萌えといふものを
※とても大変なことになっております。ご注意を。
「大河ちゃん、喜んでいいわよ!」
ドアの開け様、口の開け様に飛び出した台詞。
それに、すでに起床していた大河が、怠そうに顔を向ける。
「なんぞ」
「お仕事が決まったのよ!」
翔が、わっほい、と諸手を上げて喜ぶ。
それに何か不思議な物を見るような視線を送りつつ、一拍遅れて大河は叫ぶ。
「お前パンティ売ってなかったの!?」
「売ってないよ!?私をなんだと思ってるの!?」
「ド変態」
「ぐぬぬ……正解です」
翔は下唇を噛むような微妙な面持ちで、しかし言い返せない。
大河がやれやれと肩を上下させ、いつものように下着を手に取る。
その手付きは慣れたもので、背中のフックにも全く手こずる気配がない。
「んで、お前の職が決まったことを祝うから酒を奢ってくれるのか?」
「ノンノンノン。私のじゃなくて、私たちの、よ」
したり顔で人差し指を振り振りする翔に、大河が首を傾ける。
そうしてしばらく意味を吟味して、ハッと目を見開いた。
「てめぇ、人のこと巻き込みやがったな!?」
「前回問答無用だった大河ちゃんには言われたくないわね」
冷静に言い返してくる翔に、今度は大河が唸る。ぐぬぬ。
コンパニオンの仕事を半ば強制的に持ってきたのは事実であり、ましてや、体力に難ありの翔に面白くもない肉体労働を強いたのだ。
こうして同じことをされたとて文句を言える立場ではない。
「まぁいい。いかがわしくない仕事であれば認めよう」
「さっきから自分の首を絞める発言しかしてないけど、大河ちゃん大丈――あががががっ!」
心から哀れむような翔にベアクローで応じながら、大河は冷蔵庫を開ける。
心地好い冷気がその身を頭から爪先まで撫でていく。
ふぅ、とリフレッシュした顔で一息吐き、麦茶を手に取る。翔も解放される。
「寝覚めでボケてたかもしれん」
「寝覚めの握力じゃないんだけど……」
こめかみを両手で撫でる翔の前に、良く冷えた麦茶が差し出される。
「飲むか?」
「ありがと」
翔はそれを受け取り、大河が自分の分を注ぐのを待つ。
それからコップを互いに打ち合わせ、腰に拳をやり、一気に飲み干す。
「っくはぁ!生き返るわぁ」
「この慣習ばっかりは、おっさん臭いって言われてもやめられないわね」
はい、とコップを大河に渡す翔。
大河は何も言わずに洗い場へと向かい、キュキュッと手で口元だけを水洗いして済ませてしまう。
「ほんで、どんな仕事なんだ?」
「聞いて驚きなさい」
「わーすごいなー」
「メイド喫茶よ!」
大河の棒読みなど意に介さず、翔が解を口にする。
一拍どころではない時間が無音のままに経過し、そして。
「……マジかよ!?」
「マジだよ!」
「びっくりした俺!」
「胸の隅に――はい、これ以上続けると怒られるから止めましょうね」
危うく定例行事をこなしそうになったところで、翔が自らストップをかける。
ぶーぶー、と口を尖らせる大河だったが、それよりも重大な問題に、程なく顔を手で覆う。
「メイド喫茶って、アレだよな……あの、フリフリしたの着て、もえきゅん、ってな具合の」
「あはは。私がそんな萌えメイドを許すと思ってるの?」
「だよな。純メイドを愛するお前の――」
「だが大河ちゃんなら許すッ!!」
「チクショウめえぇぇぇ!!」
両手両膝を地に着く大河と、したり顔の翔。
前途多難にしか見えないのは、もはや定番のことだろう。
「大河ちゃん!大河ちゃんもっかい、もっかい白ソックス穿いて!」
「二度とやるか馬鹿野郎!」
ロッカールームで制服に袖を通した二人。
片足を上げてソックスを穿く大河の姿がツボに入ったのか、翔は早くも症状を悪化させている。
そのくせ、着こなしはすでに万全である。
「てか、お前こんだけリボン多いのによくそんな速さで着れたな」
「ふふん。長年のシミュレーションの結果よ」
「……お前、実は前々からやりたかったのか、これ」
「そりゃあもちろん!私自ら萌えを提供できるなんて、素晴らしいと思わない!?」
そう力説する瞳には、いつになく強い輝きが宿っている。
これが純メイド喫茶であればまだ頷けたものを、と大河は肩を落とす。
自然、下に向いた目が必要以上に短いスカートを捉える。溜息。
「膝丈上とか破廉恥すぎるだろ」
「チャイナ姿アップした人間の言う台詞じゃないわ。てか、ホントその辺の考えが古いよね、大河ちゃんは」
「お前にはそのうち、隠す美学というものを教えてやらねばならんようだな。貴重品は持ったか?」
「お財布ならおっぱいに入れてあるからオッケー」
「……え、リアル?」
「嘘。ちゃんと携帯と一緒にポケットに入ってるよ」
「ちょっと期待した俺が悔しい。で、ちゃんと名刺と別の方に入れてるだろうな?」
「もっちろん!ご主人さまに渡した時にクシャクシャじゃ、申し訳ないからね!」
そんなことを言いながらカチューシャを装着し、大河の準備も完了となった。
「うおぉ……大河ちゃん似合いすぎじゃね?」
「お前を素に戻すぐらい俺が美しいのはわかったから、呼吸を整えろ」
さすがに、血が逆転したと翔が評するだけあって衣装との合一性は抜きん出ていると言える。
相棒を叱咤し、背筋を正して颯爽と歩む姿も様になっている。
が、ここはそれが求められる場所ではない。
「はい。それじゃあ、お二人もこの『ねぇむぷれぇと』を付けてくださいねっ!」
ホールに出る寸前、自分より年若いであろうメイド長から手渡されたネームプレートを見やる。
左上の隅で、新人さん、という文字がハートで囲まれた簡素なプレートだ。それだけなら、大河も文句はなかっただろう。
「……なぜ、ひらがななのでしょうか」
記された名前が、妙に丸みを帯びたひらがなだったことに疑問を抱く大河。
ちゃん、がデフォルトで付いている上に、跳ねる部分がくるくると巻かれていることにも、できることならツッコミたかったに違いない。
それに応えたのは、メイド長ではなかった。
「可愛いからに決まってるじゃない、たいがちゃん!」
「かけるちゃんの言う通りですよっ!可愛いことは正義なんです、ぶいっ!」
「ぶいっ!」
早くもノリノリでメイド長とも息が合っている翔と違い、早くも帰りたくて仕方がないといった様子の大河。
それでも、仕事は仕事である。大河がどれほど不真面目に生きて来たとしても、それは自分と身内以外の人間に迷惑の及ばぬ範囲でのみだ。
ここで二の足を踏んでいては、このメイド喫茶のメンバー全員に迷惑をかけることになる。ただでさえ、今は新人――研修中の身なのだから。
「わかりました。参りましょう」
左胸にプレートの針を刺し、留める。
深呼吸を一つして、心機一転。いざ、ホールという名の戦場へ。
踏み出してすぐ、来店する最初の客。
「おかえりなさいませ、ご主人さ――」
「おっかえりなさいませぇ~!」
それを迎えんと頭を下げた大河の言葉を、元気よく遮る声があった。
翔である。
「新しくメイドとして配属されました、かけるですぅ~!よろしくお願いしますね、ご主人さまっ!」
ピン、と立てた人差し指を下唇に添え、斜めアングルにウィンク。
きゃぴきゃぴと、これぞまさしく黄色い声である。
その姿は水を得た魚と言うに相応しく、客の受けも上々。そして同時に、大河を瞬く間に絶望の淵に落とした。
あんなところまで行けるわけがない――と。
「ッ……同じく新人のたいがです。よろしくお願いします、ご主人様」
微笑を浮かべ、下唇に、こちらは軽く手を添えて。
とりあえず、少しは前進したと思う。
だが、アレを……あんな恥も外聞もないような声と仕草をしなければならないのか。格好は別にいい、そんなものはコスプレだから問題じゃないんだ。しかし、あんな、猫撫で声で男に媚を売るようなことは断じて……いや、違う。そうじゃないぞ大河。これは正当なサービスだ。そうだ。金を落としてくれる客に対して提供する、正当なサービスなんだ。立派な第三次産業の一端じゃないか。同じ第三次産業の塾講師と、何が違うものか。大丈夫だ、今の俺は大河じゃない、たいがちゃんだ。そう、あたしは、たいがちゃん……!
「ちょっとたいがちゃ~ん?」
「あ、はいっ!ただいま参ります!」
そんな大河の葛藤をニヤニヤと見つめる翔だが、こちらは仕事をきっちりこなしながらという器用さを発揮している。
やはり、心が乗る乗らないの差は埋め難いほどに大きいようだ。
「ご主人さまっ、かけるとゲームしましょうよ、ゲームっ!」
加えて、翔は営業モードまでバリバリである。
大河が、本当にお前新人かと疑うほどに。そして、図々し過ぎやしないかと思うほどに。
ゆえに大河は、大河の尺度で言葉を挟む。
「かける、ご主人様にお飲み物を差し上げるのが先でしょう?」
「あ、いっけなぁ~いっ!ご主人様、どちらになさいますかぁ?」
逐一オーバーリアクションで返してくる翔に、大河は客に見えないように溜息を漏らす。
翔の仕草が、さすがシミュレーションで鍛えてきただけのことはある、と唸るほどの完成度なのだから余計に悪い。
明らかに年季が、気合が違う。
「かけるちゃん特製レモネードですねっ!わっかりましたぁ~!」
びしっと敬礼を、どこか気の抜ける声で決めてカウンターへと下がる翔。
「ご主人様、まだまだ不手際が多く、申し訳ございません。私どもは二人で一人とお思いください。それでは、私も参りますので、少々お待ちくださいね」
それに続き、大河が柔和な微笑みを残して下がる。
早速レモネードを作ろうとしている翔の傍に寄り、手伝っている風を装う。
もちろん、作戦会議のために。
「大河ちゃん、ちょっと硬すぎだって。メイド長が難しい顔してたわよ?」
「これでも必死だっつーの。恥ずかしくてお前みたいにはできねぇよ」
「演技よ、演技。大河ちゃんだって昔、声優なりてぇ、って言ってたじゃない。その演技力を鍛える時なのよ、今は!」
演技だと、そう言われればそれまでなのだが。
大河は唸り、それから意を決してホールへと戻った。
「すみませんご主人さまっ!無為に時間をお過ごしになる苦を考えておりませんでしたっ!」
勢い良く頭を下げる大河。
それを見ながら、翔はハイテンションにマドラーを回している。
「そこで、いかがでしょう?私と何かゲームでもいたしませんか?」
頼む。何かマシなゲームを選んでくれ!
そんな願いは心の内に。顔には決して出さず、笑顔を張り付けて提案する。
そんな思いが酌まれるはずもなく。
「にゃっ……にゃんにゃんにゃんけん、ですか?」
一気に、赤面する。早い話がジャンケンなのだが、メイドに課せられるルールはそれに値する。
ゲーム中は語尾に、にゃ、を付けること。
掛け声中は両手で招き猫のように振ること。
左右に軽快なステップを踏むこと。
猫なのでグー以外は出さないこと。
負けたら猫っぽく悔しがって見せること。
勝ったら猫っぽく喜んで見せること。
そんな、恥ずかしい真似を――
「お待たせしましたご主人さま、レモネードですっ!そしてそして~?ジャジャァ~ン!たいがちゃんには猫耳だよっ!」
「あ、ありがとう、かけるちゃんっ!」
やるしかないのだ。たとえ、ご主人様の時間潰しという名目を、翔が嫌がらせのためにふいにしたとしても。
俺は、自発的に注文を受けに来た。それは決意したからだ。だから、やる。やり抜かねば、あの決意が嘘になる。南無八幡大菩薩よ、数多の神々よ、願わくはこの猫耳をして我が羞恥を拭い去り給え。この心挫けさせ給うな。
どこかの弓の名手のような胸中で、大河は翔から受け取った猫耳をカチューシャよりも額に近い位置にセットする。これで、今やたいがちゃんは猫耳メイドである。
「そぉれでは、いっきますにゃぁ~!」
右手を高く、左手を肩の位置に、猫のように構えて元気よく宣言する。顔の赤みも引いている。
おぉー。横から合の手を入れてくれる翔が、この瞬間だけは有難いことこの上ない。
「にゃぁんにゃん」
右にぴょんぴょん。手首をくいっくいっ。
「にゃぁんにゃん」
左にぴょんぴょん。手首をくいっくいっ。
「にゃんにゃんにゃぁ~んけん」
上半身を右に左に捻りながら、タイミングを合わせて。二セット。
「にゃぁ~んけぇ~ん、ぽんっ!」
ぐるぐる~、っと腕を巻いて、元気良く猫パンチの要領でグーを出す。
ご主人様が出したのは、パー。見事な負けである。
「うにゃぁ~、負けちゃいましたにゃ……ご主人さま、強いですにゃ。にゃでにゃでしてあげますにゃっ!」
敗北後のイベントは、それっぽければ良しという規定でありマニュアルもない。つまり、完全なアドリブ。
大河は言葉通り、ご主人様の頭を丸めた手のまま撫で撫で。いや、にゃでにゃで。
「また遊んでくださいにゃっ、ご主人さまっ!」
ぴょん。一歩下がって招きポーズで決める。
その直後である。
「はぁ~い。おにゃんこタイム終了だよぉ~!」
ひょい、と翔が猫耳を外した。
ポーズはそのままで、固まる大河。
程なく、ダラダラと汗が湧き出してくる。猫耳の装着で羞恥を捨てた手前、それを外されたことで、一挙に感情が戻ってきたのだろう。
「あ、う……」
ぎぎぎぎ、とホラー映画のように首を巡らせて翔を見やる大河。
輝きの消えた瞳で、唇をあわあわと震わせながら。
目を合わせた翔は、これ以上ないほどに憎たらしい、満ち足りた表情だ。
「うううぅぅぅぅぅ!」
大河はその手から猫耳を奪い取り、再度装着する。
もう、本人も何をしたいのかわかっていないのだろう。
そして――
「うにゃあああぁぁぁぁぁぁ!!」
尾を引く絶叫を残して、店を飛び出して行った。
唖然とする店内の面々を余所に、ただ一人翔だけが、ゴールを決めたサッカー選手よろしく、地に膝を着いて天を仰ぐ。
「たいがちゃん萌えええええぇぇぇぇぇぇ!!!」
翌日。猫耳メイドごっこに興じる翔に、大河が再度絶叫したのは言うまでもない。
たぶん、今回の私は頭がおかしかったんです。鬱積した感情が爆発したんです。
あ、二人の定例行事がわからない人はアレですね、ちょっと古い歌なので歌詞で検索して聞いてみてくださいな。