4 新道明美 VS 薫子吹雪
「運動にも結構慣れてきたよねぇ~」
本日、土俵場にいるのは明美、吹雪である。遥、凛は用事で来れないとの事。
吹雪は額にかいた汗をぬぐいつつ、明美の発言を吟味していた。
「そっ、そうね。じゃあ、あの……お相撲とかどうかしら?」
遠慮がちに明美を見つめる吹雪。自分から提案した割には緊張で声が上擦っている。
「そうだっ。ここ相撲する場所なんだよねっ!」
土俵場と言う場所の中にあってダイエットに余念の無い明美、凛はいつも基礎稽古しかやっていない。
吹雪、遥も二人に合わせて土俵で相撲をしていなった。
目を見開き天井を見つめた後、周囲の風景を確認する明美。
「まずは、ちょっとした軽いバランス感覚を鍛えるものを、と思っているんだけど、どうかしら?」
「……」
返事が返ってこないので相撲をしたくないのでは? と考えた吹雪が代替え案を出す。
「バランス感覚……バランス感覚……」
バランス感覚、から思い起こせるイメージと言えば、バランスボールである。
膝ぐらいまであるピンク色のバランスボールの上にお尻を乗せて、自分のバランス感覚を鍛える事を想像した明美は、「明美さん、どっ、どうかしら?」
不安そうに見つめてくる吹雪に対して、笑顔で、「うんっ。やってみよう。バランスボール運動っ!」と結構な勢いで食いついたのだった。
「バランスボールは部室にはないけど、同じ丸いものなら土俵を使いましょ?」
バランスボールが存在しない事を知り落胆した明美を宥めた後、相撲との共通点を見つける事に成功? した吹雪は少し意地になりつつあった。
「うっ、うん。吹雪ちゃんの言う通りだね。私、バランスも鍛えたみたいと思ってたの。ボールじゃなくてもいいよっ」
勘違いしていた罪悪感、それと吹雪の意地が明美にも判る程に見え始めたので、ここは取り敢えず頷いておこうと判断する、本能で。
「じゃあ、まずは土俵に上がって」
「うんっ。判ったよぉ」
新道明美は本日になってはじめて土俵の中に入る事となる。俵を超えて直径四・五五メートル、世界の全てが凝縮されている場所へと足を踏み入れた。
「なんか、土俵の外側とあんまり変わらないね」
「……そうね。土俵場の中でも土俵の内側と外側を分けるなら前者は土俵、後者は稽古場といった所かしら。稽古場は文字通り相撲の稽古する場所。足場や環境が違う事はないのよ。だから、その感想は至極当然だと思う」
明美の感想はあんまりにも言えば、あんまりな内容であった。だが、吹雪はその言葉を粗末とは思わない。
明美の感想は、最も力士らしい感覚に基づいたもので、吹雪には無かったモノであった。
「足場結構固いもんねっ。土俵を掴むのに苦労するよぉ」
ダイエット運動しかしていない明美が土俵を掴むのに苦労する、とは足指の裏や踵をなんとか土に食い込ませようとした事があった。
明美は足指の関節の使い方が鍵、そう思っているが、その辺りは遥に確認しようと思っていた。
「そのバランスを鍛える為にするのが、これからするバランス運動、蹲踞相撲」
土俵中央にペンキでかかれた真新しい二本の白い仕切り線があり、吹雪の足先は仕切り線の手前にある。
向かい合う明美にも無言でその場所に立つように指示する。
「蹲踞……とするとこうかな?」
同じく仕切り線の手前に立つ明美。
彼女の足指先は土俵の感覚を馴染ませる様、その関節を動かす。
そして腰を落として蹲踞の姿勢となる。背筋をピンっ、と延ばすと形のいい胸が弾み、新道と書かれたゼッケンが揺れ動く。やがて、その動きが落ち着くと姿勢は真剣でありながらも人のいい笑顔を吹雪に向ける。
「ええっ、それでいいわっ」
吹雪は足を小さく前後に動かして足場を確認すると、明美には気取られない様に短く音を立てずに小さな唇から息を吐く。
切れ長な眼差しを尖らせるとまつ毛を揺らさずに腰を落としていく。体操服の上からではちょっと判別のつきにくい小ぶりな胸は揺れず、山のせせらぎの如く静かな動きで蹲踞の姿勢となる。
明美、吹雪が土俵中央で蹲踞の姿勢で向かい合う。
本日は二人とも体操服、ブルマである。
吹雪は経験者の遥がいない状況ではマワシを締める事が出来ない。一人でも締めれない事もないが、どうしても緩くなりやすいのが気になるのだ。
「明美さん」
幾分か真剣な表情、声色に明美もやや心構えを正して表情を強張らせる。
しかし、吹雪はそんな明美をリラックスさせようと、口角を上げて笑顔を見せた後、一回小さく吐息を吐くと、「これは遊びみたいなものだから、そんなに緊張しなくていいわ。楽しくやりましょう」と張りつめた空気を弛緩させる。
「わかったよぉっ」
吹雪の表情につられて、明美も笑顔を見せる。そして、ようやく吹雪は次の動作に移行する事を決心させた。
両手、手の平を明美に見せた状態で前に突き出す。
「新道さん。私と同じように手の平を出して」
「こうっ、かな?」
差し出された手の平に吹雪は自分の手の平を重ねていく。
手の平から指先に至るまでぴったりと合わせる。
ひんやりと冷たい吹雪の手の平と、運動をしていない時でも熱く燃え盛るように暖かい明美の手の平は対照的だ。
「この状態で押したり、引いたりするの。手の動きだけを使ってするのよ。手の平を離すと反則負け。相手の手の平の押し込みを引いてかわしたりするのはあり。でもバランスを崩したら、無理をせずに手を土俵につく事。負けになっちゃうけど、怪我をするよりよっぽどいいもの」
「うんっ、わかったよぉ。こうっ、かな? えいっ」
遠慮がちに押された手の平をゆっくり引きながら防御に費やして、「そうよっ」と吹雪は若干の気を使って押し返していく。
「おっ、ととぉ。負けないよぉ」
今度は明美から手の平を押し返されるが、「ふふっ、私も負ける気がしないわ」と先程よりかは勢いをつけた引きを見せて、明美の手を自分の方へと引き寄せる。
「あっ、ちょっ、とぉっ。これはむりぃ」
手を前に出し過ぎて、上半身から前に倒れ込みそうになる。その動きは吹雪には簡単に予想できた結果。なので、明美が倒れない様に身体を包み込んで抱いて引き留める。
「あっ、ありがとう」
「これで私の一勝ね」
明美の言葉を外耳道に響かせて、勝利の余韻もそこそこに身体を離す。
「こんな感じでどうかしら? もう少しやってみる?」
継続か、他の運動をしてみるか? 吹雪は明美へと判断を委ねる。
「んっ、じゃあ、後二回やってみよっ。それで勝った方がジュース一本」
「いいわよ。でも、そうなってくると次、明美さんが負けたら勝敗ついちゃうわね」
「あっ、そっかぁ」
大変な事実を気づかされた、と目を白黒させる。
しかし、それも一瞬の出来事だ。眼差しを強く吹雪を見つめる。
「負けなきゃいいんだよぉ」
「勝てるかしら?」
「勝つよぉ~」
売り言葉に買い言葉、では無いが勝負事になると燃え上がる性格の明美。と言うよりかはブドウジューズを飲みたさが勝っているのかもしれない。
どういった理由であっても勝負にストイックになれる純真さ、それが吹雪には痛く心に刺さるものがあった。
しかし、吹雪本人がその感情に整理をつける事が出来るのはまだ先の話である。
心の弱点は今はまだ燻っている最中である。本人が自覚していない問題は課題にも出来ない。
「じゃあ。いくよぉっ」
「ええっ、どこからでもどうぞ」
先程までと同じように手の平を重ねた吹雪。
明美からの責めを待つ。経験者ならではの余裕を見せる事によって優位性を保っているつもりだ。
明美は吹雪の言葉をそのままの意味で捉えて、「いっくよぉ~」と合図をした後に、真っ直ぐ前に押し込んでいく。
「真っ直ぐ来ると引くわよ。すると、どうなるかしら?」
明美の力強い押し込みをモノともせずに緩やかな後退を見せる。
先程同様に押し込むごとに上半身が引かれていき、このままではバランスを崩して負けになってしまう。
「おっ、ととっ。引かれるとヤバイ。手を離すと負けだし……そうだっ!」
「何か名案かしら? でも、このまま行かせて貰うわよ」
明美の押し込みに合わせて手を引いていこうとする吹雪だが、明美の手はピタッと止まったままである。この状態で吹雪が手を引けば、手の平が離れてしまって負けになるのは吹雪だ。吹雪には押す、しか選択肢が無い。
「どうしたのかしら? 名案は?」
吹雪は押さない。明美の名案がどういったものかは判らないが興味はあるのだ。
猛禽類の如く鋭くした視線で見つめていく。
どんな名案が来ようが捕食者は吹雪の側、明美は捕らわれる側の哀れな食物連鎖の下位動物である。そういったイメージを持って明美を事を捉える。
「離しちゃ駄目は手の平のみっ。吹雪ちゃん、私は気付いたよっ」
捕食者であったはずの吹雪の瞳が大きく見開く。明美の目はまぁるく爛々と輝いて、口元は口角を限界まで上げている。
真っ白い歯を前面に押し出すように吹雪の視線を支配。
吹雪が引けない事を読んでいた、そう物語っている。
「――っ」
驚愕に見開いた眼差しは次の瞬間には口元を歪めて声を上げる事によって、しかめっ面を晒すことになる。
吹雪の指と指の間、指の股まで明美の指先が下りてきて、手の甲までがっちりと掴まれる。
追い詰めらたと思っていた哀れな小動物は、前足に強烈な研ぎ澄まされた爪を持っていた。
大きく強いと思っていた捕食者は爪先一つによって、身体そのものまで食い込まされる事となる。
「えいっ!」
一呼吸する間もなく力強く引かれて、吹雪の上半身はあっと言う間に崩れ落ち、先程とは打って変わって明美に抱かれる形となる。
「これで私の一勝目だね」
吹雪の外耳道に明美の控えめな勝利宣言が響く。それを受けて、「次は負けないわ」と勝負にかける意気込みはやや気迫負けしていると言っていると過言ではない。だからこそ、冷静になっているとも言える。
足を動かしてバランスを整え姿勢を維持し、明美の肩に手の平を添えてやんわりと気を使って優しく押し戻す。
「つっ、次は負けないわ」
二回連続呟かれた言葉は自分への戒めか? 吹雪は腕、手の平を伸ばして明美へ自身の手の平を重ねる様に呼びかける。
視線は真っ直ぐ真剣に、鋭く猛禽類の眼差しとなって明美を捕らえる。捕らえられた捕食者は再び牙を剥いて襲い掛かろうとする。
「いっくよぉ~」
対する明美の声は明るいが先程までの柔らかく微笑ましい表情は崩れて、大きな瞳が鋭く、努めて真剣な表情を作り出し、引き締められた口角が真剣勝負をする美しい顔になっている。
「明美さん……貴女……」
そこでようやく吹雪は気付く。明美は蹲踞相撲を始めた時から真剣な表情だった。それを笑顔に崩させたのは自分だった、と。
遊びだから、と。
遊びであっても真剣な勝負から逃げていたのだ、と。
遊びで真剣になれない自分の冷静さ、いや、バカさ加減に嫌気が差しものの、その感覚そのものも明美の明るく美しい表情によって霧散される。
だから、嫌いだ。
簡単に影響される自分が。
重ねられる手のひらの高い体温が、明美の表情が、凝り固まった考えを溶かしていく。
物事に対してもっと真剣になっていいのだ、と。
これは遊びの真剣勝負、そして、だったら、だからこそ言える言葉もあるのだ。
「はっけよーいっ、のこった」
合図の後、吹雪の気合の入った声が土俵場に響き渡り、吹雪の手の平は前に押し出された。
「あー、負けた負けた」
土俵に大の字で倒れ込む明美。
肩で呼吸をして、唇から紡がれる言葉も疲弊している。天井を見つめながら経験者の強さを身体に刻みつつ、「吹雪ちゃん、相撲って楽しいね」と語り掛ける。
「ええっ、そうね」
吹雪の返信は言葉少なく、小さく絞り出されたものであった。
手に持ったジュースの缶を明美に見せて、「今日は私が出しておくわ」ブドウジュースを差し出すのであった。
「えっ? いいのぉ?」
大好物を目の前にして、賭けに負けた自分の対価の事をすっかり忘れる。
立ち上がり、ブドウジュースの缶を受け取ると、一息に開栓する。
「大事な事を気づかされたから、ね」
「えっ? 何々?」
「内緒」
「教えてよぉ~」
「いいから早く飲みなさい」
「んぅ、判ったよぉ。ありがとう吹雪ちゃん」
明美はブドウジュースの缶に口をつけて、ツブツブ果肉が流れ込むのを舌で遊びながら更に缶を傾ける。
その光景を見た吹雪は、「飲んじゃったら追加稽古しないといけないけどね」と付け加える。
「遥ちゃん方針、やめない?」
眉根を寄せて嫌悪感を露わにしている明美の表情を見て、反対に吹雪は微笑み返す。
「もったいないわよ。そんなに美しいんだから」
明るく美しい、自分にとって新しい道を見せてくれた新道明美、吹雪は明美が勝負の時に見せる真剣な表情の虜になってしまった。