第三話「回遊魚は故郷の夢を見るか」その5
第三話「回遊魚は故郷の夢を見るか」その5
「このように、インフラはすべて“生かして”あります」
柳が農家の玄関口近く、屋外に設置された蛇口をひねると、
水が勢い良くほとばしり出た。
水戸市特別行政区、常澄地区。
研修2日目。
午前中は、市役所の会議室において、甲種指定地区全体の概要についての講義を受け、
午後はフィールドトリップで、実際に常澄地区に訪れた。
水戸市から車で30分ほどの場所である。
講義、フィールドトリップ共に柳が担当してくれているのだが、
歩美はまともに柳の顔を見ることができなかった。
柳自身は昨夜のメッセージなど気にもかけていないのか、
昨日、3人を出迎えてくれた時のように落ち着いている。
やっぱり、からかわれているのだろうか。
それとも、元々柳は女性に対してあのような接し方をしているのか。
いろんな考えが頭のなかをループして、柳の言葉が入ってこない。
アリカにまとめを指示して、ちょっと冷静になって整理してみようと思うが、
そこになぜか宮本の笑顔が浮かぶから、余計に混乱する。
「木下さん、いかがですか?」
「え?」
「なに、歩美、聞いてなかったの?」
「あ、ごめん、ちょっと...」
「あゆみん、二日酔い?
いっぱい水分取ると良いよ~♪」
菜々もめぐみも、さすがに研修中はふざけることなく、
寿司屋での話題も持ち出す気はないようだ。
「あぁ、おつかれでしたら、無理なさらないでください。
車に戻ってらっしゃいますか?」
柳の心遣いは嬉しいが、その好意に甘えるのがなぜか気恥ずかしく、
「いいえ、大丈夫です。失礼しました」
と歩美は背筋を伸ばす。
「わかりました。でも、先は長いですから無理は禁物ですよ。
さて、話を戻しますが、こういったインフラを維持するため、当然税金が投入されています」
市役所が旧JAを吸収して、財源ルートを確保するとともに、
国から交付される甲種指定地区特別予算の数パーセントを投資運用することで、
予算確保の安定化と、適切で時宜にかなった設備投資を可能にしていることを、
柳が説明している時だった。
「『優遇組』政策反対ー!」「はんたーい!」
「国は農地を返せー!」「かえせー!」
「差別をやめろー!」「やめろー!」
多人数の掛け声が響いてきた。
声の方向を見ると、スピーカーのついた街宣車を先頭に、数十人がメガホンや、
プラカードを持って練り歩いてくるのが目に入った。
柳が「参ったな」と小声を漏らし、歩美たちに目を向ける。
「すみません、ちょっと車に戻っていただいてもよろしいですか?」
歩美たちに異論はなく、「水戸市役所」とプリントされたAFCVに戻った。
窓から様子を見守る。
柳が街宣車に乗っているリーダーらしき男性のもとに向かって、手を振って、声をかける。
リーダーらしき男性がその声に気づいたようで、集団に何か叫ぶと、
集団はその場に止まり、一旦シュプレヒコールも止んだ。
柳がリーダーの男性と話をしている。
緊張感が漂う中、一応交渉はまとまりそうで、
集団のリーダーは柳の話にしきりにうなずいている。
その様子に、歩美がちょっとホッとした時、急に大声が響き渡った。
「出て行けー!」
窓越しにも聞こえるその大声と同時に、
野球ボール大のものが集団の一人に向かって飛んできた。
ボールがあたった男性が倒れこむ。
周囲のメンバーが、口々に叫びつつ、一方向を指差す。
そこに立っていたのは、ジャージーに身を包んだ高校生くらいの男児だった。
その子は、また叫ぶと、大きく振りかぶり、集団に向かってものを投げた。
集団は色めき立って、その男児のもとに向かおうとする。
しかし、その前に、柳が走ってきて立ちはだかった。
男児はその姿にハッとして、ものを投げるのをやめる。
集団は男児の元に歩を進めるも、柳が何かを話し、説得している。
その時、先ほどの集団のリーダーらしき男性が、柳のもとに来て、
一言か二言、柳と言葉をかわすと、集団に向かって話し始める。
集団は躊躇していたようだが、リーダーの説得に応じたのか、
しぶしぶという形で街宣車の元に戻り始める。
柳はしきりに頭を深く下げ、集団に対して謝罪の意を表していた。
集団はその後、再びシュプレヒコールを叫びながら、歩き去っていった。
柳は先ほどの男児に対して話をしていたが、
突然、その男児は走り去ってしまった。
柳は男児の行方をしばらく眺めていたが、何かを打ち消すように少し首をふると、
AFCVの元へと戻ってきた。
「失礼しました。再開しましょう」
そう言って、柳は有無をいわさず、歩美たちを田園が見える場所に誘った。
だが、その態度が明らかにぎこちない。
笑顔は絶やさないものの、内心逡巡しているように見える。
歩美たち3人も顔を見合わせるが、タイミングを逸してしまい、
先ほどのことを聞くべきか、どのように切り出すべきか、
いいアイディアを誰も持ち合わせていなかった。
柳はその後も卒なく、淡々と、常澄地区で栽培されている独自品種の歴史や、
農法の独自性、生産量の推移、また、その消費フローなどを説明するが、
どこか心ここにあらずの様子だった。
歩美は決めた。
少し震える息を飲み込むと言った。
「ごめんなさい、柳さん。先ほどのこと、説明していただけますか?
私達が甲種指定地区について学ぶ上で、大切なことのような気がするんです」
柳は一瞬虚をつかれたような表情をしたが、
2、3度頷くと「少し長くなるので車に戻りましょう」と言った。
柳は車内の座席を対面式に切り替えると、アヴァターをローカル共有設定にして、
時折アヴァターの『ウカノミタマ』に情報をフォローさせながら、説明しはじめた。
先ほどの集団は「水戸市の農地政策を考える会」、
通称「水農会」という市民団体である。
設立は10年ほど前で、
管理法によって農地に居住することを認可されなかった住民に対する「決定の撤回」と、
「居住の保証」を行政に求めることを活動内容としている。
構成メンバーは、甲種特例において、“優遇されなかった”側の住民たちと、その支援者だ。
定期的に水戸市役所前でデモ行進を行うほか、
他地域の運動団体と共に、半年に一度、国会議事堂前でもデモ活動を行う。
さらに、近年になって「優遇組」の居住地域でのデモ活動も開始した。
もちろん、団体自体は穏健で、自発的に大きなトラブルを起こすような集団ではない。
しかし、「優遇組」の居住地域でのデモ行進は、
住民に大きなストレスを与えることも確かだ。
そのため水戸市役所としては、甲種指定地区内でのデモ運動を行わないよう交渉しているが、
先ほど歩美たちが目にしたように、実際にはデモ行進は継続されている。
そもそも、デモ活動自体は国民の権利であるため、市役所といえども規制することはできない。
「そして、あの集団にボールを投げつけたのは、恥ずかしながら僕の弟です」
柳誠。
柳の歳の離れた弟で、現在高校3年生である。
先ほどのような、水農会を相手とした小競り合いを、しょっちゅう起こしているという。
柳が動ける際は、できるだけ仲裁に入り、大事にならないようにしているが、
弟の行動もだんだんとエスカレートするようになり、先行きが危惧される。
「さっきも話を聞こうとしたんですが、『お前には関係ない!』と怒鳴られてしまいました」
柳が苦笑いする。
そうか。
唐突に歩美は理解した。
柳の笑顔は、宮本の笑顔にそっくりなのだ。
笑っているようで、笑っていない。
いつも口の中に苦味を覚えながら、
それでも笑うことが義務であるように、口の端を引き上げてみる。
二人の笑顔は「他人のための笑顔」だ。
胸が苦しくなる。
父の笑顔が浮かぶ。
そう。
そして、二人の笑顔は父の笑顔だった。
つづく...