1 誘われるままに
「……きて……起きて」
「……んんっ、むにゃむにゃ、もう食べられないよぉ」
「起きなさいっ!!」
「うひゃあ」
大音量の声に明美は目を覚ます。右耳がキーンッ! と痛んでいるので、涙目になって抑えている。
「なんだぁー、せんせぃーかぁ。驚かさないでよぉ」
「先生かぁ……じゃ、ないでしょう?」
「どうしたのぉ? いとうせんせぃー?」
「もう皆、部活動見学に行ったわよ。新道さんはいいの?」
「あっ、そうだったぁー。えへへ、昨日ねぇ~。これ見てて、徹夜したのぉ」
意気揚々と差し出すのは部活動紹介のパンフレット。
「涎でベトベトじゃない。ほらっ、ハンカチ。これで拭いて」
「ありがとぉ。せんせぃ!」
「それで、どの部活動にしようとしたの?」
「ん~、なんかね~……考えてたんだけど、途中で寝ちゃった」
んしょっ、よいしょっ、とパンフレットを拭く明美を見ながら、伊藤は……「それって徹夜って言わないんだけど、な」と、小さく呟く。
「何か言った? せんせぃー?」
「なんでもないわ。新道さん。他の皆は部活動を決めたみたいだから、アナタも早く決めなさい。今日が仮入部期間の最終日よ」
「はぁーいっ」
よしっ、これで満足っ。そういった表情を見せて、まだ少し涎の跡が残るパンフレットを脇に抱え込んで立ち上がる。
「せんせぃー。ハンカチありがと~」
「どういたしまして」
「じゃあ、いってきます」
軍隊の様にキチっと敬礼をすると、カバンを忘れて駆け出していく。
「ちょっと、鞄を忘れているわよぉ」
「ああっ、いっけなぁ~い」
くるっとターンし、軽い足取りで机まで戻る。
「鞄も持ったし、これでよしっ! いってきまーすっ」
「気をつけて行ってくるのよぉ~」
「はぁ~いっ」
発言した矢先、おでこを扉にぶつけてしまう。
「いったぁ」
「あらっ、大丈夫?」
「うん。せんせぃー。私、身体は丈夫なのお~」
振り返り、にっこりと微笑んでから、「三度目の正直、いってきま~すぅ」と、今度こそ教室から出て行った。
入学式、クラスでの顔合わせ、どの授業も経験して、先生の担当科目、人柄が判った程度の四月中旬。生徒達は部活動の選択を迫られていた。
仮入部期間とはいえ、殆どの生徒がどの部活動にするか? それはもぅ決定しているが……新堂明美は希望する部活がなかった。
「色々見たけど判んないなぁ~」
素直な感想である。
三年間。学生にとっては何よりも大事な放課後を費やす部活動を選ぶのだ。そう易々と決められるものではないのだろう。いい意味でしっかりとした考えを持っている。悪い意味では優柔不断であるとも言えよう。
だが、そんな彼女に部員勧誘と言う名の洗礼が襲い掛かる……事はない。
「誰もいなぁ~い」
ある程度の部員を獲得したクラブは、校舎前には来ないのである。
そんな中、彼女に近づく影が一つ。
品のよさそうな、優しそうな顔立ち。一言で言えばお嬢様だった。
「たのもう!」
「うひゃあ」
「私の名は和音凛ですわ。宜しければコレを」
凛が差し出したのは部活動のチラシ。
「私に? いいのぉ?」
「もちろん。さぁ、どうぞ?」
「ありがとぉ、えーとぉ?」
「和音凛ですわ。気さくに凛ちゃんって呼んで下さい」
「凛ちゃん、ありがとぉ」
凛のにっこり微笑んでいる笑顔を受けながら、チラシを確認する。
「シコって素敵な女子になる部活動?」
「ええっ、四股って素敵な女子になる部活動ですわ」
「シコ?」
「ええっ、四股ですわ」
「ってなに?」
首を傾げる明美に対して、両手を合わせて目を輝かせる凛。
「まぁ、まぁまぁまぁまぁ……四股に興味がお有りですのね」
「うっ、うん」
接近されて、若干押され気味の明美。
「百聞は一見にしかず、ですわ。まずは武道館にいきましょう?」
「ブドウ缶っー? 行ってみたいっ!!」
主人公移動中。
武道館。校舎から離れた第二グランドに位置する。
トイレ有り、更衣室有り、自販機有り。建物の中を凛に案内されながら、ブドウはいつ出てくるのだろう? そう思っている明美の目の前に扉が現れる。
「今、案内した更衣室やトイレも、実はこの中にあるのですわ」
「へぇ、なんか特別なの?」
「ええっ、柔道、剣道、空手など、他の武道とは違う点があるのよ」
凛が扉を開ける。
明美の目の前に飛び込んでくるのは……
「土俵?」
「そぅ、裸でマワシを締める武道。相撲は更衣の特殊性から、一個の空間で全てを賄えるのよ」
「……」
ここに至ってようやく、明美は一つの疑問を口にした。
「ブドウ……ないの?」
「……武道、ですわよ?」
「食べたい盛りって言うのは相撲に向いているな」
二人の噛み合わない会話。そこに後ろから声を掛ける男子が一人。細身で筋肉質。裸に白マワシ。女の子の様な顔立ち。そして、片手にはブドウジュースを持っている。
「高見遥だ。宜しくな」
「そのブドウジュースおいしそ~」
「これか? そこの自販機で売っている。君達の分もあるぞ」
「いいのぉ~?」
「立ち話もなんだ。部室に入りたまえ」
「いらっしゃいませ~」
導かれるままに相撲場に入る明美。
「まずはここ畳の間だ」
「土俵が一望出来るのよ」
「へぇ~。すごいねぇ~」と、言いつつもブドウジュースの缶をフリフリしている。ツブツブの果肉がジュースに含まれているタイプなのだ。
「座りたまえ。簡素ではあるがちゃぶ台がある。ソレを囲もう」
「あっ、ミルクティ~があるぅ~」
「そのミルクティーは凛くんの為に買って来た」
「ミルクティー、大好きなの。遥ちゃんありがとう」
「凛くん、チラシ配りご苦労だったな。だが、私は男子だ。ちゃん付けではなく、くん付けでお願いするよ」
「えぇ~。可愛い名前なのに~。私も遥ちゃんって呼んでいいですか?」
「……こっ、困ったな」
三人でちゃぶ台を囲む。遥はコーヒー缶を手に取って飲み始める。それを見て、凛、明美も飲み物に口をつけていく。
「私、新堂明美って言います。えっ、とぉ。遥ちゃんは上級生なんですか?」
さりげなく遥ちゃん呼びを開始する。
「私と凛くん、今日はいないが吹雪くん含めて全員が一年生だよ」
「えっ、じゃあ、新設されたクラブなんですか?」
「その通りですわ。去年、この武道館が建設されたの」
「部員ゼロだと土俵場が整備されないだろう? 放置はまずいので、部を新設する必要があった。そこで白羽の矢が立ったのが相撲部経験者の私と、吹雪くんだ。凛くんは未経験者だ」
「ふぅ~んっ」
さして疑問にも思わずにツブツブの食感を楽しむ明美。この缶のツブツブを全部飲めればいいなっ、と適当な事を考えている。
「でも経験者の中に交じって未経験者が私一人だと寂しいじゃない? だから一緒に相撲を始めれる人に入部して欲しいと思っているの。それで、ね。クラブの名前を相撲部から、四股って素敵な女子になる部活動に変えて貰ったの」
「まぁ、俺は男子だが……」
女子、と名のついている部活動の中に男子が一人交じっている。
意図的に、俺、と主張する事で遥はささやかな抵抗を見せる。
「部員が増えるっていい事よ」
「……そうだな」
黙って聞いていた明美の反応を見てみようと遥はコーヒー缶に手を伸ばし、口につける。
ブラックコーヒーの苦味のある流体が口の中に広がる。
「ところでシコる部って何をする部活動なんですか?」
「……ぶっ……ゲホッ、ゲホッ、明美くん。私のコーヒーを無駄に消費させる気かね。違う、違うぞっ。それは、なんか不味い」
「……んっ? 何がマズイのかな~?」
「確かに略すとシコる部よね~」
「凛くんまでっ……いいかっ、シコる、では無い! 見たまえ!」
明美のブドウジュースを手に取り、カロリー表示を二人に見せつける。
「明美くんっ。これを見たまえ。ジュースを飲むとこれだけのカロリーを体内に取り込むのだ」
「あらあら~。これは意外な数字~」
「ジュースってカロリー多いもんね~」
「ね~、っと微笑ましく笑っていられるのも今のうちだぞ。カロリーは女性の血となり、肉となり……そして贅肉になる」
……訪れる沈黙。女性の敵、いやっ、人類の天敵である贅肉。カロリーを消費しないと、訪れる肥満。言いようのない不安が明美の脳内を支配する。
「それは君達の足に留まる」
「そんな~、後、三年はスカートなのに~……どうしたらいいのぉ~?」
「あらあら、これは困ったわね~」
「嘆く事なかれ! 我々には四股がある。土俵場でのみ踏む事が出来る。神聖な行為なのだ」
土俵場に下り、四股を踏む遥。
「ほぇ~。足高く上がるんだね~」
「部長の四股は凄いのよ」
「やめたまえ、照れるだろう……見て判っただろう? 四股は踏むもの。シコる、ではない! ……大体、女性がシコるなどとっ! いやっ、それを言いたいのではなくてだなっ! とにかくっ、四股の動きは足全体の運動も有り、痩せる!」
「四股を踏むと足が細くなって、素敵な女子になれる気がしない? それで、四股って素敵な女子になる部活動ですわ」
「いいなぁ~。私もしてみたい~」
その言葉を聞いた凛が、「今よ」とばかりにちゃぶ台の上へとさささっ、とさりげなく入部届を出す。
「今なら遥ちゃん呼び出来る特典もついてるわよ~」
「なぜ、そこが重要視されるのか?」
「ブドウジュースもあるし、ねっ?」
「凛くんっ、無視をするのはやめないかっ!」
遥を放置した凛は期待に満ち溢れた視線を明美に向ける。その視線を真っ直ぐ受けた明美は少し考えたのち……
「判った。やってみるっ!」
明美は軽い気持ちで入部届にサインした。