下部屋(しもべや)
あの頃の家に思いを馳せて。
そこはかつて女中部屋だった。
田舎の祖父母の住む家屋は古く、木造平屋建て。
広い畳敷の部屋が二間。少し狭い小部屋。お釜を据えた土間に台所。そして、通り庭を隔てて、玄関脇にその女中部屋があった。
昔、女中が寝起きするのに使ったというその小部屋は住居の一番片隅、いわば「下」にあったので「下部屋」と呼ばれていた。
中学三年の夏。私は受験勉強にかこつけて、静かな田舎の祖父母の家に来ていた。
「みゆちゃんはこの下部屋を使ってや。ここは静かやし。」
と祖母に通された下部屋は四畳半のこじんまりとした小部屋で表に向かって小窓があり、その下には小さな文机が置かれ、天井からぶら下がる明かりは古めかしい傘を着た電灯であった。
レトロな雰囲気を醸し出すこの下部屋を私はすっかり気に入り、この夏を満喫すべく、下部屋で一人寝起きすることとなった。
一週間ほど過ぎた夜のことだった。
その夜はひどく蒸し暑く、寝苦しい夜だった。
「水でも飲みに行こうか。」
と半身を起こしたときだった。
はるか遠くから「カラコロ、カラコロ」と音が聞こえてくる。
耳を澄ますと、どうもそれは下駄をつっかけた足音のようだ。
「こんな真夜中に…。」
時計を見ると一時をさしている。
「カラコロ、カラコロ…」
ふと気づくと、足音は家の前の小道を歩いてくるようである。
「やだ。」
私は気味が悪くなり、息を殺して布団の上に座り直した。
「カラコロ、カラコロ、カラコロ」
下駄の足音はどんどん大きくなり、門を通って今まさに下部屋の小窓の下へと到達しようとしていた。
「たすけて!」
その時、表に繋がれていた祖父母の愛犬タブローがむくりと起き上がる気配がし、間髪入れずに、
「ワン、ワン、ワン!」
とけたたましく吠えた。
と、途端に下部屋の小窓の下でピタリと下駄の足音は消えた。
しんと静まり返った表を恐る恐る小窓を細く開けて覗いてみるとそこはかとない闇が広がり、タブローがじっとその暗闇をみつめているばかりであった。
「何だったんだろう」
ふと下部屋の小窓の足元に目を落として、私はぎくりと首を縮めた。
そこは、バケツをひっくり返したように、ぐっしょり黒々と濡れていた。
真夏の夜の夢か、幻か。
知っているのは、愛犬タブローと私だけである。
初めて、怪談物の短編小説を書いてみました。
読んでいただきありがとうございました。
石田 幸