表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
深海の街  作者: 記章
9/34

第二話「星空の待ち人」その7

第二話「星空の待ち人」その7


ある夜、妻の友人から連絡があった。

妻は入院していた。

そんなことすら、他人の口から聞かなくてはならないことが、丸田と妻の今の距離を表していた。

入院先を訪問したが、妻の友人から「今は会いたくない、ということです」と拒否された。

病名さえ教えてもらえなかった。

何がいけなかったのか。

打ち込まれた(くさび)は、先端こそ細いが、打ち込まれるほどに溝を広げる。

思いつくことは、無数にあった。

しかし、その度に、「そんな些細なこと」と見て見ないふりをしてきた。


もはや、市内の家に帰ろう、とは思わなかった。

確かに住民票こそ、あの家にあるものの、あの家も、近所も、地域も、

もはや丸田を受け入れてはいない。

違う。

丸田が、受け入れることができない。

だから、足は自然と、特別行政区の「自宅」に向いた。


四ツ街の自宅につく頃、辺りはすっかり真っ暗になっていた。

暗闇の中、感度を最大限に上げたコンタクトディスプレイを通して見る自宅は、荒れ果てていた。

自慢だった芝生の庭は、2メートルを越すセイタカアワダチソウの楽園になり、

門から自宅が見えないくらいだった。

涙が溢れてきた。

過去の思い出が蘇る。

土地を買ったその日、妻が強くせがむので、更地にレジャーシートを敷いて、

妻が握ったおにぎりを二人で頬張った。

風が強く、砂埃が舞い上がり、すぐに退散したものの、その日は笑いが止まらなかった。

意味もなく、毎週妻と、建設途中の我が家を見に行った。

大工連中にはミャンマー人が多かったから、お陰でミャンマー語が得意になった。

今でも自己紹介くらいはできる。

家電を揃えに、サムスンのショールームに何度も足を運んだため、

ついには専属のアドバイザーがつくまでになった。

ふたりとも、新しく始めるふたりの生活に、これまでにないほど心を踊らせていた。

そして...


そう。

丸田には、その後の我が家の思い出が無い。

新居完成と同時に、会社が本拠地を北京に移したため、新居での荷解きもほどほどに、

丸田は北京へと旅立った。

妻一人を残して。

子供が伸び伸びと過ごせるようにと、奮発して建てた5LDK2階建ての家は、

妻にとってどれほど広かったことだろう。

妻は静かな家の中で、一人何を思っていたのだろう。

そして、自分はそんな妻に何をしてあげていたのだろう。

自分はいつだって人生の主役でありすぎたのだ。

そして、いつの間にか、大切な物は手からこぼれ落ちていた。

いや、自分の手のひらに収まるなんて思い込みこそが、間違いだったのだ。

大切な物は必死に掴んでいなきゃならない。

今更、何ができるだろう。

時を戻すことはできない。


門を開けた。

セイタカアワダチソウをかき分けて、玄関に向かう。

玄関にかかる色あせた「欢迎」のボード。

初めて買ってきた北京土産だ。

冗談みたいな土産物を、妻はたいそう嬉しがって、玄関にさっそく掛けていた。

ズボンのポケットを探る。

変色した2本の鉄製の鍵。

どんな時も右ポケットに入れてきた。

それが妻との繋がりだと、どこかで思っていたのかもしれない。

扉がきしみを上げて開く。

靴を脱ぎ、ホコリが積もる廊下を抜けて、リビングに出る。

引っ越しの際、カーテンを外したリビングからは、セイタカアワダチソウのジャングルが望める。

座り込む。


妻はここに一人でいたのだ。

毎晩、一人分の食事を作り、一人で食べ、一人で皿を洗っていたのだ。

一人分の洗濯物を干し、いつまで経っても散らからない家を掃除していたのだ。

そして、忍耐強く週に一度の夫とのテレビ通話を待っていた。

今思えば、通話はいつも深夜だったにもかかわらず、妻は小綺麗な服を着て、化粧をしていた。

そうだ。

そうやって、妻はいつも自分のことを待っていてくれたのだ。

そんなことに気づかず、疲れを言い訳に、

必要最低限のことを業務連絡のように告げて通話を切っていた自分はなんて愚かしい。

涙が止まらない。

なんでそんな想像すらできなかったのだろう。

涙を拭いた時に、コンタクトレンズが外れた。

でも、今はそんなことさえ、どうでも良かった。

手をついて号泣した。

自分の思いあがりを悔いた。

そして、取り返しがつかないことを嘆いた。

30年もの歳月を人はどうやったら取り戻せるのか。

妻にはもっと他の人生もあったろう。

もっと、妻のことを気にかける男性と結婚して子宝に恵まれ、育児にくたくたになりながらも、

幸せで充実した日々を過ごすことができたかもしれない。

自分みたいな人間に出会ってしまったばっかりに、その人生を浪費させてしまった。

悔いても、悔いても、底はなかった。

どれだけでも沈むことができた。

もう、どうでもいい。

そう思った。

何もかもどうでもいい。

自分には何もかもなくなった。

会社もない。

地位もない。

友人もいない。

妻もいない。

「家」もない。

自分を自分たらしめるものはすべてなくなった。

それは、楽になったとでも言えるのかもしれない。

ホコリまみれになるのも構わず、リビングに仰向けに寝転んだ。

もう疲れた。

妻の顔が数瞬ごとに脳裏をよぎり、その度に心臓が掴まれたように痛んで、呼吸が苦しくなる。

瞳を閉じた。

苦しくて、それ以上にひどく眠い。


浅い眠りから意識だけが浮上しても、目を開けたくなかった。

また、現実に向き合わなければいけない気がして、しかし、丸田の心はもう疲れすぎていた。

また妻の顔がよぎる。

呼吸が浅くなる。

あえぐように深呼吸をすると同時に、自然と目が開いた。

そこに飛び込んできたのは、満天の星空だった。

いつの間にか、コンタクトレンズ型スマートディスプレイはどこかに行っていて、

高感度補正がオフになった裸眼はしっかりと、暗闇に浮かぶ無数の瞬きを捉えていた。

記憶が蘇る。

更地だったこの場所にレジャーシートを敷いて、おにぎりを頬張ったあの日。


「ねぇ、あなた」

「ん?」

「ここから星空を眺めたらキレイだと思わない?」

「そうだな、でも、俺は星座なんかあまり詳しくないぞ」

「ふふっ、あなたっていつもそう。いつも何かをしてなきゃ気がすまないのね」


妻が柔らかく笑った。


「でも、星を眺めて何をするんだ?」

「何もしないの」

「何もしないのか?」

「そう、何もしないの」

「じゃぁ、それじゃ、星空をただ眺めるだけだぞ」

「だからそれが良いんじゃない。何もしないで、大切な人と、一緒に星空を見上げられるなんて、

 とても贅沢よ。

 私は、あなたとそういう風に過ごしたいの」


結局、そんな些細な願いさえ、叶えてあげることはできなかった。

時折帰国しても、仕事のパフォーマンスを維持するために、規則正しい生活を守った。

夜9時には寝て、朝4時に起きるスケジュールを変えることはなく、

ゆっくりと妻と過ごすことなんて考えたことがなかった。

今になって、妻が何を求めていたのかが、手に取るようにわかってきた。

もう過去は変えられない。


そうだ、過去は変わらない。

でも。

でも、ここからもう一度やり直すことはできないだろうか。

虫がよすぎることはよくわかっている。

でも、今ここで何かを始めなければ、本当に自分と妻の間には何もなくなってしまう。

どうせ、臆病な自分は「何もない」とつぶやいたところで、自殺することなんてできやしない。

絶望した気になることは簡単だが、妻に対する償いは、そんなことではないはずだ。

丸田は決めた。




翌日、丸田の姿は新浜市役所にあった。

正式な手続きを経て、特別行政区へ移住するためだ。

手続きは難航した。

特別行政区内の「元住民」の立ち入り許可事由には、

自宅への短期的な「訪問」や「滞在」、「宿泊」の項目しかなく、

長期的な「移住」の文字は、手続き用紙のどこにも記載されていなかった。

「前例がないこと」を極端に嫌う役所の体質に、計画は当初から暗礁に乗り上げそうになった。

ある時、現在の市長が、会社時代の元上司の大学の同期であることがわかった。

すぐに年下の元上司にコールした。

いつの間にか、彼は取締役に昇進していた。

自ら丸田のクビを切ったことへの後ろめたさからか、

それとも多少は親しみを覚えていてくれたのか、

元上司から直接市長に掛けあってくれて、道が開けた。


その他にも課題は山積みだった。

何しろ、特別行政区内の自宅にはすでに生活インフラが届いていない。

発電・蓄電システムを整えるのはもちろん、上下水道が閉鎖されているから、

自宅に上水用の簡易システムを自力で組み上げ、下水に関してはウェブ上を歩きまわり、

ようやく、未だにバキュームカーを運営している会社との契約を取り付けた。


また、買い物や資材・燃料運搬のため、中古のFCV(燃料電池車)も購入した。

自動車免許はとっくに切れていたから、

本来ならAFCV(自律走行燃料電池車)を買うべきなのだが、

特別行政区内は、中核都市なら当たり前のように敷設されている自律運転支援用の各種センサー、

ビーコンの整備が不充分であり、

不測の事故を引き起こす可能性があるからお勧めできないと、ディーラーから反対された。

そのせいで、この歳で自動車教習所に通い直すことになり、半年も浪費することになった。

箱庭の外で暮らそうとすることが、こんなにも障壁が多いとは思わなかった。

しかし、その壁を乗り越える度に、妻に近づけるような気がして、

丸田は猛然とタスクをこなしていった。


丸田がようやく「自宅」で生活を始めた頃には、

市役所に手続きに訪れてから、すでに一年が経過していた。

しかし、成果は実った。

庭からは雑草の姿が消え、あとは契約した造園業者が芝生を貼りに来るのを待つだけだ。

ほぼ自作したホームエナジーマネジメントシステムは、今のところ順調に動いている。

太陽光発電でどうしても足りない分は、発動機で補うつもりだ。

上水として、1トンの水を確保したが、毎月買い替えなくてはならない。

一般消費者でそんな酔狂なことをする人間はいないから、メーカーには足元を見られかけたが、

そこは昔とった杵柄、交渉して運搬費、諸経費込みで、

ミネラルウォーターの市価の1割増しにまで値切った。

FCVの運転にも随分慣れた。

車庫入れも切り返すことなく、スムースにできるようになった。


丸田は今日からここで、一人で暮らす。

一人で食事を作り、一人で食べ、一人で皿を洗う。

一人分の洗濯物を干して、あまり散らかることのない家を掃除して回る。


いつか笑顔で妻を迎えに行くことができるように。


一緒に星空を眺めることができるように。


今度は丸田が待つ番だ。


つづく...

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ