25 なら、今、ここでっ!
「では、ここまで判った所で寄りの稽古を行うと思う」
役目の終わった弓弦は畳の間に戻って、興味を失ったとばかりに対象をヤカンの結露を見る事に集中している。土俵端から外側に向かって並んでいるのは明美、凛、吹雪の三人。明美の位置からやや土俵の内側に立っているのは遥である。
「押しの稽古から続いて受け側で対応させて頂く。宜しくお願いするよ」
「「「宜しくお願いしますっ」」」
明美、凛、吹雪の三人の声が響き、最初に土俵に上がるのは明美。凛はその位置から移動して土俵の反対側に向かう。順番待ちの部員が土俵の反対側に回る事になり、遥が移動少なく、寄りの稽古を受けれるので時間の短縮になる。その分、遥の負担は大きいのだが……
無く、まだまだ元気が有り余っている。
「うんっ、こうだねっ」
明美は遥を抱擁する。だが、これでは明美が遥に抱きついただけである。稽古として先に進む為に遥は言葉を続ける。
「んっ、む。取り敢えずお互いにマワシを取り合おう」
さりげなく腕を動かして、右上手、左下手の形に持っていく。自然と明美の腕も同じように右上手、左下手となる。
「この状態でマワシを掴んでみよう」
「わかったよぉっ、こうかな?」
明美は外側からマワシに触れて手を添えるだけ。
「そこから更に、横マワシの下側から指を入れてみよう。入れる指は人差し指、中指、薬指、小指だ」
「んぅっ、固くてなかなか入らないね」
「明美くんがマワシをキツく締めてくれたからだなっ」
「なんという自業自得っ」
「でも、それが普通なんだ。どの学生力士にしても腰回りはマワシがキツく締まっているものさ」
「そうなんだねっ」
「そういう時はこうするのさ」
遥は明美と胸を合わせた状態で耳を研ぎ澄ませる。
遥の肩の上に載っている明美の顔、その唇から僅かに漏れる呼吸の音。
すぅー、はぁー、すぅー、はぁーと吸って、吐いてを繰り返すリズムを図ってから、すぅー、はぁー、のはぁーのタイミングでお腹が僅かに凹んだ瞬間を狙って、横マワシの下から人差し指、中指、薬指、小指を次々と滑り込ませる様に入れた。
そして、次の瞬間には、すぅー、はぁー、のすぅーのタイミングでお腹が出っ張っていき、遥の肉体とマワシが密着し、その間に遥の指を巻き込む形となった。
「と言う訳だっ」
「待って、よく判らなかったんだけど……」
明美としては一呼吸の間に全てが終わっていた訳である。理解のしようもない。
「見る、聞くだけでは理解も遅いだろう。なので、私の言う通りに実践をしてみたまえ」
「判った。お願いします」
「うむっ。今の姿勢としては私と明美くんが抱擁をしており、お互いの肩に顎を乗せている。この状態の時に、耳にかかる相手の呼吸を確認する。呼吸は吸うとお腹が膨らむ。呼吸を吐くとお腹が凹む。お腹がが凹むとマワシと肉体との間に隙間が出来る。その隙間に対して、人差し指、中指、薬指、小指を次々に滑り込ませる。とは言ってもスルっとはいかないので、多少強引に指をマワシと肉体との間に食い込ませる様にするのだ」
「大切なのは、相手の呼吸を感じる事だねっ」
「まずはやってみたまえ」
「うんっ、わかったよぉ」
まず、明美は口を閉じた。朱色の唇が真一文字に引き結ばれて、引き締まった顔付きになる。
耳元に聞こえるのは明美自身の鼻先から聞こえる呼吸。だが、自身の呼吸を感じていても意味は無い。だからこそ、まずは自身の鼻からの呼吸を確認し、耳を集中する。大きく開いていた眼差しが細く、切れ長に研ぎ澄まされていく。
「……(遥ちゃんの呼吸は……)」
男の子でありながら女性的な体格、顔付きの遥。鼻先からの呼吸も小さく、自分のものと判別はつかない。だが、今しがた遥自身から教えて貰った様に、耳にかかる相手の呼吸を感じる事、その呼吸によってお腹の凸凹を感じる事が重要である。その音が聞こえる様、その動きが判別出来る様、遥の技術を求める様に明美の肉体は前に動く。
腕を差し込んで、足、腰を前に動かして、お腹を合わせて、胸を合わせて、頬擦りが出来るまでに接近する。身長がほぼ同じの為に頬にかかる遥の呼吸。
静かに、流れるように、止める事の出来ない生命の本流を読む事が自分に取って有利であり、相手に取って致命的である。だからこそ、遥の呼吸に素直に従う様に呼吸を合わせていく。
すぅー、はぁー、すぅー、はぁー、と同じタイミングで呼吸を続けていく。そうすると密着しては離れるお腹の凹凸が判ってくる。凹のタイミングでマワシが掴める様にならなければいけない。
クリアになっていく思考が求める先はざらついた感触のマワシ。幾重にも繊維が織り込まれたマワシは固く、指先など入る訳も無い。
だからこそ、今、この技術。瞬間的な動作を長年の技術によって教わっているのだ。
「すぅー、はぁー」
遥の呼吸を感じる。
「すぅー」
ここで吸った。
「はぁー」
ここで、吐いた。
呼吸を吐いた。
今、高見遥が呼吸を吐いた。
――この瞬間、明美は行動しなければならない。
なら、今、ここでっ!




