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深海の街  作者: 記章
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第一話「思い出処分」(前編)

2012年頃から執筆している近未来作品の大幅加筆修正版です。

ようやく2話目の目処が立ったため、連載を再開いたします。

第一話 『思い出処分』前編



「この世界はね、とても丸いんだよ」


父はよくそう言って笑った。

でも、歩美 (あゆみ)にはその意味はわからなかった。

平日は大学の研究室に閉じこもり、休日も書斎に閉じこもってばかりの父に、

かまってもらえない寂しさから「ケンキューなんて大っ嫌い!」なんて憎まれ口を叩いたのに、

父は優しく笑っていた。


たぶん、不器用な人だったのだと思う。

夢中になると、周りが見えなくなって、でも、馬鹿だから、真面目だから、

無理に周りを見渡そうとして、足元を踏み外す。

そんな人だった。

あとほんの少しだけ器用だったら、いいえ、あとほんの少しだけずる賢かったら、

適当に周りをあしらいつつ、いろんな事にわかったふりをして、

楽に歩いていけただろうに。

父は幸せだったのだろうか。

父との思い出は決して多くはないはずなのに、最近、父の笑顔をよく思い出す。



ダメだ、ダメだ。

今日は初めての仕事なのに。


「まもなく~、葦原~、葦原~、東西線終着駅と~、なります」


敢えて聞き取りづらくしているようにしか思えない車内アナウンス。

ふと車窓に目をやると、電車はスピードを落として、音もなく駅舎に滑りこむところだった。

視界の右下隅に、現在時刻と駅名が表示される。

シャオミ(小米)製のコンタクトレンズ型スマートディスプレイが、

現実の景色に重ねて、歩美に必要だと思われる(レコメンド)情報を次々に視界に表示しはじめる。

駅周辺地図と、最近流行りの「禅カフェ」が星印、口コミと共にポップアップする。

視線をずらして、表示をキャンセル。

視界の上方を0.5秒ほど見つめ、昨日設定したままにしていたレジャーモードから、ビジネスモードへ切り替える。

すぐに右手前方がじわりとにじみ、数瞬後には、

小ぎれいなパンツスーツを着たショートカットの女性が現れる。

ビジネスパートナー(アヴァター)のアリカだ。


「やっぱり早すぎない?」

「いいの」


アリカのフランクな挨拶を受け流しつつ、改札へと向かう。

とはいえ、アリカの指摘は間違いじゃない。

時刻を確認すると、待ち合わせの一時間前。

歩美の癖だ。

友達も、上司も皆が認めてはくれないが、歩美は極端な人見知りで、臆病な性格だ。

初めて会う人、初めて行く場所は、それを思うだけで気持ちが萎縮してしまう。

でもそんなことを言っていたら、仕事にはならないから、

なるべく“アウェイ”を“ホーム”化するために、些細な努力をする。

初めて会う人とは、話が合うように、出身地や、趣味などを事前に情報収集するのはもちろん、

自身の話題の引き出しを増やすために、時間があれば“まとめ系アプリ”を眺め、

様々な情報に触れるのを忘れない。

そういう意味で、アリカの“貸与”は、歩美にとっては、まさに渡りに船だ。


また、行き先が初めての場所の場合は、Googleが提供する立体投射型街並み再現機能「ストリートビジョン」を呼び出して、ひと通り“探索”をする。

そのためだけに、月額5,000円強もするペタビット回線を契約していると言ってもいい。

しかし、今回はさらに難題だった。

初めて行く場所で、初対面の人と待ち合わせをするのだ。

そういった応用問題に直面した時には、アリカとの“想定問答”を、

自分でも呆れるぐらい繰り返した上で、リアルの街を探索するしかない。

そのために必要な時間は、きっかり一時間。


急く気持ちを抑えつつ、改札ゲートに向かう歩美だったが、その足が止まる。


「初めて見た」


目の前には、線路。

いや、線路の名残。

かつて線路だった空間に、雑草が生い茂り、鉄の道はその姿を覆い隠されている。

けれど、周辺とは生育環境が異なるため、まだ線路の跡だったことが辛うじてわかる。

JR東西線の放棄路線。

新浜市が「中核都市」に定められた時、様々な検討の末、ここ葦原駅が「境界」とされた、という証拠。

かつては、この先にも人々の営みがあったのだ。

かつて歌われたように、線路は続いていたのだ、どこまでも。

けれど、多くの人とモノを運んだ鉄の道は、今はひそかに、静かに、草葉の陰で眠っている。

中核都市のさらに中心部で生まれ育った歩美は、放棄路線を映像アーカイブでしか見たことがなかった。

別に放棄路線自体は、珍しいものでもない。

30分ほど電車に揺られれば、すぐ目にできる。

だが、今回、歩美は初めて目にした。

そのことに歩美自身、恥ずかしい想いを抱くのと同時に、少し驚いていた。

「ストリートビジョン」を探索して、体験していた気になっていた。

本や、ニュースを読んで、理解した気になっていた。

もしかしたら、本当は興味がなかったのかもしれない。


「放棄路線の詳細見る?」


アリカがページをめくるジェスチャーをする。


あとで読む(Pocketに保存)。“仕事”カテゴリにまとめをクリップしといて」


今はそんなことをやっている場合じゃない。

早く“アウェイ”を“ホーム”にしなきゃ。

人影の少なくなったホームを小走りにかけ、ゲートを通り抜けた。



目の前に広がったのは、よくある沿線の駅前の光景。

∪字型のロータリーには、自律運行バス、自律運行タクシーの乗り場。

駅前駐輪場の方向を示す看板が見える。

ロータリーを囲むように、コンビニ、ファストフード店が点在する。

そんな当たり前の光景の中で、一つだけ強烈な違和感を放っているものがあった。

自然と目が吸い寄せられる。

同時に、先ほどから鼻孔がわずかに感じ取っていた、異臭の原因に思い至る。

それは、ロータリーの一角に停まるセダンタイプのガソリン車だった。

エンジンの低い唸りに合わせて、細かく体を震わせている。

今にも動き出しそうなほど、生々しい。

社会の教科書でしか目にしたことのない、その「大気汚染の象徴」に、

周囲の人々は、好奇や嫌悪など、様々な視線を向けている。

そんな視線など一切を意に介さず、フロントドアに寄りかかっていたスーツ姿の中年男性が、

自分の方に片手を上げるのを見て、歩美の鼓動は一気に高まった。

まさか。嫌な予感。


「そのまさか、よ。あの人が待ち合わせの人」


アリカがいたずらっぽく笑う。

その瞬間、歩美は自分の立てた、ささやかな計画が水泡に帰したことを理解した。

男はゆっくりと歩美のもとに歩み寄り、にこやかに言った。

「はじめまして。特別行政区西地区主任管理技官の宮本 (みやもと)です」



「ガソリン車に乗るのは初めてですか?」

「えぇ、まぁ」


歩美の頭はフル回転しているが、先ほどからまともな受け答えを導き出せていない。

手早く指を動かして、ガソリン車の情報を呼び出すが、

歩美の想像以上にガソリン車というのは歴史が古く、裾野が広い領域らしい。

普段から幅広く情報収集をしている歩美にとっても、さすがに博物館の陳列物は調査範囲外だった。

フォード?

SUV?

ステアリング?

4WD?

スタッドレス?

プリウス?

Wikipediaの概要ページの長さに辟易して、個別のキーワード (ハイパーリンク)に飛び、

全体像の理解を試みるが、全く前進しない。

アリカが、閲覧履歴を次から次へと手早くまとめていく。

ものの数分でプライベートWikiができあがり、

Web上の参照信用ランクの高いページと突き合わされ、

情報の確からしさが秒単位で高まっていく。

ただ、宮本と会話をしながらWikiに目を通す余裕など、歩美にはなかった。

当の宮本は涼やかな顔をしながら、運転を続けるが、歩美の焦りは増す一方だった。

何か話さなくちゃ。

そして、思わぬ言葉が口をついた。


「あ、あの!宮本さんはアヴァターを持っていないんですか!」


宮本は面白そうにちらりと横目で歩美を見る。


「あぁ、木下 (きのした)さんはお持ちなんですね」

「あ、はい。アリカと言います」

「良い名前だ。“お会いできず”、残念ですが」


宮本は少し笑う。


「私は、公務員ではありませんから」


そう。宮本は公務員ではない。

宮本剛 (みやもとたけし)。特別行政区西地区主任管理技官。

「主任管理技官」という仰々しい肩書だが、実のところは、市の嘱託職員だ。

公務員ではない。

歩美ら、特別行政区管理課職員の働きをサポートするのが、宮本の仕事だ。

だから、歩美にとってのアリカのようなビジネスサポートアヴァターは、市から貸与されない。

もちろん、アヴァター自体は決して珍しいものでもないから、一般人でも購入やレンタルは容易だ。

職場の先輩方の話だと、管理技官の多くは、自前でアヴァターを導入して、業務を補佐させ、

業務に関わる通信費だけ、経費として市役所に請求するらしい。

一方で、アヴァターは所詮、極めて柔軟で、インテリジェントなだけのインターフェースにすぎない、

と言い切ってしまうこともできる。

もしかしたら、宮本のようなデジタルネイティブ世代にとっては、

端末を自らの手で操作するほうが効率が良いのかもしれない。


「アヴァターというのはやっぱり便利なんですかね?」

「そうですね。というより、学生時代から使っているので、

 アヴァターなしの生活というのが、もう想像できません」

「俗にいうアヴァターネイティブ世代だ」


宮本は笑う。

柔和な人だ。歩美は思った。

物腰は丁寧で、静かだが、相手に緊張を強いない程度には話をしてくれる。

良かった、いい人で。

少しホッとした。

というのも、宮本の前評判は決して芳しくなかったからだ。

いや、「芳しくない」という表現は正しくない。

職場のメンバーに、宮本のことを尋ねると、皆揃って苦笑いをした。

でも、宮本を改めて目の前にして歩美が感じたことは、

結局、誰も宮本のことを“よく知らないだけ”なのだ。

前評判で人を計ることほど、愚かなことはない。

少し落ち着いてきた。仕事に集中できそうだ。

アリカが継続していた「ガソリン車」のまとめ作業の優先ランクを、「バックグラウンド」にスライド。

作業完了後は、“勉強”カテゴリへの登録を指定。

アリカのイメージ映像が、“手ぶら”になり、歩美のそばに戻ってくる。


「さて、ここからが特別行政区になります」


宮本に促され、歩美は車窓に目を向ける。

特に境界のこちらとあちらで目で見て変わったところはない。

しかし...


「静かになったでしょう」


そうだ。街が静かになったような気がする。


「木下さんは、区内外の見分け方をご存じですか?」

「えっと、“地図”を見れば境界線があったはず...」


歩美の言葉に反応して、アリカが指をクルリと回すジェスチャーと同時に、

視界の中央に地図がポップアップする。

縮尺100mまで自動でズームアップされ、自分の位置を示す青い水晶体と街路図が表示される。

歩美が答えたとおり、特別行政区の境界線は地図上に赤点線で示されている。


「もっと簡単です。庭を見ればいい」


歩美の視線は、通り過ぎる幾つもの生け垣や庭に注がれる。

宮本の言うとおりだった。

荒れている。

手入れをサボっている、などというレベルではない。

手入れが全くされていない植生は傲岸なくらい、生を謳歌していた。


「なんてカッコつけましたが、信号を見れば決定的ですね」


宮本のガソリン車は信号の下を通り過ぎた。

無灯火の信号機の下を。

そう、この街には人が住んでいない。

それが「特別行政区」だ。



増え続ける高齢者と、減り続ける現役世代。

増え続ける行政サービス予算と、減り続ける税収。

増え続ける国内企業の海外移転と、減り続ける雇用機会。

50年前、日本は国家として、危機に立たされていた。

国の借金はその返済能力をとうに超え、

インドネシア、メキシコ、トルコ、ナイジェリアといった、

「第三の経済大国群」の介入を余儀なくされた。

わずかに残る産業技術や、未だに日本が誇る高度先端医療技術の一部と引き換えに、

日本は、有形無形の援助を一時的に受けることとなった。

まだ日本に利用価値があると考えた各国によって、

ほんのすこしの猶予期間が与えられたのである。


その期間が終わる前に、株式会社日本は、冷酷な投資家達に対して、

新たな経営計画の提出を迫られた。

2年間の検討期間を経て、生み出された様々な再建計画の一つに、

「特別行政区」の制定があった。


かつて、日本を世界に名だたる経済大国に押し上げた高度経済成長期は、

日本全国津々浦々の人々の生活を豊かにした。

電気、水道、ガスといった生活インフラは整備され、

道路や鉄道といった輸送手段もまさに血管のように張り巡らされた。

それらは益々国民の生産性を向上させ、人々は健康で文化的な生活を享受しつづけた。

しかし、盛者必衰。

気がつけば、目まぐるしい世界経済の波に乗り遅れはじめた日本国の財務体質は、

ある日、堰を切ったように、急激に悪化した。

目が行き届かないくらいに広範囲に敷き広げられたインフラが経年劣化しても、

メンテナンスなどする余力は残っていなかった。

それどころか、税収と支出のアンバランスに耐え切れず、

経済的に破綻する市町村が、次々に現れた。

難民が発生し、近隣の地方自治体が緊急的に受け入れた。

しかし、余力を残している自治体などわずかであり、

市町村の連鎖破綻に歯止めがかからなくなった。

「限界集落」という言葉の射程は、都市にまで拡大されたのである。


もはや、時間は残されていなかった。

生産年齢人口の構成比が5割を切った時、

通称「特別行政区管理法」が国会で可決、施行された。

人々の住む場所を小さくまとめ、インフラや社会的サービスの対象範囲を、大幅に縮小する。

2000年代より幾度となく議論されてきた、コンパクトシティ構想の国家的実現である。

人々が寄り集まって住むための「中核都市」が定められ、

中核都市の境界外に住む人々は30年をかけて、中核都市内に移住を完了する。

「中核都市」では、管轄下の人口全てを受け入れる準備を行う。

住宅や各種インフラの整備はもちろん、国内にかろうじて残る産業を誘致し、雇用を確保する。

同時にショッピングモール、シネコンなど、高効率かつ多種多様な欲望消費対象を設置して、

高速で好循環の経済圏を再構築する。

社会的サービスも適用範囲を制限することにより、ムダ、ムラ、ムリのない福祉を実現する。

日本に残された数少ない延命手段だった。


しかし、それは、国民の生命と財産をギリギリで守りながら、

一方でそれ以外を「放棄」する政策に他ならない。

反対運動が各所で行われた。

運動は時とともに先鋭化し、20世紀の学生運動を彷彿とさせる、

市民と機動隊との衝突も珍しくなくなった。

また、アーミッシュのように、一部地域で、中核都市に移住することなく、

昔ながらの生活を維持しようとする住民たちも現れた。


だが、それらの動き全てを潰すほどのインパクトを持った出来事が起きた。

田山事件。

以降、事態は徐々に収束し、時と共に、人々の生活と関心は「中核都市」に限定されていった。


日本は一見不可能と思われた政策をやりきった。

いや、やり切らざるを得なかった。

全ては、国家レベルの難民を生み出さないため。

ただ、その代償は、非常に大きかった。

もう二度と、日本が経済大国と呼ばれることはないだろう。

先進国の名簿に名前を連ねることもないだろう。

だが、これで良かったのだ。人々は自らを納得させた。

外国から蔑まされようが、国民の生活は守られたのだから。



「この辺りの地区は、早期に移住が完了したモデル地区でしてね。

 それから25年ほど経ちますが、不思議なことに、

 “生活の気配”というものは消えないんですよね」


歩美は宮本と一緒にセダンを降り立つ。

かつては「閑静な戸建て住宅街」だったのだろう。

日焼けして色あせた住所表示板には、「希望ケ丘」とひねりのない呼び名が記されていた。


「木下さんは、今日の業務をご存知ですか?」

「あ、はい。撤収目的のご家族の家財搬出の立会い、ですよね?」


アリカが宮本の言葉に反応して、業務指示書を要約して、目の前に表示してくれる。


「はい、世間では『思い出処分』なんて呼ばれてますね」


思い出処分。

「特別行政区」に指定されたからといって、私有財産まで全て移動する必要はない。

飽くまでも国に要請されたのは「移住」であって、全財産の移動ではない。

もちろん、国は、管理法施行後も変わらず、中核都市境界外の私有財産を保障している。

そのため、移住期間内に処分しきれなかった財産、土地、建物はそのままであることが多い。

というのも、中核都市制定にあたって、境界外、つまり特別行政区の地価が暴落したため、

住民たちは土地を「売るに売れない」状況に陥り、固定資産税を無為に支払ったとしても、

放っておく以外に仕方がなくなった。

もちろん、これらは国の想定内の出来事だったため、

緊急措置として、境界外の固定資産の税率を限りなく引き下げた。

そもそも、地価そのものが大幅に下落したので、

税額も自然と大幅に減額されたことにはなるのだが。

これら相乗効果の“恩恵”が、事態に拍車をかけ、

自宅を処分する動機を人々から奪っている。


一方で、空き巣や住居侵入が気になるところだが、

特別行政区内には警官の定期見回りがあるほか、

センサーやカメラが随所に設けられており、

立入り許可証のない者や、不審者はすぐに発見される仕組みとなっている。

とはいえ、移住時点でめぼしい財は全て移動されるのが常で、

実際に価値のある物が残されている場合は滅多になく、

空き巣そのものの発生率も低い。


そんな中、稀に、自宅や土地を処分する人々もいる。

その行為を巷では、「思い出処分」と呼ぶ。

その際に、人目のない区域内での作業を見守り、

トラブルが起きた場合に適切な対処をするために、

担当職員の立ち会いが必要となる。

それが、歩美の特別行政区管理課職員としての初仕事になる。


「あの、私、何もわからないんですけれど...」


もちろん、マニュアルは読んだ。

アリカがまとめてくれた事例集にも目を通した。

でも、“知る”のと“やる”のでは、いつも勝手が違う。


「大丈夫ですよ。“初めて”は誰にでもありますから」


相変わらず、宮本は優しく笑う。

宮本が立ち止まる。当該の住居に到着したようだ。

かつて、どこにでもあったような戸建住宅。

南向き2階建て庭付きの家。

昔は、中流層でも戸建住宅を持つことができたのだ。

キレイな家だった。

門扉をくぐると、すぐにその理由がわかった。

庭が丁寧に手入れされているのだ。宮本の言う「見分け方」は当てはまらない。


「大切にされているんですね」


宮本も庭を一目見て、つぶやいた。

その時だった。


「てめぇ!何を言ってるのかわかってるのか!」


怒号。

連なるいくつもの叫び声。

荒々しい物音。

次の瞬間、二人の男性が、玄関から転げ出てきた。

つかみ合いになっている。

いや、肥満体型の初老の男性が、細身の中年男性の胸ぐらを、一方的に掴んで、揺すっていた。


「なぁ!おい!何とか言えよ!」


そう言って初老の男性が、無理やり細身の中年男性を引きずり起こす。

細身の男性はなされるがまま。

そのうち、初老の男性が、拳を振り上げた。

止めなきゃ。

歩美はとっさに、足を踏み出しかけたが、宮本の手が制止した。

拳が慈悲なく、振り下ろされる時だった。


「やめてぇ!」


少女の叫び声。

時が止まる。

宮本達も、男たちも、玄関先に目を向ける。

高校生くらいの少女。顔を上気させ、肩で息をしている。


「おじさんは、お父さんの気持ち、何も知らないじゃない!」


気圧されたように初老の男性が拳を下ろす。

胸ぐらをつかんでいた手からも力を抜いた様子で、

中年男性は、ゆったりと地面に腰をおろした。


「帰って!今すぐ帰って!」


そう言うと、少女は家の中に駆け込んでいった。

少しの間、ほおけたようになっていた初老の男性は、

我に返ると、地べたに座り込んでいる中年男性に「ふんっ」と、睨みつけ、門扉に向かう。

門の前に佇む宮本達に気づくと、バツが悪そうに、視線を外した。

宮本は丁寧なお辞儀をする。歩美も慌ててそれに倣ったが、

その横を男性は、肩を怒らせたまま、無言で過ぎ去っていった。




「すみません、お見苦しいところをお見せして」


宮本と歩美は居間に通され、お茶を振る舞われた。

少し埃っぽい匂いのする部屋に、年代物のソファが置かれ、

宮本達と、佐々木夫婦が向き合って座る。

先ほど、初老の男性に胸ぐらを掴まれていた中年男性が、

世帯主である佐々木逸夫(ささきいつお)

その横に妻である清子(きよこ)

先ほどの少女が一人娘の海咲(みさき)、高校生だった。

その海咲に撃退されたのが、逸夫の母の兄である伯父の倉石亮太(くらいしりょうた)だった。

海咲からすれば大伯父にあたる。

海咲は居間には姿を見せない。

宮本は玄関前の乱闘などなかったかのように、

淡々と特別行政区内での搬出作業についての留意事項を説明し、段取りを確認していく。

歩美はその横で、全てをアリカに記録させつつ、重要事項をまとめさせる。

今回佐々木家は、土地、建物全てを売却する予定だ。

その場合、全ての家財を搬出する必要がある。

作業にかかる時間は、作業人数にも左右されるが、戸建住宅の場合、早くても2日はかかる。

というのも、早朝、夜間の作業ができないからだ。

禁止されているわけではない。

特別行政区には、電気を始めとしたインフラが通っていない。

特に秋が深まりつつあるこの時期、日が陰るのは早く、

15時を過ぎれば屋内には薄闇が広がり始める。

そうこうしているうちに、家の外に大型車が到着する音が聞こえた。

引越し業者が到着したのである。

すぐに家財搬出が始まった。


実際の作業中には職員には仕事はない。

時折、引越し業者のチーフに細かな相談を受けるぐらいである。

業者はもちろん、佐々木一家も忙しく立ち働く中、

自分たちだけ、庭や玄関前をウロウロしているのがなんだか気が引けてくる。


「落ち着きませんか?」


歩美の内心を見透かしたのように、宮本が笑う。


「はい...こういう場合職員は何をするべきなのでしょう?」

「特に定められておりませんね」


それは知っている。職員規定も、マニュアルも全て読んだが、

記載されているのは「立ち会い」の一言だ。

それ以上でもそれ以下でもない。

「立ち会い」が何かの隠語である可能性もない。


「えっと、前の職員は何をしていましたか?」

「お昼寝ですね」

「え?」


聞き間違えたか。


「あるいは、近場の中核都市内にあるパチンコか」


どういうこと!

歩美は混乱していた。

確かに全くの想定外というわけではなかったが、

歩美の前任者は、公務員の鑑のような仁藤(にとう)地域福祉課長補佐だったはず。

当時は課長補佐ではなく、確か主任だったけれど。

いや、そんなことは今、どうでもいい。

仁藤課長補佐が、職務中に昼寝?パチンコ?

ありえない。

とは言い切れない。

導入研修の際、散々「公務員は品行方正であるべき」と、

叩きこまれたのは、実態が異なるからではないのか?

固まっている歩美の表情を見て、宮本が吹き出した。


「なんて、冗談です」

「え、冗談なんですか?」

「はい、冗談です」


宮本は楽しそうに笑う。

かといって、歩美の疑念が晴れるわけではない。

心にのこる、わずかなしこりを感じながらも、一応歩美も笑顔を作っておいた。

本当に冗談なのであれば良いけれど。

とはいえ、宮本と冗談を言い合いながら時間を潰すのも、

なんだかもったいない気がする。


「あの、教えてください」

「なんでしょう」


宮本はまだ笑いを引き連れながら、歩美を見つめる。


「『立ち会い』って何をしてはいけないんですか?」

「ん?どういうことでしょう」

「えぇと、つまり...」




「ちょっといいかな?」


少女が段ボール箱に荷物を詰めながら、勢いよく振り向く。


「ごめんね、忙しいのに」

「お姉さん、職員さんの...」


歩美は頷き、海咲の横に座った。


「あ、ここらへん、埃っぽいから、スカートが―」

「あぁ、いいのいいの」


本題に入る。

「あのさ、私にもお手伝いさせてくれないかな?」


想定通り、日が暮れるのは早かった。

進捗状況は全体の半分ほど。

残りは明日に持ち越された。




「なぜ、お手伝いなどされたんです?」

「いけませんでした?」


葦原駅への帰り道。

相変わらず、ガソリン車は低い唸りをあげながら、生き物のように夜道を走る。


「いえ...」


宮本はそう言ったきり、前方を見つめる。

歩美は自分の行動が軽率だったかと、少し反省したが、特に悪いことをしたつもりもない。

宮本が何も言わないので、ハラハラするが、歩美は何を言われてもいいように、

頭の中で反論を組み立てる。

歩美は結局、佐々木家の作業に一日中付き合った。

ブラウスや、スカートが埃で汚れようがお構いなしに、海咲と行動を共にした。

初めはぎこちなかった海咲も、歩美と作業する中で、段々と心を開き始めた。

他愛もない会話をした。

流行りのボーカロイドアイドルのこと。

女子高生に人気のアクセサリーデータデザイナーのこと。

学校貸与のアヴァターが使えない(低スペック)から、

魔法をかけて(ハックして)プライベートで契約している、

アヴァターサーバーに直接つないでいること。

クラスの付き合い始めたカップルのこと。

時々会話が盛り上がり、手が止まったこともあったが、

それが取り立てて問題だとも思えない。


「いえ、変わった方だな、と」


独り言かと思われるくらい小さなつぶやきだった。


「あの、何か問題があれば言ってください。

 もし、今日の出来事が出すぎたことだったなら―」

「正しいです」

「え?」

「木下さんの今日の行動は正しいことだと思います。

 すみません、私自身が、囚われていたのだと思います」


宮本は少し寂しそうに言った。

ガソリン車は、有機ELライトが輝く葦原駅のロータリーに滑りこむ。

ちょうど帰宅ラッシュ時で、多くの人々がガソリン車に物珍しそうな視線をくれる。

宮本には申し訳ないが、歩美は少し恥ずかしい思いがして、そそくさと降りた。


「木下さんは明日もお手伝いされますか?」


送ってくれたお礼を言って、ドアを閉める直前だった。


「はい」

「そうですか」


宮本はいつもの笑顔を浮かべ、走り去っていった。


...後編に続く

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