プロローグ
世界は混沌のただ中にあった。
カティアが生まれるずっと前から、世界は魔族に蹂躙されていた。
人々は辺境の森などにひっそりと隠れ住み、怯えて暮らすか、人類最後の砦、聖王国エストリュースに身を捧げ、魔族へ抵抗するかのどちらかであった。
だが、その聖王国エストリュースも、今まさに、陥落しようとしていた。
「人類最後の砦とやらも、大した事はなかったな」
燃え残った火がパチパチと燻る、半壊した広い部屋の中。つい先刻まで、ここはエストリュースの城の謁見の間であり、少ないながらも贅と意匠を凝らした、人類の誇りが結集した場所だった。
しかしそれも、王国の最後を予兆するかのように、今は跡形もなく破壊の限りを尽くされている。
「くっ……!」
冷笑と共に告げた目の前の男に、カティアは疲労に下がりそうになる腕を必死で保ち続けた。
立っているのも辛いほどだったが、それでも強い意志で輝く青の瞳は真っ直ぐ、正面を向いて男を睨みつけた。
目の前の男は、美しかった。月光を集めたような冴え冴えとした銀髪に、人間には存在しえない金の瞳。年頃は二十歳前後。
もし、彼が何者かを知らぬまま対面すれば、人々は神の使いかと思い、ひれ伏すだろう。それ程までに清廉で、高貴で、美しい男だった。
しかし彼は、神とは真逆に位置する者。
「少しばかり時間が掛かったが、人の抵抗もこれで終いだ」
「させないわッ!」
カティアは駆けた。
体に残った残り少ない魔力を振り絞り、手に携えた長剣に纏わせ、威力を上げる。
「魔王イルスカウラ! お前を討てば、終わるのは魔族の方だ!」
「貴様如きの力で、俺を討つと?」
フッ、と鼻で笑って、イルスカウラは力の限りに振るわれたカティアの剣を、素の手の平で受け止めた。
彼の配下の魔将を、ことごとく切り捨てた聖剣を、事もなげに。
「中々の業物だ。――まあ」
「っ!」
とんっ、と、軽く、イルスカウラに無防備になった腹を押される。
「がはっ!」
力を込めたようにも見えないその一撃で、カティアは反対側の壁にまで吹き飛ばされ、衝突の衝撃で大きく壁をへこませ、ずるりと崩れ落ちた。
「人の創作物にしては、だがな」
「うぅ……っ!」
床に身体を投げ出したまま、動けずに呻くカティアの上に、パラパラと砕けた石の欠片が落ちる。何とか顔を持ち上げたカティアの目の前で、国宝たる聖剣が、イルスカウラの手の中で砕かれた。
「終わりだ、娘」
(あぁ……)
翳されたイルスカウラの手の平に集約して行く魔力に、カティアは悔恨の表情で息をつく。
(ごめん、皆……)
ここで、自分は終わる。
せめて一撃ぐらい見舞ってやりたいと思うのに、体が全く動いてくれない。
もう、何も出来ない。
(守れなくて、ごめん……)
閉じたカティアの目尻から、つぅ、と涙が零れて頬を伝い――
「ラクトティア・クール!」
冷気の魔力に包まれ、感覚を失い、全身が麻痺して、意識を失った。
「――!?」
次にカティアが気がついたのは、見知らぬ場所だった。
「……あ、れ?」
まず、自分が意識を取り戻した事に驚いた。
(私、死んだはずじゃあ?)
逃げのびられたとは思えない状況だった。思わず自分の全身を見回す。
いつもは戦闘の邪魔にならないよう、結ってまとめてある金の髪は、今は解けて背中を流れている。体も大小傷だらけで、特に腹部に鈍痛を感じる。イルスカウラの一撃のせいだろう。
(という事は、魔王のエストリュース急襲は夢じゃない……)
どうやら多少時間が経っているらしい。戦闘で使い切ってしまい、枯渇していた魔力が僅かながら回復しているのを感じた。すぐに自分に治癒魔法をかけながら、考える。
(でも、痛いって事は、私まだ死んでない?)
顔を上げ、改めて辺りを見回す。
そこは、果ての見えない長い通路だった。
幅は五メートル程だろうか。青黒い石畳に、同色の壁。一定の間隔で松明の灯りが掲げられており、視界に不自由はない。
しかしそれでも、先が見通せない程に長い通路だ。
「……どこ、ここ……」
呟いた声は、先の見えない闇に吸収されるかのように、どこにも届かず掻き消えた。
そこで、カティアは気がついた。今いる場所に、自分の他に一切動くものがない事に。
しんと静まり返った重苦しい空気は、何の命の息吹も、温かみも伝えて来なかった。気味の悪さにぶるりと体を震わせる。
(やだ、ここ。……気持ち悪い)
とにかくこの場を離れようと、カティアは傷口の表面だけをかろうじて塞いだだけの、傷付いた体を引き摺って立ち上がる。
――と。
『こっちへおいで……』
「ひっ!?」
不意に、女の声がした。
ねっとりと粘りつくような、怖気を覚える女の声だ。
「な、何……っ!?」
『こっちへおいで……』
声は、まるで耳のすぐ側で囁かれているようだった。ぐぐ、と意思に反して体が動き、通路の先へと進もうとする。
『こっちへおいで……』
「嫌ぁっ!」
行ってはならない。
本能が激しく訴え、カティアは全身に力を入れ、束縛を振り切る。そして振り向かされたのと逆方向へと、全力で走り出した。
「はっ、はっ、はぁ……ッ!」
しかし傷付いた体では早くは走れず、すぐに息も上がってしまう。塞いだばかりの傷口が、負担に耐えられずに再び開き、青黒い石の上に鮮やかな赤を落とした。その間も、ずっと声はまとわりついてきた。
あの声の主に掴まったら終わりだ。そうカティアの第六勘は告げていた。
(逃げなきゃ! 早く、早く――ッ!)
コッ……。
「っ!」
焦るカティアの耳に、微かな靴音が聞こえて、足を止める。
カツ、コツ、と硬い音を響かせ、靴音はカティアの進行方向から近付いて来ていた。
声が、いつの間にか消えていた。
(あの声の主!? 反対に逃げるべき!? でも――……)
カティアが逡巡している間にも、足音の主は姿を表しつつあった。
(実態があるなら、一か八か――!!)
覚悟を決めて、走り出す。
「っ!?」
自分に向かって突進してくる人物に、足音の主の動揺した気配を感じた。
「はぁっ!」
「むっ!」
今の傷付いた体で、まともに戦う事は敵わない。武器は何もなかったので、魔力を纏わせた手刀で相手の首を狙う。一撃で決着をつけなければならない。
相手の全身をまともに見たとき、ぼやけた目測以上の長身に僅かに動揺する。だがだからこそ、もう選択の余地はなくなった。
一番防御の薄そうな首元へと、充分な速さの乗った手刀を振るう。
しかしそれも、相手の手に難なく止められ、阻まれる事になる。
「くっ」
「何だ、貴様は」
「……あ……?」
目の前の相手は、男だった。
炎を思わせる鮮やかな赤い髪と、乾きかけた血を彷彿とさせる暗赤色の瞳。年の頃は二十の半ば。
背は高く、二メートル近いだろう。筋肉質な厚い体を、体の線が浮き出る黒のインナーで覆い、その上から裏地の赤い黒のコートを羽織っている。要所要所をベルトで締め、縁は金で装飾が成されていた。
(声、違う……)
「ごめんなさい、多分、人違い……」
「人違いであろうと何だろうと、我に攻撃してきた以上、本来ならば即刻殺している所だが、貴様はもう死にかけだな。しかも大した力もない。我の手に掛かる資格すらもないわ」
つまらなさそうに言うと、男はカティアの手をすぐに放した。
(死にかけ、か……)
解放され、張っていた気も抜け、ずるりと床に座り込む。ひんやりとした石床の感触を気持ち良く感じながら、カティアはぼんやりと、そうかもしれない、と思う。
先ほど塞いだ傷は、今はもう、完全に開いていた。熱くなっている身体に、余計に石の冷たさが心地いい。
「貴様、人間か。何故こんな所にいる」
「分からない……。そもそも、ここは一体どこ……?」
「ここは冥道だ」
「冥、道? じゃあ、私は死んだの?」
逃げ延びられた訳はない、直前の状況を思い出す。
やはりとは思ったが、同時に、もしかしたら生きているのではないかという希望を持った後だったから、余計に堪えた。
息をつき、俯いたカティアに男はふん、と鼻で笑い。
「頭の悪い小娘だ。我は先程『死にかけ』と言っただろう」
「……そう、だったかな」
「まあ、稀にいるのだ。貴様のように、生きながらに迷い込む者がな」
「……私は、生きてるの?」
「そう言った」
それならば、イルスカウラの最後の一撃をくらう前に冥道に迷い込み、そのおかげで一命を取り留めた、という事になる。
随分都合のいい偶然だとは思ったが、生きているならば、カティアにはやるべき事があった。
「私、帰らないと……」
「無理であろうな。貴様は間もなく死ぬ。第一、貴様程度の力で冥道と現世を行き来できるはずもあるまい」
「……貴方は、誰? 貴方も死んでるの?」
「無礼者が! 我を死人如きと同じと言うか!」
「っ」
余程気に障ったか、男はかっと目を見開き、カティアを怒鳴りつける。
「我は魔王レイヴァンセルグ! 我は死すらも超越する!」
「魔王!?」
その単語に反応し、カティアは反射で身構えて――すぐに肩の力を抜く。
「……いいえ、嘘よ。だって私、さっきまで魔王と戦ってたんだもの。貴方とは似ても似つかない別人だったわ」
「ほう?」
レイヴァンセルグの声に、興味を引かれたような色が滲んだ。
「銀髪で、金の眼をした細身の男よ」
「それは覇王イルスカウラだな。貴様、奴の世界の住人か? それが何故我の領界の冥界に……」
「……貴方、魔王の仲間なの?」
知人を語る気安い様子に、カティアは再び拳を作る。
「仲間? ハッ。我にそのような者おらぬわ。カウラとはせいぜい腐れ縁だ。それから、我に対してカウラ如きを魔王と呼ぶな。数多の世界に魔族の王は同じ数だけあるが、それはその世界でのみ、便宜上使われる呼称でしかない。世で真実魔王を名乗れるのは、当代最強の魔族である我、レイヴァンセルグ唯一人だ!」
「……」
レイヴァンセルグが何を言っているのか、カティアにはほとんど理解出来なかった。したくもなかった。
聞き間違いでなければ、目の前の男は、魔王イルスカウラを『如き』呼ばわりした。
まるで、あの魔王が大した相手でもないように――……。
「ふむ。しかし面白い。娘よ、お前人間の分際で魔王と戦おうとは、勇者というやつか?」
「違うわ。勇者は私じゃない。仲間の一人ではあったけど……」
魔族の急襲に対して離れ離れになり、カティアだけでイルスカウラと対する事になってしまったが、無事だろうかと、今更ながら案じられた。
「ほう! 勇者の仲間か!」
カティアの言葉に、レイヴァンセルグは実に楽しげに眼を輝かせた。
「非力な人間共の中にも、魔王と倒そうと足掻く者が時たま出るとは聞いてはいたが、事実だったか! 確かに、貴様には多少の才覚がありそうだな」
「……」
「女、名乗れ。聞いてやる」
「……カティア・フルースエリルよ」
居丈高な男の言い様は礼儀など欠片もなかったが、勝手にではあるが、相手は名乗っていたので、カティアも素直に名乗りを返す。
「そうか。ではカティアよ。我と共に来い」
「……は?」
「我が貴様を鍛えてやろう! 勇者の仲間の力、我に見せてみるが良い!」
「……」
呆然とレイヴァンセルグを見上げたまま、カティアは答えを返せなかった。
相手が何なのか、さっぱり分からない。しかし今のカティアにも分かるのは、ここにいれば、自分は近く、力尽きるだろうというだけだ。
(それなら、行動するだけよ)
「行くわ」
「当然だ」
レイヴァンセルグのそれは、まるで己の言葉に従わない者などいるはずがない、とでも言いたげな、傲慢な態度だった。
レイヴァンセルグが腕を一振りすると、空間が割れ、その先には緑の庭園の中にそびえ立つ、白亜の城が視えた。
「我の手を取れ」
「……」
まだ少しためらいつつも、カティアが伸ばされたレイヴァンセルグの手に触れると、強く掴まれ抱き寄せられた。
「行くぞ」
「……ええ」
触れたその体が温かい事に、カティアはとても、不思議な感じがした。