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深海の街  作者: 記章
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第二話「星空の待ち人」その6

第二話「星空の待ち人」その6


丸田が長年務め上げた会社を退職したその翌日から、当たり前のように夫婦ふたりの生活が始まった。

しかし、それは、丸田が想定したようなものではなかった。

妻の生活には、コミュニティの暮らしが深く根を張っていたからである。

妻は朝6時には市民センターが主催する朝の体操教室に参加する。

7時に一旦自宅に戻り、朝食を摂ると8時からは華道教室。

11時からは昼食を兼ねた料理教室。その後、友人たちとしばしカフェで談笑すると、

15時からはスイミングスクールで水中ウォーク、その後スパを楽しむと、

夕食にはまた友人たちと行きつけのイタリアンでワインとチーズを味わう。

帰宅するのはたいてい21時頃になり、まもなく就寝する。

翌日はまた朝6時から体操教室に参加すると8時からは詩吟教室に通う、といったように、

毎日、市が用意するプログラムに、優等生のように出席した。


当初は丸田も妻に誘われて、何度か集まりや教室に顔を出したものの、

どこか浮ついた雰囲気に馴染めず、寝不足や体の不調を言い訳に同行しなくなった。

もちろん、丸田が退職して、中国から新浜市内に居を移したことを目ざとく察知した市役所は、

訪問相談員まで派遣して、丸田に積極的にコミュニティに参加することを勧めた。

実際、新浜市が提供するコミュニティ活動の幅の広さと量は感嘆に値する。

料金もほとんどが無料か、材料の実費だけで済む。

どんな嗜好の持ち主も、どんな所得層も、どんな年齢層もその大きな(かいな)で包み込み、

すべての市民にやりがいと、生きがいと、充実感を提供する。

人々は躊躇することなく、その恩恵を享受し、豊かな人生を送る。

新浜市は、丸田が離れている間に、まさに理想的な都市に生まれ変わっていた。

一片の不便も、不満も許さず、地域の隅々にまで笑顔を溢れさせる新浜市は、

近隣都市の市民からも憧れの地となり、人口は増える一方だった。

特別行政区管理法施行による近隣都市からの強制的な人口受け入れがあったとはいえ、

丸田が幼いころ330万人だった人口は、今では600万人を超えるまでになっていた。


「パンフレットにも笑顔が溢れているでしょう。

 新浜は、もはやブランドなんです。幸せの街、新浜!」


市の誘民政策のキャッチコピーは「そうだ、新浜市、住もう」。

熱に浮かされたような相談員の笑顔は、かえって丸田の心を冷やした。


妻は当初、丸田を一人にしたまま外出することに多少は遠慮していたようだが、

丸田が毎朝、積極的に送り出す姿を見て安心したのか、

すぐに元の生活スケジュールに戻っていった。

まるで、楽しまないと人生を損しているかのような切迫感があるように思えたのは、

丸田の気のせいだったのだろうか。

丸田は毎日一人で過ごすようになった。




「豪華客船のクルーズで旅をしないか?実は、もう予約したんだ」


すべての歯車が狂い始めたのは、あの日からだった。

妻の誕生日が近づいていた。

丸田の突然の提案に、妻は困った顔をした。

丸田は妻が夫のサプライズに驚いたのだと思った。

あるいは、旅行の料金を想定して心配したのかと。


「大丈夫。退職金も想像以上に入ったんだから、少しの贅沢くらい許されるさ!」

「何日間?」

「お?そうそう。新浜港から出発して、韓国、中国、ASEAN諸国をめぐって、

 東洋一のシンガポールにまで足を伸ばして、また新浜に帰ってくるんだ。

 あの老舗ホテルのマリーナベイサンズにも泊まる予定だし―」

「だから、何日間なの?」

「全部で2ヶ月間だ」

「ごめんなさい、私、行けないわ」


妻は丸田と目を合わせず、それだけを言うと、寝室に下がろうとした。


「あ、すまん、お前の予定を聞いていなかったな。

 このツアーはな、1ヶ月おきに出発しているんだ。

 次の回でもいいかもな。次は―」

「私、行けないから。あなた、一人で行っていらしたら?」

「そ、そんな言い方はないだろう...」


思いがけなかった。

妻が何を考えているのかわからなかった。


「いつなら、行けるんだ?」


まだ、ぎこちない笑顔を固い顔に貼り付けたまま、丸田はパンフレットを妻に渡そうとした。


「いつでも無理よ」


妻はパンフレットを受け取らなかった。それどころか、ため息をついて、

「お教室で疲れてるのよ」といって、寝室に向かう。


「ちょっと待て!なんで行けないのか、説明してくれないか」


妻の返答は想定外だった。


「だって、コミュニティ活動があるもの」


理解できなかった。

少なくとも丸田にとって、それは「理由」にはならなかった。


「毎日活動はあるんだから、休めるわけないでしょ?」


その言葉の響きには、「当然のことをなぜ説明しなければならないのか」という、

当惑さえ滲んでいた。


「でも、それは、なんというか、遊びだろ、少しくらい休んでも―」

「ひどい!そんな言い方ないでしょ!」


結婚以来初めて聞く妻の怒声だったかもしれない。


「私は一生懸命、毎日活動してるのよ!それを、遊びだなんて!」

「おいおい、そんな怒らなくても―」

「あなたが旅行したいなら私は止めないわよ!

 勝手に行けばいいじゃない!

 あなた、一人のほうが楽しいんでしょう!」

「お前もそんな言い方をしなくていいだろ!こっちはなぁ!」


そこからは売り言葉に買い言葉だった。

暴言の応酬はついに臨界に達し、丸田は号泣する妻を背中に家を飛び出した。

自宅近隣を歩きまわり、数時間もすれば、頭も冷えた。

24時間営業のデパートで、妻が好きだったフルーツタルトを買うと、家に戻った。

妻の姿はなかった。

ダイニングテーブルの上に「しばらく友人の家に泊まります。また連絡します」と、

書き置きがあるだけだった。

丸田はようやく気がついた。

妻は丸田に復讐しているのだ。

妻の行動は、そのまま自分がやってきたことじゃないか。

生活環境を言い訳に妻を日本に留め置き、妻の暮らしの豊かさを言い訳に新浜市に留め置いた。

それは、本当に「妻のため」だったのか。

本当は、妻をどこかで「仕事のじゃま」だと感じていたのではないか。

妻もそこに気がついていて、しかし、その優しさゆえに、

自分の想いに蓋をしていたのではないか。

溜まり溜まった寂しさは、爆発することなく、冷えた鉄塊へと収束したのだ。

妻に謝らなくては。

そう思い、妻へコールしようとしたが、妻のアカウントはネットワーク接続されていなかった。

しばらく、距離を置きたい、そういうことだろう。

妻は帰ってこなかった。


つづく...

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