらいいものか?」と考えているのを、じぃっと待つばかりである。
「『私としてはダイエットの側面を持ちながら相撲にも繋がる事もして欲しい、だとした前提条件の中だと』これがいいだろう」
『』の遥の言葉はあまりにも小声。明美と凛に聞こえていない。横に立つ形となっていた吹雪の耳のよさで、やっと聞こえる程度の呟きだ。
なるほど、そういう事なのね。吹雪は心の中で納得している中、畳の真へ向かって行った遥が持って帰ってきたペットボトル。
飲料がぎっちり入った未開栓のもの。それを見つめた明美、凛は意味が判らない。
「遥ちゃん。ダイエットなのにジュースを持ち出してどうするの?」
「そうですわっ。私達のしたいのはダイエットですわよ」
2リットルのペットボトル。ブドウユースとミルクティー、それぞれは明美と凛の好物である。それが2本。遥は足元へ置いてから発言する。
「もちろん。ダイエットはするぞ。するが、このペットボトルはこれからする運動に必要なものだ。今日は運び足をする時に、片手に2リットルのペットボトル1本を持って貰う。それを両手に持って運び足をして貰うぞ」
「ペットボトルをもったぐらいで何か変わるのぉ?」
「ふふふっ。ペットボトル一本と甘く見るなよ。2リットルだと1本2キロ。両手に持つと合計4キロ。これを運び足の姿勢と速度を維持しながらやってもらうぞ」
「4キロか~。簡単そうだねっ」
「これなら軽く出来ますわ」
二桁に満たない重さの数字だけ聞いても実感の沸いていない明美。凛も同じ様な反応である。
いつもの稽古となんら変わりなくこなせると判断している。数字だけ聞いたら誰だって今の明美と凛の感想になるだろう。遥は口角を上げて微笑み返す。
「自信満々なのは良い事だ。さぁっ、早速今日の運動をしようか」
「うんっ」
「やりますわよっ」
「宜しくお願いします」
明美、凛、吹雪の発言を聞いてから、遥は稽古を始める。
ラジオ体操、腰割十回ニセット、四股十回三セット、お馴染みとなった慣れ親しんだメニューをこなして準備運動は済んだ。これからが今日の新しい運動である。
「ふぅー。それじゃあ、いくっよぉー」
明美は仕切りの体勢となって拳をつく……が、「明美くん。ペットボトルを忘れているぞ」と遥から忠告が入る。
「あっ、いけないいけない。つい、いつもの調子で」
遥から受け取ったペットボトル。側面の面積の大きい部分を手の平に収める様に持つ。ひんやりとした感触だが、ずっと持っていると少しずつ重たさを感じてくる。
「明美ちゃん、頑張って」
ひとりずつ動きを見ながら運び足、ペットボトルバージョンをやっていこうと言う事なので、凛は見学となっている。
経験者の遥、吹雪が姿勢、その他の指導。凛はする事は無いが同じく未経験者の明美の応援をしようかと、こうやって声出しを行う事にした。
「ありがとう。凛ちゃん。頑張るよぉっ」
凛の声援を受けて、気を引き締めていく。
「じゃあ、もう一回」凛が見守る中、いつもの様に腰を落として低く構える。
「ペットボトルを持ったまま肘を90度まで曲げるんだ」
「わかったよぉ」
遥の言う通りの姿勢となり、足の裏を地面から離さない様に、土俵の外周を4周するのが今回の運び足だ。
普段と同じく足に意識を集中していると、手の位置が注意散漫になりペットボトルがぐらつく。
「肘をしっかり90度に保たないと落ちるわ」
「吹雪ちゃん、わかったよぉっ」
吹雪の注意を受けて、ペットボトルをしっかりと握り直して前に出る。
肘を90度意識しながら落とさない様にして、顎を引いて前方をしっかりと見る。
「足が地面から離れているぞ」
今度は遥から注意が入る。
「んっ、わかったよぉ」
遥の注意を受けて、視線を落として足元を確認。足の親指で地面を擦りながら前に出る。
親指から小指まで下ろしていき、土踏まずを経て踵を地面に密着させる。
「よしっ、上手く出来てるよっ」
明美は足の動きに満足して、そのまま視線を落としたまま進む。
「顔を下に向けていると前傾気味になってくるぞ」
「んっ、わかったよぉ」
顎をひきつつ視線は前に、中腰の姿勢を維持しながら前に進んでいこうとする。
「今度は姿勢はバッチリ、これで大丈夫のはずっ」
全体的な姿勢を確認して前に進もうとする。だが、普段から染みついた動きは出来ていても、ペットボトルを持っている手の握力が弱くなってきていた。
「新道さん、ペットボトルがぐらついているわよ」
「んっ、わかったよぉ」
最初は重さを意識していなかったペットボトルの重さ。
運び足の手の位置、足の動き、視線の向き、様々な場所に注意を向ける事によって、4キロの重みは明美の手の中でずっしりと重たくなる。
「肘の角度が悪いわ」「足が地面から離れている」「明美ちゃん、頑張って!」「視線が下りてきている」「もう少しで4周ですわよっ」「ペットボトルが落ちていきそう」と矢継ぎ早に注意を受けて4周が終わる頃には、体力が尽きて来ていた。
凛の声援が無ければ精神力も尽きていた事だろう。
「はぁっ……はぁっ……」
「お疲れ様、よく頑張ったぞ」
「お疲れ様、新道さん」
「お疲れ様ですわ」
遥、吹雪、凛の三人から労いの言葉を受ける明美。
ペットボトルを地面に置いて、凛から手渡されたタオルで顔、腕や足の汗を拭いていく。
「凛ちゃん。これ、凄く辛いよっ」と声を掛ける。
「結構難しそうですわね」
眉根を寄せて険しい表情となる凛に対して、明美は努めて爛々と眼を輝かせて微笑む。
「でも、腕の運動もしているからっ! なんだか痩せた気がするっ! だからっ!」
そこで一旦言葉を区切ると、普段よりも一層大きな声で励ましの言葉を送ることにする。
「頑張ってっ!」
その輝く笑顔を見つめた凛は、寄せた眉根を決別させて口角を持ち上げて微笑み返す。
「もちろんですわっ」
この日、明美と凛はもう一セット運び足ペットボトルバージョンを行った。
流した汗の分だけブドウジュースとケーキがおいしいと信じて。