第二話「星空の待ち人」その1
第二話「星空の待ち人」その1
丸田翔は、いわゆる企業戦士だった。
日本経済が傾く中、早くも海外に“脱出”していた電子部品メーカーの営業マンとして、
世界各国を飛び回った。
出張先で朝から晩まで得意先を回って商談し、
深夜発の帰りの飛行機の中で報告書をまとめ、
設計部に仕様を伝え、工場に発注数をつなぎ、
上司から販促拡売費を引き出し、
今月の売上見込みを関連部署に送信する。
一睡もしないまま、本社のある北京空港に翌朝帰り着くと、
その足で出社し、また夜まで働く。
徹夜続きで目が真っ赤に充血するため、
社内用語で『レッドアイ』と呼ばれる徹夜強行軍など日常茶飯事だった。
自分が働けば働くほど、会社の業績が上がり、
それが給料になって戻ってくる。
このサイクルが快感で、がむしゃらに働き続けた。
一方で、マネジメントには興味がなかった。
自分自身、分をわきまえているつもりで、
何度か昇格の話はあったが、自分はその器にない、と辞退した。
ひたすら一兵卒として、前線を走り回った。
自分よりも年若い上司が段々と増えてきたが、
長年の経験からくるノウハウを教えてやるつもりで付き合い、
相手の役職が上であろうと、平気で叱り飛ばした。
妻との間には、子供がなかったため、
一時は日本から北京に呼び寄せようかとも思ったが、
一向に改善しない北京市内の大気汚染問題など、劣悪な生活環境を考えると、
踏み切れないまま、時間だけが過ぎていった。
もちろん、会社の方針もあって、半年に一回は必ず帰国した。
「特別行政区管理法」が施行されてから、
「自宅」は中核都市内に移り、戸建てのマイホームから集合住宅には変わったものの、
かえって凝縮されたコミュニティが年々老いる妻の生活を助け、
単身赴任の寂しさを紛らわせるのに一役買っているように思えて、
管理法施行に感謝さえした。
55歳。
ある日、会社から早期退職を要請された。
いつの間にか、グローバル企業として名を連ね始めた会社は、
中身もグローバル標準になり、完全な成果主義に成り代わっていた。
別に、前時代的な終身雇用を期待していたわけではない。
冷静に考えれば、年齢にふさわしいだけのマネジメント力もなく、
歳を言い訳にするつもりはないが、年々思った以上に成果が上がらなくなった。
効率的なシステムや、スキームの構築なんかよりも、
握手をして、酒を飲み、人情に訴えかける対人折衝がモノを言う、と信じていた。
時には費用対効果を無視し、目を見て腹を割って話しあえば、
大抵のことはうまく回ると思っていた。
しかし、時代は変わった。
過去の経験が、活きにくくなった。
潮時だと思った。
会社の将来のために、後身に身を譲る。
表現はキレイだが、結局、新しい世界に馴染めなかった。
いや、馴染む努力をしなかった結果だった。
企業とは、常に変化する世界に自らを適合させ、利益を上げ続ける集団だ。
進化を止めれば、あとは腐るだけ。
自分は、壊死した細胞だ。
そんなものは早く切り取ったほうが良い。
分はわきまえているつもりだった。
だが、その夜は涙が止まらなかった。
長年貢献したはずの会社から切り離される悔しさと、
退職後の将来が見えない不安感。
とにかく、帰ろう。
長い会社生活で初めて有給休暇を取って帰宅した時、
妻は優しく笑ってくれた。
「今まで本当にお疲れ様でした」
自然と声を上げて泣いていた。
会社人生が走馬灯のように蘇る。
何もかもが新鮮だった新入社員時代に、
ボロボロになるまで着たリクルートスーツの感触。
仕事の回し方が分かり始め、
初めてプロジェクトが成功した時に、上司と乾杯した缶ビールの味。
他社に出し抜かれ、大型案件を逃した日の苦い雨の匂い。
一時帰宅から北京の本社に帰る自分を、家から送り出してくれた妻の寂しそうな笑顔。
会社を去っていく、幾人もの同期の足音。
色々な記憶が、感覚が、想いが、ないまぜになり、
言葉にならないまま、うめき声に変わる。
しかし、もしかしたら彼に声を上げさせていたのは、
本当はこんな気持だったのかもしれない。
“明日から俺は何をすればいい!”
「ガラス窓の修理、ですか?」
「そう。別に木下さんの業務としては、
書類の承認と、警察と宮本さんへの通達だけでいいんだけど、
木下さん、見たことないでしょ?」
課長の真田が、フレームレスのメガネの向こうから歩美を見つめる。
「勉強になるだろうから、宮本さんと一緒に行ってみたら?特殊案件だし」
真田は非常に若い。
比較的、年功序列が守られている公務員の中でも、
真田こそ“特殊”で、年齢は歩美とそう離れていないが、すでに役職に就いている。
しかし、業務に対する視点も、実績も飛び抜けたものがあり、
歩美自身、学ぶべきところが多い。
ただ、真田の“フランクな物言い”だけは、玉に瑕だ、と思っている。
「課長」という肩書に任せて偉そうにしているわけではない。
ただ単に、相手が誰であろうが構わず、敬語を使わないのだ。
たとえ相手が市長でも、である。
人当たりもいいし、温和な人柄だとは思うが、
“敬語回路”みたいなものが完全に切れてしまっている、としか思えない。
一度、市長への定期報告に同行した際は、内心ハラハラしどおしで、
市長に対して緊張するのではなく、自分の上司の言動に対して汗をかく、
という、もはや意味がわからない状況だった。
けれど、その発言には高度な論理性と正確な裏付けがあり、
何よりも持って生まれた人たらしの才能が、
事前の根回しや調整に遺憾なく発揮されているため、誰も文句を言わない。
もちろん、どこの世界にも陰口を言うものはいるが、真田を表立って批判するものはいない。
そんな“特殊”な彼が、なぜ「特別行政区管理課」などという、
言ってしまえば、“窓際寄り”の課の課長に収まっているのか、
は新浜市役所七不思議の一つだったりする。
「ちょっと待ってください、“特殊”って何がですか?」
真田がさらっと流そうとした単語に気が付き、歩美は聞き直した。
真田は嬉しそうな笑みを浮かべる。
そうだ、この人の疵は「敬語回路が切れている」ことだけじゃない。
「大切なことを、大切じゃなさそうに言うこと」も明らかな疵だ。
部下が聞き逃すかどうかテストしているのか、
部下が気づいて指摘すると、心底嬉しそうに笑う。
こんな仕打ちもパワハラというのだろうか。
ひとまず真田評は置いておいて、
真田が“特殊”と言ったのは、こんなわけがあるからだった。
先日、竜巻が新浜市を襲った。
歩美もニュースサイトで見たし、
Youtubeには市民が自らのデバイスで撮影した動画が、
大量に投稿されていたので、何の気なしに目にしていた。
中核都市内では竜巻による影響は少なかったが、
特別行政区内のいくつかの住居に被害をもたらした。
住居の管理者や所有者から、修理業者に依頼が行き、
業者から特別行政区管理課に区域内への立入り許可申請書と、
作業許可申請書が提出された。
本来の歩美の業務としては、申請書に虚偽や不備がないかを確認して承認するほか、
管轄の警察に通達、
同時に主任管理技官の宮本に、作業の立ち会いを指示することである。
通常は、それだけで終わる軽微な業務である。
しかし、真田が今回“特殊”だと言ったのは、
竜巻で被害を受けた一軒には、“人が住んでいる”からだ。
「うん、60代の男性が一人で住んでいるんだよ。
木下さん、管理区の情報、ちゃんと目を通してる?」
言われてみれば、そんな記述もあった気がする。
「すみません、失念していました」
「うん、過ちをすぐに認める点では、僕は木下さんを評価してるよ」
嬉しいのか、嬉しくないのかわからない評価を背中で聞きながら、
歩美は早速現場へと向かった。
今日は、初仕事をした「葦原駅」ではなく、3駅ほど新浜寄りの、
「四ツ街駅」に降り立つ。
相変わらず、宮本はガソリン車に寄りかかり、周囲の耳目を集めていた。
猫の甘えた鳴き声のようなエンジンの唸りに、
体を震わされながら20分ほど経つと、
辺りが急に静かになる。特別行政区内に入ったのだ。
道路沿いの民家の庭に目をやると、生存意欲に旺盛な植生が出迎えてくれた。
しかし、今日の車内はいつもより余計に静かだった。
というのも、宮本が一言も喋らないからである。
確かに饒舌な方ではないが、何かを考えこむかのように、
難しい顔をして、ひたすら運転に専念している。
「私の顔に何かついていますか?」
宮本が笑顔を浮かべ、こちらを横目で見ていた。
じっと見つめてしまっていたのだろう。
歩美はすぐに「いえ」といって、いつものように助手席側の車窓に目をやる。
しかし、ちらりと宮本の表情を盗み見ると、やはり、先ほどの難しい表情に戻っている。
宮本らしくない。
かといって、物思いに耽る年上の男性に、どのように話しかけたらいいのか、
歩美には良いアイディアがなく、
車窓の風景がまるで興味深いかのように、眺めつづけるしかない。
視界の隅で、各軒の竜巻被害状況をまとめていたアリカが、
“作業完了”のフラッグと同時に立ち上がり、
歩美の側まで“歩み寄ってきた”。
『ね?宮本さん、ちょっと不機嫌じゃない?』
さすがに宮本の隣で、本人の話題を音声対話できるわけもなく、
歩美は素早く指先を動かす。
アリカの胸元に、歩美が空中でタイプした文字列が浮かび上がる。
『不機嫌、ってのとはちょっと違うと思うけど。
念のため、ここ数日の宮本さんの業務報告を表示して』
『へぇ、歩美、わかってんじゃん。宮本さんのことは♪』
アリカが意地悪そうに微笑む。
彼女のパーソナリティには時々うんざりするが、
他ならぬ歩美自身がデザインした人格だ。
なんだかんだ言っても、自分にはこれぐらいのパーソナリティが、
最も合うことは経験上わかっている。
『いいから早くして』
『はい、はい♪』
目の前に、3通の業務報告がポップアップする。
宮本らしい卒のない、それでいて丁寧な言葉遣いで、
端的にその日の業務内容が表現されている。
『先に言っとくけど、その直近の3通と、
それより前の報告書で有意が認められるような差異はないからね』
アリカの言うとおり、ざっと目を通してみても、
何か変わったことが書かれているわけでもない。
『じゃぁ、何なんだろ』
『さぁ、ただ単に体調が悪いんじゃない?』
『そうなら良いんだけどね』
とはいえ、宮本自身に尋ねる気にはならなかった。
こういう時、人は「大丈夫?」と尋ねられれば「大丈夫」と答えるものだし、
「何かあった?」と聞かれれば「何もない」と返すのが常だからだ。
もし、宮本がアヴァターを使っていれば、
本人が設定した公開レベルに応じて、
何らかの情報をつかむこともできるのだけれど。
いずれにせよ、宮本が自分から何か言うまで待ったほうが良い。
そうこうしているうちに、目的地に着いたらしい。
宮本は路肩に車を止めた。
車から降りた宮本は、いつもの柔和な笑みを浮かべていた。
これがたぶん、宮本のビジネスモードなのだ。
当該の住宅はすぐに見つかった。
周辺一帯には、トヨタレンタリースのロゴが入ったAFCVや、
業務用トラックが各所に止まっていた。
状況を確認に来た所有者や、修理業者のものだろう。
警察も被害の調査に来ているらしく、パトカーの姿もあった。
同時期に建設・販売されたのか、
一様なデザインと間取りの戸建て住宅街の一角に、
とてもキレイな庭をした家があった。
葦原地区の佐々木家と同じように、丁寧に手入れがされている。
人が生活をする、というのは望むと望まないとに関わらず、
常に自然への抵抗を意味するのかもしれない。
秩序と繁雑さのせめぎあいこそが、「生活」の本質なのかも。
歩美は自分のワンルームを思い出す。
繁雑さが、やや優勢ではあるが、いや、“だいぶ優勢”だが、あながち間違いでもなさそうだ。
宮本が、迷わず鉄製の門扉を開け、庭に踏み入れる。
大きく割れたガラス窓を前に、
作業着に身を包んだ修理業者と思しき男性と、
世帯主らしいグレイの髪をした細身の初老の男性が、
何やら話し込んでいた。
ガラス窓の向こうにソファや低いガラステーブルが見えるから、
恐らくリビングルームの窓が、竜巻の被害を受けたのだろう。
「お話し中、失礼します」
宮本の声に、修理業者と男性が振り向く。
「あぁ、宮本さん、これはわざわざお運びいただきまして」
「いえ。それにしても災難でしたね」
初老の男性が、笑顔を浮かべる。
宮本と男性は顔見知りのようだ。
続けて、男性は歩美に目を留める。
「おや、そちらのお嬢さんは?」
「新しく赴任されてきた管理課の職員さんです」
「あ、はい。10月より管理課に本配属になり、
西地区を担当することになりました、木下歩美と申します」
慌てて、名刺を取り出そうとするが、名刺入れのはじに角が引っかかり、
なかなか取り出せない。
なんで、デジタル全盛時代に、自己紹介はこんなにもアナログなんだろ。
そんな様子を見て、男性が笑った。
「慌てなくて大丈夫ですよ。いや、むしろ慌てた様子を見せれば、
相手につけ込まれる。ビジネスの基本だ」
「あ、はい、すみません」
「すぐに謝るのもいけない。自分に非がなければ、謝る必要はない。
日本人特有の謝りグセを治さなければ、海外では闘えませんよ」
「はぁ」
一介の市役所の職員が、海外で闘う相手って誰?
そんな疑問が頭をよぎる中、歩美はなんとか名刺を取り出し、男性に渡す。
「丸田です。いつも、管理課には、いや、宮本さんにはお世話になっています」
そう言うと、丸田は丁寧におじぎをする。
言葉尻は少々厳しいが、悪い人ではないらしい。
激しい前線をくぐり抜けてきた「ビジネスマン」という感じだ。
丸田翔、63歳。
アリカの“まとめ”によれば、6年前に中核都市から「自宅」に戻り、生活をしている。
特別行政区内に住んでいる人間が皆無なわけではない。
いや、新浜市管轄の乙種指定地区だけでも、
数十世帯には特別事由による居住許可はおりているし、
甲種指定地区を含めれば、数百世帯にはなる。
しかし、甲種地区以外での居住は不便極まりないし、コストもかかる。
何しろ、特別行政区内はインフラが敷かれていない。
正確には、インフラ自体は敷かれていても、メンテナンスは放棄され、
経年劣化による不測の事態を避ける為、あらかじめ“殺して”ある。
つまり、居住者は、電気、ガス、水道、ネット回線、
その他文化的な生活を営むために最低限必要な手段を、
全て自前で用意する必要がある。
当然、モノだけ用意できれば事足りるわけではなく、
燃料を大量に備蓄する必要も出てくるから、
諸々の国家資格取得も求められる。
さらに、今回の竜巻のような自然災害をはじめ、
火災や、急病などの緊急事態が生じても、中心部から離れているため、
救急車両の到着は遅くなる。
以上の手間やリスクを考えた際、特別行政区に居住することは、
コストパフォーマンスに見合わないのだ。
事実、乙種地区に居住する世帯の大半は、いわゆる富裕層で、
それらの問題を金銭で合法的に解決できる人々だ。
そういった層には、週末や、長期休暇を文字通り、
“閑静な住宅街”にある自宅で過ごすのが流行りである。
だから、言葉は悪いが平凡な労働者階級の出身者が、
特別行政区に居住するのは、それなりの覚悟が必要になる。
「まぁ、寒い中で立ち話もなんだから、家にお上がりください」
丸田のありがたいお誘いに、歩美は早速頭を下げたが、
「いえ、他の方々の様子も拝見し、
警察の方や、業者さんとも顔合わせする必要があるので、また後ほど伺います」
宮本が丁寧に断る。
その模範解答のような姿に、歩美も職務を思い出して、内心反省する。
確かに課長の真田には、丸田の家を視察するように示唆されたが、
被害を受けたのは、丸田宅だけではない。
宮本の技官としての業務全般に同行するのは当然の流れだ。
そう得心していたから、宮本の次のセリフは予想外だった。
「木下さん、丸田さんの淹れるコーヒーは絶品ですから、
ぜひゆっくりと、ご馳走になったら良い」
宮本はいつもの柔和な笑みで丸田に一礼すると、
業者と共にあっという間に庭を後にした。
急な展開に、考えが追いつかない。
思えば、宮本に歩美が人見知りである話はしていない。
たぶん、言っても笑われるだけだろうが。
同性なら、相手が年下なら、まだなんとかなるが、
丸田は歩美が最も苦手とする「年上の男性」だった。
アリカと“目が合う”。
いつもの意地悪な笑みを浮かべて、面白そうに歩美を見つめている。
もう!
アリカを“ひと睨み”し、玄関に消える丸田の背中を追った。
お湯の沸騰する音が響く。
丸田が「失礼」といって席を立ち、コーヒーを淹れに行く。
すぐに香ばしい匂いが室内に立ち込める。
割れた窓を応急的にダンボールで塞いでいるため、完全に気密はできていないものの、
今日は風も少ないし、何よりも年代物の灯油ストーブが鎮座しているリビングは、
外よりも格段に暖かい。
つまり、宮本はお湯をわかすための水と熱、またストーブの灯油を、
自前で確保していることを意味している。
中核都市では、意識しなくても、
蛇口からは用途に応じて自動的に適量適温の水が出てくるし、
室内は常に快適な温度、湿度に調整、維持される。
そんな当たり前のことが、特別行政区では文字通り「特別」なのだと思うと、
同じ星に住んでいるのか、と不思議な感じがする。
宮本の言うとおり、丸田のコーヒーは絶品だった。
「こんな事を言うとよく笑われるんですが、コーヒー独特の酸味が苦手でね。
深煎りした豆しか飲まないんですよ」
歩美も同感だ。ミルクとの相性が良いコーヒーが一番好きだ。
あまり飲食にお金をかけない歩美だったが、
スターバックスのフレンチローストだけは、切らしたことがない。
アリカに情報収集をさせるまでもなく、
ひとまずコーヒーの話題で少し場が持った。
しかし、宮本が来る気配はない。
コーヒーを啜る音と、灯油ストーブの上に乗るやかんの沸騰する音だけが室内に響く。
なんだか今日は朝からやけに静かだ。
時折聞こえてくる工事の音以外、何の音もしない。
「この辺りは静かでしょう?」
歩美を気遣ってか、丸田が言う。
「今日はうるさいくらいだ。この地域に住んでいるのは、私くらいなものだからね」
“なぜ、お一人で特別行政区にお住まいになっているんですか?”と尋ねるべきだろうか。
でも、それなりの事情があるだろうことは、歩美にも容易に想像がつく。
丸田と顔見知りの宮本ならいざ知らず、
出会ったばかりの人間が聞いていいようなものではない気がする。
「なぜ、特別行政区なんかに一人で住んでいるんだろう、と疑問でしょうね」
見透かされたようで、はっと歩美がカップから顔を上げると、
丸田と目が合った。
意志の強そうな瞳。しかし、淋しげだ。
「えっと、いや、その、興味がないかと言われれば嘘になります」
「そうでしょうね」
当然だというように、丸田が頷く。
「でも...そのお話を聞く資格は私にはないと思います」
「ほぉ」
丸田が不思議そうな表情を浮かべた。
「丸田さんがこちらにお住まいになっている理由は、
私が単なる興味から聞いていいようなものではない気がするんです。
もちろん、職務上の情報収集だと丸田さんにも、自分自身にも言い訳して、
お話を伺うこともできますが、
私はそんなことはしたくありません。
その人の物語は、その人自身だから、
うまく言えませんが、もっと大切に伺うべきだと思います」
「なるほど...」
偉そうなことを言ってしまった。思ったことを流れるがまま口にしてしまう。
自分の悪い癖だ。
丸田はしきりと頷いていたが、ふと歩美に体ごと向き直ると言った。
「面白い方ですな」
笑顔だった。とりあえず気分は害していないようだ。
「よく言われます。不器用なだけだと思います」
「いやいや、そんなものは言い方一つです。私なら、『まっすぐ』だと表現する」
まっすぐ。
今まで言われたことはなかった。
もちろん、自覚したこともなかった。
「人の評価だとか、イメージだとかは、曖昧もいいところなんですよ。
もし、人からどう思われるかが心配になるようだったら、
他ならぬ自分自身が、他人に批判的だったり、
評価を押し付ける人間だからだ。
だから、きっと他人もそうなんだろう、としか思えない。
結局ね、人の想像力なんてものは、
思った以上に貧相で、バリエーションを欠くものなんだよ―あぁ、すまん」
丸田が急に恥じるように頭をかく。
「昔から説教くさいのが私の欠点でね」
「いえ、勉強になりました」
歩美は丁寧に頭を下げた。
お世辞ではない。
確かに丸田の言うとおりだ。
私達は他人の気持ちが決して分からないのに、
「人の気持ちを考えられるような大人になりなさい」と教育されるから、
結局、自分の価値観に当てはめて、他人の気持ちを“捏造”していく。
でも、人は、欺瞞を欺瞞だと分かった上で、
お互いがあえて欺かれることで、“うまくやっていく”。
大人になるとはそういうことで、
世界はそうやって回っているのに、なぜか私にはそれができない。
歩美は冷めたコーヒーを啜った。
業者は顔見知りばかりだったため、
宮本の各軒への見回りはすぐに済んだ。
何よりも、瓦が何枚か飛んだだけとか、雨樋が外れただけなど、
被害が軽微だったことが幸いした。
初めは心配そうな表情で「自宅」に訪れた所有者達も、
すぐに安心した様子で、あとは業者に任せ、
AFCVにそそくさと乗って帰っていった。
それでも宮本の表情を曇らせていたのは、
「河内」と名乗ったあの男のせいだった。
丸田宅に向かいながら思い起こす。
一月前からだろうか、宮本の行き先に何度となく現れ、
「田山事件」のことを尋ねてくる。
本人は“ジャーナリスト”と名乗っているが、それが本当であろうとなかろうと、
そう名乗る人間ほど信用ならないのは、経験上分かっている。
宮本は河内が現れる度に、「知りません」「業務中なので」と避けてきたが、
男は何かの確信を抱いているようで、一向に諦める気配はない。
頭が痛い。
田山事件。
その言葉を思い出す度に、瞼の裏にちらつく光と、鼓膜をうずかせる音。
吐き気!
吐き気!
吐き気!
これ以上、自分に何をしろと言うのだ。
何かをしたかったけれど、何もできなかったのだから。
誰かが言っていたことは真理だ。
過去と他人は変えられない。
ため息をつく。
「どうしました、ため息なんかついて。何かありましたか?」
誰もいないと思い込んでいたから、突然の声に心臓が跳ね上がった。
宮本が顔を上げると、とある住宅の門扉の前に、小太りの警察官の姿。
四ツ街派出所の巡査長、安西だった。
この辺りの一帯の警らも任務の一つで、宮本とはもちろん顔見知りだ。
安西が見回りに来ていることが頭になかったわけではないが、
よりによって悪いタイミングで出会ってしまった。
宮本はとっさに、いつもの柔和な笑みを浮かべる。
「何もなくて、ため息をつくわけがないですよね~?」
安西はそう言うと、厚ぼったいまぶたの奥に光る瞳から、探るような視線を寄せる。
「いえ、業務のことに気を取られておりまして」
「ほぉ、宮本さんが。もしかして、市の職員の方と、“また”うまく行っていませんか。
前任者も追い出してしまいましたもんねぇ。内藤さんだか、伊藤さんだか言う方」
「仁藤さん、ですね。あの方は立派なご栄転です。安西さんもお人が悪い」
「そうでしたっけね。私にはそうは見えなかったけれど。まぁ、そういうことなんでしょう」
安西はわけ知り顔で、何度も頷きながら鷹揚な笑みを浮かべる。
とにかく“入り”が良くなかった。
こういう時は、長く関わらない方がいい。
「業務の途中ですので」と言って、宮本は一礼して、安西の横を通り過ぎた。
早くこの場を離れたいが、あまり急いでいるように見えて、
不要な疑いを抱かれるわけにもいかない。
何しろ、安西は自らの興味を満足させるためだけに、
警察官になったような人間だ。
言葉の応酬で、駆け引きを行い、相手から多くの情報を吸い上げる。
事実、安西はその才に長けている。
宮本も、何度か余計なことを喋らされた苦い経験がある。
安西の手から逃れるには、会話をしないことが“たった一つの冴えたやり方”だった。
いつもより、ほんの少し背筋を伸ばし、膝を大きく曲げることで、わずかに歩幅を広げる。
違和感を抱かれない程度に。
一歩、二歩と歩みを進める。
丸田宅には遠回りになるが、次の十字路を右に曲がろう。
安西の視界から逃れることが先決だ。
そう思った時だった。
「あぁ、そうそう!宮本さんにはお伝えしなくてはと思いましてね」
聞こえなかったフリをするには、距離が近すぎた。
「何でしょう?」
宮本は笑みを浮かべてゆっくりと振り返った。
安西と目が合う。
網膜から何かを盗み取られているような感覚が襲うが、目線を外してはいけない。
視線だけが交錯したまま沈黙が続く。
はたから見れば違和感を覚えるほどの長い時間。
頬の筋肉がきしみ、笑顔がぎこちなくなりそうだ。
「あぁ、そうだ。私がお呼び止めしてしまったんですね」
“ぼぉっとしていた”とでも言うように苦笑いを浮かべて頭を掻く安西だったが、
その瞳がつまらなさそうな表情を浮かべるのを、宮本は見逃さなかった。
なんとか競り勝った。
安西の手から逃れる次善の策が、自分からは喋らないことだから。
「いやぁ、実はですね」
安西がおもむろに口を開いた。
「不審者の侵入があったようなんです」
四ツ街の特別行政区に設置された監視カメラに、
立入り許可証を所持しない不審者の姿が写り込んだ。
通称特別行政区管理法では、民間人の特別行政区への立ち入りは、
事前に各中核都市の認可を受けなければならない、と定めている。
また、行政区内では、許可証の常時携行が義務付けられており、
違反者は反則金の対象となる。
悪質な場合は、刑事事件に発展し、罰金刑、懲役刑の対象になる。
「おかしいなぁ。なんでこっちにも直接報告がなかったんだろうね」
歩美の報告を聞いて、課長の真田は首を傾げる。
国は特別行政区における私有財産を保障しつづけている。
しかし、人々が中核都市内へと移住してしまうと、
通勤・通学、犬の散歩、スーパーへの買い物、公園の利用、井戸端会議といった、
アナログな相互監視システムが働かなくなる。
そのため、窃盗・住居不法侵入などの犯罪が増加することは容易に想像できた。
もちろん、警察による警らは継続されるし、
そもそもめぼしい財産は移住時に移動されるのが常だったが、
利権をめぐる与野党の協議と調整の末、
デジタルな監視システムを相応の規模で配備することが決まった。
民間最大のセキュリティ会社セコムグループに白羽の矢が立ち、
警察庁から業務委託される形で、実験的に監視システムを築き上げることになった。
対象となったのは、北陸地方有数の中核都市「新潟市」が管轄する「柏崎西山地区」。
その場所が、かの大物政治家一族の出身地であったため、
一部メディアから政治とカネの問題が蒸し返され、
近年まれに見る政治劇に発展したが、それはまた別の話である。
そんな騒ぎの裏で、セコムグループは粛々と短期間で、安価な監視網を引いた。
もともと富裕層向けのセーフティケアタウン「イヴェンチャルホーム」を運営するセコムからすれば、
地域監視網など“お手の物”だったとも言える。
もちろん、導入されたシステムは一定の成果を挙げ、
西山地区における犯罪率は減少。
その実績により、セコムの監視システムが、
事実上の業界標準となり、全国へと波及していった。
その後も年を追うごとに、システムは進歩を遂げ、
市が発行する立ち入り許可証にGPS発信機と位置ビーコンが埋め込まれるまでになった。
これにより、より精度の高い監視が可能となり、
特別行政区における犯罪率は減少の一途をたどった。
もちろん、ハードウェアとソフトウェアの進歩は表裏一体だ。
監視システムは業務を委託されている民間セキュリティ会社と、
警察庁、そして各市の特別行政区管理課で一体運営されることになった。
セキュリティ会社が不審者を察知すると、
当該地区管轄の警察署および、管理課へと通知がなされ、対応を図る。
緊急性が高い場合や、行政対応では処理しきれないような悪質なものは、
警察に優先的に情報提供がなされる場合はあるものの、
通常は同時に報告が上がるように、スキームも整備された。
しかし、今回の「四ツ街の不審者」に関しては、
担当者の歩美はもちろん、課長の真田の元にも報告が上がっていない。
奇妙といえば、奇妙だ。
「まぁ、いいや。それで宮本さんはどうするって?」
「四ツ街派出所の安西さん?とかいう巡査長に警らの頻度を上げてもらうようにお願いしたようです。
あと、ご自身でも巡回を増やすみたいです」
「うん、了解。でもあそこは丸田さんも住んでるし、何か起きたら困るよねぇ」
そのとおりだ。
不審者が丸田の居住を知っているかどうかは分からないが、
危害を加えるような悪意のある人物だった場合、救急車両が間に合わない場合もある。
「新浜署に検問でもお願いしますか?」
「まさか。まだ何も起きていないんだから、警察も動いてはくれないよ」
「やっぱり、そうですよね」
「まぁ、僕に任せといて。なんか変な匂いがするし。
木下さんは普段通り業務をしつつも、どこかで気にしといてね」
真田はにっこりと笑った。
丸田は目を覚ました。
枕元のアナログ時計が指すのは2時半。まだ夜中である。
元々眠りは浅い方ではあるが、何もなければ目が覚めることはない。
何が原因だったのか。半覚醒の頭で考える。
音がした。
眠気が吹き飛ぶ。
かすかだが、何かをこする音。
まず息を殺して、身じろぎもせず音のありかを探る。
庭?
明かりをつけずにベッドからそっと体を起こす。
窓辺にそっと歩み寄ると、
カーテンを少しめくり、隙間を作る。
新月の夜。
墨を流したような真っ暗闇。
階下の庭を見下ろすと、光が軌跡を描く。
小さいころ一度だけ目にしたホタルのようだ。
もちろん、街灯はついていないし、外灯もつけていない。
暗闇の中で光は動き回るが、光源自体が小さいので、
何をしているのか、何人いるのかも判断がつかない。
寝室を出て、いくつもの常夜灯がほのかに光る廊下を抜け、書斎に移動する。
LEDライトとゴルフクラブを手にする。
外の不審者に気づかれないよう、ライト部分を手で包み込み、
電源を入れる。赤く透ける手の甲。
バッテリーは問題なさそうだ。
すぐに電源を落とすと、足音をさせないように、寝室のある2階から1階へと降りる。
不審者はまだ屋内には入っていないようだ。
修理のためカーテンを外したままのリビングの窓からは、
庭で怪しく踊る灯りが見える。
光は一つ。一人か?
一旦玄関に向かうが、待ち伏せや、鉢合わせの危険に思い至る。
不審者の目的が何であれ、最悪の想定をすべきだ。
玄関の戸締まりだけを確認すると、再びリビングに戻る。
こういう危険を予測していなかったわけではない。
しかし、現実に起こるとも思っていなかった。
ゴルフクラブを握る手に汗がにじむ。
どうする?
家の中で、じっと潜みつつ、不審者が通りすぎるのを待つか?
しかし、もし、不審者が物盗りだけでなく、
自分に危害を加えようとしていたら?
ガレージにはFCVが置いてあるから、
在宅していることを不審者も承知済みかもしれない。
誰かに助けを求める?
誰に?
クールパッド製のスマホは、必要もなくなり、だいぶ前に解約した。
辛うじてリビングの古いテレビのみが、
広域WiMAX回線を使って、メールや、ウェブブラウジングができるが、
リビングはあいにく、庭から丸見えだ。
非常に割高だが、セコムの特別行政区向けホームセキュリティに加入していなかったことが、
今更ながら悔やまれる。
リビングの窓から庭にそっと目をやると、灯りは消えていた。
だが、かちゃかちゃと金属がこすれ合うような音がする。
まだ、庭にいる。
何をしているのか。
宅内の様子を伺っているのか?
キッチンにある勝手口に向かう。
扉に耳をあて、外の様子を伺う。
たっぷり1分ほど耳を澄ましたが、こちらには、誰も来ていないようだ。
めったに開くことのない勝手口の扉を静かに開けて、外へ出る。
庭からは建屋を挟んで、ちょうど真裏にあたる。
履きなれないゴム製サンダル。
そのかかと部分が歩行動作に遅れて跳ね上がり、
素足のかかとにパタリと当たる。
ドキリとして、歩みを止める。
庭の気配を探るが、不審者が反応した様子はない。
歩き方に注意し、一歩、一歩、気の遠くなるような時間を掛けて家の周りを回る。
手元のLEDライトが何とも頼りない。
庭が見える家の角。
ボイラーを注意深く避けると、ライトを消した。
家の壁に背中を付けて、庭を盗み見る。
相変わらず光は消えたまま。
ただ、そこに誰かがいるのはわかる。
何回か深呼吸を繰り返すと、丸田は飛び出した。
LEDライトをつける。
暗闇に浮かび上がる人の影。
丸田の放つ突然の閃光に、不審者が顔を手で覆う。
その時、人影のすぐ向こう側に白い鉄の棒が見えた。
凶器!
丸田の体を悪寒が駆け抜けるが、すぐに気を取り直し、
威圧するように叫んだ。
「何をやってるんだ!貴様!」
人影が顔を片手で覆いながら、背後にある白い鉄の棒に手を伸ばした。
丸田は迷わず一歩踏み出すと、クラブを振り上げた。
つづく...




