おねぇちゃんといふものを
ほのぼのしてきたので、ちょっと危ない成分を追加する所存。
陽光を遮りに遮った部屋で、大河は身体を起こし、瞼を擦った。
自然と落ちた薄布団の中から、裸体が晒されても気に掛けず。
「……珍しいな。あいつが起こしに来ないとか」
頭を掻き、大河は毎朝律儀に起床を促しに来ていた翔を思う。
この裸体を目当てに、布団を剥すことを趣味にしていたような輩である。
なんとかは風邪を引かないという諺が真実であれば、翔は間違いなくそれであり、病の心配などはお門違いだ。
ならば、何か理由があるに違いない。
「たまには迎えに出るか」
もはや習慣となった洗顔を淡々とこなし、手櫛を入れてヘアセット。
大河は元より化粧を嫌う気質ゆえ、あとはいつもの服に手足を通して準備完了だ。
翔がジョギングでやって来ているであろう道を、逆に辿る。
部屋の前に着き、大河は少しだけ思案する。
確か今、翔の家族は所用で里帰りをしていたはずだ。女になった翔を連れてはいけず、一人で留守を任されている。すなわち、これっぽっちも、迷惑はかからない。
決断し、インターホンを連打する。
「留守か、ただの屍か」
返事のない間に、ふむと唸り周囲を観察。
新聞受けを見れば、空。今朝のうちにキッチリ受け取りを済ませているのは明らかである。
電気メーターに目をやっても、回転は極めて微弱だ。
となれば、起きてどこかに出かけていると見るのがいいだろう。
ならば、翔はどこへ行ったのか。
「マップ検索してみるか」
大河は携帯を取り出し、迷わず地図を表示。そして検索をかけた。
近辺の候補地がいくつか並ぶ中から、二人の居を結ぶ線からもっとも近い候補に狙いを絞り、ルート検索。
少し小走りに現場へと急ぐ。
大河の予測によれば、間違いはないはずだ。
「まぁ、あの変態がやりそうなことだからなぁ」
思わず口に出してハッとするが、特に失言ではなかったと思い直し、一つ溜息。
残念なことに、真に遺憾ながら、大河の親友は正真正銘の変態なのだから。ただ事実を述べただけに過ぎない。
そしてそんな評価に忠実に、翔はあっさりと、予想通りに大河の前にその背を見せた。
「えぇ。そうなんですよ。最近こっちに引っ越して来まして」
楽しそうに、壮年の奥方と言葉を交わしながら。
その手は小幅に振られており、そこには小さな手が握られていた。
「おねぇちゃん、おひっこししてきたの?」
「そうだよ~。あっちのほうから来たの」
「はしってきたの?」
「あはははは。さすがにここまでは走って来れないなぁ」
その主は、すでにすっかり懐いている、まだ性差も見えぬ幼女だった。
翔は、大河には決して見せない慈愛の視線を彼女に落としている。
それを見た大河の背筋に、薄ら寒いどころではない怖気が走り、夏だというのに鳥肌が立つ。
「ちょっとこれはシャレんならんぞ……ってか、おねぇちゃんって……妬ましいな、クソ」
いよいよマズイと判断した大河は、少し本音を漏らしつつも、その後を追う。
何かあればすぐにでも、何がなくても最終的には、腕にモノを言わせるつもりで。
「最近は物騒だって聞きますからね。私もジョギングがてら見回りをさせてもらいますよ。ご近所の平和のためですから」
ジャージ姿と習慣を生かした設定まで飛び出しているあたり、計画的犯行で間違いはない。
しかし大河は迂闊には動かない。今動けば、自分が物騒の元凶になってしまう。
楽しげな、調子のいい会話を聞くこと数分。翔の目的地が、すぐそこに迫る。
少し脇道に逸れ、大河は身を潜めた。
「あ、もう着きましたね。それじゃあ、私はこれで失礼します。すみれちゃん、またね」
「うん!ばいばい、おねぇちゃん!」
思いっきり手を振る少女に、掌だけを振って返す。
母娘が園内に入って行ったところで、翔は満足げに来た道を戻っていく。
だが、少し歩いたところで――
「おねぇちゃ~ん!」
その背に、甲高い声が投げかけられる。
なぁにすみれちゃん、と笑顔で振り返り。
「よぉ、翔おねぇちゃん。とうとう犯罪者予備軍から昇格か?」
目と鼻の先に迫った、般若と対面した。
「申し訳ありませんでしたッ!!」
手近な公園で大河がベンチに座るや否や、翔は腰を直角に折り頭を下げた。
「その潔さや良し。だが赦さん」
即座にその願いを棄却し、足を組む大河。
そのポーズといい声音といい、これではどこかの姐御である。
「お前がロリコンなのは知ってるし、それは別段構わんよ。何故か、わかるか?」
大河の問いかけに、翔が勢いよく顔を上げる。
「ハッ!我ら紳士のモットーは『Yesロリータ、Noタッチ』だからでありますッ!」
気を付けの姿勢で直立不動。その様はさながら軍隊か。
途中で買わせたMAXコーヒーを一口含み、大河は続ける。
「そうだ。だが今日のお前はどうだ?よもやの園児と手を繋ぎ、あまつさえ虚言で人の信を得ようとした。そうだろう?」
「おっしゃる通りで、返す言葉もございませんッ!」
大河が問う度に、翔は姿勢を正す。
背もたれに肘を乗せて、大河は左右に首を振る。
「はっきり言って、お前の言い訳に興味はない。しかし、だ。再発を防ぐため、魔が差したというその理由は聞いておかねばならん」
「ハッ!それでは語らせていただきますッ!」
敬礼のようなポーズを取って、翔は事の発端を語り始めた。
それは、つい先日のことだった。
大河と共にゲームセンターに赴いた翔は、オンライン対戦型カードゲームに熱中する大河の横で暇を持て余していた。
そこでふと、たまにはプライズコーナーを見て回ろうかと思い立った。
適当に見てすぐに戻るつもりだったが、そこで翔は、ある母娘を目にした。
お気に入りの人形が欲しいらしく、取って取ってとせがむ女の子。そして、期待に応えようとするも上手くいかぬ母親。
あまり慣れていないのであろう母親は、店員を呼んで位置を直してもらう常套手段も知らず、悪戦苦闘するばかり。
見ていられなくなった翔は、思った。
今なら女の身だし、そんなに警戒されないのではないか――と。
「どれが取りたいんですか?」
営業的な、しかし不自然のない笑顔で母娘の横から声をかける。
ビクッと身を引いた母親だったが、それよりも早く、女の子が前に出た。
「あっちのピンクのやつ!」
言われて、ふい、と目を向ける。
人形の全長はそれなりに長く、実はしっかりと詰まっているが、身体が細く、頭に重心の置かれたタイプ。
台は手前への引き落とし型で、頭部はこちらに位置している。
アームと台座の間の高さは、人形の全長よりも幾分か短い。
「なるほどね。よし、お姉ちゃんに任せなさい」
ポン、と女の子の頭を叩いて、翔は台の前に立つ。懐から百円を取り出し、投入。
突然のことに戸惑う母親をよそに、女の子は食い入るように人形を見つめている。
「このあたり、かな?」
翔の操るUFOは、人形の腰目掛けてアームを下ろしていく。
明らかに重心を外した狙いに、母親が怪訝そうな表情を見せる。
しかしその疑念とは裏腹に、軽い脚部を持ち上げたアームは、そのまま人形を保持して元いた位置へと戻っていく。
それに伴い、人形は頭を中心にして、円を描くように足を回転させていく。
これまでと明らかに違う光景に、女の子は手を叩いて喜ぶ。
そして、人形の足が垂直を越えたところで、あとは重力に引かれて勢いを増した回転を行う。
その慣性で人形はズルリと大きく移動し、落下した。
「おねぇちゃん、すごい!ありがとう!」
「どういたしまして。でも私だけじゃ無理だったかな。お母さんがとってもいいところに動かしててくれたからね。はい、どうぞ」
取れた人形を女の子に渡して、ニコリと微笑む翔。
そして、嬉しそうに人形を抱き締める女の子から、視線を母親へと移す。
「どうしても取れない時には、店員を呼んで取り方を教えてもらったり、場所を取りやすくしてもらうといいですよ。実際、最初の配置だとかなり苦戦しますし、今みたいにやり方を知らないと厳しい場合も多いですから」
そんなアドバイスをする翔に礼を述べてから母親は、私の頃とは違うのね、と言って苦笑した。
それから、時が過ぎるほどにアームが弱くなっていったこと、それでも取るための技がいくつも存在していることなどを話題に盛り上がった。
そんな自然なやり取りをして、母娘と別れる。
翔は、確かな手応えを感じながら、大河の戦況を確認しに戻った。
この経験が、翔には一つの発破材となったのだと言う。
「女なら、女なら何の疑いもなく、ピュアな状態で小さい子と触れ合えると考えて、私は……」
「あたしの家までのコースですれ違う母娘に目をつけた、と」
大河の補足に頷く翔。
いつの間にか、その眼には涙が浮かんでいる。
「大河ちゃん……私、嬉しかったの……小さい子に喜んでもらえたことが、素直に嬉しかっただけなの!だから、また小さい子が喜んでくれるのが見たくて……」
両手で顔を覆って、嗚咽を漏らす翔。
大河が組んでいた足を戻し、立ち上がる。
そして翔の両肩にそっと手を置いた。
「大河ちゃん……?」
潤んだ瞳で大河を見上げる翔。
それに、優しく微笑み返して。
「だから、お前は阿呆なのだ!」
思い切り引き寄せつつ、頭突きを見舞う。
「ったぁ!?」
頭を押さえてうずくまる翔。
大河は、額を赤く染めて涙目になりながらも、逆光を受けて仁王立ち。
「一時の出会いは、偶然であるからこそ美しく輝くのだ。必然となった出会いなど、いずれはただの路傍の石に成り果てる。人それを、飽食という……!」
凛然として言い切る大河。
翔は頭を擦りながら、逆光に立つ大河を見上げる。
「一応聞いといてあげるわね……何者だっ!」
「貴様に名乗る名前はないッ!」
様式美を最後までやり切って、大河は満足気に鼻息を鳴らした。
翔もやれやれと立ち上がり、背を伸ばす。
「まぁそういうわけでね、女という身分を最大限に生かそうと思ったのよ」
「気持ちはわかる。男なら通報されててもおかしくないからな」
「だしょ?それにほら、約束した通りちゃんと見回りするから。それに何より合法、合法だから!」
妙に強調してくる翔に、大河は蔑んだ視線を向ける。
「合法とか言うやつは、たいてい危ない橋だってのを自覚してるもんだ」
「ちょっとだけ、ちょっとだけだから!先っちょだけだから!」
「何の先っちょだよお前!?」
綺麗に平手打ちを入れる大河。恍惚とした表情で倒れる翔。
その後の話し合いで、見回り行為そのものには害悪なしとして、許可が下りた。
翔が小躍りして喜んでいたが、それも束の間のことになる。
翌朝。翔と共に巡回する大河がいた。曰く、あたしもおねぇちゃんって呼ばれたい!