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ESP:Children  作者: ゆたなるい
Chapter01 喪失者達は世界を知る
3/8

第03話






 携帯で時間を確認するとすでに午前9時を過ぎていた。

 高校の制服を身にまとい、しかしこの時間になっても自宅を出ていない橘彼方はそっと視線を自分のベッドへと向けた。

 そこには安らかに寝息を立てる、見たところ12歳程度の小さな女の子が横たわっていた。


(なにやってるんだろ……私……)


 長い髪をシーツの上に散らして眠る、女の子の可愛らしい寝顔をじっと見つめて彼方はぼんやりと昨晩の出来事を思い出していた。

 一晩たった今でも鮮明に記憶から掘り起こせる血みどろに濡れた少女。

 助けを懇願してきた彼女を、彼方は放っておくこともできずこうして自室で寝かせていた。


(父さん、早朝出勤でよかった……こんなところ見られたらなんて説明すればいいのか分からないし)


 まさか正直に"アパートの前で血だらけの女の子がいたから放っておけなかった"……とは言えないだろう。

 そもそも信じてくれるか分からない。いくら寛大な父とはいえ理解に苦しむだろう。


(相談は……できないよね。さすがに)


 大学教員であり研究者としての面も持つ父・義弘は、普段はおちゃらけた性格ではあるが身元引取り人が見つからなかった当時6歳の子供、その上記憶喪失だという―――つまり橘彼方を、まったく関係のない他人でありながら引き取ってくれた器の大きい男だ。

 もしかすると説明すれば何か手を回してくれるという可能性もなくはないが……ただでさえ毎日世話になっている身だ。これ以上父の元に面倒を持ち込むわけにはいかない。


(というかなんで次の日早いのにビール飲んでたの……)


 そのおかげでこの子を自室に連れ込めたので彼方的には好都合であったのだが。

 あの後血だらけの少女を抱えて部屋の前まで来たはいいが、我が家は2DKの小さな間取りだ。もし買い物に出ていた彼方が帰ってきたら、仮に父が部屋に篭っていても気付かれるだろう。

 その為一度確認として彼方一人で自宅の中を覗いたら……父はトイレの個室で、便器に顔を突っ込んだまま爆睡していた。どうも彼方がドリンクを買いに出かけている最中にその体勢のまま眠ってしまったのだろう。

 酷く間抜けな絵面ではあったが、そっとトイレのドアを閉めて誰にも気付かれず少女を連れ込むことに成功した。

 その後は自室ではなく浴室へ連れて行き、血が染み込んで重くなっている服を脱がせ、血の汚れを入念に洗い流して現在。小さい頃の彼方の私服を着せている少女は一晩経った今でも目を覚ましてはいなかった。


(……でも、おかしいよね)


 彼方は少女の寝顔を見つめながら、昨晩から浮上していた疑問を反芻する。

 目を覚ましていないこと、ではない。

 浴室で血を洗い流していた時に感じたこと。


(……傷口がほとんどなかった)


 少女の体はバケツの水でも被ったように全身が血で濡れていた。肌も、髪も、服も。どうやったらそんな格好になるのか不思議なくらい。

 あまりにも衰弱しきった少女の様子から、やはり体のどこかに致命傷を受けてそこから流れ出た血なのでは……と思い服を脱がす時は緊張したが、いざ一糸纏わぬ姿にしてみたら。

 ―――それらしき傷跡は一つたりとも見当たらなかったのだ。

 それどころか掠り傷すら見当たらない。シャワーで全身を綺麗にしても、彼女の柔肌に傷付けられた痕跡は存在しなかった。

 ならば。

 あの血はなんだったのか。考えられる可能性は2つある。

 一つ。人の血液に似せられた別の何かだという可能性。……しかしこれはいささか信じがたい。実際に見て触ったからこそ分かるが、妙に鼻に残る鉄臭い独特の臭いに、薄いとも濃いとも言い難い特徴的な赤黒さ。あれを偽者だとは思えなかった。

 仮にそうだったとしても、こんな小さな女の子が偽の血を全身に被るような理由が見当たらない。映画やドラマの撮影? だとすれば近くに番組の撮影スタッフがいるはずだろう。

 だとすれば、残されたもう一つの可能性は。

 彼女を濡らしていた血は紛れもない本物で、しかしそれは少女自信の血ではない。

 つまり、


(……やめよう……)


 考えるのをやめた。なんだかこれ以上先を考えるのはあまりに恐ろしい事のような気がした。

 それに、少女が目を覚まし話を聞くことができればいずれ分かることだ。答えを急ぐ必要はない。


「………はぁ……」


 ベッドの脇に背中を預け、カーペットの上に両足をだらしなく伸ばしながら溜息をつく。

 昨日から果たして何度目の溜息だろうか。

 手持ち無沙汰に携帯を再度取り出し画面を開く。メールボックスには佐藤華からのメールが一通だけ届いていた。


『今日休み? 先生には風邪って言っといたよ』


 彼女には何も報告を入れていないのにありがたい気遣いをしてくれている。思わず口元が綻ぶが、『風邪だよ』と嘘を吐くのは申し訳なくて返信はできなかった。

 今度飲み物か購買のパンでも奢ろうと心に決める彼方である。

 メールボックスを閉じ、ホーム画面をぼーっと眺める彼方の視線の先には通話画面へのアイコンがあった。

 昨日から何度も繰り返している。

 救急車―――いや、警察に連絡を入れるべきかどうか。


「…………」


 本来であれば入れるべき、なのであろう。

 こんな小さな女の子が夜中に街をふらふらしているという時点で危ないのに、原因不明の血と、傷がないのになぜか酷く衰弱していた少女。彼方のような女学生一人が抱えるような問題では到底ないはずだ。

 だからこうして、昨夜から一睡もせずにたまに携帯を開いては睨めっこしているのだが、その度に気を失う直前の少女の言葉と悲痛な表情を思い出し手が止まる。

 『どこにも連絡しないで』と途切れ途切れに紡ぐ彼女が、あまりにも悲しそうだったから。

 その姿があまりにも苦しそうで、けれど確かな意思が宿っていて。


「………はぁ……」


 再び溜息を吐き出し、携帯を閉じる。やはり無視なんてできっこなかった。

 考えても無駄なことは一旦脇に置き、今は目下に広がる明確な問題だけを考えよう。

 一つはこの少女がいつになったら目を覚ますのか。いくらなんでも寝すぎである。いや、寝ると言うよりかは気絶したといった方が正しいのかもしれないが……現在は気持ち良さそうに寝息を立てている。いい加減起きてもいいんじゃないだろうか。

 ネットと睨めっこして徹夜慣れしている彼方としては一晩彼女を見守ることは何とかなったが、体中に昨日一日の疲れは残留したまま。いつまでも続かない。いい加減目を覚ましていただき、状況を進めてほしいところだ。

 もう一つは父が帰ってきた時になんて言い訳するかだ。

 朝は少女の体を毛布で隠し、部屋の窓を開けてから一度学校へ行くフリをする。その後アパートの部屋が一階ということも幸いし窓から再び自室へ帰還し、父が仕事に向かうまで隠れていることで何とか乗り切ったが……帰ってきた時のことはさすがに考えていない。

 少女が目を覚ますにしても、このまま眠った状態が続くにしても、一緒に暮らしている以上隠し続けることは不可能だ。何か対策を考えなければならない。

 天井を見つめながらあれこれ考える彼方は後ろへ振り返りもう一度横たわる少女へ視線を向けた。

 ……向けたのだが。


「……え?」


 思わず素っ頓狂な声がもれる。


 ―――目が覚めていた。

 今まさに試行錯誤の渦中にあった少女が。


 彼女は体こそはまだ倒したままだが、先程まで閉じられていた瞼は確かに開き、丸く綺麗な瞳がその下から覗いている。自身の陥っている状況に戸惑いを隠せないのか、振り向いた彼方に困惑した表情でじっと視線を送っていた。


「……」


「……」


 対する彼方も突然の出来事に身を固めてしまい言葉が出ない。あれやこれやと聞きたいことは山ほどあったはずなのに、頭の中が真っ白になってしまい次の言葉が出てこない。

 ……いや、落ち着け。落ち着くのだ橘彼方。

 現状、この場の主導権を握るべきは彼方のはずだ。助けを懇願し、しかしどこにも連絡を入れないでほしいという少女のお願いに忠実に従い、わざわざ体を洗ってベッドで寝かせてあげたのである。ここまでやったのだから多少上から言ったって文句はないはずだ。

 それに相手は年下である。同い年や年上ならともかく、こんな小さな子供相手に動揺しているようでは話にならない。

 意を決し、『目が覚めた? ところで君の名前を聞かせてもらえるかな』とでもスマートに言ってやると彼方はようやく口を開いた。


「ぁ、あの……だい、じょうぶ……?」


 無理だった。

 小さい子相手にも人見知り全開である。

 どっちが家主なのか分からないぐらい震えた声の彼方に、しばし呆然としていた少女だが、


「……あ!」


 突然大事なことでも思い出したようにベッドから飛び上がり、辺りを見渡す。部屋の窓を見つけると飛びつくような勢いで近寄り、外の景色を食い入るように見つめ始めた。

 なにをしているのだろう、と少女の背中を間抜けな表情で眺める彼方に、しばらくして少女がおずおずと尋ねてきた。


「……その、誰も、来てないですか……?」


「え……?」


「えっと……黒い服の、その、大人の人とか……」


 何やら言葉を選ぶように曖昧な問いを投げ掛けてくる。

 何が言いたいのかイマイチだが、この子を部屋に連れ込んでからは父の義弘しか見ていない。素直に首を振って否定した。


「………よかった……」


 それが余程嬉しい答えだったのか、少女はフローリングの上にペタリと座り込んでしまった。

 表情を窺うにまだ疲れが抜けきっていないというか、万全ではない、とでも言うべきか。若干の陰りを感じるが、僅かに涙目になりながらもほんの微かな笑みを浮かべる少女は何だか母性をくすぐられる雰囲気があった。


「あの……」


 今度こそ少女はその視線を彼方へと固定し、僅かに上目遣いになりながら言葉を搾り出してきた。


「あなたのこと、少し、覚えてます……助けてくれたん、ですよね……?」


 彼女が言うのは昨晩の出来事のことであろう。

 ぼけっと口を開きっぱなしにしていた彼方はようやくハッと我に返った。


「……え? あ、うん」


「その……どこかに連絡は……」


「し、してないけど……」


 彼方の言葉を聞いて今度こそ安心を得たのか、少女は安堵の息を吐きながら胸をなでおろした

 ……こうして喋ったり表情をコロコロ変えたりする姿を見ていると、とても可愛らしい子なのだなと呑気にも実感した。きっと将来はアイドルかモデルのような美人さんになるのではないだろうか。


「……えっと、ありがとうございます。助けてくれて」


 少女はお礼を口にしながら小さく頭を下げる。この歳で礼儀もしっかりしていて非常にできた子だ。


「わたし、穴吹香凜あなぶきかりんと言います。えっと……、」


「……? あっ、ええっと、橘彼方……です」


「彼方さん、ですね。本当にありがとうございます」


 慌てて年下相手につい敬語が出てしまう彼方とは打って変わって、少女は少しずつ落ち着きを取り戻してきたようだ。一つ一つの台詞からも戸惑いの色が抜け落ち始め、言葉遣いも非常に丁寧だ。たぶんこれが穴吹香凜という少女の素なのであろう。

 香凜は改めて頭を上げると観察するように自分の体―――というより、着ているものへと視線を泳がし不思議そうにしている。とうに元々自分が着ていたものではないことに気付いているのであろう。


「この服は……」


「わ、私の……その、お古だけど」


「あっ、そうなんですか」


 小さく驚いた香凜は腕を伸ばしたりなんだりして舐め回すように自身の体を見下ろしている。随分と興味深げであり、なぜだろうか、少し嬉しそうだ。


「? 何か、変なところある……? サイズ合わないとか……」


「あっ! いえ! そういう訳じゃないんです!」


 投げ掛けた問いに香凜は慌ててこちらに向き直ると、少し頬を染めて恥ずかしそうにぶんぶんと両手を振った。


「サイズはぴったりです。動き易いですし、ありがとうございます。ただ……」


「?」


「……その、お恥ずかしながらこういった綺麗なお洋服を着たことがなかったので。何だか舞い上がってしまいました」


 恥ずかしながらも嬉しそうにする少女にしばし呆気に取られる彼方だが、そんなに綺麗なものだろうか? とつい首を捻る。

 確かに安物ではないが、ブランド製品というわけでもない。まだ彼方が12歳の頃に全国チェーンの服屋で義弘に買ってもらった服だ。女の子が舞い上がるほどの物品ではないと思う。

 言われてみれば元々香凜が着ていた服は、柄や模様もなければ文字もない、無地のシャツとスカートという格好だった。それに比べたらまだお高い品ではあるが……彼女の実家は貧乏だったりするのだろうか。

 と、ぼんやり考えていたところでふと我に返る。そんな事を考えてる暇ではなかった。

 目の前の少女には聞かなくてはならない事が山ほどある。いつまでも流れに身を任せているわけにはいかないのだ。

 慌てて気持ちを入れ替えじっと正面を見据えた。


「あ、あの……!」


 真剣な表情で見つめる彼方に、香凜も思わずといった様子で姿勢を正した。

 意を決し、血のこと、倒れていたこと、そして何があったのか。それを聞き出すべく口を開いて、


 ぐぅ~~~、と奇妙な音が小さく響いた。

 きっと、いや間違いなく、それは穴吹香凜のお腹から鳴った音であった。


「……」


「……」


 途端に顔面を真っ赤に染めた少女は慌ててお腹に両手を添えるが、そんなことしたら自分の鳴らした音だと彼方に伝えているようなものである。

 それはもう恥ずかしそうに、こちらを見たりあちらこちらへ視線を送って、何も言わないが慌てふためいている様子を見ていると、流石に話を続ける気にはなれなかった。

 何だか拍子抜けした彼方は、一旦聞こうとしていたことは心の奥へしまいこみ、代わりに尋ねることにした。


「なにか……食べる?」


 彼方の気遣いに益々顔の熱を沸騰させる香凜であったが、一度自覚した空腹には耐え切れなかったのか、やがておずおずと頷いた。




     ◇




「……では、彼方さんは例の事件からずっとお一人なんですか?」


 橘家の小さなダイニング。空腹を訴えた香凜に、とりあえずありあわせの食材を適当に炒めて作った野菜炒めとごはん、味噌汁を与えた彼方は、嬉しそうに食事を頬張る香凜をたまに会話を飛ばしながらじっと見つめていた。

 正直なところ女子力の欠片もないと自負する彼方はまともに料理ができず、頑張ってもその程度が限界であり客人に出す料理ではないのではないかと少々心を痛めながら振舞ったのだが、香凜はよほどお腹が空いていたらしい。見た目年齢と比例する子供らしいがっつきっぷりでぺロリと平らげてしまった。

 現在は麦茶をちょびちょび口に含んでいる。


「ううん。記憶喪失で親戚も見つからなくて色々と問題を抱えていた私を、今の父さんが引き取ってくれたの。だからずっと二人で暮らしてる」


 特に当たり障りのない話題が見つからず、少しずつ香凜と会話することに慣れてきた彼方は自身の身の上を話していた。

 記憶喪失のことなど洗いざらい口にする彼方ではあるが、まあ特に隠しているようなことでもないため粗方話してしまっている。


「父親と二人……大変じゃないですか?」


「……私は世話になってるだけだから、そうでもないけど。……父さんはどうなんだろう」


 そんなことあまり考えたことなかった。

 できるだけ迷惑や面倒ごとを持ち込まないように、とは心掛けているが言われてみれば父は元々一人暮らしだったわけだ。おそらくは彼方を引き取る際に現在のアパートへ引越し、男手一人の収入で自身と彼方の生活費をまかなっている。

 大変……なのかもしれない。

 顔にも口にも出しはしないが、おそらく義弘はそういう事を家族には隠すタイプの人間だ。彼方の知らぬところで頭を悩ませていてもおかしなことではない。


(アルバイトぐらいしてみようかな……)


 彼方も高校生。あと数月過ぎれば2年生だ。

 どうせ部活にも入っていないのだし、アルバイトの一つや二つ問題はないはずだ。

 もし何か厳しい点を上げるとすれば彼方の人見知りだが……そこは頑張って慣れるしかないだろう。


「あちらが彼方さんのお父さんですか?」


「え? あ……うん」


 香凜が不思議そうに指差すのは、テレビ台の端に置かれた小さな写真立て。家族写真……というと二人しか写っていないので少し見劣りするかもしれないが、まだ10歳だった頃の彼方と義弘が並んで立っている写真があった。

 どちらも笑顔だ。彼方も、その頃はすでに父と新しい生活に慣れていたため心から笑えていたはずだ。記憶だと二人で家族旅行……京都まで足を運んだ際に伏見稲荷大社で撮ったものだった。


「……記憶を失ってた私に今の名前を付けてくれたのも父さんなの。思い返すと本当に世話になりっぱなし」


「いいお父さん、ですね」


「……うん」


 きっとそれは間違いではないだろう。

 いい人でなければ、そもそも彼方を引き取ったりだなんてするわけがない。


「ちなみに職業な何をしてらっしゃる方なんですか?」


「父さんは国立の工業大学で教師やってる。それと併用して研究とか」


「……研究?」


 ピクリ、と香凜が何かに反応しように顔を上げる。何を思ったのか僅かに眉をひそめている。

 研究、と聞いて具体的に想像できないのだろうか。あまり馴染みのある言葉でもないのは確かだろう。


「大学の研究室で何か色々とやってるらしいよ。でも大学教員のついでだから、そっちの収入とかはないらしいけど」


「そうなんですか……あの、ちなみにどんな研究を?」


 随分と踏み込んでくる。どうしたのだろうか。

 といっても隠すようなことではない。それに、父が恥ずかしいことをしているわけでもない。香凜の問いに彼方は正直に答えた。


「えっと……『ESP症候群』って分かる?」


「……」


 彼方の言葉に、しかし香凜は突然口を閉ざした。

 何かを思いつめるような表情でテーブルの上に視線を落としている。


「? ……香凜ちゃん?」


「………え? あ、はい! 知ってます……えっと、異能力者、ですよね」


 改めて声を掛けると香凜は慌てたように応答した。

 まあ、小さい子供だからどうかと思ったが流石に知っているらしい。異能力者。常識を一変させるような存在なのだからそれぐらい当然だろうか。


「父さんは……ESP症候群そのものの研究ではないんだけど、いわばその『治療法』を探してるって言ってた」


「え? ……治療法、ですか?」


 香凜にとっては少し意外な回答だったらしい、目を丸くさせている。

 うん、と頷き彼方は続ける。


「ESP症候群自体、症候群と名は付くけど一概に病気と断言していいのか曖昧なところだから、そもそも治療って言い方もおかしいのかもしれないけど……父さんは10年前の事件以来、若者を中心に発祥したESP症候群者を元通りの人間に戻すことができないか。それを研究してるの」


 あまり進展ないらしいけど、と後ろから付け足す。

 そもそも義弘のやっていることは、異能力やその源である『ESPフォトン』と呼ばれるエネルギーについて少しでも解明させたいという国の方針とは言葉通り『真逆』である。

 症候群の治療方法というのがいかに聞こえがよくても、その時点で助手もいなければ支援もない。以前話を聞いた限り、お世辞にも順調とは言えないようだった。


「そう、ですか……治療……」


「変わってるでしょ?」


「はい。……でも、その」


 どうにも先程から言葉の節々に妙な引っ掛かりがあり、若干口ごもる香凜。

 しかし彼女は何を感じたのか、思いつめたような表情から一転、にへっと小さく笑った。


「……素敵だと思います」


 どことなく嬉しそうな、それでいて安心したような、不思議な笑顔だった。

 素敵。たった二文字の言葉を脳内で繰り返す。仮に義理であったとしても、親のことを褒められるのは悪い気分ではなかった。


(さて……)


 しかし、だ。

 いつまで経ってもこんな話に興じている場合ではない。

 一区切り話が付いたところで、彼方は気持ちのスイッチを切り替えた。いい加減本題に移らなければならない。

 穴吹香凜。こうして楽しげに会話しているが彼女は未だに謎が多すぎる。

 彼方も先程とは違い彼女と接すことに慣れてきた。そろそろ聞かせてもらおうと、少女を正面から見据えた。


「……それでさ、香凜ちゃん」


「?」


「その……私の聞きたいこと、分かるよね?」


 こちらの問いにある程度察したのだろう、香凜も真面目な表情を浮かべる。

 別に刑事と容疑者という訳ではないのだ。できる限りリラックスを心がけ、彼方は続けた。


「……私もそこまでお人好しにはなれないからさ。このまま黙って君をここに置いている訳にはいかないの。だから聞くけど、さ」


「……」


「昨日のアレは……なに?」


 無論、言っているのは香凜が血まみれで倒れていたこと。彼方にぶつかる前、一体彼女の身に何があったのか。

 しかしテーブルを挟んむ目の前の少女は、わずかに視線を落としたまま何も応える気配を見せない。


「……」


「……どうしてあそこに倒れていたの? それともなにか言いにくいことでもあったの?」


 あれて細かい言い方で再度問いを繰り返すが、香凜は応えない。苦しそうな、悲しそうな、なんとも言えない表情で口を引き結んでいる。

 しかし一度口にしてしまっては止めることをできず、彼方は畳み掛けるように問いを投げ掛けた。


「……それなら、君の体についていた血はなに? 洗い流す時、君の体にはそれらしい傷がなかった。それなにのにあんな大量の……」


「……っ、」


 それでも香凜は応えない。

 思いつめた顔で口を閉ざし一切を喋ろうとしない。返ってくるのは沈黙ばかりであった。

 ……これでは埒が明かない。

 時間はあまりない中、何とか事情を聞きだし先のことを考えなければいけないというのにこれでは状況を進めることができなかった。


「ねぇ、香凜ちゃん……?」


「……」


「私は別に、何か君を疑ってる訳じゃない……っていうと少し嘘かもしれないけど、もしそれに理由があるのなら聞かせてほしいの。それでどうして昨晩あそこにいたのか、知りたいの。それが分からないと、君を信じたくても信じれないでしょう?」


 必死に頭の中で優しい言葉を選びながら次を紡いでいく。

 あまりにも慣れないことなので表情は強張ってしまっているかもしれないが、この際仕方がなかった。今は香凜に信用してもらうことが一番であった。


「香凜ちゃんが目を覚まして、まだあんまり時間が経ってないけど……私は君がすごくいい子だって分かってるつもり。だから……ね? 何があったのか教えてほしい。私は君の……その、味方でいたいなって思ってる」


「…………ぁ」


「え……?」


 香凜が何かを言った気がした。

 聞き返そうとした時、それを遮るようにして彼女は顔を持ち上げると彼方の視線を正面から受け止めた。その瞳には、何か、決意のような揺らぎが見え隠れしているような気がした。


「……彼方さんは」


「……?」


「彼方さんは、本物のESP症候群者を見たことがありますか?」


 突然なんだと呆気に取られるが、つい頷いてしまう。こういう時押しに弱い自身の性格を呪ってしまう彼方である。


「ど、動画とか、ニュースで……?」


「……そうですね。彼らもESP症候群者です。ですが同時に拙劣者でもあります」


 じっとこちらを見つめながら、唐突に香凜は椅子を引いて立ち上がった。彼女は意思の篭った言葉を続けて紡ぐ。


「自身の力の本質を理解せず、ヒーローにでもなったと勘違いしてまるで玩具のように異能力を使っているだけにすぎません。ですから拙劣者、贋作者、ただの偽者です」


「ちょ、ちょっと、何言ってるの?」


「もう一度聞きます。彼方さんはそれらを省いた上で、"本物の異能力者"を見たことがありますか?」


 どういう意味だ。この子は何を言っている。

 頭の中に疑問ばかりが募る彼方に、しかし香凜は回答を求めていたわけではなかったのか。彼方の言葉を待つわけでもなく、なぜか突然その細い右腕を眼前へと突き出した。


「よく―――見ていてください」


 その一言の直後。

 フッと漏れる香凜の小さな吐息。

 ―――次の瞬間、それは起きた。


「……!? え、なに!?」


 突如、何処からともなく浮かび上がった謎の『光の粒子』が渦を巻くように彼女の右手へと集合し、結合する。

 それはまるで一点へと向けられた流れ星のように。

 光は集合し、結合し、集合し、結合し―――、

 キンッ、という耳鳴りのような音色が響いた。

 香凜の華奢な右手を呑み込むかのように集約していた光の粒子が、やがて姿を変える(・・・・・)

 確かにそこに存在を主張する、ただ一つの物質へと。


 瞬き間の僅か一瞬の出来事。

 目を見開いた彼方の瞳に映っていたのは、香凜の右手に握られる巨大な『盾』だった。


 およそ1メートルはある奇怪な装飾の施された『盾』。いやそもそも、『盾』と呼んで良いのかさえも分からなかった。それは『円盤』とも、『ただの丸い何か』とも言える。この世のものとは思えないほど美しい曲線を描いた、幾何学的な形状を持つ異物質。

 それはあまりにも歪みに満ちて、しかしあまりにも鮮麗を纏い。

 空間そのものを侵食するように、少女の手の中に君臨した。


「分かりますか?」


 語る少女に感情は存在しなかった。

 ただ深々と真実を語る。

 彼方の日常を土足で犯すように。


「わたしは―――"本物の異能力者"です」


 まるでこの世全ての真実を語るように。


「それでもあなたはまだ……わたしの味方でありたいと言えますか?」




     ◇




 東京都内に計三校存在するESP症候群者対策室『イクスプローション』、通称『EP』の人材を育成すべく設立された訓練校。

 その一校の校門を抜けたすぐ、正面玄関の目の前で諏訪結城は謎の大男と対峙していた。

 男の右手には昆虫の脚を模したような二つの間接が付いた全長2メートルほどの巨大な剣が握られている。その刃は殺傷力を上げるように凹凸が繰り返し、現に結城の足元に転がっている誰かの頭―――おそらく学校の生徒であろうものは皮膚が無残にも引き裂かれ、首は斬ると言うよりも引き千切ったような痕跡となっている。

 もしモロに刃を受けようものなら結果は容易に見えてくる。

 待っているのは『死』のみ。

 そして男は、結城に『死』を与えるべく一歩一歩近づいてきていた。


(どう、する―――?)


 混乱する思考を持てる理性全てを持って落ち着かせ、男の挙動一つ一つに注視する。

 まず一つ。正面から立ち向かうのは不可能だということ。

 勇敢と無謀は紙一重だ。なんの武器も対策もなく、単身挑むのはあまりにも絶望的すぎる。よってこれは却下。

 だとすれば残されるのは逃走だが……果たしてそれをこの男が許すだろうか。

 あまりにも余裕を見せるゆっくりとした歩行。結城をただの餌だと思い、絶対なる余裕を持っているからこそなのかもしれないが、外の広い空間で少なからず逃げられる可能性があるというのに速攻で仕掛けてこないのはなぜなのか。

 考えられる可能性は、『仮に逃げられたとしても確実に仕留めることができる手段』があるということ。

 あくまでありふれた可能性の一つでしかないが、それがある以上背を向けて走り出すのはあまりにも危険ではないだろうか。

 それに、


(皆の無事を確かめないと……!)


 校舎全体を覆う『光の網』や、殺人が起こっているにも関わらず静か過ぎる校内の様子。

 友人である成司、幼馴染みの柚木、そして姉である璃々子の顔が思い浮かぶ。

 皆の無事を確かめるまで、決してここから逃げようとは思わなかった。その選択肢は放棄していた。

 ならば結城がやるべき事は自ずと一つに絞られる。


(突破するしかない)


 丸腰の状態で何とか奴の横をすり抜け、校内へ突入する。

 あまりにも無謀だが、戦闘に比べればまだ可能性のある選択肢だった。

 と、そこまで思考を巡らした時。

 数歩歩いた男が突然脚を止めた。


「……あん?」


 男はまるで未知の生命体でも見つけたように眉間に皺を寄せ、鋭い眼光で結城を睨みつけてくる。

 その表情から奴の行動が読めず身構える結城であったが、やがて男は怪訝そうに口を開いた。


「―――おいテメェ。見えてねェのか(・・・・・・・)?」


「……?」


 言葉の意図が理解ができない結城であったが、男はつまらなそうに右手に持っている凶器に視線を落とした。


「チッ、調子が悪いのか? それとも空間のフォトンが足りねぇのか? 手間掛けさせやがってクソが」


 何に対してか、随分と忌々しそうに呟き自身の武器に蹴りを入れている。どうしたのだろうか。

 ……いや、今はそんな事気にしている暇ではない。むしろ奴の意識が別のところへ向いているのならそれを利用する他ない。

 わずか数秒でやるべき事を明確にした結城は、地面に転がっていた自分の鞄を拾い上げると、男へ―――正確には人二人分程度男を避けるようにして、一直線に正面玄関へと駆け出した。

 距離はおよそ10メートル。

 走り抜ければほんの数秒の出来事だ。

 ―――が、男の隙を突いてその脇を結城が走りぬけようとした瞬間。


おい(・・)


 キュガ!! と空気を食い殺すような音が響き、

 獲物に喰らいつく猛獣のように、その刃が横一文字に振り抜かれる。


 狙われるは真横を走り抜ける結城のうなじ。

 直撃すれば首を刎ねられるのは間違いない。


「ッ……!!」


 ほとんど飛び込むように走り出していたことが幸いした。

 傍から見たら到底回避行動には見えない、まるで躓くような格好から上半身を折り曲げ全力で転がり込む。

 水平に襲いくる死の一閃は結城の頭上僅か数センチの距離を振り切られる。

 避けきった。

 そう脳が理解した瞬間、全身から大量の冷や汗と安堵が押し寄せるが、そこで立ち止まるわけにはいかない。

 後頭部を激しく打ち付けつつも一回転し低い姿勢のまま再び二の足を付いた結城は肩越しに後方へと振り返った。


「―――、」


 結城の背中を両断すべく既に振り上げられている狂器。

 再びの回避は間に合わない。

 で、あらば。

 振り向いた勢いのまま、結城は右手に握っていた自身の鞄を男の顔面目掛けて至近距離で投げつけた。


「!」


 不意の反撃に意表を突かれたのか、極僅か、ほんの一瞬男の表情が固まり―――振り下ろされようとしていた刃が僅かに軌道を変え、投げられた鞄を容赦なく引き裂いた。しかしそれは結城には当たっていない。

 中に入っていた教材や筆記用具がバラバラと地面に落ちる中、結城は再び玄関へ駆け出す―――のではなく。


 落下してきた鞄の中身から咄嗟にボールペンを掴み取ると、男の懐へ踏み込んだ。


「な!?」


 今度こそは完全に予想の外をいく結城の行動に怯む男。その隙こそが好機。

 空いた左手で振り抜かれた狂器を掴む男の手を上から押さえつけると、ボールペンを握りこぶしで握り締め、


「―――っ!!」


 振り下ろす。

 狙う箇所は―――足。急所以外の、人間にとっての数少ないウィークポイントの一つ。

 全体重を乗せしゃがみ込む勢いで、男の左足へと迷わずボールペンを突き下ろした。


「ぐっ!?」


 グチュ! という気色悪い音と、手から伝わってくる人の肉を傷付ける確かな感触。

 初めての感覚に思わず身がすくみそうになるが、止まっている暇はない。今度こそ結城は後ろへ大きく後退すると、同時にボタンを引き千切るように上着を脱ぎ捨て、よろめいた男へと投げ付けた。

 それこそ攻撃にもならず簡単に振り払われるが、後退の隙を作るには十分だった。狂器のリーチ2メートルの外へと下がりきった結城は、身を翻し正面玄関へと全力で走り出した。


「チッ! 待てやコラァ!!」


 吼える男が一歩踏み込み、その凶悪な攻撃範囲を利用して結城の背中を斬り付けようとするが、ボールペンの突き刺さった左足の痛みに顔をしかめ速度が遅延する。結果獲物を捉えることができず、その刃はスタンプコンクリートの地面に深々と突き刺さるだけであった。


(―――きった! 避けきった! 何とかやりきった!!)


 死と隣り合わせのやり取りを乗り切り、嫌な汗と震えが全身を支配するが奴の言う通り待っている道理は存在しない。

 体中に纏わり付く嫌な感覚を振り払うように、鞄と上着を捨てより身軽になった結城は一目散に校舎の中へと走り去っていった。




     ◇




「はぁ―――! はぁ―――!」


 正面玄関から校内へ入り無我夢中に走り続けた結城は、体力の限界が訪れたところでようやく脚を止めた。

 壁に手をつき荒い息を吐き出す。

 これまでに味わったことがないほど心臓が早い鼓動を繰り返していた。両足も痙攣に近い震えを起こし、まるで水中の中にいるような重たい疲労感が全身をくまなく支配していた。

 その原因はきっと疲れだけではない。

 先程まで紛れもない『命のやり取り』の現場にいたこと。

 そして安堵と恐怖が入り混じった感情がより一層体の疲労を悪化させている気がした。


(く、そっ……何がどうなって……)


 息を少しでも整えようと壁に寄りかかりながら、廊下全体を見渡すように視線を流す。

 見えたのは―――死体だった。

 首がない死体。

 心臓を抉られている死体。

 全身がズタズタに切り裂かれている死体。

 下半身だけの死体。

 はたまた上半身だけの死体。

 数えればキリがない。廊下や教室のあちこちに捨てられた生ゴミのように生きた人間だったものが転がり、鮮血の海に沈んでいる。壁や天井はホースで水を飛ばしたようにあちらこちらが血で汚れており、最早そこには結城の知っている学校の風景は存在しなかった。


「……」


 結城が現在いる場所は第二校舎の一階―――玄関からは第一校舎を通り連絡通路か体育館を抜けることで到達できるのだが、前者を利用しここまで走り抜けてきた。

 ここに来るまでも目に映る光景は同じだった。

 どこを見ても無残な死体と血液。ただ走り抜けるだけでも心臓を握り締められるような思いだった。

 まさに地獄。

 死の世界。

 10年前の事件を嫌でも思い出す残酷な光景。

 それでも結城が何とか正気でいられたのは、その事件で同じような地獄を見ていたから。我ながら皮肉だった。


(みんなは……姉さんは……)


 今のところ人の気配は感じられない。あの男が追いかけてきている様子もない。

 思いつく限りの最悪の可能性ばかりが脳裏をよぎり、壁にでも自身の頭を打ち付けたくなる思いだった。

 だが今は―――信じるしかない。

 少しでも『綺麗な現実』であると心中祈り、確かめるしかない。

 その為にここに来たのだから。


(うちのクラス……)


 命からがらの疾走ではあったが、何も考えなしに突っ走っていたわけではなかった。

 結城のクラスは2年A組。教室はここ、第二校舎の一階にある。

 姉の璃々子は分からないが、もし成司や柚木などの見知った連中がいるとすれば、もっとも可能性が高いのはそこだった。

 そして今、寄りかかっている壁のすぐ横。2年A組の教室があった。

 ドアは開け放たれ、窓ガラスは割れていた。一度落ち着くように深呼吸をすると、意を決して開けられたドアへ近づき中の様子を窺った。


「……」


 死体は、もちろんあった。

 同じクラスで、もちろん話したことだってあるクラスメイトが無残な死を遂げていた。

 だが、


(……?)


 どうも少ない気がする。

 目視だけで死体の数を数えるが、その人数が10人程度。勿論それでも人の死が集合するには多すぎる数ではあるのだが、結城が疑問に思ったのはそういう意味ではない。

 ようは他のクラス教室に比べて、というわけである。

 ここに来るまでいくつもの教室の前を通ったが、1クラスの人数に近いだけの死体があった。つまり20人から30人ほど。それに比べると結城のクラスは被害が少ないように感じる。

 死んでいる人達の顔を順番に見ていくが、そこには成司や柚木の姿も見当たらない。

 一体半数近くの生徒はどこに―――と考えたところで、すぐに閃くものがあった。


(そうか……教室移動)


 結城が思い出したのは本日の授業1時間目の内容。

 確か記憶によれば一般教科の理科だが……先週の授業の最後に、担当教師から『来週は視聴覚室で』と聞かされていた。

 つまり教室での被害が妙に少ないのは、早めに教室を移動していた生徒はここにいないから、ということ。同時にこの悲劇が起こったのが、朝のHRが終わって間もない時間帯にあったと推測できる。


(視聴覚室……第一校舎の3階か)


 現在位置からは正反対……だが次の目的地が提示されただけでもマシだ。

 正直あの男がいるであろう方向に戻るのはかなり精神的にキツイものがあるが、第2校舎で先に3階に上がり連絡通路を使って向かえば、もし後方から追いかけてきていたとしてもバッタリ遭遇することはない……こちらの動きを読まれてはいない限りの話だが。

 そうとなれば善は急げ。

 気合を入れるように震えの残る両足に力を込める。息を整え再び走り出そうとして、


(……その前に)


 改めて教室の中へ向き直ると、両手を合わせ合掌。目を瞑り、小さく頭を下げた。

 せめて同じクラスの面々だけでもその死に慰霊を込める。一緒に勉強し、実技演習では互いに切磋琢磨し、共に学校生活を謳歌してきた仲間達だ。悲しくないといえば嘘となる。

 ほんの数秒ではあるが黙祷を捧げ、顔上げた結城の目には―――僅かな、しかし強い意思が蘇っていた。


(まずは生き残りを見つけるんだ)


 改めて決意を固め、周囲に異常がないか確認した結城は再び歩き出した。






 慎重に慎重を重ね、周囲への警戒を万全にしながら移動した結城は、3分ほど掛けて視聴覚室の前へ到着した。

 幸いにもあの男には遭遇せず、特に危険もなく辿り着いた。不幸中の幸いである。


「……さて」


 ドアの前でじっと身構える。

 防音の為に視聴覚室のドアは一つだけ。ガラス窓もなく、室内への経路は結城の目の前にあるドアただ一つ。

 すぅ、と息を吐いて、ドアを開け放つ―――のではなく、コンコンコン、とノックをした。

 こんな残虐なことをする敵ならノックなどわざわざする訳がないと判断し、敵ではなく、味方・生存者だと、中に誰かいた場合に察してもらうためだった。


(……)


 しかし返答はない。

 嫌な予感がより一層鮮明になってくる。それを振り払うように、今度はノックではなく声を掛けることにした。


「……誰かいないのか?」


 できるだけボリュームを絞り、ドアの裏側に人がいると想定して声を出す。

 ―――しかしそれでも返答はなかった。

 段々と冷静を保っていた結城の精神にも焦りが生まれてくる。もしかして。もしかして。もしかして。

 次から次へと最悪の想像が脳内を駆け巡り、心拍が早まっていく。もしここの中も他と同じような惨状だったら―――もう結城のクラスメイトが生きている可能性は限りなくゼロに近い。

 成司も、柚木も。


(……くそっ)


 二人の顔が思い浮かび、最早我慢の限界だった結城は廊下に他の人影がないことを確認すると視聴覚室のドアを開けて中へ飛び込んだ。

 すぐにドアを閉めて警戒をしながら室内を見渡す。

 そして―――、


(……あれ?)


 誰もいなかった。

 勿論、死体だって一つもない。人が殺された証拠となる血の跡も見受けられない。

 廊下の光景が嘘のように、視聴覚室の中はいつも通りの光景と同じだった。


「……誰かいないのか?」


 外で言った台詞を、少し大きめのボリュームで繰り返す。反応はない。

 もしかして教室を間違えた?

 という疑問が真っ先に思い浮かび室内を見渡すが、通常の教室とは異なった作り、長机とスタッキングチェア、教室の正面に垂れ下がる大きなスクリーン、光を遮る為の黒いカーテン……そこは紛れもない視聴覚室だ。

 となれば結城の記憶に間違いがあり、そもそも移動先の教室は視聴覚室でなかった?

 改めて教室の隅々に視線を送りながら中央の机の合間をゆっくり歩いていく。人の気配も感じられない。

 やはり何かの間違いだったのだろうか。

 最早行き先の当てはないが、こうなれば特殊教室を順番に見て回るしかない。そう判断し身を翻した時。


「―――結城か?」


 小さく、声が聞こえた。

 ガバッと勢いよく声の響いた方向へ振り向くと、そこはスクリーンの脇。黒いカーテン―――だが、その端が内側から僅かにめくられ、誰かが顔を覗かせていた。

 その顔を確認し、結城の目が見開かれる。


「……成司? 成司なのか?」


「やっぱ結城か! こっちだ!」


 間違いない。

 カーテンの奥から手招きしている青年は、紛れもなく結城の友人である大崎成司その人だった。

 ようやく見つけた友人が五体満足無事であったことに喜びを感じるが、状況が状況だけに感動の再開とはいかない。結城は言われたままに成司の近くまで駆け寄り―――そこで気付いた。


「そうか……視聴覚室横の機材室」


「ああ。ここに隠れてたんだ」


 思わず納得がいったように呟いた結城の言葉に、黒いカーテンの裏に隠れるようにあった扉の中から成司が応えた。

 基本どこの学校でも視聴覚室の隣には録音から録画、再生をするための映像機器が設置された小部屋があるのだが、この学校の機材室は廊下から直接入ることはできず、こうして教室を経由して入る必要がある。

 さらに防音の為、音を吸収しやすい黒の厚手のカーテンが四面にあり、ズラリと密集するように長机と椅子があるため、室内の奥へ進み足元を確認しない限りはもう一つ扉があることは気付かれないのだ。

 確かに隠れ家としては打ってつけだ。

 特に敵が学校の構造を知っていないのであれば尚更に。

 部屋の中へ招かれると、真っ先に目に映ったのは見慣れた女の子―――愛場柚木だった。


「結城!」


 彼女は一目散にこちらへ駆け寄ってくると、結城の体に抱きついてくる。女の子の柔らかい感触と、柚木のショートヘアから甘い匂いがふんわりと漂ってくる。


「よかった……無事で、本当に……」


「……それはこっちの台詞だよ」


 少し痛いぐらい抱きついてくる柚木の体は、少し震えていた。耳元から僅かにせせり泣くような声も聞こえる。でもそんな彼女の体に触れて、まだちゃんと生きてる、確かに無事だったことに結城も自覚しないうちに笑みを浮かべていた。


「ったく、心配かけさせやがってこいつ」


「だからこっちの台詞だよ」


 成司が笑いながら肘で脇を小突いてくる。結城も冗談交じりに彼の肩を小突きつつ、柚木の肩越しに機材室の中を見渡した。

 室内には結城、成司、柚木を除き、6人の生徒が床に座り込んでいた。皆知った顔。つまりクラスメイトである。各々が部屋に入ってきた結城の顔を見て、『諏訪君も無事だったんだ』『よかった……』『諏訪なら無事だと思ったよ』と各々が安堵の表情で言う。


「みんなも無事でよかった」


 結城も笑顔で返し、とりあえず抱きついたままの柚木の肩に手を置き離れてもらった。

 ようやく顔をまともに見れた大切な幼馴染みは、目じりに涙を溜めながらも笑顔で……それを見て、結城も少し肩の荷が下りたような気がした。


「結城、どこも怪我してない?」


「うん、大丈夫。ありがとう」


 柚木に礼を言いつつ、改めてみんなの顔を窺う。それから、おそらくこの中でももっと芯が強く皆をまとめていたのだろう。成司に向き直った。


「いつから?」


「……一間目が始まるまでの休み時間だ。ここにいる連中は早めに教室移動してた中の一部。本当は他にも数人いたんだけど、途中で我慢できなくなって出てっちまった」


「……そっか」


 その出て行った一部がどうなったのかは……考えるまでもない。


「……最初はさ、滝川の奴が視聴覚室の窓から外眺めてたんだけど。怪しい奴が入ってくるって言い出して。ほら、この教室、窓から見下ろせば校門見えるだろ?」


 成司の言葉に小部屋の奥で気分の悪そうな女子生徒の背中をさすっていた男子、滝川が同意する。彼が第一発見者らしい。


「そんで覗いてみれば、怪しい格好した男と女が変な武器持って校内に入ってくるじゃねぇか。その後すぐに校内のあちこちから悲鳴が聞こえて、放送で先生の声が聞こえたと思ったら途絶えたり、火災警報器の音が鳴り出したり。すぐにあいつらのせいだって気付いたよ」


「待って。……男と女って、二人いたの?」


「ぁ、ああ。オレらが見た限りじゃな」


 成司からの情報により思わず考え込む。

 なるほど、いくら凶悪な武器を持っているとはいえ玄関前で遭遇した男一人でこの惨状を生み出すのは少々無理があるのではと思ったが、犯行が二人なのであればまだ合点がいく。一人が出入り口を固め、もう一人が中で……といった感じだろう。

 とすれば、ここに来るまで誰とも遭遇しなかったのは単純に運が良かったと言える。


「ま、それからはずっとここで篭城さ。一度誰かが視聴覚室の中まで来た様子があったんだけど、ここの扉には気付かずに出て行ったよ。あん時はさすがに肝が冷えたな」


 つまり成司達は、いち早く異変に気付けたことと、偶然にも隠れるのに最適だった視聴覚室にいたという幸運に幸運が重なり今も無事でいられたのだ。

 結城を含め、ここにいる全員が奇跡的な確率で生きているわけだ。本当によかった、とみんなの顔を見て思う。……せめてここにいる生徒だけでもこの異常事態から生き残らなければ。

 と、そこで大事なこと思い出した。


「……そうだ、成司。姉さんはここには来ていない……よね?」


「……ああ、悪い。一度廊下の様子を確かめただけで、璃々子先生は見ていないよ」


 成司はバツが悪そうに答える。彼も彼で心配なのだが、この状況をどうにかするだけの力がない以上、捜しに行くこともできずに歯がゆい思いなのだろう。


「璃々子さん……無事だといいね」


「……うん」


 結城と同じく璃々子と付き合いの長い柚木も、心配している思いは変わらないようだった。


(……って、あれ?)


 ふと気付く。そもそも無事を確認するなら、携帯で連絡を取ればいいではないか。あまりに常識から外れた状況に、単純な回答を失念していた。

 慌ててポケットから携帯を取り出しスリープから立ち上げる。だが、


「……圏外?」


 携帯の電波状況はアンテナが一本たりとも立たず、それどころか圏外の二文字が表示され一切電波を拾わない状態になっていた。軽く端末を振ってみたり機内モードからの切り替えを行い電波の再取得を試みるが、やはり変わらない。


「オレ達もなんだ」


 成司が頭を掻きながら困ったように言う。


「気付いたらこんな状態だった。警察に連絡しようと何度も試したんだけど、ここにいる全員の携帯が電波を拾わねぇ。完全に外部との連絡手段が絶たれてやがる」


「……ポケットWi-Fiは?」


「そっちも駄目。田中が持ってたからそれで全員試したけど結果はこの通りメール一つ送れやしねぇ。有り得ないだろ、こんな東京のど真ん中で。一時的に電波が悪くなるならともかく圏外だなんてよ」


 どうりででこれだけの騒ぎが起こっているのに救助が一切来ない訳だ。

 結城は校門を潜る前のことを思い出す。

 あの場所ですでに影響はあったのだ。何が原因なのか一切合財不明だが、おそらくはあの男ともう一人いるという女の二人組みが何かしらの手段で電波障害を起こし、携帯での連絡を完全に遮断している……と考えるのがもっとも自然だろうか。

 どの道この状態では校内にいる者同士であっても連絡を取り合うことはできない。今すぐ璃々子の安否を確認するのは不可能だった。

 結城は携帯をポケットに仕舞うと、小さく息を吐いて天井を見上げる。

 必死に考え、得ている情報で現状を整理していく。今ここにいる9人でこれからどうするべきなのか。何を目的に行動すべきなのか。こんな時の学年主席の頭だろうと、持てる知識であらゆる可能性を思い浮かべていく。


(姉さんのことは……今は諦めるしかない。優先すべきはここにいる9人で生き残ること。何とか校内から脱出するか? 正面にあの男がいるとすれば職員玄関は……駄目だ。こんな誰でも思いつくルートは必ず敵も想定している。一階の窓からからは……どの道校門を通らなきゃ駄目。柵を越えるにしても男子は何とかなっても女子が越えられる高さじゃない。肩車は時間が掛かり過ぎる。リスクが高い。あとは……)


 あれでもない、これでもない、あらゆる方法を思い浮かべては切り捨て、思い浮かべては切り捨て。何十通りもの可能性を引き出すがどれも決定打に欠ける。もし逃げ切れたとしても、この9人の中で必ず犠牲が出てしまう。それだけは何としてでも避けるべきだ。

 ……驚くほど思い浮かばない。どんなに最良の手段でも、最終的にはあの男の振るった凶悪な武器に阻まれてしまう。100%全員が逃げ切れる手段というのがまるで雲を掴むようなものに感じられてしまう。


「……結城?」


 珍しく険しい表情で考え込んでいた結城に柚木が心配そうに声を掛けてくる。

 彼の思い詰めるところは普段ではほとんど有り得ない光景だった。


「ちくしょう……! そもそもあいつら何なんだよ! 人を殺して何が楽しいってんだ!」


 痺れを切らした成司が苦虫でも噛むような表情で拳を握る。

 何とかしたい、この状況を打破したいのは誰もが同じ。しかしどうする事もできない自らの無力さを呪う。成司も、結城も、ここにいる皆が同じ気持ちだった。


(せめて敵が一人だったらどうとでも……いや待て。一人?)


 ―――ふと、結城の頭に一つの可能性が思い浮かぶ。

 いや、正確には元からあった選択肢の一つだ。だがあまりにも無謀なことだと、無意識のうちに除外していた。除外せざるおえなかった。だってそれは、先程まで結城が一人だったから。

 だが今は一人じゃない。少なくとも生き残りがいると証明された。

 ならば。


「…………一人だ」


「え? なんて?」


「……一人でも敵を減らすことができれば、可能性はある」


 成司と柚木が顔を見合わせる。何を言ってるんだ、とでも言いたげな様子だった。

 いや実際、自分でもおかしなことを考えていると思う。だけどもし成功すればここにいる9人どころか、もし他に生き残りがいたらそれらも助けることが十分に可能となる。

 さらにここはEP候補生の訓練校。

 必要なものはおそらく全て揃えることができる。


「敵は二人だ。その二人が連携できているかは分からないけど、おそらく一人でも生徒や教師を逃さないために片方は出入り口。もう片方は校内を徘徊している」


「そ、それがどうしたってんだよ?」


「……でも何とかしてそのどちらかを排除できれば、逃げ切れる可能性は十分に高まる。それこそここにいる全員で」


「だから何を―――……ぉ、おい。お前まさか」


 結城の言いたいことが分かったのか、成司の表情が強張るのが分かった。黙って聞いていた柚木も驚愕の表情でこちらを見つめる。

 一見無謀なことだというは十分に承知だ。

 だが全員が生き残れる可能性がもっとも高く、その手段を得るための状況が揃っているのはこれだった。

 だから結城は、その場にいる全員に宣言するように言葉を放つ。

 最悪最凶、絶体絶命の状況を生き残るための、最初の一歩を踏み出すために。



「奴らのどちらかを僕達の手で倒すんだ。そして脱出する。それが今、最も生存率の高い最善手だ」









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