第三話「回遊魚は故郷の夢を見るか」その7
第三話「回遊魚は故郷の夢を見るか」その7
甲種地区の農業をめぐる問題は、決して単純ではない。
良い側面だけを取り上げれば、行政から特別に居住を保証され、
社会的なサービスも充分に享受でき、農作物も高値で安定的に買い取ってもらえるなど、
農家にとっては一見、良いこと尽くめだ。
一方で、その「優遇策」自体が、逆説的に歪みを生み出し、住民たちを束縛している。
もちろん、甲種特例は当初、生き残りを模索する一次産業従事者たちから、
両手を上げて歓迎された。
それが、自分たちが考えていたものとは違うことに気がついたのは、
地域・品種の選定が始まった時だった。
同一地域でも、品種によって農家は引き裂かれ、
同一品種でも、たった数メートルの差で明暗がわかれた。
「守るものを選別する」ということは、
「選ばれなければ捨てられる」ということなのだと、
関係者が身を持って知った時には、
すでに事態は後戻りのできないところまで来ていた。
当然、農地を放棄せざるを得なくなった住民たちは、
多くの涙を流すこととなった。
多額の補助金を受け取ることはできたが、
自らの、あるいは「家」のアイデンティティそのものである土地を捨て、
都市の中心部で、全く新たな生活を始めるということは、
過去の自分達を否定することにつながり、
中核都市での生活に適応できない元農家が、一時期都市にあふれた。
一方で、「優遇組」も多大な負担を抱えることになった。
甲種特例の見返りに、優遇組は家業を継続しなくてはならない。
農耕文化の保存と進展に貢献しなくてはならない。
甲種特例が施行されてから30年。
全国的に甲種指定地区の後継者問題が散見され始める頃、
人々はようやく理解した。
甲種特例は「種の多様性」を保全する代わりに、
「生の多様性」を奪うものだったということを。
常澄地区も同様だ。
柳と同世代の子供を持つ家は30世帯ほどに及ぶが、
ほとんどの子どもたちは、家業を継ぐ。
いや、結局、継がざるを得ない。
しかし、その将来には希望が見えない。
常澄地区は、水戸市の要請によって、
年に何度も農業体験ツアーや、小中高生の社会科見学、
学生のボランティアなどを受け入れる。
参加する側は飽くまでもレクリエーションであって、遊びにすぎない。
いくら指導をしようとも、受け入れ後は、農地はどうしようもないほど荒らされる。
農家は荒らされた土地をやっとの思いで整えるが、
また、翌週には別の受け入れが待っている。
それら「付帯作業」や「撹乱」によって、時に生産量は低下し、
品質もばらつくが、水戸市からは毎年同じ額の収入が見込める。
つまり、生産量が下がれば、単価が引き上げられ、
生産量が上がれば、単価が引き下げられることで、収入は必ず一定額保証される。
そして、その収入はAFCVを4台維持しつつ、
5人家族が年に2度海外旅行に行っても充分な資産が余る額だ。
だから、どんなに頑張ろうが、どんなに手を抜こうが、何も変わらないのだ。
のれんに腕を押し続ける日々が、明日も明後日も明々後日も、永遠につづく。
また、買い取られた農作物は、ごく一部が国内の富裕層に消費され、
大半が中国・台湾の富裕層に重宝されるために海を渡る。
農家には、自分たちの農作物を食べて喜んでもらえる、
という最大にして当たり前の「実感」さえ許されない。
「農業のようなもの」は保全されるが、「農の営み」は保全されない。
頭のいい人間が何人も集まって作られたはずの特例は、
何を守るためのものだったのか。
農家としての矜持も持てず、苦労も喜びもない。
柳から見れば、それは奴隷そのものだった。
さらに、近年になって、甲種特例に対するデモ運動が、
常澄地区内部でも開始された。
水戸市の中心部から市民団体が定期的に訪れ、
プラカードや、メガホンを手に声を合わせながら、農道を練り歩く。
農地で作業をしている人間を見つけると、
その前でずっとシュプレヒコールを叫び続ける。
大きなストレスになるから、水戸市役所からも役人が派遣されて、
対処しているが、奏功しているとは思えない。
そんな人生にどんな喜びがあるというのだ。
だが、甲種特例の中、そんな人生を継続せざるを得ない。
だから、柳は、両親の本音が聞きたかった。
たとえ、砂を噛むような日々であったとしても、
両親が「継いで欲しい」と言ってくれれば、
その想いに答えること自体が、常澄で生きていく目的になる。
ただ、自分が「S判定」を取ってしまい、
つかの間、大学進学に夢を見てしまい、
その姿を両親に見せてしまったばっかりに、
両親からは決してその言葉を引き出せなくなった。
「さっちゃんはさ、どうしたいの?」
みゆきの言葉に、柳の意識は高台に引き戻される。
「どうって...」
「私は、さっちゃんがどうしたいのか、全然わかんないもん」
「怒ってんの?」
「怒ってないよ。でも、さっちゃんはズルいと思う」
「ズルい?」
「ごめんね、言わせてもらうね。
さっちゃんは、自分で決めるのが怖いの。
だから、言い訳をいつも探してる。
そして、悲劇のヒーローを気取るんだ」
「いきなり、きついな」
図星だからだ。
「でも、それはさっちゃんが臆病だからじゃなくて、
自分勝手だからでもなくて、
さっちゃん自身が、誰かを傷つけちゃうんじゃないかって、
恐れてるから。
とっても優しいんだもん、さっちゃんは。
でも、いつも、そのあと、傷ついているのはさっちゃんだから―」
「え?! なんで泣く?」
みゆきの頬には幾筋ものしずくが流れ落ちる。
「わたしはさっちゃんが、好きだから、もう我慢なんかしてほしくないよ!
さっちゃんのお父さんもお母さんもそう思ってる!
さっちゃんが我慢する度に、お父さんもお母さんも苦しいんだよ!
少しくらい傷ついたって良いじゃない!
傷くらい治るもん!
家族だもん!
だから、さっちゃんは、自分のしたいことしなきゃダメなの!」
「ちょ、ちょっと落ち着―」
「さっちゃんは、どうしたいの!」
みゆきの真摯な瞳が、目の前に迫る。
そうか。
一番囚われていたのは、俺自身だったんだ。
心のどこかで、常澄でしか生きられない住民たちをバカにして、
それでいて、勝手に自分の限界も決めて、
どこにも道などないと思い込んで、一人で傷ついて、
何も始まっていないのに、最初から諦めて。
常澄で生きていくことを決めたみゆきのほうが、
よっぽど自分よりも自由だ。
俺はどうしたい?
どうやって生きていきたい?
いつだって、「問い」は単純だったんだ。
「お、おれは―」
声が震える。
「...大学受験したい」
なんとか、一言をひねり出した。
でも、そこからは、堰を切ったように、想いが溢れてきた。
「大学行って、もっと広い世界を見たい!
いろんなこと勉強したい!
いろんな人と会って、いろんな話をしたい!
親父やお袋には悪いけど、俺はもっといろんなことを知りたい!」
頬が熱かった。
言葉に出してみると、それらの願いがたまらなく愛おしかった。
実現してみたくなってしまった。
「そして...」
みゆきの泣き笑い顔を見つめながら、一番の願いを口にする。
「そして、いつか必ず、ここに帰ってくる」
夕暮れが近づき、カラスが山に帰っていく。
その鳴き声を聞きながら、柳とみゆきは呆けたように並んで座っていた。
高台に吹く涼やかな風は、二人の涙をとうに拭っていた。
実は、柳は先程から切り出すタイミングを探っている。
みゆきに確認しなきゃいけないことがある。
「あのさ」
唐突すぎるが、仕方ない。
変化の少ない田園の夕暮れは、きっかけを与えてくれないから。
「ん?」
「さっきさ、俺のこと、その、『好き』って言ったでしょ?」
「うん」
「それってさ―」
「あ、違うよ♪」
みゆきはニッコリと微笑む。
「わたしが好きなのは段田センパイだから♪
さっちゃんのことは、幼なじみとして、大好き」
「なんだよー、誤解させんな」
また玉砕。
幼い頃から、何度となくみゆきに告白したが、
恋多き乙女を、柳は射止めたことがない。
「んふふ、でも、さっちゃんのことだから、
いつまでも、ずっとわたしのこと、好きだと思うよ。
だから、時にはわたしに会いに、帰ってきていいからね♪」
「なんだよ、それ」
結局、みゆきにはかなわない。
でも、みゆきのおかげで、目標ができた。
東大へ行こう。
たくさん勉強して、公務員になろう。
そして、自らの力で、常澄地区を、
みゆきや両親が暮らしやすい場所に変えてみせる。
つづく...