献身
「内緒ですが、お願いがあります。わたしの後継になって貰えませんか。内密ですよ。まずは神学を勉強して下さい。応援します。祈っていますよ」
牧師の山本からメールが届いたのは、津田が神学を学び始めて間もなくのことだった。
津田はこれまでの人生をピアノ教師として過ごしてきた。ピアノ教師といっても、小さな教室をひとりで経営する程度のものではあったが、大事な仕事であることに変わりはなかった。
津田にはほかにもうひとつキャリアがあった。長い間クリスチャンとして生活してきたことである。いまの教会に転籍する以前、教会のホーム・ページを作ったり、記念誌の主筆になったりして、教会内では一定の人望があった。山本は以前その教会でも牧会をしていたのである。
津田が転籍して間もなく、神学に関心をもつようになったのを山本は知った。それで津田に声をかけてきたのである。
津田が神学を始めたのは、これまでのキャリアがそこに集約されるような気がしたからであった。若い日に読んだドストエフスキー、大学卒業後に直ぐに始めた森有正やリルケの研究、中年になって読んだニーチェやキルケゴール、ハイデッガーなどなど。これらの読書体験は、神学を学ぶ者にとって貴重なものとなる。しかも津田の場合、最初から神学のためにしたことではない分、視野が狭められるという弊害からも免れていた。
それだけではなかった。津田は社会問題にも強い関心をもっていた。その方面ではガンジーやキング牧師の研究にも取り組んだ。それら一切がいま、かれには神学という学問に集約できるように思われたのである。
実のところ、山本のメールは津田には予感されていたものであった。ただそれが秘密めいたものであっただけに、予感は召命として一層強く感じられた。神は山本牧師をとおして、自分を呼び出しておられる―津田はそう思った。だから献身を決断するのに躊躇はなかった。
ただ、山本の求めにひとを急かせるようなところがあって、それが気に懸った。後継というが、なぜそんなに急ぐのか?
山本は、すでに半世紀以上にわたる牧師生活に倦んでいた。日頃は自分が所属する教派であるバプテストの風化を嘆くようなことを言いながら、身近な者には「自分は無教会派だ」などと漏らしていた。そして引退したら無教会派の集会に行くというようなことまで伝えていた。
津田もそれを聞かされたことがある。バプテスト派も無教会派も自由な風がある点では共通していても、主義主張がまったく同じなわけではない。ましてバプテスト主義の風化を嘆くのであれば、安易に無教会を口にするのは理解に苦しむ。牧師であればなおさらだ。津田はそう思ったが、尊敬する牧師の意思は意思として、胸にしまっておくことにした。とにかく後継を引き受けることで山本牧師に対する自分の誠意を示すことが何よりだ―そう思った。間もなくして津田は献身の意思を山本に伝えた。
つぎの日曜日、礼拝を終えたところで山本が会衆の前に立って、「津田さんが、献身の意思を伝えてくれました」と発表した。
みな一様に驚きの声をあげた。しかし驚きの内実は様々であった。牧師の引退を望まない信徒もいた。転籍して間もない津田に時期尚早を疑う信徒もいた。だがいちばん驚いたのは津田自身だった。「内密」と言いながら、早々に献身が公表されるとは!
しかし津田の気持ちが困惑というよりむしろ満足感であったことは、津田自身意外であった。突然背中を押されて舞台の真ん中に立たされた時のような、恥ずかしくも誇らしい気持ちである。その誇らしさが何に由来するものなのか?
これまで裏方として地道に歩んできた津田に、ようやく光が当たろうとしていた。裏方として働いていた時分には何も感じなかったのに、いまかれの心の中に自負心のようなものが芽生えていた。かれにも自分を恃むところがあったのだ。
山本は津田を出し抜くことで出口を塞いだのかもしれなかった。日ごろ牧師の陰口をたたく者は、かれを「たぬき」と呼んだが、なるほど山本がやりそうな手ではあった。だがそれは、山本がそれほどに早期の引退を望んでいるということを意味してもいた。津田にしてみれば、それは自分に対する山本の強い信頼の強さを示しているようにも思われた。そう思えば、悪いことはなにもなかった。不意の発表は、津田にはかえって嬉しかった。
津田は本気で神学を学び始めた。だが仕事をもつ身であったかれは、学習を独学で進めることにした。山本は神学校へ行くことも奨めたが、津田はそれを断り、独学を希望した。それは教会の財政に対するかれなりの気づかいでもあった。それに独学は慣れていた。山本も諒解した。
聖書については、長いクリスチャン生活の間にいろいろと蓄積された知識はあったものの、神学として改めて学び直してみると、あまりにも知らないことが多すぎることに、津田は驚かされた。とはいえ、そこに多くの発見があったことは有難かった。
津田はそれまでに培った知識を神学に注ぎこんだ。たとえば歴史において、キリスト教的な救済史というのがあるが、もう少し歴史社会学的な見地を取り入れてもよさそうに思われた。そうすると、北イスラエルのナザレで生まれたはずのイエスが、なぜ南イスラエル(ユダ)のベツレヘムで生まれたことにされたのか、その事情が分かるのだ。
ひとつの科目が、一月から一月半ほどのペースで進んで行った。「ギリシア語文法」と並行して、「教会史」「宗教史」「宗教学」「宗教哲学」「教義学」……と進んでいった。それは牧師の期待に応えることでもあった。ただ同時に、山本の性急さが強迫観念のようにつきまとって仕方がなかった。が、ともかく学習は充実していた。科目を終える毎に、レポートを提出した。山本はそのどれにも「優」をつけた。ただ、とくに講評を貰えないことが津田には不満だった。
メールの交換もあった。津田は、いまや特別な「師」となった山本に対して、学習の進捗状況の報告をかねた丁寧なメールを送った。が、返されてくるメールはいつも簡単なものばかりであった。津田にはそれがもの足りなかった。神学問答とは行かないまでも、せめて神学的な話題に触れてほしいものであった。が、そんなやり取りは期待すべくもなかった。幕下が横綱に稽古を頼むようなものだったのかもしれない。ともかく、それが山本の流儀であれば、さほど気にするほどのものでもない、と思うことにした。
だが、礼拝後の歓談の折、山本から「メールで長々と書くものではない」とたしなめられたときには、さすがに津田も落胆させられた。津田には、「往復書簡」とはいかないまでも、「文通」くらいの期待があったのだが、言われてみれば、なるほどそういうものかとも思われた。が、牧師との間に距離が広がった感は否めなかった。
献身者と牧師、その関係は神によって結ばれた緊密なものである。献身者の学習のひとつひとつは、神の召命に対する応えである。牧師もまた、献身者の応えに対して、これに応え返すことで、その使命を果たす。だから提出された教科ごとのレポートは、神学に照らして入念に検討されなければならないものである。そう津田は考えるのだが、山本はそれを果たしてはくれなかった。津田が期待したのは、牧師との親密な応答であったが、それはならなかった。津田はそれを自分に対する全面的な信頼だと思い直すことで納得することにした。そうでなくして、どうして自分に声を掛けるということがあり得ようか。
だが山本には、津田が真面目に神学を学んでさえいれば、それでよかったのである。半世紀を超えた自分のキャリアに比べれば、津田の神学的知識など、一夜漬けのようなものでしかない。神学は頭ではない、経験なのだ。山本にはそんな相手とまともに議論する気など、端からなかったのである。
半年ほど経った。津田は依然、懸命に学習をつづけていた。だが教会員のなかにだれもそのことを気に懸ける者はいなかった。教会はひとりの献身者に無愛想だった。役員会でも何の取り沙汰もされなかった。山本も、相変わらず提出されたレポートには「優」と告げるが、それだけのことで、とくに何も言わなかった。
津田は支援のない献身者だった。牧師に乞われて献身し、信徒仲間にも伝えられた献身であったが、いまでは自分がまるで台風の目のなかに入っているかのような気がした。いやそもそも台風さえ起こっていないのかも知れなかった。頼りは山本だった。それが唯一の保証だった。
だがここに至って、微かな疑念が心に芽生えているのを津田自身気づかないわけにはいかなかった。山本に対する不審がほとんど確かなものとして、津田の心のなかに棲みつくようになった。献身した当初は、交代を急かせるような素ぶりをみせていた山本だったが、しだいに元気を恢復し、説教も生彩を取り戻して信徒を安心させていた。もちろんそれは喜ばしいことではあった。だが津田は、山本が息を吹き返したことに焦りのようなものを覚えた。虫が、捕らえた相手を生かしたまま、その体液を吸って自分を養うという話をどこかで聞いたことがある。山本に元気が戻ってきたことが、津田にそんな想像をさせた。
ある日の礼拝後のことだった。お午前の穏やかな陽ざしがレースのカーテンを透かして会堂の床にこぼれていた。津田はそこに目を落としていた。信徒はもういなかった。かれは妻を外に待たせて、先週提出したレポートの評価を山本から貰うためにひとり残っていたのである。
山本は、いつものように「優」と告げた。それからしばらくして言葉を継いだ。
「津田さん、今度のレポートもよく書けていますよ。さすがに文学部ですね」
山本は津田の出身学部を挙げて、津田を煽てた。津田は山本が何を言いたいのか測りかねていた。
「ただこのことは承知しておいてほしいのですが、あなたは正式な神学校を出ていない……」
「どういうことでしょうか?」
「牧師内ではね、正式な牧師としては認められないということですよ」
「……」
相変らずレポートに対する講評はなかった。その代わりに、牧師の資格の問題が語られていた。
「しかし先生、こうして評価を頂いていることが、なにより資格の条件を満たしているのだと思っていますが」
「そうではありますがね……」山本は言葉を濁した。
津田は自分の言葉に、牧師に対する尊敬の気持ちを込めたつもりであった。
「ほかならぬあなたの評価を頂いていることこそ、牧師の条件です」と。その思いに偽りはなかった。事実津田はそこに献身の基本を置いていた。だが山本の言葉は、津田は臨時教員ならぬ臨時牧師でしかないことを告げていた。津田には山本の真意がわからなくなっていた。本当のところ自分に何を期待しているのか?
気まずい時間が流れた。津田の目に、さっきまで床にこぼれていた陽ざしはもう映っていなかった。
津田が献身してから一年になろうとしていた。その間、津田にはつねに気懸りがあった。仕事との兼ね合いである。一度はその気懸りを山本に伝えていた。
ピアノ教室はふだん四時に始まる。終わるのは九時頃であった。それが週日の日課であった。つまり牧師になっても、この時間帯は割くことができないのである。だから山本から「兼業も可」という返事を貰ったときは、一時的にもせよ安心した。しかしそれが「甘い」ことを知らせたのは妻の千代子である。
千代子は、夫の直向なことは認めるものの、兼業で乗り切って行けると楽観する夫の認識の甘さについては、一言言わずにはいられなかった。
「きっと、いざという時が来るでしょう。そんな時どうするの?」
いざという時とは火急の事態、つまり教会員が不幸に見舞われたような時のことであることくらい、津田にも察せられた。
たしかに実際問題として、兼業は思っているほど簡単なことではない。それこそ、いざという時になって、レッスンを理由に牧師の仕事に支障を来すようなことがあってはなるまい。だが、逆もまた然りである。生業のピアノに穴をあけることもできないのだ。それはどちらにも同じ分銅を載せた天秤のようなものであった。バランスは崩せない。だが、いざという時、それが崩れる。
妻の千代子にも思いがあった。子育てを終え、これからは自分の時間を大切にしたかった。そんな矢先、夫が献身した。しかも夫の献身を知ったのは、山本牧師が礼拝後に告げたあの時であった。正直腹が立った。大事なことなのに、一言の相談もなく 勝手に牧師にだけ告げるなんて!
だが献身が夫にとって真剣なものであることはよく分かっていた。だから戸惑うのだ。しかしどう考えても、「いざという時」が必ずある以上、その時に対処できるかできないか、そのことをはっきりさせておく必要があった。だからそれを夫に質したのである。いざという時こそ、牧師の出番である。そのとき天秤が振れる。バランスが崩れる。
津田は、兼業問題の解決を組織(理論)神学の学習を終えてからもう一度考えることにした。かれは、山本のためばかりではなく、自分のためにも熱心に取り組んだ。そして組織神学を一通り終えると、早速実践神学に取り掛った。実践神学にも理論があるが、津田はこれを文字通り「実践」のための学習とした。これによって、兼業問題の解決を図ることにしたのだ。
教会に牧師がいるのは当然かと言えば、そうとばかりとは言えない。無牧の教会というのがある。たいていは牧師を財政的に支えることのできない貧乏教会が多い。そういうとき、次善の策として、兼牧ということが行われる。他所の教会の牧師に説教や司式一般を頼むのである。もちろん教会には山本牧師がいた。だがかれが引退すれば、教会は無牧になってしまう。だから津田に声が掛ったはずであった。だが―と津田は思った。それにしては教会の無風状態が解せない。
教会運営の学である「牧会学」に、職制というのがある。牧師職はその代表であるが、それとは別に説教職というのがある。教会がふつうの利益団体ではなく、精神的な共同体であるのは、ひとえに神の言葉によって生かされているからである。その神の言葉を取り次ぐのが説教だ。だから牧会学では、牧師職と説教職は区別される。職制の性格が違うのだ。だがふつうは牧師と説教者は同じ職制だと思われている。あくまでも便宜的なものなのに、それが教会の常識になっている。
津田は考えた。牧師と説教者が本来的に別の働きであるなら、自分は説教者として、召命に応えることができるのではないか。それに、プロテスタントにはもともと万人祭司という考え方がある。牧師も信徒も本来的にはみな神の前にあって兄弟であり信徒である。このことがいま、一般論ではなく、現実の問題として津田に迫ってきた。
神の言葉を取り次ぐ説教者といのは、たしかに重責である。しかし牧師のように、牧会のすべてに責任を負うものではない。それに万人祭司の考え方にあっては、みながそれぞれの持ち場にあって出来るだけのことをすればよい。いざという時、出席できなければ、出席できる者に任せればよい。責任の分担である。もちろん融通を利かすこともできるし、中継ランナーとしてリレーに加わることもできる。それなら兼業は可能だ。
津田は献身のかたちが具体化されたと思った。実践神学の学びにおいて、働きのありかたが示されたと思った。逸る気持ちを抑えながら、最終レポートに取り組んだ。礼拝論、説教論、そして牧会論を書きあげていくなかで、自分が確認した説教職の意義を主張した。牧会論では教会の置かれた現実のなかで、万人祭司主義の意義を訴えた。無牧という言わば教会の危機を、逆転の発想で、万人祭司主義の実践的な好機と捉え直せばよいのだ!
だがレポートを書きあげると、その反動のように、津田は不安に襲われた。 はたして提案を含んだこれらの見解が、牧師に受け容れられるだろうか。牧師だけではない。信徒仲間にも評価して貰えるだろうか。相当の困難が予想された。
教会もまた高齢化の問題を抱えていた。この期に及んで万人祭司など唱えたところで、顧みられる可能性は乏しい。第一、万人祭司など、すでに有名無実化して久しい。そこには牧師という存在が絡んでいる。だが、津田がそのことをはっきりと自覚できたのは、献身が終わって後のことである。
津田は召命に対して、説教者というかたちで応えるに至った経緯を説明するために「添え状」を書いた。妻にも読んで貰った。そうしてつぎのようなものを書き上げた。
「実践神学のレポートを提出します。今回の学びは、召命に対する私の献身のかたちを示すため、とても切実な作業となりました。
最初に申し上げますと、私は、牧師の職務をお引き受けすることを断念せざるを得ませんでした。
牧師は牧会全般の責任を担います。職業人としての私には、その職責を果たすことは困難です。現在の仕事は、私にとって大切なものです。この仕事によって、私も家族も生かされてきました。もし私が牧師職に就けば、必ずや牧師であることと教師であることとの両立が難しい局面に立たされるときがあります。しかしその時、私にはそのいずれとも妥協することは出来ません。要するに牧師と教師の両者は、二君に仕えるような矛盾として対立し、私の意識は分裂してしまうことになります。
もうすこし早く申し上げるべきであったかもしれません。が、まずは組織神学に専念し、そのうえでこの重要な課題に取り組むことにしたのです。つまり実践神学の学習に入った段階で、学びをそのまま召命に対する応答の課題として考えていくことにしたのです。
結果として、牧師職は断念しましたが、説教職に、召命に応える可能性を見出すことができました。そのことは、今度のレポートを読んでいただけば、ご理解いただけるものと思います。そのなかで言及しましたように、説教職はすぐれて重要な職務です。牧師職のように、牧会全般には責任を負いませんが、一信徒として、この職務に就くことは可能である、と考えます。
もし光栄にも、私を牧師として推挙していただくことが期待されていたとすれば、ご期待に添えないことをお詫びしなければなりません。しかし私自身は召命に対して退けたとは思っておりません。説教職への献身は実践神学の学びのなかで与えられたもので、積極的な意味があるからです。私は、説教者として、教会員のみなさまと共に、牧会を担っていきたいと思います。」
だが山本の反応は、津田の懸念をはるかに上回るものであった。山本にしてみれば、それはとんでもない内容だった。求めてもいない説教職などあり得なかった。転籍して一年にも満たない者が、自分から説教職を要求するとは、身の程を知らぬにも程がある! 後継人事は牧師の専権事項なのだ。それにレポートの内容にも、自分に向けた批判があるように感じられた。いくつかある提案は、裏を返せば、牧会の現状に対する批判ではないか。
津田に対する期待は外れた。山本は津田の献身の解約を決めた。
「添え状」が付されたレポートが提出されて、一週間が経った。礼拝後の教会には、まだ信徒が何人か残っていて、雑談をしていた。六月の曇天に会堂内には蛍光灯がともり、朝だというのに、夕方のような気配がした。津田は山本の前に座っていた。
「せっかくですがね、説教者というのはあり得ませんよ」山本が苦々しい面持ちで言った。
「あれは余計でしたね」 あれとは「添え状」を指していた。
「……」
「ですから津田さんの献身はキャンセルということで……」
津田は言葉を失った。目の前で突然緞帳がストンと降ろされたような感じがした。この事態をどう理解すればよいのだろう。途方に暮れるというが、まさにいまがそうだった。
「どうですか、教育執事というのは。これまでの勉強を活かすことができますし……」
付け足された言葉のようだった。なるほど信徒教育を担当する教育執事なら、これまで懸命に励んできたことを無駄にせずに済む。だが「はい、そうします」と言えるような心境ではなかった。津田は無重力状態にある人間のように、もがいていた。
やがて心の底から怒りが込み上げて来た。胃の辺りがチクチして熱を帯び、血管を流れる血がドクドクと動悸を打っていた。
もちろん怒りを爆発させたわけではなかった。それどころか、かれは呆然としてそこに座っていただけである。
「説教者というのは、バプテストには馴染まないですね。一部にはそういう考え方をする人たちもいるようですが、私は賛成できません」
そんなはずはない、と津田は思った。説教職を独立した職責とは認めないという考え方があることは承知しているが、それがバプテストに馴染まないというのは、認識として正しくない。じっさいバプテスト派の教会において、説教者が立てられている例をレポートにも書いたはずである。山本牧師はそれを読まなかったのだろうか。津田は混乱した意識のなかで、なにかちぐはぐなことが生じていることだけは認識できた。心のなかで「違う、違う」と叫んでいた。
その翌週の礼拝後、山本牧師が信徒に告げた。
「来年の四月からH教会の園田牧師に兼牧をお願いすることになりました」
後任が早々に決まったのは、山本牧師の決定が直ぐに信徒役員会で承認された結果であった。津田のことは触れられなかった。役員会で話された形跡もなかった。津田の献身がキャンセルされたことを、だれも問題にする者はいなかった。まるで献身がなかったかのようであった。文字通り不問に付されたのだ。津田は自分が教会員たちにも見限られているような気がした。
自分は何か大きな勘違いをしていたのだろうか―津田は帰宅してからも、ずっと考えを巡らせていた。移籍して一年になるかならないかという自分が、信徒一人一人の事情も知らぬまま、説教職なる妄想に取り憑かれ、踊っていただけなのだろうか。たしかに教会員たちとの意思の疎通が上手くいっていたとは言えなかった。献身を自分から宣伝したことはなかったし、問われることもなかった。だがそれならなぜ山本は自分に白羽の矢を立てたのだろう。そう思うことさえ妄想だったのだろうか?
だが―と津田は思った。自分の提案は、万人祭司主義の実践になったはずだ。自分はそのなかで説教者として責任を果たしていくことで、牧会の責任を負う覚悟が出来ていたのだ。またそこに自分の献身もあったのだ。レポートも「添え状」もそのことをはっきりと伝えていたはずではないか。山本牧師が自分を買ってくれていたのなら、なぜそのような自分の意欲、覚悟というものを理解してくれなかったのだろう。それとも自分はただ利用されていただけなのだろうか?
もちろん、だからと言って自分の考えが簡単に承認されるとは思っていなかった。何よりも教会員たちが自分の提案を受け入れるかどうかということが懸念された。しかしそれが「余計」と言われるとは想像もしていなかった。想像と言うなら、山本が自分の提案を取り上げてくれることだ。自分に声をかけてくれた人なら、その当人が召命と献身のなかで真剣に考え、まとめたものを、誠実に受け止めてくれるものと期待することは許されてもよいはずである。山本もまた牧師として神の使命を果たしているのだから。津田は、山本牧師の独善を思わずにはいられなかった
津田が献身の終了を宣告されてまもなく、山本牧師は説教の中で、献身について話をした。「若い時、私は教員志望を断念して牧師になりました。献身というのは、簡単なことではありません。自分というものを捨てる必要があります。つまりエゴを捨てるのです。神に身を捧げるということは、それだけの覚悟が必要とされるのです。躊躇する自分というものを乗り越えて、決断していくことなのです」
津田にはそれが遠まわしに自分に向けられたものであることがわかった。また献身の話である以上、信徒がそれと察しないはずもなかった。そこには牧師と信徒との間の暗黙の諒解があった。要するに、津田はエゴが捨てきれなかった献身者であるという理解が出来上がっていたのだ。この諒解の中に、津田が説教者という形で召命に応えようとしていたことが入る余地はまったくなかった。逆に言えば、それほどに牧師と信徒とは強い絆で結ばれていたのかもしれない。
だがそこには癒着というしがらみもあったに違いない。牧師が絶対者として教会に君臨し、信徒はそのことにもはや疑問を持たず、盲従しているのだ。そこでは牧師が諒とするものが諒とされ、そうでないものは否定される。信徒が畏れるのは神ではなく、牧師である。それが教会という閉鎖的な空間のなかで狎れあいを生み出していた。津田は、何も知らずに飛び込んだ虫のように、その見えない網の目に絡めとられ、元気を喪っていた主の養分になったのかもしれなかった。
津田が妻の千代子とともに教会を去ったのは、山本牧師が献身の話をしてから間もなくのことだった。とくに引き止められるということもなかった。津田もそれを期待したわけではない。表面的には波風も立たず、波紋が広がることもなく、一幕の喜劇は終わった。
津田はその後も出口のない堂々巡りを繰り返していた―後から思い返してみても、自分の提案は、提案として有効であった、と思わずにはいられなかった。提案なら、牧師はそれを取り上げ、信徒に諮る責任がある。提案者に提案を報告させ、信徒の意見を聞き、議論することが求められる。それがとりも直さず、牧会の実践ということだろう。それは、バプテスト主義に馴染むとか馴染まないとかいった牧師個人の考え方の問題ではあり得ない。自分はそれだけの努力をし、真剣に考え抜いたのだ。そのことは山本が最もよく承知していたはずである。だがそれなら、なぜあのような答えが返ってきたのだろうか?
要するに山本の津田に対する期待というのは、津田の人格に対する期待や信頼などではなく、自分の考える牧会のあり方において、教会を管理運営する者としての牧師以外にはなかったのだろう。あの対応からはそうとしか思えなかった。説教者という提案が最初から相手にもされなかったということは、そういうことだったのだ。
もちろん山本にも考えがあったのかも知れない。しかしそれは津田には不明だった。ただ確かなことは献身が終了したことだった。それが神の答えだったのだろう。そこに神の企みがあったのかもしれない。あったとして、津田には神の企みはわからなかった。
ともかく千代子はほっとしたようだった。考えてみれば、妻の一言がなければ、津田は突っ走っていたかもしれない。その時はどうなっていたであろう? だが津田は当たって砕ける波にはなれなかった。砂浜を濡らして引いていく潮のように、教会に一時籍を置いた後、そこを去ったのであった。
献身とは何だったのだろう? 津田の意識のなかで、醒めやらぬ夢のように、それはまだ終わっていなかった。