第三話「回遊魚は故郷の夢を見るか」その6
第三話「回遊魚は故郷の夢を見るか」その6
「うるさい! もうその話はやめてくれ!」
何度目だろう。
柳悟は両親に向かって、いつものように叫ぶと、
家を飛び出した。
目の前に広がる田園風景が恨めしい。
こんなものすべて燃えてしまえばいい。
そういきり立つものの、もともと本心でもなかったから、
行き場のない怒りを大声に変えて、柳は走りだした。
どこへ向かうのでもない。
とはいえ、行き着くところは、いつも同じ、裏山の高台だ。
高台にたどり着く頃には、山道を走ったせいで息も切れ、
そのせいで酸素が脳に目一杯まわったからか、多少、頭もクリアになってくる。
バカみたいだな。
そう思いながら、高台に座り込み、眼下を眺める。
田園風景はいつも美しかった。
稲の刈入れも近づき、この時期の田んぼは金色の海になる。
コメが憎いわけじゃない。
実家の稲作を継ぎたくないわけでもない。
ただ、自分の明日について、もっと自由に考えたかった。
自分はまだ何者でもないはずなのに、自分の先行きが見えてしまっている息苦しさ。
本当は一本道しかないのに、まるで未来は選択肢の束であるかのように語られる欺瞞。
「自ら選択する」ということと、「選択させられる」ということは、
たとえ結果が同じでも、中身は大きく違うはずだ。
父も母も「悟の好きにしたらいい。農業なんか継がなくても良い」と言ってくれるが、
両親の想いに気づかないほど、柳は鈍感ではなかった。
だから、両親の心遣いは、かえって強力な束縛にしかならなかった。
自分は恵まれているのだと思う。
柳家は曽祖父の時代から、
こしひかりをベースにしたブランド米「ほたるのひかり」を栽培していた。
甲種特例の品種選定の際、どういう力学のゆえか、「ほたるのひかり」栽培農家が選出され、
柳家は「優遇組」になった。
その陰で、多くの農家が苦汁をなめ、多額の補助金と引き換えに、
水戸市の中心部へと引っ越していったのは言うまでもない。
柳の通う高校にも、農地を放棄せざるを得なかった家の子弟がいる。
柳をはじめとする「優遇組」はそういった連中から明らかに敬遠され、
一部からは明確な敵意さえ抱かれている。
「俺が何をした」とは思うが、連中の気持ちもわからないでもない。
ただ、お門違いだとは思う。
そもそも甲種特例の「選定」は、親の世代の話であって、
柳たちにはどうしようもないことだ。
だから、柳からも連中に歩み寄るつもりはないし、
高校生ながら「どうやっても埋まらない溝って、本当にあるんだな」と感じていた。
「優遇組」の子どもたちは、そういった軋轢を幼いころから体験するからか、
自然と「優遇組」だけで群れるようになり、行動を共にする。
だが、柳はそれ自体も、慣れ合いのように思えて距離を置いていた。
「さっちゃん」
背後から声がする。
「みゆき、その呼び名やめろって」
幼なじみで隣家に住む、石田みゆきだった。
「何しにきたんだよ」
「だって、あんなに大声で怒鳴れば、うちにいても聞こえるもん」
みゆきは当然のように、柳の横に座る。
「お父さんと、お母さんにちゃんと謝るんだよ」
「そんなこと、みゆきに言われなくてもわかってるよ」
「うん、だよね。さっちゃんは本当はいい子だってわたしは知ってるよ」
「なんだよ、それ」
いい意味で気が抜ける。
「幼なじみ」というのは、なんだか不思議な感じだ。
家族のように心も体も近いのに、家族とは違って苛立たしさを感じない。
特にみゆきが女性だからか、そして、柳にとって初恋の相手だからか、
みゆきと一緒にいると、心の奥がフワフワして、それが心地よかった。
みゆきの家も、柳と同じく「優遇組」だ。
もちろん、「ほたるのひかり」農家である。
「また、進路のことでケンカしちゃったの?」
柳もみゆきも高校2年生である。
いよいよ進路選択も本格化し、クラスではその話題で持ちきりだ。
「してない」
「ん? ケンカしてたんじゃないの?」
「してないよ。だって、親父もお袋も、俺に反対しないし。
ケンカになんないよ」
「じゃぁ、なんであんなに怒ってたの?」
「だって...」
本当のことを言ってくれないから。
自分たちの想いを、決して語ってくれないから。
だから、柳も自分の想いにフタをするしかなくて、
だけど、いや、だからこそ体内で乱反射するベクトルは、
反射の度にエネルギーを蓄えて、時折、柳を制御不能にする。
「みゆきは?」
「ん?」
「どーすんの、進路」
「わたしは高校卒業したら、実家継ぐつもり。
さっちゃんみたいに頭良くないし、
実家継ぐなら、キャリア校に行ってもムダだもん。
さっちゃん、東大いけるんでしょ?」
「あんなのたまたま試験の結果が良かっただけだよ。
それに『受験できるだろう』ってだけで、合格なんて、たぶんむり」
「さっちゃんならできるよ。さっちゃんは昔から頭いいもん」
柳は校長から、東京大学の受験を勧められている。
文科省が断行した大学改革以降、東京大学をはじめとする「研究型大学」は、
わずか50の大学と組織に限定された。
そのいわゆる「研究校」に進学できるのは一部のエリートで、
多くの高校生はキャリア形成型大学「キャリア校」へ進学するか、
企業や機関に就職する。
生徒が自分自身にどのような素質があるのかを見極めることができるように、
高校には年に2度の「進路適性検査」が課せられている。
実質は「ふるい分け」だ。
柳とみゆきは、高校1年、2年と今まで計3回の検査を受けたが、
柳は毎回「S判定」を受けていた。
因みにSは「特別:Special」のSではなく、「研究者:Scholar」のSである。
つまり、研究校向き、ということだ。
いずれにせよ「S判定」は、進学校ならいざしらず、
柳の通うような地方の中堅以下の高校であれば、一校に一人出るか出ないかだ。
柳は初めてS判定を受けた日、校長室に呼び出され、
校長から直々に、研究校への受験を勧められた。
そして、今後も勉学に励み、高校3年時の前期検査でもS判定を出せば、
さらに、その時の成績が良ければ、
正式に文科省から東大受験の許可が下りることになっていることを伝えられた。
嬉しくないといえば嘘になる。
今まで、漠然と家業を継ぐのだろうと思っていた進路が、一度に開けた。
背中に羽が生えた気がした。
もしかしたら、あの鬱屈した場所から脱出できるかもしれない。
その日の夜、「S判定」のことを両親に話した。
だが、その時に柳は、両親の気持ちに気づいてしまった。
一瞬、二人は言葉をなくし、目を泳がせたあと、手を叩いて喜んでくれた。
その態度に、両親の本音が透けていた。
心が急速に冷えていった。
羽が生えたと思っていたのは錯覚で、実は自分の足には鎖が絡みついていた。
両親が必死になって、自分たちの想いを飲み込もうとする度に、
柳の足に絡みついた鎖は重さを増していく。
そうか、元々、自分に自由などなかったんだ。
柳は理解した。
だから、その日以降、進路の話はしないことにした。
しかし、両親は事あるごとに「悟の好きにしなさい」と蒸し返してくる。
もう諦めたのに。
諦めようとしているのに。
両親の気持ちも痛いほどわかる。
「優遇組」なんて言われているが、甲種地区で農業を続けていくのは苦労も多い。
自分たちの経験してきた苦労を悟にさせたくない、という気持ちと、
自分たちのアイデンティティそのものである家業を継いで欲しい、
という想いの間で揺れているのだ。
つづく...