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ESP:Children  作者: ゆたなるい
Chapter01 喪失者達は世界を知る
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第05話






 ―――東京都のどこか暗い世界。

 周囲はコンクリートの壁に囲まれ、地面から天井への距離は20メートル近い。まるで地面の穴を掘り進め、崩れてしまわぬよう固められただけのような巨大な空間には、鉄製の長太いパイプがいくつも張り巡らされ、そのあちらこちらに刺さるバルブ、小さな液晶画面と操作パネルが上辺に付いている箱状の奇妙な機械、それらを照らすまるでサーチライトのような巨大な証明が天井近くには取り付けられ、まるでそこは日本の中とは思えない、あまりにも質素で無骨な光景が広がっていた。

 しかし、到底人が居れるとは思えぬそこには、いくつかの人影があった。

 ある者は一人で黄昏、ある者は気分を落ち着かすように煙草の煙を吹かし、ある者は他の誰かと談笑し……各々が当然のように広大でありながら無味乾燥な空間に身を置いていた。

 その中の一人―――特に飾り気のないオフィス用の椅子に身を沈め、ノートパソコンのキーボードを打っている美しい金髪が特徴的な20代半ばの男に、まるで暗闇から現れたような、最初からそこにいたかのように突然姿を現した未だ若さを覗かせる少女が話しかけた。


「……黒柳(くろやなぎ)さんと酒匂(さかわ)さんが独断で行動に出たようです」


 男の指が止まる。

 彼はパソコンを畳むと組んでいた脚を解き、淡々と語る少女へ鋭くも柔和な眼差しを向けた。男に感情で表情を作った様子はなく、男性でありながら長く綺麗な睫毛の瞳は元から整った形をしていることが窺える。


「以前にあの二人が主張していた作戦か? 俺は拒否したはずだが」


「ですから独断に、という訳です。すでにお二人は行動を始めているようで、酒匂さんの電波妨害が例の学校を包み込んでいるのを探知しました」


「……そうか……」


 男は困り果てたように右手を額へ添えると、やれやれと言った感じで首を振る。

 瞼を閉じ思考を巡らす男に対し、少女は自身の得た情報をつらつらと語っていく。


「粒子の残滓からしておそらく30分以上は経過しているかと。あの二人であればとうに事を終えている頃合いではないでしょうか」


「……」


「……ですがおかしな点が一つ」


「……? おかしな点? まさか返り討ちにあったか?」


「いえ、そういう訳では。お二人の反応は健在です」


 しかし、と少女は間に一拍置き、氷のような視線を男へ送りながら続けた。


「黒柳さん、酒匂さんお二人の他に……もう一つ、異能力の反応を探知しました」


「なんだと……?」


 どうするか指示を仰ぐようなニュアンスも含めて紡がれた言葉に、視線を返す男の瞳が細くなる。


「それは確かか?」


「間違いありません。野良の異能力者です。現在も反応は健在、おそらくはその場でお二人のどちらかに接触し手を結んだか、はたまた……」


「……そこの生徒、または教師で敵対しているか。酒匂の電波妨害はまだ残っているか?」


「現存です。よって可能性としては後者の方が高いかと。……どういたしますか?」


 今度こそ口に出して指示を仰ぐ少女。

 男は再び考え込むように眉間に皺を寄せ、瞼を閉じる。彼は視界を閉ざしたまま口を開く。


「その異能力者は『触媒』持ちか?」


「でなければ報告はしていません。すでに外界出力はされているかと」


 それを聞いて答えが出たのか、男は再び目を開けると、間髪入れず椅子から立ち上がった。同時にオフィスチェアの背もたれに掛かっていたベージュ色のミリタリージャケットを羽織る。ファスナーとボタンは開けたまま、皮製の黒いレザーグローブも身に付けていく。


「俺が直接行こう」


 着々と準備を進める男に対し、少女は少し逡巡したように口を閉ざした。

 しかしものの数秒。彼女は改めて言葉を放つ。


「わざわざあなたが行かなくとも、他の方で十分に事足りると思いますが」


「勝手な行動に出たあいつらだけならな。だが野良がいるというのなら、直接目で確かめたい。構わないだろう?」


「……意地悪ですね。私の許可を取る必要なんてないというのに」


 そうだな、と相槌を打ちながら男は小さく笑う。隙が見当たらない中に垣間見える小さな暖かみは、なんだかとても完成されたものだなと少女は何気なしに思った。

 一通り服装を整えた男は、思い出したように少女と向き直る。彼女は小さく見上げるように首を動かした。


「例の第二収容所から脱走したという異能力者の件はどうなっている?」


御子柴(みこしば)さんからの最新の報告は『一般人に匿われている』とのことです。……互いの反応を至近距離で感じますので、現在は交渉中かと」


「そうか。連中にとって彼女は、大事な宝物を咥えて檻から逃げ出したモルモットだ。どんな手を使ってくるか分からん、できるだけ急げと伝えておいてくれ」


「万が一の場合は?」


「こちらの用事を済ませたら俺も向かおう。何かあったらすぐ連絡してくれ」


「了解しました」


 言うべきことは済ませたと背中で語る男は、無味乾燥な空間の中鍵穴すらない鉄製の扉へと歩いていく。

 彼の背中を見送る少女だったが、ふと声を掛けた。


「……黒柳さんと酒匂さんのこと、どうするおつもりですか?」


「……、」


 男は立ち止まりその場に佇むが、すぐに振り返ってきた。

 その表情に困惑や焦燥といった感情は見受けられず、むしろ小さな微笑が浮かんでいた。


「"臨機応変に最善を選択する"。昔から言っているだろう?」


 そう、彼はこういう人だと少女は知っている。

 何事にも慌てず、動揺せず、後ろに立つ者達を逞しく引っ張っていくための力をこの男は持っているのだ。


「部下の不始末を何とかするのも上に立つ者の仕事さ。なに、心配するな。手荒な真似はしない」


「……そうですか。ではくれぐれもお気をつけください。場所が場所、何が起きるか分かりませんので」


「ああ」


 彼は正面へ向き直り、今度こそ扉の外へと消えていった。

 その背中を見送り、少女は閉められた扉をじっと見つめる。

 表情は変わらず無表情。

 しかし彼女はなんとなく予感する気がした。

 これから面倒なことが起きるだろうと。


「……臨機応変に、最善を」


 男が昔からお守りのように掲げている言葉を、少女もほとんど口を動かさず繰り返す。

 扉から視線を外した少女は、再び闇の中へ消えていくようにその場から歩き出した。




     ◇




 ……きっと怒られるだろうな。

 掃除用具の入ったロッカーの影に身を隠すようにしながら、諏訪結城はぼんやりと姉の顔を思い出し、今自分がしようとしていることを知ったら鬼のように激情するだろうなとつらつら考えていた。

 とても小さくて可愛らしく、それでいて人の上に立とうと必死に努力し、弱いところもあれば強いところもある……結城にとって何よりも大事で、結城のことを何よりも大事だと思ってくれる、大切な家族。

 見渡す限りに広がる赤い惨劇。

 見知った顔がその海に沈んでいるところを、結城はもう何度も目撃していた。

 そこに姉の顔はない。見つけていない。しかしいつか、校内を移動していたらその見たくもない光景を目にしてしまうのではないかと常に心は警告していた。


(……今は信じるしかない)


 真実を知りたいのに、嫌な想像ばかりが脳内に浮かび上がり、真実を知ってはいけないと矛盾を抱える。

 世界は単純だ。

 0と1の答えしかない。2つの選択のうち、そのどちらかの事象しか発生しない。

 シンプルで単純明快で―――故に恐ろしく、時には人の心さえも殺してしまうほどの狂気が隠れている。

 結城にとって後ろ足を引っ張るように迫られたこの選択は、答えを出すにはあまりにも恐ろしかった。きっと17年間生きてきた人生の中で、最も。


「シュレーディンガーの姉……いや笑えないか」


「何言ってんだお前」


「……いや、冗談に変えれば悩まずに済むかなと思ったんだけど。そんな事はなかったよ」


「冗談を考えてそのチョイスは悪い意味でセンスあるぞ」


 結城と同様、その隣で身を潜める青年、大崎成司が呆れたようにツッコミを入れてくる。

 改めて結城は隣の彼の姿を確認し、口元に小さく笑みを浮かべた。それはきっと根拠のない安心から来るものだった。

 成司はロッカーの影から奥の廊下をじっと観察しつつ、僅かな緊張を漂わせながらも結城同様僅かに笑っているようだった。


「きっと無事さ。なんたってあの璃々子先生だからな」


「……そうだね」


 軽く言葉を交わし、しかし周囲への警戒を忘れない二人がいるのは第一校舎の一階。正面玄関近くの渡り廊下。階段の脇に設置されたロッカーの影に身を隠す二人の視線の先にあるのは―――演習準備室のドア。

 生き残る仲間達と別行動する二人の目的はただ一つ。

 その中にあるであろう、ESPP機構光粒子個人携行兵器『PS-2マサムネ』と『PAR-4パルサー』。ESP症候群者対策室『EP』にのみ支給される対異能力者を想定した強力な軍事兵器だ。

 『敵を倒す』。

 数分前。視聴覚室隣の機材室で今後の方針を明確にした彼らは、それを実行かつ成功させるための道具を手に入れるためここへ赴いていた。


「誰も見当たらないな」


 成司が状況を確認するように呟く。

 この実習準備室へ向かうのに最大の壁であった、もっとも敵がいる可能性の高い正面玄関から非常に近い、という問題点は現段階では成りを潜めているようだった。

 ……最初は隠密活動を想定して結城が単独で行う予定だったのだが、こうして成司と共に行動しているのは彼からの申し出があったからだった。


『デカいとお前一人じゃ持ち運べないかもしれないだろ?』


 という意見に納得し二人で取りに来たわけだが、それで正解だったな、と結城は自身の心中を分析しつつ思う。

 きっと独りでは恐ろしかっただろう。無論二人でも恐怖がないわけではないが、きっと今の何倍も怖かったに違いない。独りではない、仲間がいる、というのは精神的苦痛を和らげる効果を確かに発揮していた。

 姉の璃々子や幼馴染みの柚木には、昔に比べて随分と落ち着いているとか、全然慌てなくなったと言われるが、それは単にポーカーフェイスが上手くなっただけだと自己評価している。

 敵を倒そう、と提案した時も心中ではそんなこと出来っこないと弱気になる自分だって確かにいたのだ。


(しかし、皆が納得してくれたのは意外だったかな)


 この作戦……とも言い難い一見無謀とも取れる結城の提案に、最初こそはその場に入る全員についに頭がおかしくなったかと心配されたが。

 しかし順を追って結城の考える作戦を説明し、可能な限り皆の危険が少ない方法を練り出す内に少しずつ理解を得られ、こうして行動に移している。

 何より決定的だったのは。


『色んなものを奪われた。多くの友達を失った。どうせじっとしていても危険なだけなら、いっそ連中に一泡吹かせてやろう』


 という成司やそこにいた気の強いクラスメイト達が強がりながらも言い出したことだ。

 それに何かが感化されたのか、柚木達女子も『これだから男子は』という態度を示しながらも同意してくれた。

 悪く言えば子供の浅はかな慢心なのだろう。

 だが、子供が道を切り開けないとは結城は思わない。いつだって時代を変えてきたのは考えなしの子供なのだから。


「……結城、どうする?」


 成司が指示を仰いでくる。

 改めて結城も正面玄関を中心に周囲へ注意深く視線を送るが、生きた人影は見当たらない。こうしてじっとしているのもどの道危険なことには変わりなく、いつまでも判断に迷っている暇はないだろう。


「……行こう。柚木達もそろそろ作業に取り掛かっているはずだ。あまり時間は掛けられない」


「だな」


 とりあえず他の生き残りがいないか確かめてもらうために可能な限り安全なルートを考え、他のクラスメイト達には場所移動してもらったのだが。そちらが無事であれば、もう一つ頼んでいた件を行動に起こしているだろう。

 結城と成司も必要な物を回収し可能な限り早くそちらへ合流した方がいい。

 互いに頷きあった二人は、十分に警戒しながらロッカーの影から飛び出した。

 そそくさと演習準備室の前に移動し、成司が周囲に注意しているのを後ろに鍵がちゃんと開いているか確認する。


「……よし、開いてる。入ろう」


 あまり音を立てないようドアを開けて、二人で室内へ身を投じた。

 ドアをゆっくり閉めつつ、周囲を確認する。窓はなく、普段実習授業で使用しているものが山のように積まれていた。これがバスケットボールやラケットの類であったら、他より少し広い程度の体育倉庫に見えただろう。

 目的のブツはすぐに見つかった。


「考えるまでもなくあれだな」


「うん」


 廊下とは違いコンクリートで固められた床。入り口から見てすぐ真正面に、見覚えのない黒のコンテナケースが2つ重なっていた。三面に計12個もの留め金が付いており、しかしどこか高級感のあるケースは今までの授業では一度も目にしたことがない。

 2人でケースの傍まで歩み寄ると、念のため上段のケースの留め金を外していく。ケースの蓋である上面には、小さく『PHOTONSWORD-02 MASAMUNE』と白い文字が印字されている。

 ガパッ、と蓋を開けると、そこには間違いなく結城達の欲するものが収納されていた。


「これがマサムネか……マジでライトセーバーだな」


「デザイン段階からそういうコンセプトはあったらしいからね」


「男のロマンだからな。考えた奴はいいセンスしてんな」


 ポリウレタン素材を使用した内部クッションに埋め込まれるようにして、美しい銀色の本体と金色の金具、黒のプラスチックのような素材で構成された全長25センチ程度の、パッと見では高級な懐中電灯にでも見えるブツがあった。

 しかし実際には懐中電灯でも某SF映画のコスプレ道具でもなく、紛れもない本物の兵器。

 『PS-2マサムネ』である。数は5本。

 結城はその1本を手に取ると、小さなパーツ一つ一つを確認していく。


(スライドスイッチに二重の安全装置。柄頭の蓋を外せば……あった。ESP結晶はちゃんと入ってる。テキスト教材にあった図形通りだ。ぶっつけでも使えるはず)


 不備がないことをしっかり確認すると、クッションの中へ戻しケースの蓋を閉めた。本当なら今すぐにでも5本全て実際に使用できるか試したいところだが、非常に危険な武器のため安全装置を外すのに複雑な手順が必要となる。このシンプルな形状でありながら内部構造は馬鹿にできない。

 そんな時間は皆無であるため、今はこれを持ち運ぶことを先決するべきだろう。


「結城、こっちも不備なしだ」


 いつの間にか『PAR-4パルサー』の中身を確認していた成司が留め金をつけながら言う。

 改めて二つのケースを閉め切り運ぶ準備ができた。

 腰を入れてケースを持ち上げると、想像以上に……軽かった。精々あっても袋に詰めた5キログラムの米ぐらいだろうか。大した重さではなく、抱えたままでも十分走ることができるだろう。


「意外と軽いね。これなら一人でも良かったかも」


「だな。ま、どの道着いてきたけど」


「成司は少しお人好しすぎるよ。それじゃあ行こうか」


「おう」


 お節介ながらもありがたい友人の言葉に笑みを零しつつ、再び行動を開始する。

 目的地は体育館―――そのステージ裏。

 学校の詳しい構造を知らないであろう敵から隠れられる場所と考え、結城達がいた機材室以外で最も最適な場所といえばおそらくはそこ。柚木達はそこへ向かわせ、他に生存者がいたら協力を仰ぎ現在は頼んでいた作業に取り掛かっているはずだ。


(あっちも『材料』を集めるのに他の教室へ行って戻ってくる必要がある。早く行って手伝わないと)


 あの場にいた面子は何だかんだ結城に協力的になってくれたが、元を辿れば言いだしっぺは結城である。全ては無理でも危険な作業は可能な限り結城自身で引き受けたいという思いがあった。

 そうこう考えながら演習準備室のドアまで歩こうとしたその時。

 ゴトンッ、という重量感のある音が背後から響いた。


(ッ……!?)


 慌てて振り向くが怪しい影はない。

 どうやら成司がパルサーのケースを床に落としたらしい。側面を上に向けて転がっている。

 安堵の息をつき、身を屈めながら彼の足元に転がっているケースに空いた手を伸ばした。


「成司、しっかりしてよ。走ってる最中に手を滑らせたりでもしたら―――、」


 喋りながら、ケースの持ち手を掴もうとして。

 その瞬間。


 ゴン! と。

 強い衝撃が走り結城の体が後方へと弾き飛ばされた。


 一瞬、思考が停止する。突然の出来事に何が起きたのか理解が追いつかない。

 それに気付くのは、抱えていたケースを落とし床に尻餅をついて、額から走る鈍器で殴られたような痛みと蹌踉めく視界、それらを実感し正面に立つ成司を見上げてからのことだった。


「っ……、成司、なにを……」


 蹴られた。

 正確には、身を屈めた結城の額目掛けて、成司の膝蹴りが直撃したのだった。

 突然の暴力に混乱しながらも視線を送るが、彼は何も言わない。しかしその表情は怒りに染まっており、獣の如き視線がこちらを睨みつけている。


「テメェが……、」


「え……?」


「テメェが殺したんだな! みんなを!!」


 唐突にまったく身に覚えのないことを叫ぶと、成司は勢いよく飛び掛ってきた。

 結城の胸倉を掴み地面へ押し倒すと、馬乗りになり拳を振り上げる。


「ぐっ……」


 振り下ろされた拳が容赦なく頬に突き刺さる。

 激しい痛みが走り脳が揺さぶられた。今ので僅かに舌を噛んだせいか、血の味が滲み出てくる。


「テメェの!! テメェのせいで!! みんなはッ!!」


 しかし成司の拳は勢いを落とさず、一言叫ぶたびに一切の手加減が含まれない本気の拳が振り下ろされる。頭の混乱が引かない結城はただそれらを一身に受けるしかなく、顔面に何度も激痛が走り抜けていく。


「ぐっ……成司……!」


「くたばりやがれぇぇええええッ!!」


 消して冗談とも演技とも思えない叫びと同時、僅かに溜められた右拳が突き抜けた。

 ようやく防御の姿勢を取ろうと両手を動かす結城だが、反応に遅れた。防ぐための腕が間に合わず、間を掻い潜ったその拳が結城の頬へと吸い込まれる。

 バキッ!! と今までにないほどの強烈な打撃音が響いて、痛みよりも先に一瞬視界がブラックアウトする。直後に強烈な痛みが走ると同時、舌の上に何かが転がる感触から奥歯が一つ抜けたことを理解した。


(なに、が……成司は一体……!)


 普段からは絶対に経験しないようなズキズキと主張する痛みに頭が言うことを聞こうとしないが、行動よりもまずは考えることが脳に染み付いている結城は、それでも何とか現状を理解しようと必死に思考を働かせる。

 だが考えがまとまるよりも早く、間髪入れず成司の拳が再度振り上げられた。


(くそっ……!)


 まずは成司を落ち着かせるしかない。

 一瞬の思考でそう判断を下した結城の視線は、即座に成司の顔ではなく振り上げられた拳へ向かう。

 激しいパニックにでも陥ったような成司は、先程から結城の顔面しか狙ってこない。激情に駆られ感情任せで動いている証拠だ。

 そこまで考えが及べば容易かった。

 振り下ろされた拳を少し首を傾けることで回避。コンクリートの床に直撃するとほぼ同時、左手を伸ばし彼の右肘を包み込むように押さえ込んだ。腕を引くことを封じられ成司はすぐさま空いた左手を握り締めるが、


「ッ……!!」


 頭に残る酩酊感を振り払うように勢いよく上体を起こし、その勢いに乗ったまま彼のこめかみ向けて右拳の側面を叩き込む。痛み以上に脳を揺らすことを目的とした打撃だ。

 直撃と同時に成司の体が傾いた隙を突いて、腹部への押し出すような蹴りでその体を突き飛ばした。

 成司の背中が背後にあった棚に勢いよくぶつかる。棚に乱雑に置かれていたペイント銃の弾や殺傷性のない手榴弾である煙幕弾がいくつかゴロゴロと落ちてきた。


「はぁ……っ、どうしたんだ、成司! 今はこんな事してる場合じゃ……ッ」


「うぐっ……あ、」


 成司が呻いている間に何とか立ち上がり臨戦態勢を取る。どういう訳かは知らないが、唐突に彼の猛烈な敵意が結城へ向いていることは確かだった。

 何か個人的な恨み? しかしこんな時に爆発させなくたって、と奇怪な成司の行動原理が何なのか自然と頭が答えを出すべく動きかけるが、


「っ……、あ、あれ……? オレなにを……」


「え……?」


 頭を抑えて顔を上げた成司は、痛みに顔をしかめながらすっ呆けたことを呟いた。

 彼は狐につままれたような様子で困惑し、戸惑いの視線を結城に投げ掛けてくる。


「ゆ、結城。今オレ、なにしてた……?」


「な、なにって……、」


 正直に僕を殴ってた、とは言えず。

 思わず口ごもる結城。

 しかし。

 次に響いた声はその場にいた二人を硬直させるに十分なオーラを含んでいた。



「―――つまんねぇなぁオイ。そのままぶっ殺してくれて構わなかったのによォ」



 その場には存在しなかったはずの第三の声。

 成司と共にそちらへ振り向くと同時、ザンザンザンッ!! と連続する衝撃が響き。

 ―――直後、廊下と隔てる演習準備室の壁やドアが粉塵を撒き散らしてバラバラに崩壊した。

 轟音を響かせて崩れ落ちる瓦礫の中、それを踏み締める影が一つ。


「ヒヒッ、見つけたぜェ? クソガキィ!!」


 立っていたのは、見覚えのある大男。

 昆虫の脚を思わせる奇怪な形状をした全長2メートルはある巨大な剣を持つその姿は、結城が正面玄関で一度遭遇し、何とか逃げ延びた醜悪な男であった。

 奴はボールペンで刺された左足を庇うように一歩前へ出ると、怒りや憎しみ、様々な感情を乗せた瞳で結城を射抜いてくる。


「ガキにやられたままじゃ引けねぇよなぁ? 光栄に思えよ? ただの糞がこの俺に記憶されてんだからよォ!!」


 まさかこの男、あれからずっとこの周辺で結城を捜していたとでも言うのだろうか。

 しかし何であれ、今の邂逅は早すぎた。戦うための準備は一切整っていない。


「こ、こいつは……!」


「っ……」


 狼狽する成司と共に訳の分からないことの連続だが、歯を食いしばり必死に頭を動かす。

 今は何とかこの危機的状況を乗り切らなければならない。

 あえて立ち向かう振りをして隙を作る、という前回と同じ手段が浮かぶがさすがに二度も通用しないだろう。現に男の表情は鬼の如く激昂し、最早加減の一つもしないことは明白だ。前回と同じ状況は作り出せない。


(最優先はマサムネとパルサーを持っての逃走……どうする……!)


 額に冷や汗が伝うのを感じながら、じっと男の動きを観察する。

 前提としてマサムネ、パルサーは使えない。ケースから取り出し安全装置を解除している暇など毛頭ないからだ。

 しかし幸いにもここは演習準備室。殺傷性はないが、様々な機能を持ったアイテムが大量に保管されている。それらを使えば何とかなるかもしれないが、やはり確実性には欠ける。

 そこばかりはもう運任せしかない。

 この緊迫した状況、迷いこそが最大の油断となる。


「……それだよなぁ。そのムカつく目が気に食わねぇんだよ。糞のくせに一丁前に俺を見やがってよォ」


 男の持つ剣のノコギリのような刃が瓦礫を打つ。ただそれだけで刃はいとも容易くコンクリートの塊を両断した。

 イライラを募らせる男の手慰めを横目に、結城は視線だけを隣の成司へと送った。

 彼と目が合う。つい先程までは怒りに支配されていた成司であったが、今はしっかりと現実を見ているようだ。その手には手放していたコンテナケースがしっかりと握られている。

 互いに視線をぶつけ合い―――方針は決まった。

 そして、


「でもよォ、それもここまでだ……さっさと消えなッ!! クソガキがァ!!」


 男に躊躇はない。

 その凶悪な武器が握られた腕が動く―――その一瞬前。

 隣に座り立ちしていた成司が足元に転がっていたペイント銃の弾倉を拾い上げ、腕のみの動きでこちらへ投げ渡してくる。右手でそれをキャッチした結城は即座に左腕を伸ばし、真横に鎮座していた蓋のない巨大なケースから銃身本体を乱雑に一つ掴む。手元に引き寄せ手馴れた動きで渡された弾倉をグリップ部分に挿入すると、男へ銃口を向けて構える―――その一連の動きが終わると同時、振り上げられる狂器。

 刃が振り下ろされるより速く、トリガーを引く。パンッ! という小さな音と共に6ミリ程度のマーキング弾が発射された。


「!!」


 この至近距離でありながら驚異的な速度で反応を示した男は、しかし飛来する弾の外観までは見えなかったのだろう、それには一切の殺傷性がないことも知らず振り上げた剣を防御へ移す。

 ベチャッ、と赤いインクが刃を塗らす。同時に一瞬、男の動きが硬直する。

 隙が出来た。

 銃を撃ったと同時にケースを抱えてすでに走り出していた結城と成司は、潜り抜けるように男の両脇を走り抜けていた。

 すれ違いは一瞬。しかし抜けたとはいえ、剣の攻撃範囲では意味がない。それはあまりにも遠い2メートル。

 男は即座に騙されたことに気付き、怒りの形相がより一層深くなる。防御の体制で構えていた刃が、振り向く動作と連動し二人の背中―――いや、結城を狙って袈裟切りに繰り出された。


「―――舐め、てんじゃねぇぞ! クソがァァあああッ!!」


(こいつ、迷わず僕を……!?)


 こちらを狙ってくることは分かっていた。しかし成司とほぼ同じタイミングで抜けることで、一瞬でもいい、どちらを狙うか迷う動作を誘発させようとした。

 だが一瞬の迷いも見せず、空気を食い殺し獲物に喰らい付く猛獣のような刃が走り抜ける結城の背中へ放たれ。

 互いの距離は1メートル強。

 しかし獰猛なる狂器の範囲内。

 つまり、


(ま、ず―――、)


 肩越しに見る、迫り来る刃。

 まるでその瞬間、世界がスローモーションになったようにあらゆる動きがゆっくりと捉えられ。

 しかし体は思うように動かず、走る両足はあまりにも重く。

 次の瞬間には襲い来るであろう、強烈な激痛に思わずその瞼をきつく閉じて―――、



「結城ッ!!」



 ドンッ、と背中を押された。

 同時に処理落ちした世界は終わりを告げ、結城の体が前につんのめる。

 だが、

 グシャ、という耳に残る嫌な音が背後から響き、

 しかしそれは結城ではなく、

 寸前で結城を突き飛ばした成司の、


「ぐ、ぁああああああッ!?」


 ―――背中が斬られた音だった。

 彼の絶叫が響くと同時、その背中から大量の鮮血がまるでシャワーのように飛び散る。

 反して真っ白になった頭でその光景を見つめることしか出来なかった結城は、彼が庇ってくれたことさえも理解できない。

 だけど。


「―――、ッ」


 激痛に歯を食い縛り、苦痛の表情を浮かべる成司と僅かに視線が交差する。

 彼は何かを訴えかけているような気がして―――。

 冷静にはなれない。

 何が起きたのか理解できない。

 だけど。

 だけど。


(動け―――ッ!!)


 間髪入れず行動できたのは最早奇蹟。

 頭が付いていかずとも、体が勝手に動いていた。

 ケースが握られているのとは反対の―――成司の左手に握られた野球ボール程度の小さな球体。結城はそれを受け取ると、安全ピンを躊躇なく引き抜き、大男の足元目掛けて全力で投げ付ける。

 ―――そう、手投げ型の小型煙幕弾。

 殺傷性はないが、煙だけを周囲に撒き散らす目くらまし。

 直後、鉄ではなくゴム製の柔らかい素材が床にぶつかると同時、木っ端微塵に破裂した。成司の背中が斬られてから、その間僅か2秒の出来事。

 視界を完全に奪う煙が演習準備室前の廊下一帯を侵食するように広がり、瞬く間に灰色の世界が広がった。


「なにィ!?」


 困惑する男の声。

 結城はその一切を気にせず、よろめく成司の肩を支えるとパルサーが入ったケースも自分で持ち、半ば友人を引きずるようにして必死にその場から走り出した。




     ◇




 どこをどう走ったのか分からない。

 そもそも今ここが第一校舎なのか、一階なのか、二階なのか、はたまた三階なのか。現在位置さえもハッキリしない。

 ただ分かることは、とにかく足を止めてはいけないこと。少しでも遠くへ行くこと。それだけを頭に、体力が限界を訴えようとも、例えゆっくりでも、息も絶え絶えの成司を背中に担ぎコンテナケースを両脇に抱え、結城は脚を動かし続けた。


「……結城……」


「…………駄目だ」


「……っ、オレを、下ろせ……」


「…………駄目だ」


「いいからっ、…下ろせって……。これじゃ、追いつかれるって……」


「…………駄目だ」


 背中に担がれる成司は背中から今も血を流している。

 斬られた、というよりも抉られたに近い深い切り傷は、最早軽い傷では済まされない大きさだ。間違いなく内臓を傷つけており、決定的な致命傷となっている。

 幸いだったのは、例え血が滴り落ち床を汚しても、すでに校舎の所々に血痕や血の水溜りができており、逃げた方向への目印にはなっていないということ。

 成司はそんな自分を背中から下ろせと言っているが、結城はそれを肯定できなかった。

 とにかく否定する。

 決して認めてはならない。認めるという事は、それはある残酷な結末を意味している。

 だから駄目だ。

 絶対に。


「…………もう、さ……」


「……」


「痛み、ねぇんだ……麻痺してる……っ、それに、息苦しくて、……すっげぇ眠い……」


「っ…………それでも、駄目だ」


 頭ではとっくのとうに理解していた。

 結城達にとっての最優先は武器の回収。それは何度も頭に繰り返している。

 だけど、無条件にそれを優先すれば背中の友人はどうなる?

 いや……もうどうしようもないという事は理解しているのかもしれない。

 それでも、

 それでも、

 それでも、

 そう声を張り続けることは間違いだというのか? それを諦め現実を受け入れることが、正しいことだというのか?

 結城はそう思いたくない。

 だって胸に誓ったばかりじゃないか。生き残っている『全員』で必ず生き残ると。

 その『全員』には当然、結城自身や友人の成司、柚木だって含まれてる。それがこんなにもあっけなく終わるだなんて、結城は絶対に認めたくない。


「…………ったく、仕方ない奴だな、お前……」


 今にも消え入りそうな成司の声が耳元で響いた瞬間、その成司本人に背中を押された。

 途端に背中が軽くなり、ドサッという音が耳に届く。慌てて振り向けば、成司は自ら結城の背中を離れ床に崩れ落ちていた。


「成司!」


「来るな馬鹿!!」


 友人の喉から振り絞る激昂が響く。

 その気迫に押され思わず足を止めると、彼は自力で壁際まで這いずり、もたれかかるようにして背中を壁に任せた。傷口にも関わらず一切顔を歪めないのは、本当に彼は痛みを感じていないのだ。神経が死絶え、つまり最も危険な状態。

 そしてそれを治療する術は、今ここには存在しない。


「どの道、このまま戻れたって助からねぇ……余計なお荷物は、置いてけよ……」


「余計なんかじゃない」


「……へへっ、そうか……でもさ、やっぱいいよ……たぶんアイツ、オレらを捜して回ってる……見つかったら、アウトだぜ……」


「…………」


 口を閉ざす。何も言い返せない。

 いつもなら正論を返せるはずなのに、何も言葉が出てこない。

 世の中に有り触れた物語の主人公だったら、きっと気の利いた言葉を、生きることへの執着を思い出させる一言が言えるだろう。そして助ける方法だって見つけてしまう。そういった物語の本だっていっぱい読んだことがあるはずだ。

 でも、何も言えなかった。

 主人公にはなれなかった。

 その情景はあまりにも遠く険しく、必死に手を伸ばしても届くような世界ではなかった。


「はぁ……っ、ちくしょう……親父やお袋、悲しむだろうなぁ……」


「…………」


「柚木やみんなも……璃々子さんにも、あと一度ぐらい、会いたかったな……」


「…………」


 そんなことない。また会えばいい。

 心ではそう思っているのに、どうしても口に出すことが出来ない。どうしても無責任に感じてしまう。

 未練を口にする成司の顔には、なぜか小さく笑みが浮かんでいた。

 しかしその理由を聞くことさえもできない。疑問を口に出すこともできない。

 非力だった。

 何も出来ない自分が、あまりにも無力だった。


「そうだ……っ、…結城……。あの男、たぶん異能力者だ……」


 成司はただ立っていることしかできない結城へ向けて、気を失わないよう必死に言葉を紡いでいる。

 たぶんこれが、彼にとって最後のふんばりなのだ。


「幻覚……だと思う……。あの時、お前の事が、あの男に見えて、さ……悪いな、殴っちまって……」


 謝るべきはこちらなのに。

 全員で助かる手段、だなんて言っておきながら最も仲の良い友人を犠牲にしてしまう自分こそが謝るべきなのに。

 決して成司が謝るべきことなんて何もないのに。


「…役立ててくれよ、な……お前にできる最後の手助けだ……」


「…………っ、」


「……おいおい、見っとも無い顔、っ……すんなよ……そんなんじゃ、みんなの前に立てない、ぜ……」


 成司の瞼が少しずつ落ちていく。

 血はいつまで経っても流れを止めず、彼の下にはすでに血溜りができている。

 もうどうしようもない。しかし彼は言う。

 目の前で佇む、初めて見る弱気な親友を見つめて。


「柚木や、みんなはさ……きっと、お前を必要としてる……っ、だから皆、お前の提案に乗ったんだ……」


「…………でも……」


「オレはさ、ちょっと運が悪かったんだよ……だから、結城……"いつものお前に戻れ"……。そうすりゃ、きっと大丈夫だ……だから、冷静なお前に戻れ……」


 いつもの自分。

 冷静な自分。

 結城はそれを繰り返す。彼の言葉を、今後一生忘れないよう脳に刻み込んでいく。


「ほら、分かったら……、さっさと行けって……」


「…………成司。僕は」


「……そう、それだよそれ……もう忘れん、なよ……特にさ、柚木の奴は、お前が絶対守ってやれ……」


「……うん」


「…………あとは……そう、だな……。あの男、絶対に……ぶっ倒せ」


「うん……任せて」


 結城は、溢れ出しそうになる感情を堪えて成司の言葉に頷く。

 成司はヨロヨロと拳を作りこちらへ突き出す。

 結城も拳を作り、こつん、と小さくぶつけた。

 何も整理はできていない。納得もしていないし、気の利いた事だって言えない。自身の無力をただただ呪う。

 だけど、もう決めるしかない。

 ―――世界は単純だ。

 0と1の答えしかない。2つの選択のうち、そのどちらかの事象しか発生しない。

 親友の言葉を受け止め、答えを、選ばなきゃならない。


「約束する。……絶対に奴を倒して、今度こそ誰も犠牲にしない」


「おう……しっかりやれよ」


 ―――答えは出た。

 恐怖に竦み、痛みを恐れ、仲間を失う悲しみを知ってしまったけれど。

 体も、そして思考も、まだ動く。

 結城は立ち上がった。

 彼の戦いが始まる。




     ◇




 橘彼方の目の前で起こる戦闘は苛烈を極めていた。

 それは決して遊びや冗談ではなく、正真正銘の『殺し合い』。互いに現実味の欠ける奇怪な武器を手に、太陽にさらされる白刃が相手の首を刎ねるべく無数に交差する。

 ―――速い。あまりにも。

 一つ一つの斬撃はまるで空気の抵抗すらも受けていないかのような、目にも止まらぬ超速で振り抜かれ敵を狙う。しかし鉄壁のように堅い守りがそれを受け止め、弾き、再び斬撃の応酬が繰り返す。

 とてもじゃないが人の動きとは思えなかった。

 言うなれば、それは化け物。

 人の皮を被っただけの化け物が命の駆け引きをしている現場だった。


(な……何が起きているの!? 香凜ちゃんを止めるべきなのに……!)


 その間には彼方の割り込む隙なんて到底ありはしない。無理矢理にでも首を突っ込んだら、何も出来ずに首が飛ぶことは目に見えていた。


『わたしは―――"本物の異能力者"です』


 香凜はそう言って自身が常識外の存在であると告白した。

 ならばそんな香凜と刃を交える男も、その"本物の異能力者"という奴なのだろうか。

 あまりにも彼方の持つ異能力者―――ESP症候群者との印象から目の前の2人はかけ離れており、住んでいる世界そのものさえ違うように感じる。

 そもそも香凜や男が持つあの奇妙な武器はなんだ。どうして物理的に斬りあっている。

 異能力者なら、もっと漫画やアニメみたいに自身の異能を使って戦うべきじゃないのだろうか。

 繰り広げられるフィジカルな戦闘に頭を混乱させるしかなく、彼方はその行く末を見守ることしかできなかった。


「ッ―――!!」


 奇怪な『盾』から伸びる三本の刃が男の首を狙う。

 躊躇も戸惑いも慈悲もなく、少女の手から繰り出される必殺の三重撃。

 しかし重なった三本による変則的な攻撃も、当たらなければ必殺とはならない。男の持つ『槍』が驚異的な速度で刃を絡め取り、弾く。同時に刃とは反対の石突が流れるように跳ね上がり、香凜の腹部を狙う。

 ガギンッ!! と金属同士が激突する。

 すんでのところで正面に構えられた『盾』たらしめる円盤部分によって香凜の小さな体が守られた。

 しかしあまりの衝撃に彼女の体が僅かに宙を浮く。


「ぐっ……!」


「軽いな」


 吐息を挟む一瞬。

 全体がしなる勢いで横一閃に繰り出された『槍』の柄、銅金の部位が彼女の脇腹へ振り抜かれる。それすらも香凜の反応は追い付き防御を取るが、再びの激突の後、踏ん張る足がすでに地面を離れていた彼女の体はいとも容易く吹き飛ばされた。

 その小さな肉体はコンクリートの地面をゴロゴロと勢いよく転がり、アパートの住人のものである車に背中を打ち付けることでようやく止まった。


「か、香凜ちゃん!」


 思わずその名を呼ぶ。

 彼女は痛みに顔をしかめながらも立ち上がるが、戦況は誰がどう見たって香凜の劣勢であった。

 槍―――長物武器の最大の特徴はその圧倒的リーチ。しかし香凜の持つ『盾』の刃も、あの速度で振るえるとは到底思えないほどの長さである。その点で言えば互いに相性の良し悪しは存在していない。いや、むしろ刃渡りが大きい上に防御面も優れた香凜の武器の方が優秀と言えるかもしれない。

 だが本人の実力差が決定的であった。

 男は先程から一度も殺傷能力のある『槍』の先端で攻撃をしていない。『刺突』というアクションを行わず、常に打撃となる部位で攻撃を繰り出している。

 舐められているのだ。

 わざわざ本気を出さずとも、殺すつもりで掛からなくとも、目の前の少女程度であれば完封できると。暗にそう伝えているようなものである。


「まだ立ち上がるか。ガキにしては見上げた根性だが、生憎とこっちはプロでな。素人の付け焼刃じゃ歯が立たないと思うぜ?」


「こ、の……!」


 歯を食い縛る香凜は間髪入れず再び突撃する。

 何度も飛び掛り、しかし簡単にいなされる様はまるで師匠と弟子のような光景であったかもしれないが、互いの持つプレッシャーがそんな甘いものではないと緊迫した空気を伝えてくる。

 何がそこまで香凜を突き動かすのか。

 あの男は助けに来た、と言っていた。血を流し地面に転がる黒い服を着た男達を見れば容易に信用できないのは分かるが、彼女はこの黒服の連中から逃げている、といったニュアンスのことを言っていた気がする。

 ならば戦う理由はないのではないだろうか。香凜やこの男がどういう存在であれ、その申し出を突っぱねて刃を向ける理由は一体なんだというのか。

 彼女は男に叫んでいた。

 普通に生きたい、と。

 その『普通』が示すものとは何なのか。彼女の求めるものは何なのか。混乱を極める彼方の頭には到底理解できそうになかった。


「……ほう。なるほど、な」


 一心不乱に刃を振り続ける香凜の攻撃を汗水一つかかずに余裕の顔で弾き続ける男は、彼女の動きをしっかりと捉えながら納得したように呟く。


「たまにセンスある攻撃をしてきやがると思ったが、お前さんそういう(・・・・)異能か。防御が上手いのも納得だ」


「ッ……! うる、さい!!」


「だが体がそれに付いていってねぇな。いくら先が見えても行動に移せないんじゃ意味がねぇぞ」


「うるさい!!」


 咆哮。

 ひときわ力の篭った一撃が振り下ろされる。が、男は軽々とそれを受け止め、僅かな鍔迫り合いとなる。接触する点がチリチリと火花を上げるが互いの武器には傷一つ付かず、尚も敵を切り裂こうと煌く刃が輝いている。


「おいおい、オレも偉そうには言えねぇが、先輩からのアドバイスはしっかり聞くもんだぜ?」


「……ッ誰が!!」


 力の競り合いでは無理だと判断し、新たに一撃放ちつつ数歩後ろへ下がる香凜。彼女の顔には焦りが浮かび始めていた。

 このままでは勝てない。本人もそう気付き始めている。

 戦闘技能が違いすぎるのだ。

 武器を振り始める初速も、そこからの加速も、狙うべきポイントも、あらゆる点において男が上を行っている。

 それはまさに戦闘のプロ。

 戦うことを常とする者の、無駄のない極められた動き。いくら香凜が規格外でも、男はそれを優に超えている存在であった。


「ま、あれだな」


 男は戦意すらも見せないかのように『槍』を肩に担ぐと、つまらなそうに香凜を見つめる。

 鋭い瞳でありながら哀れみのような色を含むそれは、元より敵を敵として見ていないことが見て取れた。


「たまにいるんだわ、お前さんみたいに『普通』に憧れる頑固者がな。だが何度でも言うが、もうお前は『異常』だ。後戻りできないぐらいこっちに染まっちまってる。真っ赤な血の色にな」


「……っ、でも!」


「EPから逃げながら生活か? そうして以前も捕まったんだろ? んで、第二収容所で体を弄繰り回されていい実験動物だ。その先は生きながら死んでるも同然。お前は人間よりモルモットになりたいのか?」


 EP。第二収容所。

 彼方にとってもいくつか聞き覚えのある単語が飛び交うが、やはりいまいち話が見えてこない。そもそもあの二人が異能力者だと定義することすら難しいというのに。

 完全に蚊帳の外になっている彼方は、呆然とその行く末を眺めるしかできない。


「……以前は、油断しただけ」


「そう言って捕まった奴が何人いると思う? 死んでいった奴がどれほどいたと思う? お前はEPを侮ってる。奴らは世間で言われてるほど正義じゃない。『裏の顔』はただの畜生であり、オレ達異能者を狩ることに特化したハンターだ」


「…………、」


「事実、お前はすでに狙われてる。そこに倒れてる連中もそう。これから先ずっとこいつらに追い回されると分かって……お前はまだ答えを曲げる気はねぇのか?」


 男の言葉にはある一つの感情が明確に現れていた。

 同情。

 慰めでもなんでもなく、心の底から香凜の事を哀れみ、まるで自分のことのように親身になって共に感じている。それはパッと出の出任せではない。彼の本心が表に出ていた。

 香凜はその事を分かっているだろう。だから何も言い返せない。

 しかし彼女は武器を納めることはしなかった。

 それでも突き通したい何かが、香凜の中にはあるのだ。小さな手が奇怪な『盾』を握り締め、伸びるの三本の刃の切先が男へ向く。


「……そうかい」


 男はそれこそ心から残念そうに溜息を吐き出すと、改めて『槍』を肩から下ろし。

 ―――構えた(・・・)


「なら仕方ねぇ。大人しく言う事を聞かねぇってんならさっさと眠ってもらうぜ。こっちも早くしろって急かされてるもんだからな」


 今まで気だる気に腕を下ろしていただけなのに、そこで初めて戦闘態勢を表す男。そこから滲み出る身の毛もよだつプレッシャーに香凜の体が僅かに震えたのが分かった。

 だが少女も決して引かない。

 男の一挙一動を正確に目で追い、ほんの一瞬の隙でもいい、一撃を叩き込む瞬間を狙う。そこにこそ香凜にとっての勝機が存在するはず。

 その沈黙は一秒にも一分にも感じられ。


「はぁ―――ッ!!」


 痺れを切らしたのは香凜だ。 

 大きく一歩を踏み込み、今までにない程の威力と速度を乗せた三本の刃が白銀の光となって男を狙う。

 狙いは首―――ではなく、脚。

 勢いに任せて急所に狙いを定めるのではなく、あえて足元を狙った不意の一撃。

 刃は空気を切り、一陣の風となって敵を斬る―――!

 が。


 ギンッ!! と刃を穿つ衝撃。

 香凜の『盾』が、気が付けば()()()()()()()()()


「―――」


 吐息はなく、予備動作すら感じられず。

 それはまさに音速。

 一切の動きが捉えられないほどの速度で放たれた刺突が、香凜の全力を伴う斬撃を真正面から穿ち。

 しっかりと握っていたはずの『盾』が、遥か上空へと弾かれていた。

 男の獲物を狙う鷹のような視線が香凜を捉えている。

 まずい、そう感じた時にはすでに遅く。

 突きを放たれた姿勢から槍が垂直に回転し、しなる柄の後ろ先端、石突が容赦なく香凜の腹部へ突き刺さった。


「か、……はっ……!?」


 ドスッ! と。

 たったそれだけの打撃にも関わらず、軽自動車にでも轢かれたような衝撃が香凜を襲う。

 立つだけの力さえも一撃で奪われ、その場に膝を突き蹲る。途端に猛烈な嘔吐感に見舞われ、我慢も出来ずに小さな口から吐瀉物が吐き出された。


「ぉえっ……! ぁ、はっ……!?」


 胃液をびしゃびしゃと吐き出し、思考さえも麻痺する激痛に小さな体が痙攣を起こす。

 唇は震え、這いつくばる姿はまるで生まれたての小鹿。

 しかし尚も彼女の瞳から戦意は抜けない。

 必死に上体だけでも起こし、弾かれ、地面に落下した己の武器へと震えた手を伸ばす。だが、


「……」


 一言たりとも口を開かない男の手から、無慈悲な一撃が叩き落される。

 背中の中央に『槍』の石突が再度突き立てられ、杭でも打たれたように香凜の体が地面に叩きつけられた。メリメリ、と気管を圧迫するように石突が食い込んでいく。


「が、ぁあああああっ!?」


 武器へ手を伸ばすどころか、身動きすら取れない香凜から悲痛な声が鳴りはためく。

 彼女の体も心も満身創痍。

 とてもじゃないが戦えるとは思えないにも関わらず、苦痛に歯を食い縛りながらも香凜の瞳からは戦意が抜けようとしない。その戦意を刈り取ろうと、男は無言で見下しながら『槍』を突き立てる。

 圧倒的だった。

 気迫や運だけでは乗り切る事のできない実力差がそこにはあった。


(か、香凜ちゃん!)


 ただじっと眺めることしかできなかった彼方の思考が、吸い込まれるように現実を直視する。

 今にも途切れてしまいそうな悲鳴を叫ぶ香凜に、『槍』を突き立てギリギリと押し込んでいる男。決して刃で彼女の柔肌を傷付けてはいないが、その圧迫にどれだけの重量が含まれているのかは香凜の様子を見れば想像できた。


(こ、このままじゃ……)


 死ぬ―――ことはなくとも、意識を刈り取られた香凜はあの男に連れて行かれるだろう。

 しかしそれでいいのだろうか? 彼方は自問自答する。

 今は完全に蚊帳の外だ。部外者かもしれない。関係のないことだと割り切ればいいのかもしれない。

 だけど今ここで、苦しむ少女に手を差し伸べず傍観していることが、正しいとでもいうのだろうか?


(このままじゃ香凜ちゃんが……!)


 頭の中を巡るのは、男に対し激昂する少女。無機質に淡々と語る少女。そして彼方に笑顔を向けていた可愛らしい少女。

 でもそれ以上に、彼方の頭にへばり付くのは。

 血塗れで倒れ、彼方に助けを請ってきたあまりにも小さな少女だった。

 彼女は言っていた。自身は異能力者であると。

 追われており、その3人の男を自分が殺したと。

 そんな自分を異常者だと思ってくれて構わないと。


(私、は……、)


 しかし少女は言った。

 看病してくれたこと。食事をご馳走してくれたこと。どこにも連絡せず、助けてくれたこと。それらに感謝し、その思いは嘘偽りなく本心だと。

 まだ子供だというのに一体どれほどのものを背負っているのか、彼方には理解することが出来ない。

 だが香凜の言ったことを思い出す。


"それでもあなたはまだ……わたしの味方でありたいと言えますか?"


 男が現れる前、どこか悲しそうに言い残したことを思い出す。


"―――色々とお世話になりました。さよなら、です"


 たぶん彼方と香凜では、住む世界が違うのだろう。それはとっくのとうに理解していた。

 見ているものも、感じているものさえも、きっと同じなようで相違している。

 だから香凜は言ったのだ。別れの言葉を。

 彼方をこれ以上巻き込まないために。


(でも、さよなら、なんて―――、)


 ……それは何だか、とても悲しい気がした。

 出会って大した時間は経っていない。彼女の事を友達と呼べるのかどうかも分からない、薄っぺらい関係でしかない。

 何度だって言える。彼方は完全に蚊帳の外だ。部外者かもしれない。関係のないことだと割り切ればいいのかもしれない。きっとそれが最善であり、余計なことに首を突っ込まないのが正解なのだ。

 それでも、

 それでも、

 それでも、

 助けたいと思うのは、決して間違いじゃないはずだ。放っておけないと感じるのは、絶対に間違いなんかじゃない。さよならを惜しんだって、それは当たり前の想いのはずだ。

 10年前の災厄を思い出す。

 あの時の自分自身と重ね、血に染まった香凜に手を差し伸べた。それはきっと、彼方を助けてくれたあの少年への憧れだった。必死に声を掛け続け、灰色の世界で僅かな光を灯してくれた少年への。

 ならば今ここで。

 再び香凜へ手を差し伸べることに意味を作るとしたら。

 それで十分なのではないだろうか。


(……、)


 答えは出た。

 きっと何も出来ないかもしれない。戦う力を持ち合わせていない彼方に、香凜を助けようだなんて想いはおこがましいのかもしれないけれど。

 体は動く。頭だって働いている。

 彼方は顔を上げた。

 身を奮い立たせ、息を整える。恐怖で身が竦みそうになるけれど、必死に我慢する。

 どうせぼんやりとした日常を過ごしてきただけなのだ。たった一度くらい、勇気を振り絞ってみるのも悪くはないだろう。


(あれ、は)


 眼鏡のレンズを通し、無造作に地面に転がる香凜の『盾』に視線を送る。

 あの二人みたいに驚異的な身体能力もなければ、戦う力もない彼方にあの場へ切り込む残された唯一の手段は、あれしかない。

 それでどうなるかは、その時考えよう。事前にいくつも策を練れるほどの頭脳を彼方は持ち合わせていない。

 考えれば行動は早かった。

 僅かに震える脚に渇を入れ、走り出す。一直線に『盾』の元まで駆け寄ると、香凜が握っていたように盾の裏に付随している持ち手を握り締める。力を込めて持ち上げると―――想像以上の重量感であった。


(お、重っ……! けど……、ッ)


 これを片手で振り回していたというのが信じられないが、彼方も両手で持てば何とかなる。

 ズシリと両肩に圧し掛かる重さに全力で抗い、展開する三本の刃をほとんど引きずるようにして走り出した。

 地面に平伏す香凜が、彼方の行動にいち早く気付いた。両目を見開き何か言おうとしているが、痛みに顔をしかめ吐息を吐き出すことしか出来ない。


「あん?」


 横合いからの異変に気付いたらしい、男がこちらへ首を動かす。

 それとほぼ同時、彼方は自分の持てる最大の力を込め、『盾』の刃を男の『槍』へ向けて水平に振り抜いた。


「香凜ちゃんからっ……は、なれろぉ……!!」


 ブゥン、という重々しい音が響き、振るというよりも振られているような不恰好さで刃が迫る。

 しかし。

 彼方にとっては渾身の一撃も、男にとっては腰も入ってなければ体重も乗っていない粗末な一撃でしかない。香凜を押し潰していた『槍』が持ち上がると、手首のスナップだけで振るわれた切り上げがいとも容易く刃を絡め取り、打ち上げる。

 勢いが正反対へ反射されたような衝撃に彼方は体ごと持っていかれ、『盾』を手離しはしなかったものの後ろに尻餅を付いてしまう。それだけでも凡人の彼方にとっては痛みが伴う。


「か、……彼方、さん……なんで……!」


 地面にうつ伏せで倒れる香凜が、声をかすれさせながらも言葉を振り絞る。

 唐突な彼方の無謀な行動に止めるなければと思う焦りと、そもそもの行動原理が理解できない困惑が混ざっているようだ。

 しかし一度決めた以上、彼方は止まる訳にはいかない。両肩の痛みに耐えつつ、再び立ち上がって『盾』を持ち上げる。切先は地面に付いたまま、じっと緊張した面持ちで男を見据えた。


「あー、面倒なことになったなぁ……」


 空いた手で頭を掻きつつ、男は面倒くさそうに呟く。


「EPでもなければ一般人に手を出すなってお達しなんだがなぁ……こういうのは流石に想定してねぇぞ」


 男の眼差しが正面からぶつかる。

 それだけで身震いしそうになるが、その視線に敵意が含まれていなかったのが幸いだ。必死に逃げ出したくなる欲を押さえ込み、ぐっと『盾』を持つ両手に力を込める。

 あの化け物染みた男相手にどうにかできるとは思っていない。

 だがせめて、素人の悪あがきで良い。香凜が逃げ出す隙さえ作れればそれでいいのだ。


「なんで……」


 しかし彼方に言葉を投げ掛けてくるのは、他でもない香凜であった。


「馬鹿なことは……やめてください……! あなたが、怪我するだけです……っ、そんな事したって無駄ですから……っ」


「……」


「彼方さんを、巻き込みたくは……ないん、です……だから……!」


 香凜の言っている事はもっともだ。

 しかし今、彼方がここに経っているのは彼方自身のワガママである。こちらを気遣ってくれる香凜の言葉は嬉しいが、今は彼女の言い分を聞く必要はない。


「……と言ってるが。そういう事だ、無関係な譲ちゃんよ」


 男もわざわざ香凜の相手などしている暇はない、と言外に伝えてくる。


「オレらと違って折角『そっち』にいるんだ。わざわざ『こっち』に首を突っ込むのは、冷静な判断とは言えないぜ。クールになれよ」


 そうだ。彼の言う通りだ。今の自分が決して冷静とは言い難い精神状態であることは、彼方自信がよく理解している。

 だが、それでもやはり引く理由にはならない。

 大事な瞬間なのだ。あの小さな、それでいて大きな少年の背中に追いつくための、最初の一歩なのだから。


「……勝手だよ」


「え……?」


 だから彼方は言ってやる。

 目の前の少女へ向けて、今ある自分自身の本心を。


「香凜ちゃんは……勝手だよ。人のことを中途半端に巻き込んでおいて、それでさよならだなんて……勝手すぎるよ……」


「彼方、さん……」


「はいそうですかって納得できるほど、私は頭が良くないの……訳の分からないモノをいっぱい振りかざして、人を置いてけぼりにして……そういうの、勝手なんだよ……」


「……」


 香凜の顔を見る。

 色んな感情が見え隠れしていた。怒りも、悲しみも、嬉しさも、戸惑いも、色んな想いが香凜の表情から見て取れる。


「ちゃんと説明してよ。何か事情があるなら、分かるように教えてよ。思わせぶりな事ばかり言わないで、ハッキリ口に出してよ。……中途半端に巻き込まないで。どうせ巻き込むなら、最後まで全部私のことを巻き込んでよ!!」


 それが彼女への不満の全てであった。

 駄々っ子であることは十分に理解している。自分が子供だという事も。

 だけど。

 巻き込んでまた見せて欲しい。彼女の可愛らしい笑顔を。例え無謀であっても、その手助けをしたいと思うのは悪いことではないはずだから。


「……彼方さん……」


 それでも香凜は何か言いたげであったが、すぐに視線を男へ向ける。

 奴は呆れたようにやれやれと首を振っている。


「戦闘に巻き込まれる一般人ってのはたまにいるが……自分から首を突っ込む奴がいるとはな。算段のある天才か、勇敢と無謀を履き違えたよっぽどの馬鹿か……」


 残念ながら彼方は後者だ。

 それを分かった上で体を突き動かしている。自分でも不思議なくらい勇気ある感情に背中を押されて。

 相変わらず男は気だる気な視線でこちらを眺めているが、まるで彼方の事など道端の雑草とでも思っているような瞳である。


「どっちでもいいがよ……『こっち』はお前さんが思っている以上に真っ暗闇の世界だ。譲ちゃんみてぇな奴は一度入ったら逃げられねぇ。いや、そもそも入ることすら叶わねぇ。このガキの言う通りこれ以上関わらないのが懸命なんだがねぇ」


「……、」


 吐息を吐き出しつつ、彼方の精一杯の強気で男を睨む。

 それを見て彼は、「そうかい」と面倒そうに呟いた。


「今日は随分と厄日だなぁおい。女運の悪さは自覚があるが、ここまでとはよ……まぁとりあえず、」


 男の『槍』を握る右手が僅かに浮く。

 それを合図に何かが来る。得体の知れない雰囲気を感じ取った彼方は咄嗟に構えようとして、


 トン、と小さな足音。

 瞬きの僅かな瞬間、男は()()()()()()()()()()()


 目を見開く。息を詰まらせる。

 あまりに一瞬の出来事に言葉一つ発することも出来ず、止まりかけた心臓が彼方の全身を硬直させ。


寝てな(・・・)


 たった一言。

 ゴンッ! という衝撃が体を揺らしたのは直後の出来事だ。

 視界が黒に染まり、脳が掻き回されたように上下感覚を失い、僅かの間意識が途切れる。

 ―――意識が戻ったとき、彼方は自分が地面に倒れていることを悟った。

 仰向けに倒れ、上空には曇りがかった青空が広がっている。立たなきゃ。頭ではそう思っても体が動こうとしない。

 深く何かを考えようとしても頭が呆然とし、そもそも自分が何をしていようとしていたのかさえもハッキリとしない。こめかみ辺りから走るズキズキとした痛みもまるで夢の中の出来事のように正確に脳が理解しようとしない。

 視界には白色の亀裂が走っていた。

 呆然とそれを捉え、眼鏡壊れちゃったな、とまるで他人事のようにつらつらと考える。


(―――、)


 誰かの声が聞こえる。

 女の子、どこか聞き覚えのある声。それには悲痛な色が滲み出ており、必死に誰かの事を呼んでいるような気がした。


(そう―――だ―――、香凜――ちゃ―――、)


 断絶する思考の中、助けたいと思った女の子の顔と声が思い浮かぶ。

 そうだ、助けなければ。あの小さな体で多くのものを背負っている女の子を。

 しかし頭では感じるのに、体は動こうとしない。信じられない程の気だるさが全身にのしかかっている。それに瞼がひどく重たい。何者かの手によって眠りへと誘われているようだ。

 その誘惑はとても魅力的に感じて、ここで眠ってはいけないと思考のどこかが訴えているにも関わらず彼方は少しずつ瞼を閉ざしていく。


(―――――――――、)


 甘い誘惑。それこそが彼方を救ってくれるような、甘美なるテンプテーション。

 ―――ああ、別にいいか。

 とても気持ちのいいそれに、全身を預けてしまうことには不思議と抵抗がなくて。

 響き続ける誰かの叫びはとても苦しそうで、眠りに落ちる彼方の手を掴もうとしているようだったけれど、それを掴み返すだけの気力を持てなくて。

 きっと目を覚ましたら、いつもと変わらぬ世界がある。

 それでいい。

 たぶんそれが最善なんだ。

 今までのは夢か何かだったんだ。


(――――――…………、)


 彼方の瞳に映る青空は、気がつけば雲に覆われていた。

 灰色。どこかで見覚えのある世界。


 ―――ふと、何かを思い出した。それは誰かの背中だった。

 チクチクと脳を刺激するような記憶に、だけど誘惑の手を休めない眠気には抗うことができず。

 瞼を閉じて、その快感さえも覚える睡魔に身を任せた。







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